村上 友一
 
 増山法恵は、音楽雑誌「ショパン」に連載していた“THE TREBLE”において、村上友一を「日本のトレブル」(トレブル:ボーイ・ソプラノのトップ・ソリスト)という名で世に紹介しました。また、その数年後自ら企画したCD「air」で、村上友一のボーイ・ソプラノを全国区のものにしました。その実力を高く評価した上でのことでありましょう。このCDは、レコード芸術1998年2月号にも紹介されました。日本のボーイ・ソプラノとしては異例なことです。私は、村上友一の人と音楽を、主として変声期前(8歳から11歳まで)の歌唱テープ、CD、ビデオ、本人と母の談話などをもとにして述べ、日本のボーイ・ソプラノ史上における位置づけをしようと試みます。

  (1) 成長を追って

 昭和54年(1979年)小樽生まれの村上友一は、母の童謡を聴いて育ちました。「赤い靴」のような悲しい歌に、よく反応する乳児だったといいます。幼いとき、何に反応するかは、将来の方向を示唆してくれることがあります。そして、既に1歳8か月頃から歌を口ずさみ、幼稚園時代は、アニメ・ソングを正しい音程で歌っていたということです。音楽を学ぶ上で耳のよいことは大切な要因です。小樽市立花園小学校に入学して、1、2年の担任だった塩谷三枝子に、歌の資質を発見され、また、歌う喜びを教えられます。2年生のときにたまたま応募した「全国童謡歌唱コンクール」に北海道ブロックでグランプリを獲得。北海道代表として全国大会に出場し「手のひらを太陽に」を歌いました。私は、この番組は見ていませんが、ほぼ同時期に歌われたこの歌と「きよしこの夜」のテープを聴く機会を得ました。確かに、よく伸びる可愛い声の歌ではありますが、この歌からは、まだ後年にみられる抒情性までは感じられません。歌心は、素質的なものに加えて、人の喜び・悲しみを感じる豊かな心が育っていくかどうかによって決定されます。村上友一の歌心は、最初に師事した吉川順子との出会いで大きく開花します。吉川順子は、オーストリア国立ウィーン音楽大学に学んだ、リリック・ソプラノの声楽家です。吉川順子の気品ある歌唱芸術は、技術的なもの以上に大きな精神的感化を与えたと考えられます。吉川順子にとって、このような年少の弟子を採ったのは初めてであり、最初はどのように指導すべきか惑ったそうです。私は、レッスン風景のテープを聞いて、この師の話す言葉の美しさと、夢のある温かい指導ぶりに心を惹かれました。さて、翌年も2年連続して北海道代表で「全国童謡歌唱コンクール」全国大会に出場し、「小さい秋みつけた」を歌いますが、すでにこの頃から、抒情性の芽生えがみられます。その後数々のコンクールでの上位入賞しましたが、4年生の秋に、第1回毎日声楽コンクールに出場し、グノーの「アヴェ・マリア」を歌って出場最年少で銀賞を獲得したのは、特筆できましょう。この歌への関心は、同じ歌を歌うアレッド・ジョーンズのCDとの出会いの影響が大きいと考えられます。僕もこのように歌いたいという美しいものに対する憧れは、声や歌い方をまねることを越えて、人の心を高めてくれます。
  ボーイ・ソプラノがいつかは消え去る運命にあることを知っている両親は、この頃歌声を残すことを計画し、それは、CDの自主制作へと進みました。こうして、10歳の1月(4年生)に、1枚目の童謡を中心とする24曲入りのアルバムが生まれました。選曲は、母によってなされたようですが、声質と歌心の特長を生かしたよい選曲です。そして、それぞれの曲に求められているものの違いをよくつかんだ歌唱がみられます。しかし、まだこの時点では、歌によっては、抒情性を感じるものの、声の可愛らしさが心に残ります。その後、5年生に進級してからは、おそらく日本の少年としては初のボーイ・ソプラノのリサイタルも開いています。
  さて、人の成長は決して直線的なものではありません。それは、伸長、停滞あるいは退化の繰り返しです。どの分野においても、優れたものを後世に残した人の成長過程をみると、ある時期に突然、飛躍的に伸びている時期が必ずみられるものです。村上友一の歌唱についてもそのことが言えましょう。それは、4年生の後半から5年生の前半という極めて短い期間にみられます。
  1枚目のCD録音の半年後の7月(5年生)には、宗教曲とイタリア古典歌曲による2枚目のCD(6曲入りミニアルバム)が録音されました。この半年間の音楽的成長は著しく、例えば、同じグノーの「アヴェ・マリア」を聴くと、その声の伸びだけでなく、祈り心の深さにおいて一層の深まりがみられます。さらに、この時同時に録音されたが、CDに収められなかった唱歌や日本歌曲は、リリシズムの極ともいえる名唱です。また、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」のケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしら」に至っては、男が感じてしまってよいのだろうかと思わせるような、官能的な少年の色気さえ感じさせます。もうこの時点では、半年前にみられた声の可愛らしさはあまり感じられず、むしろ少年だけにしか出せない声の美しさを感じます。この間、何らかの内面的成長があったと推測されます。
 変声期は、予想以上に早く訪れました、秋の第2回毎日声楽コンクールを前にして。だが、それをおして出場したコンクールでは、「オンブラ・マイ・フ」を歌って、ついに金賞を獲得。それは、ボーイ・ソプラノとの別れの記念碑ともなりました。しかし、2枚目のCDの作成時が変声期直前の最もボーイ・ソプラノの美しい時期であったことを考えると、この時期にCDが残せたことをむしろ、幸運と考えるべきかもしれません。村上友一のボーイ・ソプラノの期間は、決して長くなかったが、それだけに、凝縮した美しさを感じることができます。
 村上友一にとっても、急に身長が伸びてきたりしたので、ある程度心の準備はできていたでしょうが、ボーイ・ソプラノが美しかった分だけ変声期の訪れは辛かったことでしょう。せめて、小学生の間だけでもボーイ・ソプラノの声を保てたらと願うのは、私一人だけではないでしょう。だが、これもまた、天意と言うべきかもしれません。しかも、本人は、唯のひとことも辛さを周囲に訴えることがなかったといいます。これは、気丈だからできるというものではありません。あの繊細な歌心を持った少年は、変声期という事実を自分の中で解決すべき問題としてとらえ、周囲の人々を悲しませないためにも、この時期を耐え抜いたのです。このけなげな心は、必ず人の喜び・悲しみをより深く感じとる歌心として内面に貯えられることでしょう。変声期は、ボーイ・ソプラノの声を奪っても、美しい歌心まで奪ったりはしないのです。
 作家の神渡良平は、物事の受け止め方について、次のように言っています。
「すべてを甘んじて受け入れることである。起きたことは、どんなことであれ、それは私にとって必要で、必然で、良いことだったのだ、とまず受け入れるのだ。そして、それらによって得たことを参考に、より良い将来のあり方を考える。感謝して受け入れる人には、差し障りになることはない。人生に棄物はないし、人生に遅すぎることもないのである。」

