スタニスラス・コストカ(潤)さんの部屋
         少年合唱 

 旧教の典礼(キリスト教諸儀式)における歌の役割は聖アウグスチヌスがいみじくも指摘したとおり「2倍の祈りに匹敵する」とされております。女人禁制の禁域において少年合唱の果たした役割は、儀式における所作・色彩・嗅覚(香)とあいまって、旧教典礼の荘厳化に大きく貢献してきました。
 もっとも第2バチカン公会議以後、ラテン語廃止、日本語口語式文の導入、聖歌の口語化などの方針から、少年聖歌隊の存在は急速に忘れ去られています。

 かつて、典礼がラテン語であった頃(いまから約40年前)、旧教信徒の少年たちは当番でこのラテン語の交唱を練習させられていたと聞きます(わたしが幼い頃はまだラテン語の聖歌が歌われていましたが)。女性はサンクチュアリ(至聖所)の柵内に立ち入ることが許されていませんでしたので、この役割は少年に委ねられておりました。近年この役割は女子児童にも許されるようになりました。

 近年、ラテン語ミサの執行が部分的にではありますが解禁され(決して禁止されていたのではなかったのですが、なにか保守反動ととらえる雰囲気があったことは事実です)、各地の教会でもラテン語聖歌を歌う機会が増えてきたのはすばらしいことです。もっともバチカンの典礼聖省が『ミサ曲(キリエ、グロリア、サンクトゥス、アニュス・デイ、パーテル・ノステル)は伝統的な聖歌で歌うことが奨励される』と宣言して以来20年以上経っておりますが。
 かつてのように少年合唱によるグレゴリアンとはいかないまでも、かつての荘厳な典礼が行われることはとてもすばらしいことだと思います。

 なおおすすめの聖歌はミサ曲ではなく、聖務日課書の『主の御降誕の大祝日』第2晩課賛歌の「Hodie Christus Natus Est」です。とても有名な曲ですので一度は耳にしたことがあるかもしれません。最近は『踊る大捜査線 the movie』の、捕縛された小泉今日子が登場するシーンのバックに流れていました(かなりアレンジされてはいましたが)。
 わたしの所有する音源は「ノートルダムのクリスマス」というCD収録分です。とても短いですが印象深い曲です。

    
 宗教曲と少年合唱 

 ラテン語時代、ミサは司祭と侍者(少年奉仕者)のラテン語の応答、及び歌隊のグレゴリアンを中心に展開されていました。国語化が認可されたとき、祭儀に対する会衆の積極的参加が求められたため、侍者に保留されていた応唱は、すべて参加している会衆で答えることになりました。
 ただし聖歌の国語化にはあまりに時間がなく、故高田三郎氏(国立音楽大学名誉教授)が、そのほとんどを作曲することになりました。すでに以前より、ラテン語聖歌と文語聖歌を併記された『公教聖歌集』(カトリック聖歌集と改題)はありましたが、新教会法と典礼憲章の発布により、旧約聖書の詩編に旋律をつけて歌う、という聖歌を中心とした『典礼聖歌』が誕生しました。

 サンクチュアリは廃止され、聖障は全廃されました。カトリックでは聖障はたんに柵ですが、同じ旧教のギリシャ正教会はここに聖画をはめ込む方式をとりました。これがかの有名なイコノスタシス(イコン)です。また至聖所付近にあった歌隊席も廃止されました。

 この時点からカトリックにおける少年合唱は衰退し始めたと思います。
 国語化は歌唱法の簡素化も意味しましたから(母音をめいっぱい伸ばして歌うメリスマ唱法なども当然なくなったわけです)。

 先日も所属教会で敬老の祝いにこどもたちがコーラスをプレゼントしたのですが、
うたった曲は「Believe」という歌。どうせなら「Gloria」でも歌った方がよっぽど懐かしめたろうに。

 ちなみにかつてのミサの雰囲気を味わうには日本聖公会の礼拝に参加するしかありません。ただし関東と関西では、同じアングリカンでも、布教元がそれぞれ英国系と米国系と異なるので、立教あたりでないと難しいかも
バチカン市国の公用語が昨年だったでしょうか、ラテン語単独から英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語(自信なし)、ラテン語に改められました。

