美しい日本の歌と歌碑を訪ねて

 
 <弘田龍太郎と「千曲川旅情の歌」>
  「浜千鳥」、」「叱られて」(大正9年)、「靴が鳴る」「雀の学校」「雨」「春よ来い」などやさしい童謡などの作曲で知られる弘田龍太郎は、昭和27年11月17日に亡くなった。
前年にその詩人清水かつらも亡くなり、また中山晋平(12月30日)も約1月後に亡くなった。いずれも、死後50年を経過し、著作権フリーになっている。
一般的に弘田龍太郎といえば、よく知られている作品は童謡ばかりですが、本居長世同様に他にもオペラ「西浦の神」や歌曲「千曲川旅情の歌」(作詞:島崎藤村)、また仏教音楽や舞踏曲なども含め、千数百曲を超える作品があり、中山晋平に次いで多い。

  弘田龍太郎は、明治25年(1892)高知県安芸市生まれだが、幼時に千葉県、三重県津へと引っ越した。三重ということでは、本居宣長ゆかりの地でもある。本居門下の俊才である弘田龍太郎は、本居長世とほぼ同じ経歴をたどった。
大正5年に発刊されていた「少女号」は少年少女雑誌の型を創り、後に続いた多くの子供雑誌に先鞭をつけたものとして評価される。 テレビやラジオのない時代、「少女号」で全国に紹介された「叱られて」や「靴が鳴る」「あした」「雀の学校」などが、やがて演奏会でも演奏され、レコードとなって子供達に愛唱された。「少女号」と清水かつらについては、別に触れるが、かつらの目指したものは、「赤い鳥」のような芸術性の高い高尚な童謡ではなく、子供達の喜びや悲しみを素直に歌った、自然に子供達の心にとけこんだ童謡であったという。

  1910年(明治 43年)東京音楽学校(現東京芸大)に入学。在学中に、「鯉のほり」(河井酔茗 詩)などを作曲。1914年(大正 3) 東京音楽学校本科器楽部ピアノ科を卒業。さらに長世と同じく文部省邦楽調査委員を委嘱され、かたわら、オペラ、民謡を研究する。

 1920年(大正9年)には、本居長世の後、同校助教授となる。「浜千鳥」「叱られて」を作曲。1928年(昭和 3年)には、文部省在外研究員としてベルリンに留学を命ぜられ ピアノ・作曲を研究、翌年6月に帰朝。翌1929年(昭和 4年)7月東京音楽学校教授となるが、9月作曲活動専念のため教授を辞任。また、宮城道雄、本居長世、町田嘉章らを中心とした「新日本音楽」運動に参加する。また、作曲活動のかたわらNHKラジオの子供番組の指導や児童合唱団の指導,指揮にあたる。

  小松耕輔、梁田貞らと、日本の声楽曲(日本人独自の感性による)における作曲のパイオニアとして活動することで知られている「作曲研究会」のメンバーでもあり、「新日本音楽」活動をしていたが、弘田龍太郎には、「千曲川旅情の歌」(島崎藤村・詩)などの優れた日本歌曲がある。この歌はテナー・奥田良三が好んで歌うすばらしい日本の詩情(日本人独自の感性)にあふれた歌。藤原義江もいいけど、「千曲川旅情の歌」「城ヶ島の雨」といえば奥田良三。藤原義江の歌うテナーとはまた違った島崎藤村の詩情を極限まで引き出している。

  「千曲川旅情の歌」・・♪小諸なる古城のほとり・・といえば、弘田龍太郎作曲を意味し、他の追随を許さないすばらしい歌だと思います。(また、奥田良三の歌で知られる「城ヶ島の雨」・・♪雨がふるふる城ヶ島の磯に・・といえば、梁田 貞作曲を意味するのはいうまでもない。)

  作曲者・弘田龍太郎曲碑が中軽井沢の国道146号、旧国鉄・しなの鉄道中軽井沢駅から、浅間山鬼押し出しに行く坂道の途中の別荘街,右側旧星野温泉・塩壺温泉入口付近にある。
なお、「千曲川旅情の歌」の島崎藤村の「歌碑」は、小諸の「懐古園」にある。

城ヶ島の雨(北原白秋)   梁田 貞作曲(大正2)
・・他に山田耕筰作曲(大正13)、橋本国彦作曲がある。
雨    (北原白秋)   弘田龍太郎作曲(大正9) 
・・他に成田為三作曲、小松耕輔作曲がある。
千曲川旅情の歌(島崎藤村) 弘田龍太郎作曲(大正15)
・・他に山田耕筰作曲(昭和9年)がある。
(参考)
島崎藤村著「千曲川旅情のうた 弘田竜太郎曲」東光閣書店大正15
弘田竜太郎著「新音楽教科書」(巻1―3)富山房昭和11



   
<西條八十の愛と歌>

   以前NHKラジオで、西條八十生誕100年記念ドラマ「西條八十の愛と歌」があった。
詩人・西條八十(1892〜1970)は、「やさしさ」ということで定評があり、昭和45年亡くなる直前まで息長く活動をしていた。童謡その他を含め、広く日本の大衆歌を考える上で忘れてはならない人の一人。もし彼が出なかったら、日本の大衆歌ももっとさびしいものだったことでしょう。