   (2) 歌唱の特質

 前述したように、年齢とともに声も歌も成長し、歌唱は変化していくものです。そこで、ここでは、村上友一がボーイ・ソプラノ時代に残した2枚のCDと、それと同時に録音した歌のテープ計44曲をもとにして、その歌唱の特質について述べてみましょう。
  村上友一の歌唱は、従来の童謡の発声や、元気よさがとりえの日本的ボーイ・ソプラノを聴き慣れた耳からすれば、かなり異質に聞こえるかもしれません。むしろ、ヨーロッパ的な歌声です。それは、師事した吉川順子の指導によるところでもあり、アレッド・ジョーンズのように歌いたいと憧れて歌ったことも挙げられますが、北海道という風土のもたらす面もあるということもできましょう。北海道の気候・風土は、本州以南より むしろ、大陸的でヨーロッパのそれに近いと言えます。私は、その歌のCDを初めて聞いたとき、札幌出身の声楽家、テノールの奥田良三と共通するものを感じましたが、これも、その風土の影響かもしれません。似ているボーイ・ソプラノを挙げるならば、前述した林牧人が近いと言えましょう。
  ここで、あえて前述したようなヨーロッパの少年の名前を挙げなかったのには、訳があります。村上友一の歌唱は、宗教曲やイタリア古典歌曲については、ヨーロッパの正統的なボーイ・ソプラノの歌い方をしながらも、日本の抒情歌の系譜にある「雪の降る町を」「ゆりかご」「夏の思い出」等において、一段と輝きを見せるからです。つまり、ヨーロッパの伝統的な香りと、日本の抒情的美しさの融合した歌唱が、その特質だからです。童謡でも「花かげ」「叱られて」「サラサラ小雪」「小さい秋みつけた」等は、抒情的な気品のある歌唱で、そこには、従来の子どもの童謡の歌唱によくある作られた可愛らしさは感じられず、むしろ歌曲に近い味わいがあります。このような傾向は「冬の夜」「ふるさと」「冬景色」等の唱歌になると、一層顕著です。
  しかも、そのような傾向の歌しか歌えないのではなく、童謡でも、楠トシエが創唱したようなコミカルな歌「だれもしらない」「わらいかわせみに話すなよ」には、お茶目さやユーモアのセンスをみせます。なかなかこの2つの系統の歌を両立させることは少年には難しいものでありましょう。従来、多くの少年歌手たちが、どんな歌を歌っても同じパターンに陥り、飽きられていったという事実を知っているからす。歌は心の現れです。心にないものは決して歌に出てこないし、無理をして出そうとすると、嘘っぽさを聴く人に感じさせてしまいます。もし、「花かげ」のような歌しか歌えない少年がいたとしたら、私は、その歌はともかく、むしろその傷つきやすいガラス細工のような少年の精神生活を心配します。しかし、歌っていないときの村上友一は、ファミコンと漫画が大好きという、普段はやんちゃな面も持ち併せた少年で、コミカルでお茶目な歌の心が、生活の中にあったことをうかがわせてくれます。レッスンのテープに残されているしゃべり方を聞くと、むしろ、その歌よりも年少で可愛らしく聞こえます。
 また、「サラサラ小雪」「お月さまと坊や」「きちきちばった」のような動物が登場する童謡に輝きがみられるのは、生き物の生命を慈しむ心の現れとも言えるでしょう。私は、夏の日差しの厳しい道に転がっていた余命いくばくもない蝉を、わざわざ露に濡れた草むらの中に持っていってあげる村上友一の姿を見て、強くそのことを感じました。この慈しみの心は、自他の生命を一体としてとらえるものであり、宗教心につながるものとも言えましょう。

