想い出の日本の少年合唱団
 日本には、かつて40以上の少年合唱団がありましたが、諸般の事情で少年合唱団から少年少女合唱団に移行したり、解散に追い込まれてしまったところも少なくありません。(財)桃太郎少年合唱団では、各地の児童合唱団や教育委員会関係者を通してその調査を行いました。その調査結果は、「日本の少年合唱団の現状と課題」(平成10 1998年)と題した小冊子にまとめられています。この文献をもとに、まとめてみました。その後、toshiさんによって過去の少年合唱団の存在がいくつか判明しています。また、元団員の方の情報提供でわかってきたことや、同窓会が開かれたことなどもわかってきました。新たに誕生・休団・解散した団体もあります。このホームページの読者の皆様のお知らせによって、より正確で詳しいものにしていきたいと念じています。
  なお、変声前の児童による日本の少年合唱団(隊)は、第二次世界大戦後誕生したものと考えられますが、昭和10(1935)年、大阪府豊中市にあったコッカレコード(國歌レコード)より、コッカ少年合唱隊が「雪の進軍」のレコードを出していることがわかりました。なお、いわゆるB面に何が吹き込まれているかは不明です。伴奏は、コッカ吹奏楽隊と書いてありますから、同じレコード会社がレコードを作成するために人集めをしたとも考えられます。なお、少年と言っても小学生の学童というより、未成年であっても変声後の少年の歌声に聞こえますから、ボーイ・ソプラノの歌声を期待してはいけませんし、また、合唱というより斉唱と言えます。なお、この歌は、従軍軍楽隊員であった永井建子(ながいけんし)が日清戦争時に作詞・作曲した日本の軍歌であり、映画『天皇・皇后と日清戦争』や映画『八甲田山』の劇中歌として使われています。この当時でも、いわゆる童謡歌手と呼ばれた男子学童による軍歌や戦時童謡の独唱のレコードはありましたので、その延長線上にあるものという位置づけがよいと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=8rwxSnoq-xE
 
 
 1 少年合唱団から少年少女合唱団に移行した団体

 @ 札幌少年合唱団→札幌少年少女合唱団(北海道札幌市)
    創立 1955年  移行 1960年

A 宇都宮少年合唱隊

 昭和30(1955)年に「宇都宮少年合唱隊」として創立しましたが、昭和51(1976)年に「宇都宮児童合唱団」に改名、平成5(1993)年「宇都宮少年少女合唱団」に改名して現在に至っています。

 B 東京少年合唱隊→東京少年少女合唱隊(東京都新宿区)
    創立 1951年  移行 1961年

   敗戦から6年、未だその傷跡が癒えない昭和26(1951)年、東京都中央区の紅葉川中学校の音楽教師であった長谷川新一は、ヨーロッパの音楽的伝統に基づいた理想的音楽教育の実践のために少年合唱団を創立することを企画しました。ヨーロッパ古典宗教曲に造詣が深く、都内でグレゴリオ聖歌の講習会を行なっていた故ポーロ・アヌイ神父の協力も得て、東京都内の小・中学校から募集した少年たち30名によって、東京少年合唱隊が結成されました。少年合唱団としては10年間で、やがて東京少女合唱隊と一緒になって東京少年少女合唱隊となり、現在に続いています。ところで、東京少年合唱隊は、宗教曲の録音も残しています。合唱としては混声合唱でやや重い感じもしますが、基礎をしっかり積み重ねていることが伺える歌声です。また、ソリストの少年はたいへん美声で驚かされます。



     
 C 西六郷少年合唱団→西六郷少年少女合唱団→新西六郷少年少女合唱団→西六郷少年少女合唱団(東京都大田区)
       創立 1955年    移行 1961年       新生 1999年         改名 2005年

 昭和30(1955)年、西六郷小学校少年合唱団として鎌田典三郎のもとに発足しました。当初鎌田が求めていたものは、ボーイ・ソプラノによる少年合唱でした。昭和33(1958)年からTBS全国子ども音楽コンクール合唱の部で6年連続日本一に輝くなど、常に日本の児童合唱の先頭を走ってきました。昭和36年には女子も加え、西六郷少年少女合唱団となりましたが、男子と女子の比率は常にほぼ1対1ということも特筆されます。平成11(1999)年鎌田典三郎の逝去後、西六郷少年少女合唱団は解散しましたが、元のメンバーを中心に、新西六郷少年少女合唱団として再発足。平成17(2005)年5月に西六郷少年少女合唱団と改名しました。現在、団員は小学校5年から高校3年まで、現在でも西六郷小学校合唱部とその卒業生を中心としたメンバーで構成されています。(旧)西六郷時代の伝統を受け継ぐことはもとより、常に新たな少年少女合唱文化の創造を目指しています。