   一口に詩人と呼んでいるが、彼ほど多彩な顔を持つ詩人はいない。『かなりや』などの童謡詩人。『砂金』『巴里小曲集』など、フランス象徴詩の影響が濃い純粋詩人。そして『東京行進曲』に始まる流行歌の作詞家。歌謡を含めて、作った歌も他を圧して巨大で、中山晋平に続き、JASRAC日本音楽著作権協会会長や、日本作詞家協会会長・・などを務めてもいる。又、童謡協会の童謡作詞賞にも今でも彼の名を冠した賞がある。

   さらに、八十は、詩人・歌謡曲作詞家という顔と、もうひとつ忘れてならないのが、仏文学者・芸術院会員・早稲田大学教授としての顔。大正13年、ソルボンヌ大学留学帰国後、早大仏文科教授になった。アルチュール・ランボーの研究でも有名。「西條八十全集」(国書刊行会刊1991)という本は、16巻まである大作である。

   明治25年に東京牛込(新宿)に生まれた八十の生家は石鹸製造業を営んで隆盛であったが、中学3年生の時に父が亡くなり、一家は没落してしまう。八十は早稲田中学校卒業後、同大学英文科を主席で卒業した。鈴木三重吉の主唱する童謡運動に参加し、大正7年27歳で「赤い鳥」に「カナリヤ」を発表して一躍有名になった。翌大正8年処女詩集「砂金」を発表して、たちまち象徴派詩人としての名声を高めたとされる。こうして、丁度「金の船」(大正8年)で野口雨情の才能が一気に花を開くように、「唄をわすれたカナリヤ・・八十」は、一気に花開く。(ついでに、日本でも30数万人が死んだという「スペイン風邪」のウイルスは、鳥のウイルス由来だったことが米ハーバード大などの研究で分かったそうですが、丁度この頃大流行したという。)

   西條八十の詩には、成田為三、弘田龍太郎、本居長世、山田耕筰、中山晋平、草川 信、近衛秀麿、小松耕輔、橋本国彦、佐々木すぐる、平井康三郎、中田喜直・・から、古賀政男、松平信博、万城目正、服部良一、古関裕而・・など多くの著名な作曲家が曲をつけている。特に初期の頃、山田耕筰、本居長世に多く、その後歌謡の分野では、中山晋平、古賀政男、万城目正などに多い。 
大正9年からは本居長世は目黒不動尊のそばに居を構え、宮城道雄、吉田晴風、中山晋平、弘田龍太郎、野口雨情、西條八十、後には歌手の四谷文子、藤山一郎らが集まってきたといいます。

   「カナリヤ」「肩たたき」「鞠と殿様」「お山の大将」「村の英雄」「おみやげ三つ」「宵待草」(二番補作)・・「東京行進曲」「東京音頭」「銀座の柳」「唐人お吉の歌」「この太陽」「不懐の白珠」「お菓子と娘」「愛して頂戴」「侍ニッポン」「夜の酒場に」「踊り子の歌」「旅の夜風」「サーカスの歌」「誰か故郷を想はざる」「花言葉の唄」「春よいずこ」「蘇州夜曲」、「燃える御神火」「同期の桜」「若鷲の歌(予科練の歌)」「麗人の歌」「旅役者の歌」「赤い靴のタンゴ」「悲しき竹笛」「青い山脈」「赤いかんなの花咲けば」「越後獅子の歌」「この世の花」「りんどう峠」「王将」・・「二つの言葉」「花咲く乙女たち」「絶唱」「夕笛」・・かぞえあげたらきりがない。新民謡については、「東京音頭」「別府音頭」「浅間の煙」などがある。なお、全国をまわり、昭和5年「民謡の旅」(朝日新聞社)という本も出している。

   当初、[赤い鳥]で童謡を手がけるが、この頃は歌われることを意識して書いたわけでは無いという。自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマで再現していた。

   古賀政男音楽博物館地下1階「音楽情報室」のコンピュータで「西條八十」で検索すると、600曲くらい出てきて、一部の音源の準備の無いものを除き選んで試聴できる。

   なお、映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948)は、西條八十の「歌の自序傳」を映画化したもの。また、キンダーブックのフレーベル館のHPによると、過去75年の歴史の中では、北原白秋、西條八十など一流の画家や作家、童謡詩人らを相談役に迎えてきました。・・とある。

<参考書>
西條嫩子編「西條八十童謡集」彌生書房
・八十の長女西條(三井)嫩子(ふたばこ)がまとめた、お山の大将・かくれんぼ・風・肩たたき・かなりやなど51篇の童謡集。
西條嫩子『父西條八十』(中央公論社,昭50)
『西條八十全集』(1〜16巻、別巻)国書刊行会1991
西條八十『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)
新庄嘉章編 「西條八十詩集」彌生書房
人間の記録 第29巻 「西條八十  唄の自叙伝」日本図書センタ− 1997
西條八十著「アルチュール・ランボー研究」中央公論社 昭和43年
西條八束・西条八十著作目録刊行委員会編『西条八十著作目録・年譜』中央公論出版
西条八十著「民謡の旅」朝日新聞社 昭和5      