     (3) 未来予想図

  人が生きていく上での喜び、悲しみ、あるいは、孤独といった複雑な感情を理解することは、一朝一夕にできることではありません。ある年齢に達しないと理解し得ないことがあります。どんなに優れた頭をもつ10歳の少年でも、20歳の青年の悩みを理解することは不可能です。歌においても、歌詞の意味を深く理解していないと、それを適切に表現できません。そこには、その人間の成長が大きく係わってきます。体験の有無というものも大きく働いてきます。かつてテレビ放映されていた「家族そろって歌合戦」という、のど自慢番組の審査員をしていた作曲家の高木東六は、ペキー・葉山の「学生時代」を美しいボーイ・ソプラノで歌った中学1年生の少年に対して、もう何年かして、いろいろな体験をしてからこの歌を歌ったら、もっと味わいのある歌になるという批評をしていたことを覚えています。確かにその通りでしょう。だが、歌の作者と全く同じ体験がなければその歌が歌えないというものではありますまい。その歌の心をよく察することさえできれば、よい歌が歌えるのではないでしょうか。「察する」ことこそ大切です。
 さて、季節は、ある日突然変わるものではありません。例えば、冬から春への変化を見ても、すでに冬の中に、草木の芽が膨らみ、水がぬるむといった春のきざしが見え、それが徐々に広がっていくものでありましょう。
 幼少時の歌がその人の将来の歌を暗示させるようなものがあります。例えば、美空ひばりの「悲しき口笛」や「東京キッド」などの歌を古い映画のビデオで聴くとそのようなことを感じます。村上友一の場合、将来を暗示させるような歌が2つあります。1つは、「雪の降る町を」であり、もう1つは、「恋とはどんなものかしら」です。
  「雪の降る町を」を初めて聴いたとき、正直言って驚きました。この少年は、小学校4年生にして、人間が誰でも持っている、自分の力ではどうにもならない悲しみや孤独をもう知っているのではないだろうかと思いました。それは、青年期になって初めて感じることが多いものです。このような鋭敏な感受性は、確実に将来につながり、生涯を貫くことでしょう。
  ボーイ・ソプラノとして最後の歌の一つが、「恋とはどんなものかしら」になったということは、極めて暗示的です。この歌は、ただ可愛らしい歌を歌うだけではもの足りません。思春期の扉の前に立った妙齢の少年の秘めやかな気持ちを表さねばならない歌です。それにしても、この可憐にして熱っぽい陰影のある歌いっぷりはどうでしょう。これは、今まで聴き慣れてきた艶やかな女声で歌われたケルビーノとは、また違った魅力を持っています。これは、少年の歌の中にみられる大人の歌へのきざしととらえることもできましょう。そして、声は変わっても、さらに発展していくものと考えられます。もちろん、幼いときから持っているもの、そして今後学ぶことによって身につけていくもの、それらは合流して独自の世界を築いていくでありましょう。
  幸い、村上友一は、変声期によって歌う喜びを失うことはありませんでした。その持ち味である美しい抒情的世界を表現するにふさわしい新しい声を獲得しました。変声後長内勲という優れた声楽の師に師事することもでき、14歳(中2)の1月にはAOCCコンクール・声楽の部に復帰して入賞し、男声としてのスタートを飾ることができました。また、音楽に対する関心も、これまで好きだったジャンルだけでなく、ニュー・ミュージック等にも広がってきています。チェッカーズ(藤井フミヤ)の「星屑のステージ」や飛鳥の「はじまりはいつも雨」の歌唱など、まさに「雪の降る町を」やケルビーノの歌の延長線上にあると言えましょう。職業として歌を選択することはありませんでしたが、自分の特質を知り、歌を自分の中に位置づけて歌い続けることが今後の課題となってきます。好みは変化するものですから、何のジャンルでもよいではないでしょうか。
  変声が始まった頃、村上友一は、CDの発売が話題となって、HTBテレビの朝の番組「気分は天気730」に取り上げられたことがあります。その時のインタビューに対して、まだ可愛らしさの残る声としゃべり口で次のように答えてます。
・・・将来、お医者様になって、苦しんでいる人に歌を歌って、その心を癒してあげたい。なれたらだよ・・・
この少年の日の清らかな夢は、たとえお医者様にならなくとも、ぜひ持ち続けて欲しいものです。世には、苦悩を抱えながら生きている人がたくさんおり、いつも心の安らぎを求めています。このような人は、社会が複雑になるにつれて増えこそすれ、決して減りはしません。それならば、「心の医師」の仕事は、今後ますます重要になってきます。たとえどのような職業についても、「心の医師」になることは可能です。美しい歌で、やさしい言葉で、温かいまなざしで、愛の行動で、苦しんでいる人の心を癒すことができます。だから、村上友一は、「心の医師」として生き抜いて欲しいと、私は期待を込めて、そのような未来予想図を描いています。