  D ニッポン少年合唱団→東京滝野川少年少女合唱団(東京都)

 昭和29(1954)年に、心を合わせ美しい合唱を楽しむという目標で、大濱當忠の指導の下、「城北少年合唱団」として活動を始め、昭和30年代、NHKラジオ海外放送の依頼を受け、昭和32(1957)年「ニッポン少年合唱団」と改名し、数多くの日本の歌を海外に放送しました。その後、少女の入団希望もあり、昭和37(1962)年「ニッポン少女合唱団」を創立。その後、男女合同の「東京滝野川少年少女合唱団」として活動し、平成26(2014)年、創立60周年を迎え現在に至っています。

   E 蕨少年合唱団→蕨少年少女合唱団(埼玉県蕨市)

 蕨少年合唱団は、昭和33(1958)年、蕨市立北小学校の合唱クラブが中心となり、「蕨少年合唱団」として結成されました。昭和58(1983)年の創立25周年から女子もメンバーに加わり「蕨少年少女合唱団」となりました。現在では、未就学児から高校生まで一緒に活動しています。

  F エンゼルボイス少年合唱団→エンゼルボイス少年少女合唱団(富山県高岡市)

    G 大垣少年合唱団→大垣少年少女合唱団(岐阜県大垣市)
    創立 1960年  移行 1972年

   6期生で昭和42〜45(1967〜1970)まで在籍していたmiyaさんによると、当時は、指導者の先生方は小学校の音楽の先生が4,5名で、団員は同じく大垣市内の小学生3年生から6年生約80名、練習生は小学2年生が約20名、 総勢110名ほどの団体でありました。また、練習は大垣市の青年の家を拠点として、週末の土曜日の午後1時から4時までで、間に約15分ほどの休憩をはさみながら、正月以外は練習をしていました。普段の練習はとにかく厳しく、団員が楽しみにしていたのは、夏の合宿と冬のクリスマスでした。また、夏の合宿は3日間の泊り込みで、一人お米2合をもっていき、岐阜県内の小学校か中学校で行っていました。昼は登山や川遊び、乗鞍岳にも登り、頂上で歌ったりもし、夜はグループに分かれて怪談話などで楽しかったそうです。さらに、クリスマスはケーキと本物の七面鳥を食べたりしました。
 当時のレパートリーは、童謡・唱歌・古い日本の歌・なぜかドイツ語の歌・ブルガリア語の歌であり、「美しき青きドナウ」などのワルツや「流浪の民」などにも挑んでいました。また、活動としては、地域での演奏会のほかに、NHKの音楽番組に出演したり、ドラマの主題歌を歌ったりもしていました。昭和45(1970)年に行われた大阪万博のステージで歌ったこともあるそうです。
   大垣少年合唱団は、少女を入団させて以後も、団の名称は「大垣少年合唱団」のままの時期があり、昭和52(1977)年8月23日には、設立15周年記念の新作発表東京演奏会をイイノホールで開きました。その時のプログラムによると、大垣少年合唱団は、少年の部(77名)と少女の部(119名)に分かれており、少年の部は、ブルガリアの作曲家の曲、少女の部は、ドイツの曲が多かったようです。また、新曲は、作詞 薩摩忠 作曲 小林秀雄の子どものための合唱組曲「空にむかって」6曲が発表され、ビクター少年合唱隊が友情出演して「子供の詩」より8曲演奏していますが、これは、昭和41(1966)年、大垣少年合唱団と交歓演奏会を行ったことの答礼的な側面もあったのでしょう。なお、プログラムには、鎌田典三郎(西六郷少年少女合唱団指導者・東日本少年少女合唱連盟理事長)、後藤田純生(NHK学校放送番組班チーフディレクター)のお祝いの言葉が掲載されており、当時、日本の少年(少女)合唱団(隊)に全国的なつながりがあったことが伺われます。
 なお、平成23(2011)年における大垣少年少女合唱団は、団員数は約30名でその中に少年は2名ほどであり、練習方法も歌いながら寝転んでみたりと、当時の団員には見慣れないやり方であり、指導者は、当時指導された先生の教え子の方が中心です。平成29(2017)年時点では、31名(うち男子4名)ですが、男女1名ずつのソロをプログラムに採り入れるといった特色があります。
    