<弘田龍太郎と軽井沢>  ・・弘田龍太郎と島崎藤村・・

  「初恋」(若菜集:大中寅二曲)・・♪まだあげ初めし前髪の・・……、「椰子の実」、「惜別のうた」・・で知られる島崎藤村、さらに小説「破戒」「夜明け前」、未完(『中央公論』)の長編歴史小説「東方の門」で知られる島崎藤村(1872−1943)は、27歳から33歳までの信州小諸での7年間の生活を送った。(「千曲川のスケッチ」)
明治30年には詩集『若菜集』を刊行、我が国近代詩の確立者と評され、すでに詩人として名をなしていた藤村が、小諸での生活を経て小説家として新たな歩みを始める転機となった。

  藤村は「千曲川旅情の歌」・・小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ・・…を収めた詩集「落梅集」を刊行後、小説「破戒」の執筆にあたった。「千曲川旅情の歌」に弘田龍太郎の曲が付けられる経緯など貴重なことが、「曲碑の由来」(石碑)に書かれている。

  中軽井沢から、浅間山・鬼押し出しに向かう途中の別荘街、大きな三角屋根と清楚な木造の気品のあるしゃれた建物がある。「軽井沢高原教会」(軽井沢町長倉2144)・・別名「星野遊学堂教会」・・内村鑑三によって「星野遊学堂」と名ずけられ、大正時代に内村鑑三、与謝野晶子、芥川龍之介、北原白秋、島崎藤村など当時の文化人たちによって開催された「芸術自由教育講習会」の会場となっている歴史ある教会。現在はリゾートウエディングの教会としても人気が高いという。このすぐ近くに星野温泉ホテルがある。大正4年に建てられ現在改装のため工事中という。この入り口、弘田龍太郎(弘田竜太郎)の山荘があったところで、弘田龍太郎曲碑(昭和34年6月14日建立)がある。
軽井沢町長倉星野2148-1  星野(塩壺)温泉入口
(交通)しなの鉄道中軽井沢駅→西武高原バス・JRバス 鬼押出し・草津温泉方面行き、またはJRバス長野原草津口駅行きで4分、バス停:西区入口下車、又は野鳥の森下車徒歩5分

  曲碑の由来(弘田龍太郎曲碑より)
「靴が鳴る」「叱られて」「春よ来い」その他数々の名曲を作曲された,弘田龍太郎先生は大正10年この地で,童話家岸辺福雄氏と隣り合わせに山荘を建てられた。
  当時,北原白秋,草川信その他の詩人や作曲家によって,童話運動がほうはいとして起こり,先生は日本の新しい子供の歌をつくり出され,後世に残る日本童謡の開花時代をつくられたのであります。
 先生は、この山荘を愛されて、夏をここで過ごしては数々の名曲をつくられました。大正10年8月第1回芸術教育講習会が,内村鑑三先生命名の星野遊学堂で,当時文壇画壇で虹彩を放っていた北原白秋、島崎藤村、沖野岩三郎先生とともに、弘田龍太郎先生は、29才の若さで、講師として招かれました。
 島崎藤村先生は,抒情詩「小諸なる古城のほとり」を作られ弘田龍太郎に作曲を依頼されたのです。先生はこの山荘で曲想を練り、「千曲川旅情の歌」と題し発表されるや、当時の若人をはじめ、不朽の名曲として人々に愛されました。・・

・・以下、曲碑「千曲川旅情の歌」は、「千曲川旅情の歌」はじめ数々のメロデーを生んだ弘田龍太郎先生ゆかりのこの地に建設したものであること・・設計は誰で、など続く。

 弘田龍太郎曲碑のある、すぐ近くには、北原白秋の「落葉松(からまつ)」の詩碑もある。

(星野温泉ホテル裏手には、「野鳥の森」があり、2.4kmの探鳥路を散策できる。中軽井沢駅=バス5分=北原白秋文学碑=野鳥の森入口。散策には2時間ほど必要=20分=野鳥の森出口(バスと徒歩・所要約3時間) )
 
 なお、浅間山麓(軽井沢町長倉5604)には、尚美学園大学のセミナーハウス「軽井沢ミュージックセンター」があり、公開されている。これまでVBCや、ときわ平少年少女合唱団・竜ヶ崎少年少女合唱団(合同合宿)などが合宿に使用しているようです。
   
 この弘田龍太郎曲碑のあるあたりをさらに登ると、軽井沢スケートセンターや、体験牧場さらに昇ると,浅間山・鬼押し出し・・浅間白根火山ルートへと繋がる。なお、小諸城趾「懐古園」に、この歌の「歌碑」と、「藤村記念館」があり、小諸時代の藤村を偲ぶことが出来る。

CD; 明治・大正・昭和はやり唄全曲集 下巻 コロンビアCOCF-6242
  城ヶ島の雨(奥田良三)、真白き富士の根(松原操)他
(参考)廃盤で、入手困難だが、奥田良三のレコードは、今や貴重なので復刻を願う意味を兼ねて・・。
CD;奥田良三 若き日の奥田良三(4枚組) 1995ポリドール(廃盤)
CD;奥田良三 思い出の名唱集 (3枚組) 1994ポリドール(廃盤)
LP; 千曲川旅情の歌―奥田良三歌曲集  ポリドールSMR-3026  (廃盤)
  千曲川旅情の歌、城ヶ島の雨、平城山、椰子の実、羽衣他