CD「ボーイソプラノ/天使の歌声」 村上友一に寄せて

   ボーイソプラノを「天使の歌声」と呼ぶようになったのは、それが教会音楽の中で発展してきたことと関係深い。ボーイソプラノと呼ばれる変声前の少年の声は、神が人間に与えたもっとも純粋で美しいものと言っても過言ではない。その響きは、訓練するにつれて純度を高めていき、聖なるものを表現するのにふさわしい。しかし、ヨーロッパと違ってキリスト教の伝統・文化の薄い日本においては、聖歌隊らしいものは明治以後もほとんどなく、少年合唱も同じような発展をしていない。昭和三十年代になって、ウィーン少年合唱団の来日をきっかけとして、少年合唱や、児童発声の研究が盛んとなり、各地に少年合唱団が生まれた。しかし、数年を経ないうちに少年少女合唱団になっていたり、解散していくことが多かったのである。この理由としては、次の三つが挙げられよう。第一には、外で遊びたい盛り、いわゆる腕白時代の少年に長期間にわたる歌唱訓練が好まれないことが挙げられる。第二には、ボーイソプラノを「女みたいな声」だと言ってからかうような風潮がまだ残っているということが挙げられる。同世代の少年に認められるかどうかということは、この年齢層の少年にとっては、重大なことである。小学校においても、コーラス部に男子部員が集まりにくい理由の一つがそこにある。第三には、最近の少年の変声期が非常に早くなったため、実質的に歌える期間が、短くなってきたということも挙げられよう。声は、訓練によって鍛えられても、音楽性は人格の発達と密接な関係をもち、急には高められない。いわゆる「歌心」は、その少年が持つ素質的なものに加えて、人の喜びや悲しみを感じる心が育っているかどうかによって違ってくる。美しいものを美しいと感じる心のない少年に、声の力だけで、人の心を動かすような歌を歌うことはできないのである。そのようにこともあって、日本のボーイソプラノの歴史は浅く、童謡、唱歌、テレビ・ラジオのテーマソングを中心として発展してきた。従って、日本の少年のボーイソプラノと言えば、元気のよい凛々しさか、甘みのある可愛らしさか、あるいは青竹のような素直さがその特徴であった。また、それらに魅力が存在するいうのも事実である。
  その中でも、子どものための歌である童謡の歌唱については、可愛らしさや元気良さがあまりにも強調され過ぎたのではなかろうか。そのため、かえって不自然なものを感じることも少なくなかった。そのようなこともあって、私は、ボーイソプラノという声質は好きであっても、童謡がそれほど好きとは言い難かったのである。むしろ、爽やかで凛々しい声で歌われる唱歌や、歌曲のほうに魅力を感じていた。ところが、そのような私の認識を変える少年が現れた。村上友一(ともかず)君がその人である。その出会いについては省略するが、村上友一君の歌唱こそ、ヨーロッパの伝統的な香りと、日本的な美しさの融合した歌唱ではなかろうかと感じた。そこには、声の美しさや、表現力を越えた精神的な高さや品格を感じることができる。また、それだけでなく、子どもらしいお茶目さやユーモアも持ち合わせている。つまり、私の考えるボーイソプラノの魅力のすべてを持ち合わせた歌唱を聞くことができるのである。
  村上友一君のプロフィールを見ると、一才八ケ月頃から歌を口ずさみ、幼稚園時代は、アニメソングを正しい音程で歌っていたということである。耳のよいことは、音楽を学ぶ上で大切な要因である。テルツ少年合唱団では、団員の募集において、一に頭、二に耳、三に声という基準を設けているようである。声が三番目とは意外であったが、声は訓練によって変えられるが、活動が忙しくなると、授業についていくことが大変であるということである。だが、私は、頭の良さはそれだけでなく、曲を理解する力として捉えている。とかく、自分の美声に自信をもった少年は、その声をより美しく響かせることに夢中となり、悲しい別れの歌も、コミカルな歌も、また恋の歌も、同じ調子で歌ってしまい、感動を薄れさせてしまうからである。友一君は、小学校一・二年生の担任であった塩谷先生にその資質を発見されるが、それは、吉川順子先生との出会いで大きく開花する。吉川先生の気品ある歌唱芸術は、友一君に技術的なもの以上の精神的感化を与えたのである。さらに、百年に一人といわれたイギリスのボーイソプラノ、アレッド・ジョーンズの歌との出会いも、友一君の歌心に大きな影響を与えている。憧れは人の心を高めるのである。
 ここに村上友一君の二枚のCDがある。二十四曲入りのCDは、十才(小学四年生)の一月の歌唱であり、六曲入りの見にアルバムは、十一才(小学五年生)の7月の歌唱である。この半年の間の音楽的成長は著しく、例えば同じグノーのアヴェ・マリアを聴くと、その声の伸びだけでなく、祈りの心の深さにおいて一層の深まりがみられる。友一君は、二枚目のCD録音後変声期に入った。ボーイソプラノは、変声期の直前が最もよく響き、美しいと言われている。まさに、燃え尽きる前のろうそくの輝きにも似て。ボーイソプラノが、消え去る運命にあるものならば、村上友一君の貴重な記録として、このCDを残したということは大きな意義があると思われるのである。村上友一君のボーイソプラノの期間は決して長くなかったが、それだけ凝縮された美しさを感じることができる。 