   H 三島少年合唱団→三島少年少女合唱隊(静岡県三島市)
 
   I キンダーコール鳩笛の会→キンダーコール鳩笛の会(愛知県名古屋市)

   J 今治少年合唱団→今治少年少女合唱団(愛媛県今治市)

 ウィーン少年合唱隊は、昭和30(1955)年の初来日をきっかけに、初期は3年に1回ぐらい来日していましたが、その来日がきっかけになって、児童発声やボーイ・ソプラノの研究をする指導者も現れ、日本各地で子どもの合唱団の創立が始まりました。愛媛県では昭和36(1961)年に今治では、今治少年合唱団が創立されました。今治では当時高等学校、中学校、小学校の先生であった、井上佳・近藤隆光・柳瀬潔が中心になって当時小学校の校長であった宇野隆義を団長とする愛媛県では最初の少年合唱団として結成されました。その後、昭和40年代には団員が100名を超える大きな団に成長しました。しかし、昭和58(1983)年には少女も加え今治少年少女合唱団となり、平成8(1996)年にはバンビの部(幼年部)も創設されました。平成22(2010)年に創立50周年という記念の年を迎えました。

  K 宇和島少年合唱団(愛媛県宇和島市)
 
 昭和37(1962)年創立

   L 松山少年合唱団→松山少年少女合唱団(愛媛県松山市)

 松山少年合唱団は、昭和39年(1964)年5月、小学4年〜6年の男子だけの少年合唱団として設立されました。そのきっかけになったのは、昭和38年のNHK全国学校音楽コンクールで、愛媛大学教育学部附属小学校が全国最優秀賞を受賞したことです。その時の指導者は、久米孝義と高須賀タキでした。そこで、「少年合唱のすばらしさを、附属小学校の子どもたちだけでなく、松山の少年たち全体にも経験させたい。」という声がわき起こりました。指導者には、もちろん附属小学校の二人の先生にお願いしたいという声があがりました。設立当初の育成団体は、松山道後ライオンズクラブ、松山市、南海放送の地域の3団体でした。その後17年間は少年合唱団として活動していましたが、昭和56(1981)年に小学5年〜6年の少女を加え、松山少年少女合唱団と団名を変えて活動しています。

  M 新居浜少年合唱団→新居浜少年少女合唱団(愛媛県新居浜市)

 新居浜少年少女合唱団は、県下5番目の少年合唱団として昭和41(1966)年に誕生しました。と、新居浜少年少女合唱団のホームページには書いてあります。

  N 西条少年合唱団→西条少年少女合唱団(愛媛県西条市)

  O 津山少年合唱団→津山少年少女合唱団(岡山県津山市)           

 津山少年少女合唱団は昭和44(1969)年に少年だけの合唱団として生まれ、その後少女が加わり、これまで津山を代表する合唱団として定期演奏会や国内での演奏旅行など様々な活動をしてまいりました。昭和62(1987)年4月1
日 津山少年合唱団から津山少年少女合唱団へ改名しました。

   P 長崎県児童少青年センター長崎少年合唱団(長崎少年合唱団)(長崎県長崎市)

 昭和41(1966)年5月に「長崎県児童少青年センター長崎少年合唱団」が結成され、として小学3〜6年生男子131人で発足しました。その年には、NBCテレビに出演、翌年は、長崎県で開催された国民体育大会「創造国体」に協賛して「長崎国体の歌」発表会出演するなど活発な活動をしていたことがわかります。昭和43(1968)年「長崎県少年合唱団」と改名した当時は、男子1117人でしたが、昭和44(1969)年に女子60人が加わり、以後男女合わせて200〜250人ほどで推移しています。したがって,男子だけの期間は3年間でした。男子のみの長崎少年合唱団としての発表会は2回行われており、唱歌や「みんなのうた」の曲などをレパートリーとしていたようです。なお、平成11(19999)年「長崎少年少女合唱団」と改名して、現在に至っています。