      島崎藤村「千曲川のスケッチ」新潮文庫、

   Tel. 0267-45-7089
合宿体験http://temariuta.fc2web.com/gasyuku/gasyuku.html





<清水かつらを訪ねて>
  
 弘田龍太郎の童謡で多いのは、清水かつら(本名 桂)で、埼玉と東京の境の埼玉県白子町(現・和光市白子町)というところがゆかりの地で、東武東上線成増駅西口には、歌の時計塔で、「しかられて」や「あした」などが流されてる他、沢山のかつらの歌の碑があります。
 かつらは、昭和26年になくなりましたが、4歳で武士の流れをくむ厳しい父親が母親を離縁して、継母に育てられ、寂しいこども時代をすごしたということで、それが「叱られて」とか「あした」・・戦争で兵隊の父親の帰りを母親とともに待つ小さな子の思い・・とかなっているということです。・・・

 かつらは高等小学校卒業して、「中西屋書店」(後、丸善に吸収)という小さな書店に就職します。この書店が実はすごいことになる。大正5年に「少女号」と言う雑誌を出し、童謡では沢山の名作を出すことになります。一般に「赤い鳥」が童話・童謡運動の始めと言われてますが、これは、鈴木三重吉らの「赤い鳥」(大正7年)に先立つこと2年前です。小さな書店で当時は、編集者自ら、詩を載せたりしたと言います、同輩に鹿島鳴秋がいたそうです。

 「赤い鳥」以外の全ての雑誌は芸術ではないと主張し、他の雑誌を非難・攻撃したという鈴木三重吉などからは、芸術ではないと言われたようですが、かつらは、私のめざすものは、芸術ではなく、こどもの自由な感情の表出をやさしく・・と言ったそうです。
  
 弘田龍太郎は、すべての歌は芸術であるべきだということを信念にしている人で、全ての歌を大切に芸術にまで高めていて、かつらの詩は弘田龍太郎の曲と出会うことによって、素晴らしい作品になってます。「叱られて」にしても、口にはださねど・・といった今の子供にはない・・・そしてそっとやさしく包みこんでるようなやさしい曲です。母を慕う気持ちを、「母」という言葉を一言も使わず、表わしてます。

  しかられて しかられて あのこはまちまで おつかいに・・

・・幼き日を想いださせるこのうたの 作詞者清水かつら氏は明治31年東京に生まれ、生涯の大半をこの時計塔よりほど近い和光市白子で過ごして、物理的、精神的に恵まれなかった少年時代の心境を託した「叱られて」や「あした」のように、父母を慕い、父母の愛を求めた作品が多い。氏の愛した自然、成増から白子にかけての田園風景、もっとも好んで行ったという吹上観音、そこから生まれた「靴が鳴る」「雀の学校」「緑のそよ風」は、日本中の少年少女に愛唱されました。また、鹿島鳴秋氏とも親密深く、ともにこの地で活躍されました。  
 私たちは地元の生んだ童謡詩人の業績をたたえ、この西口広場を訪れるみなさんに紹介する意味で氏の25回忌にあたり、大勢の方のご協力、ご援助を得てここにうたの時計塔を建設しました。うたの時計塔より流れるメロデイーと時間は次のとおりです。
午前 8時   緑のそよ風
   10時    靴が鳴る
   12時   雀の学校
午後 2時   あした
    4時    叱られて
    6時   浜千鳥
 うたの子会  昭和51年8月8日(うたの時計塔より)

  
<碑と写真>
1. うたの時計塔
 東武東上線成増駅西口前(池袋駅より準急10分)
 時計塔自体は、どこにでもあるもので見過ごしてしまう程度だが、時間とともに、かつらの童謡で時を知らせる。







2.武蔵野を愛した童謡詩人 清水かつら 生誕百年記念 (平成11年3月和光市長)
  和光市白子2-20-9 白子川遊歩道端
   








3.「靴が鳴る」 碑 
 白子川 白子橋欄干(4ケ所) 白子2−22
 このあたりは昔、川越街道の「白子宿」があった。成増から川越街道のなだらかな坂道を川越方向に約15分位下り、川越街道が左カーブするY字路(東埼橋交差点)のあたりに県境、白子川の橋がある。右が遊歩道になってて、最初の橋が白子橋。「靴が鳴る」・・♪おててつないで 野道を行けば・・は、戦後、母に連れられて入学する小学校で、「むすんでひらいて」とともに最初に出会う懐かしい思い出に繋がる歌。



4.清水かつらが住んでた家 

 和光市白子2−19−38 和光市白子宿地域センター斜め前
 地元の古老が教えてくれました。白子橋を成増と反対方向交差点を右に曲がると、すぐ先左側の古い木造平屋建の家が見える。かつらの屋敷には池があったというから、屋敷の一部か。かつらは、東京深川で生まれたが、関東大震災により避難。何回か移転を繰り返している。今は直接関係ないようだが、うどん屋になっていて、うどん、そばがたべれるので、一休みするにはいいかも。


5.かつらが最後に住んでた家


 かつらが最後に住んでた家は、白子橋を成増方向に50メートル位行ったあたり左にあり、現在赤い2階建アパートがたっている。この地で亡くなったという。 和光市白子2−21−16地先   