    CD「ボーイソプラノ 天使の歌声」曲目解説

    1、アヴェ・マリア
  バッハが、1722年、「平均律クラヴィーア曲集」48曲の第1曲として作曲したハ長調前奏曲をもとにして、グノーが150年後、歌唱部分の旋律を作曲して加えたものである。バッハの曲による伴奏部と、ラテン語祈祷文との美しい調和によって、敬虔な祈りの歌になっている名曲である。友一君の清澄な祈り心は天に通じるように響く。
    2、野ばら
  ドイツの文豪ゲーテの詩に、18才のシューベルトが作曲した。これは、清純な野ばらに寄せて歌った恋の歌である。研究者によると、この詩には88の曲が付けられているとのことである。シューベルト作曲のものは、演奏会用として使われることが多い。友一君は、近藤朔風訳の日本語とドイツ語で一番ずつ歌っている。
    3、七つの子
  野口雨情の詩の「七つ」とは、「七羽の子か、七才になった子か」という論争を起こしたという。しかし、この曲の中に描かれた親の子供に対する細やかな愛情は変わることはない。志村けんのふざけた替え歌も、いつか消えていった。
    4、里の秋
  戦争中「星月夜」という題で作られていた曲だが、終戦となり、復員が始まると、復員兵を歓迎する歌として、作詞者斎藤信夫の手により三番が改作され、曲名も、現在のものとなった。友一君が、吉川先生から最初にレッスンを受けた思い出深い曲である。出征した父の無事を祈る子供の想いが切々と歌われている。
    5、夕焼小焼
 作詞者中村雨紅が郷里の東京都恩方村へ変える途中浮かんだ詩は、何と四年間も下宿のこうりの中で眠っていたという。作曲者の草川信は、自分の故郷長野市の善光寺の夕焼けをイメージして作曲した。「暗くならないうちにお帰り。」という母の声が聞こえてきそうな曲である。日本で一番歌碑が多いのはこの曲ではなかろうかと言われている。
  6、花かげ
  大村主計が少年時代を回想して作った曲である。姉の嫁入りの華やかさよりも別れの淋しさが心に残る曲である。作詞者は、この時初めてお月様も孤独であると感じたのであろう。心優しい大村少年の心は、友一君の気品のある叙情的な歌によって現代に甦った。この曲は、日本舞踊の伴奏曲として使われていたようである。          
  7、よんちょうめのいぬ
  野口雨情の詩は、一、二、四、三という数字の並び方に変化があって面白い。本居長世の童謡作品第一号としても知られている。この歌に出てくる地形は、東京の本郷ではないかという説がある。友一君は、犬に追われる子どもの不安な心をよく表している。
  8、ふるさと
  作詞者の高野辰之は、故郷奥信濃の自然情景を生き生きと歌っている。しかし、この歌を聴く者・歌う者は、それぞれ自分の故郷と重ね合わせているのだろう。また、都会生まれで、都会育ちの者にとっては、郷愁を感じさせる曲である。「志を果たして」という言葉に励まされて、頑張った人も多いことであろう。友一君野歌には、少年らしい高い理想を感じることができる。
  9、花嫁人形
  叙情画家蕗谷紅児の作詞と杉山長谷夫の作曲によるこの作品は、大正ロマンの時代風潮にマッチしてヒットした。紅児は、二重まぶたに長いまつげの大きな瞳、小さい口、すらっとしたからだつきの美人を描く画家であった。結婚式は、一世一代の晴れの場なのに、花嫁は、育ててくれた両親のもとを去っていく淋しさに涙するのであろう。
  10、りんごのひとりごと
  武内俊子が入院中に、レコード会社のディレクターが枕もとにあった彼女のノートにメモしてあったこの詩を見つけたという。青森県でりんごの大増産ができるようになった昭和14年は、都会の子どもたちにとっても甘いお貸しが食べられなくなってきた時代である。りんごは、当時の子どもたちにとって最高のおやつであったことだろう。
  11、お猿のかごや
  山上武夫と海沼実は同郷で、当時(昭和13年)ともにヒット曲もなく、自分たち二人を戯化した作品だということである。ヒットしたのは戦後になってからである。「ちらちら明かりは見えるけど、向こうのお山はまだ遠い」という一節は、二人の心境かもしれない。友一君は、コミカルで元気な歌の中にあるこの不安な心を見逃していない。
  12、赤とんぼ
  三木露風が幼い日に子守娘の背中で見た赤とんぼの思い出を歌った歌である。露風の生まれた兵庫県龍野市は、夕焼けが美しいことで有名な城下町であり、昭和59年「童謡の里」を宣言した。このような歌では、友一君のやさしくしっとりした叙情的な歌心がよく生かされている。
  13、叱られて
  たまらなく淋しいエレジーである。明るい夜しか知らない都会の人には、想像しにくいが、この曲ができた大正9年には、このようなところは日本中どこにでもみられた。弘田龍太郎は、民謡調のゆったりしたテンポでこの曲を書いている。友一君は、この曲をゆったりと歌いあげ、しみじみとした味わいを出している。
  14、荒城の月
  日本を代表する歌曲である。作詞者の土井晩翠は、晩年を青葉城のある仙台で暮らした。滝廉太郎は、故郷大分県の武田城跡を思って作曲したのだろうか。明治34年「中学唱歌」に、「箱根八里」とともに採用された。友一君の声質は、文語調の詩によく似合い、この曲に求められている朗々とした風格さえ感じさせる。
  15、サラサラ小雪
  この曲の作詞者・作曲者についてはよく知らない。しかし、この曲こそ、友一君の持ち味を最大限に生かした曲ではなかろうか。雪から生まれたうさぎに、母さん捜しに跳んで行け、と呼びかける作詞者の心は、即、友一君の心であろう。生き物すべてにやさしい友一君の人柄がにじみ出た名唱である。
  16、帯広地方の子もりうた
  北海道らしい大らかさを感じさせる子守歌である。1番の伝承の歌詞に、作詞・作曲者の木村雅信が2番を付け加え、大きな盛り上がりを作っている。だんだん夢の世界へと誘われていく雰囲気がよく出ている。最後の「おーい」という呼びかけは、だれに呼びかけているのか想像しても楽しいだろう。
  17、お月さんと坊や
  童心を持ち続けていないとこの歌は作れないし、歌えない。サトウ・ハチローは、佐藤紅緑の子、やんちゃな心の中にもやさしさを一生持ち続けた人である。北海道が生んだ声楽家奥田良三とは親友である。「わんわんちゃん」「うさちゃん」と歌っても決して幼稚に聞こえず、可愛らしさが伝わってくるところに友一君のよさがみられる。
  18、わらいかわせみに話すなよ
  この曲と最初に出会ったのは、NHKの「みんなのうた」で楠トシエが歌っていたときである。前半のないしょ話の部分と後半の突然笑い出す部分を友一君は、歌い分けている。しかも、その笑いは、だんだんエスカレートしている。友一君の中にあるユーモアのセンスが感じられる楽しい歌唱である。
  19、ねむたくなっちゃった
  子どもなら誰にでもある(大人にもある)体験。それを歌った歌で、聴いている者にけだるさが伝わるようならよい演奏と言えよう。「あ あ・・・ア」をいかに表現するかが、この曲のミソである。中田喜直の曲は、いろいろな表情をもっているし、それに対して、友一君はよく応えている。
  20、夏です
  夏の風物詩といわれるものが並んでいる。それが不思議なほど暑苦しさを感じさせずむしろ、夏だからこそ、こんな物が見られる、こんな音が聞こえる、こんなことができると、爽やかさと期待感をもって受け止めている詩である。友一君は、きっと、夏を肯定的に受け止めることができる少年であろう。夏だけでなく、冬も、春も、秋も。
  21、だれもしらない
  これも、「わらいかわせみに話すなよ」と同じように、「みんなのうた」で楠トシエによって歌われていた。作詞者の谷川俊太郎は、言葉遊び歌を得意とする詩人であるが、ここでもその本領が発揮されている。友一君は、この曲の中にある面白さをよく引き出している。また、含み笑いをしながら歌っているようにも聞こえる。
  22、きちきちばった
  きちきちばったの持っている活力と、いたずら坊主の活力のぶつかりあいが、この歌の魅力を生み出している。いじわる坊主を自称している少年は、本当は、やさしい少年なのである。何故なら、きちきちばったの生命の輝きを見落としていないからである。友一君は、この生命の輝きをよく伝えている。
  23、小さい秋見つけた
  秋の訪れを告げる曲で、友一君が、「全国童謡歌唱コンクール」で胸を紅葉した木の葉で飾って歌った思い出深い曲である。この中に「だれかさんが」と「小さい秋」が、三回ずつ繰り返されるが、友一君は、一回ずつ違う歌い方をして、もの想う秋という感を深めている。最後の高い音を伸ばす部分は、ボーイソプラノの魅力そのものである。
  24、雪のふるまちを
  NHKラジオ「えり子とともに」の挿入歌として昭和27年に放送され広まった。山形県鶴岡市がこの歌のモデルであるという。友一君はすべての人が持っている自分の力ではどうにもできない哀しみや孤独を知っているのだろうか。この心に迫る歌を聴くとどうしてもそんなことを考えてしまう。