 もっとも公用語といってもラテン語は話ことばとしてはとっくに死語になっていたので、文章語や礼拝用語としてのみだったのですが。
 現在の日本のカトリック教会でも、転居や結婚の際などに必要とされる各種証明書類は、ラテン語が併記されています。

 これで宗教的解説は終わらせていただきます。
 次回より、芸術としての宗教曲について書かせていただきます。

   
女声とボーイ・ソプラノの差違 

 フォーレのレクィエムといえば、東芝EMIから出ている『クリュイタンス盤』がポピュラーですが、このレクィエムの第4曲『Pie Jesu』を題材に聴き比べると、同じような周波数特性を描く女声とボーイ・ソプラノの違いが、より明確に肌で感じられると思います。

 クリュイタンスのそれはソプラノで歌われます。単独で聴けば荘厳かつ神秘的(ただしわたしの友人は「いかにも地中海音楽だな」と吐き捨てておりましたが)ですが、ボーイ・ソプラノと聴き比べると、わずかながらに「エロス」が含まれていることに気づきます。
 誤解があってはならないのですが、これは女性を性的な対象と見なす、という意味ではなく、むしろ耐える女の力強さ、というものをわたしは感じてしまうのです。
 芥川か夏目か忘れましたが、連れ合いをなくした女性が微笑さえ浮かべつつその思い出を語るのに驚いた外人の話がなかったでしょうか。彼はなぜこの女は泣かないのだろう、といぶかしげに思う。だが、その手元を見たときにはっと気づく。女は手にしたハンカチをぐしゃぐしゃに弄んでいた。女は手でかなしさを表現していた、という小品です。

 わたしはクリュイタンス盤を聴くたびにこの作品がイメージする「女の強さ」を感じてしまいます。
 ところが『エラート盤』やアレッド・ジョーンズ(ただしわたしの所有するのはウェールズ語盤ですが)などのボーイ・ソプラノ・バージョンでは、イメージががらりと変わっていることに気づきます。
 それはカタルシスとしての『涙』です。
 美しいものではありません。なぜならそこには悲しみがあるから。
 『慈悲深きイエズスよ、彼らの魂に安息を、彼らの魂に安息をお与えください』と、もはや人間の力ではどうにもならない諦念が、深く感じられるのです。

 レクィエムといえばモーツァルトが有名ですが、わたしはあの曲では弔ってほしくない。
 なんだかゆっくり安息できませんからね。
 『死者の続唱』(1970年廃止)も、ほんと神様が『こらぁ!』ってキレまくってて、イヤです。
 フォーレにはディエス・イレがない。

 そこに彼のやさしさがある。
 そしてボーイ・ソプラノで歌ってこそ、彼のいわんとした天国(あの世)像が明確になると思います。


    少年聖歌隊復活するか


 さて、知る人にはうれしくて、知らない人には???なニュースが飛び込んで参りました。
 ずっと以前、第二バチカン公会議後の典礼改革によって教会音楽から少年聖歌隊が衰退していったということを書かせていただいたのですが、この度聖座(ローマ教皇庁)と、聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ会(ブラジル、ピオ10世会)との間に完全相互陪餐関係が再開された、という知らせがありました。
 ピオ十世会は、スイスのルフェーブル大司教(故人)が聖座の許可なく三人の司教を叙階したことに端を発し、破門制裁を受けました。彼らは第二バチカン公会議後の新典礼様式を受容せず、いわゆるトレント・ミサ(ラテン語の従来のミサ)を守り続けていました。
 これまでもドイツやイタリアのイエズス会などが窓口となり、彼らとの対話を続けてきましたがここ数年は膠着状態が続いていました。
 今回の決定により、彼らのミサに合法的に参加することができるきっかけが生まれました。
 また同時に彼らもカトリック教会での典礼に参加することができるようになります。これが完全相互陪餐関係です(従来カトリック教会で完全相互陪餐関係にあったのはギリシャ正教会と一部の東方教会のみ)。
 いま彼らは東京と大阪でひっそりと従来のミサを行っていますが、日本の司教団が彼らとの交流を認めれば(それまでは依然彼らのミサに参加することはできません)、少年聖歌隊の復活もそう遠い話ではないかも。

 少年聖歌隊のグレゴリオで典礼を祝える日が一日も早くきますように!


                                          
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