  なお、駒込・吉祥寺でおこなわれた清水かつらの音楽葬では、中山晋平、弘田龍太郎の弔事に続き、音羽ゆりかご会、ビクター児童合唱団が、「靴が鳴る」など歌い、最後に「叱られて」を四谷文子が朗々と歌い上げたという。
中山晋平、弘田龍太郎も翌昭和27年にあいついで亡くなった。「叱られて」の歌碑は、弘田龍太郎の眠る、谷中の「全生庵(ぜんしょうあん)」にある。なお、戦後作られ、NHK合唱コンクールに広く歌われたという「緑のそよ風」(草川信作曲)の碑はアクトホールのある同駅北口にある。白子コミュニテイーセンターには、かつらゆかりの常設展示があるという。一つ先の東上線和光市駅南口にも、「緑のそよ風」、「叱られて」「靴がなる」の碑がある。これらについて、また別に触れたい。


「緑のそよ風の歌碑

   
<野口雨情の歌に秘められたこと>
 
  「童謡の謎」とか言って、最近いろいろ本が出て童謡に対する関心を高めるのに役立っている。必ずあるのは、「赤い靴」「シャボン玉」「七つの子」など野口雨情の作品に関するものだろうか。
なぜなのか、野口雨情は社会派といわれ、その作品には、短い言葉の中に、実に奥深い思いが秘められているものが多いのだ。しかも日本国中を踏破してるだけに、「赤い靴」「シャボン玉」のように、一見何気ないローカルな中に単なるローカルな話を超えた「大きなテーマ」が秘められているように思われ、富みにズシリとした重みを感じないわけにはいかないのだ。それが白秋など他の詩人のものと異なる最大の点ではないだろうかと思われる。
  野口雨情(1882〜1945)は、楠正成の弟・正季(まさすえ)の直系の子孫といわれる名家の生まれで光圀の「観海亭」を譲り受けた地元の人が「磯原御殿」と呼ぶ家に住んだ。詩人では島崎藤村より一回り下の生まれ、北原白秋、三木露風、石川啄木、西條八十より一回り上だった。 
  広大な山林田地を有し、回船問屋を営んでいたが、雨情9歳のとき、没落し、父量平は少なからぬ負債を抱えることとなった。雨情は小学校を卒業すると上京し伯父の家から中学校に通い、ついで東京専門学校(今の早稲田大学)に入学して坪内逍遥の指導薫陶を受けた。明治36年(1903年)には父量平が村長在職中に死亡し、雨情は郷里に帰り家督を相続して家業を守ることになったが、父の残した膨大な借財整理が肩にのしかかってきた。そのころ日本の詩壇は新体詩の新しい時代に入りつつあり、与謝野鉄幹・島崎藤村(1872−1943)などが詩集を続々と刊行している。

  野口雨情は、放浪の詩人、土の詩人などとも言われる。野口雨情(英吉)の青春時代・明治時代は、まだ開拓と移民の歴史でもあった。日本でも北海道開拓のために、多くの人が北海道の原野に入殖した。あの「赤い靴」の話も、厳しい寒冷地だった北海道入殖に伴う悲話といえる。雨情は北海道での生活の中で、そのことと出会う。

  ずっと以前から、あるクスリメーカーのCMがときたまテレビで流れる・・移民でブラジルに渡った家族、3代か4代だかの大家族・そしてその白いひげの古老が、故国日本を懐かしんで口ずさむ「からす なぜ鳴くの・・・」(「七つの子」:野口雨情作詞、本居長世作曲)。この歌うのを聞くと、歴史を超え世代を超えたズシリとした重みと悲壮感というものを感ずる。日本にはいろいろな歌があるが、日本の歌を一つ上げろといわれたら、多分このあたりになるのだろう。

  日本人の海外への移民は、すでに1868年(明治元年)には始まっていた。ハワイや、その後アメリカ、メキシコ、明治後期には南米(ペルーなど)や東南アジア。ブラジルへの移民は、1908年(明治41年)の笠戸丸に始まる。しかし、1888年に奴隷制を廃止したばかりのブラジルでは、その後のコーヒー農園での労働力不足を補うためヨーロッパからの移民を受け入れていたが、劣悪な条件下での労働は移民の不満を呼び、ドイツやイタリアといった移民送り出し国の政府は、「奴隷同然の移民送り出しには協力出来ない」と、出国を停止したりした。こうして、労働力不足に悩んでいたコーヒー農園主とブラジル政府に、当時アメリカ合衆国から日本人移民を締め出され困っていた、『皇国殖民会社』が、日本人移民の受け入れを売り込んでいたということで、労働環境は劣悪だったようだ。

  調べてみると、歌にもそれぞれ「歴史」というものがあって、すべてが出来てすぐ順調に歌われたというのばかりとは限らない。この辺調べるとたいへんおもしろい。
たとえば、有名な「赤とんぼ」がある。大正の童謡が大正8,9年頃から5,6年間位の間に花開いたものだが、山田耕筰の創作活動は以下に述べるように、大正より、昭和に入ってからで、昭和2年に作曲され、4年後(昭和6年)に名ボーイソプラノの金子一雄によってレコード化された。
しかし、その名ボーイソプラノにしてもほとんど人の口に上るまでにいたらなかったようだ。「人の心を捉える」ということがいかに大変なことか!・・人の口に登ったのは、以外にも戦後も昭和30年代・・テレビ初期の時代・・にはいってから、映画がきっかけで当時起こってきた歌声喫茶(歌声運動)からのようだ。