         6曲入りミニアルバム曲目解説

  1、アヴェ・マリア
  24曲入りCDに同じ曲があり、友一君の半年間の音楽的成長の著しさを知るのによい一曲である。
  2、おおホーリーナイト
  フランスの作曲家アダンの作で、日本では、賛美歌「さやかに星はきらめき」として知られている。主イエスの誕生を祝い、その教えが広まることを念じて歌われている。この曲における友一君の高温はとりわけ美しく、「たたえよ」の部分に聴かれる最高音は、まさに天に届くようである。
  3、神のみ子は
  たいへん古い曲で、10世紀頃フランスの僧侶によって作られたと言われている。原題はラテン語で、「来たれ神へ、忠実なる者よ」という。クリスマスソングの代表の一つである。このような聖なる曲こそ、清らかなボーイソプラノで歌われることが望ましい。友一君は、特に「きみの君」を大切に歌っている。
  4、すみれ
  イタリア古典歌曲集にあるスカルラッティの作品である。優美さにおいて優れた曲であり、この演奏には、器楽的な表現と声楽的な柔らかさの両面が求められる。中間部のfra le foglie の部分の歌唱には驚かされた。
  5、アマリリ麗し
  これもまたイタリア古典歌曲集の中にある曲である。作曲者はカッチーニで恋人アマリリへの愛の言葉が調を変えて綿々と述べられている。曲の最後の部分の装飾的なところが聴かせどころでもある。また、この部分はベル・カント唱法らしさが顕著に見られるところでもある。
  6、オンブラ・マイ・フ
  日本語に訳せば、「なつかしい木陰」となる。ヘンデルのオペラ「セルセ(クセルクセス)」第一幕で歌われるアリアで、カルーソーの名唱以来多くの歌手によって歌われている。この曲は、最近では、キャスリン・バトルの出演したテレビコマーシャルで有名になった。また、紅白歌合戦で、佐藤しのぶによっても歌われ身近なものになってきた。友一君は、この曲の歌唱によって、第2回毎日学生声楽コンクールで金賞を受賞している。ここでは全身全霊を傾けて歌ったあとがうかがえる。これは、絶唱である。

(参考文献)

1 母と子の歌100選 長田暁二著 (時事通信社 1989)
2 童謡・唱歌の本 横山太郎編著 (自由現代社 1991)
3 世界音楽全集(イタリア歌曲集U)堀内敬三編 (音楽の友社 1957)
4 世界歌曲集 川端康成・増沢健美編 (角川書店 1962)
5 日本歌謡集 時雨音羽編著 (社会思想社 1963)
6 音楽雑誌「ショパン9月号」より「ザ・トレブル」増山法恵著の部分(東京音楽社1991,9)
7 CD「ザ・ベスト・オブ・アレッド・ジョーンズ」解説書より黒田恭一著の部分(ビクター 1988)
8 CD「きよしこの夜・テルツ少年合唱団」解説書より採沢みち著の部分(クラウン 1988)

村 上 友 一   −ボーイソプラノの想い出に

  「神様のいたずら」  ヨーロッパでは、ボーイソプラノのことをこう呼ぶそうである。神様がある少年に美しい声を与えておいて、ある時がきたら、否応無しにそれを取り上げてしまうところからきた言葉である。何と美しくも悲しい響きをもった言葉であろうか。この運命から逃れることのできる少年はいない。かつて、ヨーロッパで盛んに行われていたカストラートのような非人間的なことがなくなった以上は。それゆえに、ボーイソプラノとの訣別は、とりわけ美しい声を持った少年にとって、悲しみや辛さを伴う大きな試練であろう。そのために、一時的には歌う喜びすら見失ってしまうこともあろう。童話作家のアンデルセンもその一人である。このことについては、ウィーン少年合唱団を舞台にしたディズニー映画の「青きドナウ」の中におけるピーター少年の心と行動を見ればおよそ察しがつく。変声期が近づき、アルトにまわされたピーター少年は、新入生でソプラノのトニー少年にいろいろ意地悪をするのである。いよいよ声が出なくなったとき、のぼり棒にしがみつきながら、自分の悩みをぶつけていくピーター少年の気持ちが痛いほどよく伝わってきたことを、私は覚えている。しかし、蝶々がさなぎの時期を越して美しい成虫になるように、変声期という冬の時期をじっと耐え、自分の心を磨いた少年だけが大きくはばたくのである。そんなことが可能ならば、その少年の一生にとって、ボーイソプラノは美しき想い出であると同時に、人生のプロローグとさえなろう。
  村上友一君にとっても、変声期は、辛い時期であったに違いない。その訪れが早かっただけに、悩みもまた大きかったかもしれない。しかし、友一君は、ただの一言も辛さを周囲に訴えることがなかったという。変声という事実を自分の中で解決すべき問題として捉えた友一君は、周囲の人々を悲しませないためにも、この時期をけなげに耐えぬいた。最もよく耐えることのできる人間は、最も自分の内面を深く耕すことのできる人間である。たとえ、ボーイソプラノの声を失ったとしても、人間としては、何も失ったものなどないのである。むしろこの間に、人の喜びや悲しみについて、一層考えを深めたに違いない。それらは、やがて大人となって歌うとき、生きてくるであろう。私は、友一君が、ボーイソプラノやボーイアルトからテノールに変声して大成したホセ・カレラスやペーター・シュライアーのように再び雄飛することを願ってやまない。
  友一君は、ボーイソプラノの時期に二枚のCDを残しているが、実は、CD録音のときにさらに十数曲の歌を残している。とりわけ、二枚目の録音のときに残した歌は、変声期に入る直前のものであり、最も美しい歌唱を聴くことができる。CD化されたものは、宗教曲や、イタリア古典歌曲であり、これらは、ヨーロッパの香りを持った友一君の持ち味を最も生かしたものである。しかし、友一君の歌唱のもう一つの特徴である日本的な叙情の世界は、CD化されていない未発表の唱歌や日本歌曲の中に見事に結実している。「冬の夜」「ゆりかご」「中国地方の子守歌」では親子のきめ細やかな情愛が、「冬景色」や「夏の思い出」では、今まさに失われようとしている日本の美しい自然が歌われている。また、「村の鍛冶屋」や「村祭り」のような賑やかで威勢のよい曲も、ただ元気なだけでなく、仕事や神々への感謝の心が込められている。それらが、驚異的ともいえる高音域で歌われているのである。「冬景色」などは、声が高くなるにつれて、透明度が増す曲である。現在小学校五年生の教科書に載せられている高さでは、どうしても透明度が低くなってしまう。友一君は、何と、教科書よりも五度高い音程で歌っている。
  「もみの木」や、「天には栄え」といった聖なる曲では、心に曇りがあると、それが歌にすぐに反映してしまう。しかし、友一君は、どのような歌でも、その歌の世界に吸い込まれるように歌っている。そして、その曲に求められている美しい世界を再現することができる。友一君の歌唱は、特に子音の発声が美しい。また、ブレスが長く、声量も豊かである。しかし、このような声の美しさだけを聴いていると、歌心というその本質を見失ってしまう。友一君の歌唱は、ただ美しい声が鳴り響いているだけのものではなく、豊かな内面生活から生まれたものであることがうかがえる。音楽は心の現れである。とりわけ、声楽は身体が楽器であるので、歌い手のその時の心の状態を正直に反映する。ごまかすことは不可能であると言ってもよかろう。少年の音楽ならなおさらである。
  さて、友一君のボーイソプラノとしての最後の歌の一つが、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」からケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしら」になったということは、極めて暗示的である。この歌は、ただ可愛い歌を歌うだけでは物足りない。思春期の扉の前に立った妙齢の少年の秘めやかな気持ちを表さねばならない。それにしても、この可憐にして熱っぽい陰影のある歌はどうだ。この上品な色気は、今まで聴き慣れてきた艶やかな女声で歌われたケルビーノとはまた違った魅力を持っている。この歌が、今後どう発展していくのか。私は、期待をもって友一君の成長を見守っている。