  まだ地方のオーケストラとして草分け的な存在だった群響を取り上げ、群馬交響楽団が世に出るきっかけとなった、岸恵子主演、今井正監督「ここに泉あり」(1955、中央映画)がきっかけだった。映画の中で、移動音楽教室の帰路につく楽団員を追いかけて、山の学校の子供たちが「赤とんぼ」の合唱をするところがある。ほとんど一般に歌われることはなかったので、「子供たちが歌っていたあの歌、なんていう歌?」というのが反響だったという。 

  そういうことを想えば、「野口雨情作詞、本居長世作曲」といういくつかの定番の歌は、日本人に深く根ずいた日本の歌の原点といえないだろうか。二人とも、書斎で詩を作ったり作曲したりというのではなく、ラジオもレコード(の普及)も無い時代から日本国中に行き渡ってる80年を超えるその重みはずしりとしている。
       運のいい歌、悪い歌      http://www.syu-wa.co.jp/kanwakatudai034.htm

  (なお、ついでに付け加えれば、この歌が戦前のレコードデビュー時にヒットしなかった理由として、「赤とんぼ」はアクセント完全無視の歌だったことらしい。・・ 日本語で言うときの音の高低と歌のメロディーの高低が合っていないというのだ。 つんだ・まぼろし・よめ・さお等の言葉が高低逆になっているらしい。「赤とんぼ・・」の所では、「あ」から次の音にかけて大きく音が下降する。 むしろ「垢とんぼ」になってしまうらしい。

  一般に「山田耕筰はアクセントを重視した人」ということが、賞賛の最大の理由なのだが。藍川由美は耕筰について「宣伝上手で処世術に長けた人だった」という。このことについて、金田一春彦は、本居長世が「お山の大将」で先にやってて、一番うまいのは中山晋平だったともいっている。この映画の後、大映映画(総指揮 山田耕筰) 「夕やけ小やけの赤とんぼ」(1961)が作られるなどして、ひろまったという。)

 一般に、山田耕筰といえば、日本の洋楽・特に交響楽などの最大の功労者であるように、主に洋楽をメインとして活動した人だった。童謡運動が盛り上がりつつあった、そして「十五夜お月さん」が発表された大正9年、耕作は日本楽劇協会を設立して本核的な大正15年1月になって予約定期演奏会を開始したばかりの日本交響楽協会が9月には分裂して、耕筰は多額の借金を背負うことになった。やむなく住居を茅ヶ崎に移して、東京に通勤し始めた耕筰は、その往復の車中を童謡の作曲に当てた。そして昭和15年11月から、翌昭和2年3月までの僅か4ケ月の間に99曲を作曲、そして日本交響楽協会に出版部を新設して、「童謡百曲集」を5集に分けて出版した。これが、耕筰と童謡のメイン接点である。

 「山田耕筰作品集」「中山晋平作品集」「文部省唱歌集」「古関裕而歌曲集」「古賀政男作品集」「野口雨情の世界」などの作品を持つソプラノ歌手で学術博士藍川由美は、わが国には無批判に西洋クラッシック音楽を崇拝し自国の音楽を見下す風潮があることを憂い、かつ日本の歌を徹底検証・実証的に研究・評価していこうと、日本の音楽を固定観念にとらわれず幅広く研究して活躍している。

 藍川由美は言う・・童謡運動の全盛期に、オペラやオーケストラに夢中だった耕筰が、借金を抱えた途端、「童謡百曲集」を出版するとは現金なものだ。確かに耕筰の作曲技術をもってすれば、童謡を100曲作るくらい簡単だったかもしれない。しかし、偶然耳にした歌が自分のものかわからないような作曲家と、常に自作を口踊し、原稿用紙の升目にそこだけが盛り上がるほど紙を貼り付けて推敲していた詩人とでは、作品にかける情熱と芸術家としての資質が違いすぎる。それ故私は、日に数曲書いたこともあるという耕筰が、雨情の詩に作曲した歌がヒットしなかったことに安堵している。結果的に、耕筰の真意がどこにあったのかわからない。そして、他の作曲家との競作が多いことも、数を揃えるために止むを得なかったのか、それとも自分の力量を試そうとしたのか本当のところはわからない。はっきりしているのは、雨情の「俵はごろごろ」と、八十の「お山の大将」は本居長世の作曲、雨情の「兎のダンス」は中山晋平の作曲、白秋の「ちんちん千鳥」は近衛秀麿の作曲の方がよく歌われたということだ。耕筰がかろうじて面目を保てたのは、三木露風の「赤とんぼ」と、白秋の「あわて床屋」「「この道」が好評を得たためである。・・と。

 雨情という人は処世術とは程遠い不器用な人だった。親からの莫大な借財を背負い込んだ雨情の詩人としてのスタートは、不運と失意のくりかえしだった。明治35年(1902)3月、文芸雑誌 「小柴舟」によって詩壇に登場するが著名の域までにはいたらなかった。 同37年父の死により帰郷、家督相続、そして高塩ひろと結婚。同38年3月、 処女詩集「枯草」を自費出版した。 父の残した借財整理の煩わしさから逃げたかったのか、同39年(1906)当時日本領であった樺太に渡ったものの事業は失敗、帰郷後、月刊詩集「朝花夜花」の刊行も詩壇の一部で注目されただけだったが・・「七つの子」の原型が「山がらす」♪烏なぜなく 烏は山に 可愛い七つの子があれば・・としてここに載っている。

 その後、早稲田詩杜の結成に参加し、やがて北海道に新聞記者として渡り二年余漂泊した。このあたりが、野口雨情が「放浪の詩人」と言われる所以。この間、石川啄木との交友、雑誌への投稿は続きましたが詩壇への復帰はならなかった。明治44年(1911年)母の死をきっかけに郷里へ戻った雨情は父の残した借財整理に追われ、自分に出来ることは植林くらいしかないと広大な山で植林の仕事を行っていた。モンペに頬かぶり、腰に山刀といういいでたちの写真は、こうした事情を物語るものだった。このあたりのことは、昭和32年久松静児監督、森繁久弥、木暮実千代の東宝映画「雨情」に描かれている。「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」・・や、「旅人の歌」などの森繁節が聞ける。

 この雨情が詩壇から離れている頃、中央では三木露風、北原白秋、石川啄木、高村光太郎など新進詩人たちが活発に活躍していた。しかし雨情は、大正4年(1915年)から数年の間は離婚と再婚を経験し、大正8年(1919年)に詩集「都会と田園」を出版した。 雨情唯一の自由詩集で、都会と田園を詠じた21篇の詩が収められている。  

 「都会と田園」は詩壇から忘れられかけていた雨情の存在を認識させ、中央詩壇会復活への道を開いた。大正4年(1915)妻ひろと離婚。同7年水戸へ出て 「茨城少年」の編集にあたりながら作品を発表する。そして秋、中里つると結婚し。実は借財整理のため、資産家高塩家と政略結婚させられたのだが、頭があがらなかった。結局妻ひろと離婚して、大正7年に半玉だった、17歳の中里つると結婚、このころが大きな転機となったようだ。

 「枯れすすき」(船頭小唄)もこのころつくられた。これは、雨情が二人で心中しようとして、つるさんに止められた。「♪俺は河原の枯れすすき、おなじお前も枯れすすき」と歌ったが、その「お前も」とは妻つるさんを指すといわれる。このことをきかっけに雨情の持って生まれた才能が一気に花開く。そしてしばらくして中山晋平のところにもってゆく、「枯れすすき」(船頭小唄)はずっと後、関東大震災の直前にはやりだす、そしてこんな歌がはやるから震災が起こったとも言われる。

 大正8年(1919年)に斎藤佐次郎によって「金の船」(その後「金の星」となり、現在でもある。)が創刊され、雨情は毎号童謡を書き「人買船」「十六角豆」「山椒の木」など優れて個性的な作品をせきをきったように次々と発表する。翌年編集部員として迎えられて上京し、雨情の童謡詩人の地位を確立したといわれる「十五夜お月さん」を発表した。翌大正10年(1921年)には「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」など名作を次々に発表している。こうして大正中期に興った童謡運動特に「金の船」を母体に、北原白秋、西条八十とともに天下を三分し、童謡界の三大詩人といわれるほどの活躍を見せた。西条八十を童謡に引っ張り出し(「赤い鳥」),その後の活躍のきっかけを作ったのは、鈴木三重吉で,その西条八十が雨情をひっぱりだし童謡隆盛のきっかけをつくった。その点ではやはり三重吉の功績は大きいといわなければならない。

 雨情は「唱歌は歌わせるために作られたもの、童謡は歌われるために生まれたもの」とし、「巧利巧智に走らず、清新素朴な感情を詠ったもの」をあげ、特に郷土的童謡を主張した。雨情はその後も「黄金虫」「シャボン玉」「あの町この町」「雨降りお月さん」「証城寺の狸囃子」など、広く愛唱される歌を次々と書いていった。鈴木三重吉(と北原白秋)は、当初「童話・童謡運動」の意味する「童謡」とは、「子供のための詩」そのもののもので、曲のついたものではなかったようだ。曲(節)は自分でつければいいというくらいだった。したがって詩作(芸術)そのものが重視され、メロデーをつけて歌うことは考えになかった。これに対し雨情は、最初から、「童謡」は「歌われるために生まれたもの」としたのだった。

 鈴木三重吉は大正7年「赤い鳥」創刊にあたり、当初「志」はよかったが、「赤い鳥」以外の雑誌は模倣にすぎないと他の雑誌を非難した。そして、野口雨情、与謝野晶子・・そして、大正5年創刊の「少女号」の清水かつら、鹿島鳴秋まで、童謡を侮辱している作者として指摘している。しかしその後沢山の童謡雑誌が出ていている。児童雑誌では「幼年の友」「少女の友」や浜田広介による「良友」「子供の友」などが発売されていた。「赤い鳥」に刺激され大正八年には、「小学男性」「小学女性」や、野口雨情らが執筆した「金の船」などが発刊された。「少女号」からは、「叱られて」や「靴が鳴る」「あした」などの名作がでている。「かつら」の目指したものは、「赤い鳥」のような芸術性の高い(詩作中心の)高尚な童謡ではなく、子供達が喜びや悲しみを素直に歌うための、自然に子供達の心にとけこんだ童謡であったという。
  文学者から起こった「赤い鳥」は詩作のほうを重視してるので、曲は「金の船」などから出てるのも多いようだ。また、子供向けの画期的な絵本「コドモノクニ」が発刊され、北原白秋、野口雨情、西條八十、中山晋平、弘田龍太郎らが執筆している。特に中山晋平は「コドモノクニ」が多い。このように大正時代は童謡の最盛期であり、ふと口ずさんで出てくる童謡のほとんどはこの時代に作られているといっても過言ではない。