                 曲 目 解 説

 1、みかんの花咲く丘
 昭和21年NHKラジオ放送で、東京と静岡県伊東市とを結ぶ二元中継の番組「空の劇場」で、番組にふさわしい童謡をという要請で、放送前々日に詩が、前日に曲が作られたという。作詞者の加藤省吾は、伊東市にふさわしいものとしてみかんを想起し、作曲者の海沼実は、ヴェルディの「椿姫」の一節をヒントにして作曲したという。
  2、ペチカ
 ペチカとは、ロシア式暖炉のことである。北原白秋が満州を旅行したときの作品で、作曲は山田耕筰による五連からなる有節歌曲ある。このような有節歌曲は、一節ごとに異なった歌い方ができるかどうかによって生きもし、死にもする。その点は、同時期に作曲された「待ちぼうけ」などと同じである。友一君は、これを歌い分けている。
 3、かやの木山
 これも、北原白秋と山田耕筰のコンビによる作品で、大正11年に発表された。冬の夜のいろりばたで、子供を寝かしつける子守歌であるが、日本的な情景が瞼に浮かんでくる詩情あふれた名歌曲である。友一君は、10才(小学4年)の春、北海道放送主催のSTV青少年声楽コンクールでこの曲を歌い、STV賞を受賞している。
 4、月の沙漠
 加藤まさをが、千葉県御宿で見た幻をヒントにして作詩した。王子と王女は夫婦、らくだは人生、二つのくらは職業、二つのかめは財産、というふうに置き替えてこの詩を読み直すと作詞者の心がよく分かるという説をたてたのは、長田暁二である。「砂漠」ではなく「沙漠」としたところにも作詞者の意図が感じられる。
  (この4曲は、小学4年生の1月に録音されましたが、CD化されませんでした。)
 5、冬の夜
 明治45年「尋常小学唱歌(3)」に載せられている唱歌であるが、友一君のようにこの歌を情感こめて歌うと、芸術歌曲の域にまで達する曲である。いろり火のそばで働く父母の話に心をときめかせる子供たちの様子が歌われている。決して豊かな家庭ではないが、そこには、親子の心の通い合う固い絆が感じられる。
 6、村の鍛冶屋
 大正元年「尋常唱歌(4)」による唱歌であるが、何度かの改訂により、現在の歌詞になっている。勤労の辛さや喜びよりも、勤労を奨励した歌である。今では、鍛冶屋という職業そのものがほとんど見られなくなったが、勤労の価値そのものは変わらない。
 7、ゆりかご
 平井康三郎が作詞作曲した穏やかでやさしい雰囲気をもった子守歌である。一節と二節では一音だけ違うところがアクセントになっている。心が荒れていたら、決してこのような歌をそれらしく歌うことはできない。友一君のしっとりとした叙情的な歌唱表現がよく生かされている。
 8、村祭り
 明治45年「尋常小学唱歌(3)」による。このような歌は、どうしてもただ元気がよいだけの歌になりがちである。表面的には笛太鼓の賑わいが耳につくからである。しかし、その裏側には、人間の力を超える崇高なものに対する敬虔さが感じられる。友一君は、この歌の中に聖歌と同じ心を見つけたのだろうか。
 9、冬景色
  大正2年「尋常小学唱歌(5)」による。日本の冬だけが持つ透明な美しさを描いた歌であり、このような情景は、人の心を静かに和らげてくれる。レガート唱の美しさを味わうのによい曲であるが、友一君の高音はとりわけ美しく、この曲に求められる透明感をよく表している。
  10、夏の思い出
  昭和24年、NHK「ラジオ歌謡」として中田喜直によって作曲されたもので、女声合唱にアレンジされてから、有名になった。尾瀬沼の美しい風景が歌われている。この歌は、一つ一つの言葉を丁寧に歌うことによって、情感を表さなければならないが、友一君は、テヌートを生かして「咲いている」「匂っている」「遠い空」を歌っている。
  11、中国地方の子守歌
  岡山、広島地方で歌い継がれてきた民謡を、山田耕筰が採譜している。親子の愛情のアンビヴァレンスな側面(可愛さと憎さが同居している)を感じる曲である。しかし、親が子供の幸せを思う心に変わりはない。とりわけこの歌は、哀愁を帯びた曲である。「子守歌」というジャンルにおいてもまた、友一君の抒情性がよく生かされている。
  12、樅の木
  その昔ドイツが異教の風習によって、年ごとに一人の青年を神のいけにえとして捧げていたのを打ち破るため、キリスト教の牧師たちが苦心を重ねて布教し、やがて、人々は、樅の木を切って寒い冬のクリスマスを飾り、感謝の歌を歌うようになったという。常に変わらぬ樅の木を、変わりやすい乙女心と対比して歌っている。
  13、天には栄
  チャールズ・ウエスリーが作詞した英語の賛美歌である。初め別の曲が配されていたが、1855年カミングスが、メンデルスゾーンの「印刷術発明400年記念祭のための祝典歌(神を称える歌)」を編曲してこれに配してから、英米を中心に各国に広まった。
  14、歌劇「フィガロの結婚」より「恋とはどんなものかしら」
モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」第2幕で、小姓ケルビーノが歌うアリアである。軍隊に入り、前線行きを命じられ、伯爵夫人にお別れに来たケルビーノは、スザンナのギターに合わせてこの歌を歌う。ケルビーノは、年齢以上に早熟であり、その情感を同年齢の少年によって表現することは難しいが、友一君は、上品な色気を感じさせる歌を歌っている。

参 考 文 献

1 母と子の歌100選 長田暁二著 (時事通信社 1989)
2 童謡・唱歌の本 横山太郎編著 (自由現代社 1991)
3 世界歌曲集 川端康成・増沢健美編 (角川書店 1962)
4 声楽・合唱辞典 辻荘一・清水脩・山本金雄編(カワイ楽譜 1970)
5 LP「五十嵐喜芳のすべて(1)」解説書 (東芝 1975)

                                            

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