   そんな童謡運動の中でも、野口雨情と中山晋平を擁する『金の船(のち「金の星」)』(大正8年10月創刊)からは、多くの「歌われる童謡」が生まれているとされている。このコンビはまた、大正10年の《船頭小唄》や昭和3年の《波浮の港》を大ヒットさせたことで流行歌の魁でもあり、中山晋平は、昭和初期に西條八十とのコンビで《東京行進曲》《東京音頭》などを大ヒットさせてもおり、童謡も流行歌も、彼等抜きには語れないが、いずれも童話童謡運動に結集した人たちだった。「金の船」に雨情が参加したのは、「金の船」創刊の準備をしていた斎藤佐次郎が当初西條八十を誘った。しかし八十は,学生時代から雨情に傾倒していて,適任者として雨情を推薦したことによる。本居長世が「金の船」に拠ったのは,当初、斎藤佐次郎が中山晋平を誘った,しかし晋平はその頃「カチューシャの歌」「ゴンドラの歌」などのようなものしか作ってなく,日本的なものは,自分より適任者として師である長世を推挙したことによる。そして,野口雨情―本居長世のコンビが生まれ、今に残る多くの名曲が誕生することになる。

  雨情は借財整理に負われて、放浪する青春時代を経て世に出、そしてその後も、日本各地や、台湾、蒙古にいたるまで足跡がある。彼の詩作活動は、土の詩人という表現は別として、深く地に根ざしたものということはできる。大なり小なり昔の人は旅をしたが、彼ほど日本中をくまなく旅したものはいない。

  また、中山晋平らと新民謡(創作民謡)運動をすすめ、雨情、白秋、三木露風、佐藤惣之助、白鳥省吾、西条八十など多くの詩人が民謡創作に筆を染め、多くの民謡集が次々と出版される原動力となった。大正11年(1922年)雨情は作曲家の藤井清水、声楽家の権藤円立と知り合い、彼らが主宰する「楽浪園」に参加し、全国各地で講演と演奏会を開くようになった。雨情、藤井、権藤の三人は作詩、作曲、歌唱というコンビの面から「新民謡界の三羽烏」といわれるようになった。
 
  歌謡歌曲としての新民謡が盛んになるにつれ、新作地方民謡が勃興した。その先駆けとなるのが雨情の「須坂小唄」(中山晋平作曲)である。この歌が大正15年(1926年)に放送されたことによって地方民謡の新作が一般の関心を呼び地方民謡新作ブームが巻き起こった。やがてレコード化され、中には電波に乗って全国的となるものもあった。「三朝小唄」「上州小唄」「鎮西小唄」「犬山音頭」「磯原節」など雨情の作詩のものである。雨情はこの 時期ごろから全国各地への童謡・民謡普及のための講演旅行が多くなり、その足跡は国内のみならず当時の台湾・朝鮮・ 満州・蒙古にまで及んでいる。新民謡作品も「須坂小唄」をはじめ、全国各地で数百編にもなります。

 しかし、昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発すると、社会は次第に戦時色が強まり、歌謡の世界も軍歌、軍国歌謡の時代となった。雨情は進んで軍歌の類を作ろうとしなかったのでその活躍の場も次第に狭まることになったが、それでも雨情の雅致雄渾の書を愛する人が多かったので、揮毫のため各地を旅行するようになり、求められてはその地の民謡新作もした。
  昭和18年(1943年)、それまで全国を駆け歩いていた雨情は突然軽い脳出血に冒され、それ以後、山陰と四国への揮毫旅行を最後として、療養に専念することになった。そのうち空襲が激しくなったので宇都宮近郊に疎開したが、昭和20年1月6日・・(丁度ラジオからは「お山の杉の子」などが流れてたであろうころ)・・家族に見守られながら静かにこの世を去った。
  雨情没後7年目の昭和27年(1952年)に、中山晋平、時雨音羽などが中心となって東京に「雨情会」が創設された。初代会長は中山晋平だったが、晋平も昭和27年に亡くなっている。

<CD紹介>
CD「七つの子 野口雨情作品集」ビクター;VICG60536〜7 4,200円
 http://doyo.jp/cd/1.htm
CD「人買船〜野口雨情の世界」藍川由美 28CM-645 ¥2,940(税込)/2001.11.25 発売
 http://www.camerata.co.jp/cd/cm6/645.html
人買船(本居長世)、俵はごろごろ〈本居長世、山田耕筰〉、信田の籔〈藤井清水〉・・
(参考書)
野口存弥「野口雨情 詩と人と時代」           未来社1976
「定本野口雨情」第8巻                   未来社1977
斉藤佐次郎他「みんなで書いた野口雨情伝」      金の星社1977
古茂田信男著「七つの子 野口雨情 歌のふるさと」平成4年
藍川由美「「演歌」のススメ」(文春文庫282)        文芸春秋社2002
藍川由美「「これでいいのか日本の歌」(文春文庫014)  文芸春秋社1998
ビデオ・久松静児監督(昭和32年東宝作品・森繁久弥主演)「雨  情」
(発売:ファーマスレコードクラブ0120−03−1100)
                                                               
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