   Q 常滑少年合唱団(ボーイソプラノ合唱団)(愛知県常滑市)

 プロフィール

  常滑市青海市民センター センター長で、常滑市南陵市民センター統括の声楽家 加賀誠二が愛知県の知多半島にある陶器のまち常滑市と連携して、平成27(2015)年12月24日に開かれたクリスマスコンサートに向けて、同年9月に近隣の小学校3〜6年生の児童を募集して設立した当時は、日本で一番新しい少年合唱団でした。団員は、5人でスタートしましたが、約2か月の練習を経てクリスマスコンサートにこぎつけることができました。このコンサートには、関係者だけでなく、ネット情報を見て全国から駆け付けた少年合唱ファンもいます。さらに、平成28(2016)年4月から新たなスタートをして団員募集をしていたところ、6月末現在、初期メンバー3名を含め、10名でした。その後、一時期、「ボーイソプラノ合唱団」と名乗ったこともありましたが、中心的指導者で、常滑市青海市民センター(青海公民館)長であった加賀誠二が転任したあと、指導者が代わり、女子児童も参加できるようになり、元の名前に戻しました。なお、平成31(2019)年2月17日にスプリングコンサートを開催したときの団員は9名で、セーラー服・長ズボンの制服になりました。この時は、歌だけでなく、地域(隣の半田市)の作家新美南吉の「ごんぎつね」の音楽劇に挑んだりしています。令和元(2019)年8月30日に常滑少年合唱団は、常滑こども合唱団と改名して、名実とも少年少女合唱団として新たな出発をしました。

 

ボーイソプラノ合唱団 クリスマスコンサート
平成28(2016)年12月17日
(日)東山スカイタワー5階スカイホール


 昨年「常滑少年合唱団」として発足し、今年度「ボーイソプラノ合唱団」として新たな出発をした合唱団のクリスマスコンサートが東山スカイタワーであることを知って、行くことを最終決定したのは2日前のことです。その理由は、会場のある東山公園は、鳥インフルエンザのため東山動物園が当分の間休園になるなど、直前まで開催がはっきりしないことでした。15日にコンサート決行のニュースを常滑市青海市民センターのホームぺ―ジで知って、行くことを最終決定しました。動物園が休園ならば、植物園の方から行けばよいだろうと思って、午後1時半過ぎに地下鉄の星ヶ丘駅で降りて会場に向かって上り坂を歩きはじめると、椙山女学園大学を過ぎるあたりから人通りがなくなって、東山スカイタワーの近くまで一人も人に出会わないという珍道中?となりました。2時ごろエレベーターで高さ約100mのスカイタワーの5階に昇ってぐるりと1周見回りましたましたが、人の姿は売店の方だけ。コンサートが開かれる場所を店員の方に聞きました。
「鳥インフルエンザの影響は大きいのでしょうね。」
「はい、とても大きいです。」
 そこで、ステージになる場所の前のソファーに腰かけて待っていますと、コンサートのスタッフの方々が準備のために入ってこられて、デジタルピアノの配線をして、アコーディオンと音合わせを始めました。そのころから、合唱団員やその家族と思われる名札を首にかけた人たちが続々と入ってこられ、団員は、侍者服をかぶって準備に入り、やがて予定の開始時刻となりました。メモをもとにして、この日のプログラムを掘り起こすと、次のようです。

1.もろびとこぞりて(全員合唱)
2.ひいらぎかざろう(全員合唱)
3.あれののはてに(全員合唱)
4.Caro mio ben (ソロ)
5.Nel cor piu non mi sento (ソロ)
6.Ombra mai fu(ソロ)
7.花のワルツ(アコーディオン&デジタルピアノ)
8.おめでとう クリスマス(全員合唱)
9.赤鼻のトナカイ(全員合唱)
10.Vaga luna che inargenti (ソロ)
11.彼方の光 (ソロ)
12.アヴェ・ヴェルム・コルプス(全員合唱)
13.きよしこの夜

 人数的には昨年の2倍に増えた10人の団員が前後2列に並んで加賀誠二先生の指揮のもと3曲の有名なクリスマスキャロルでコンサートは始まりました。まだ、のどが十分温まっていないところから1曲ごとに少しずつ調子を上げていくのが伝わってきました。また、クリスマスキャロルは、最後の「きよしこの夜」まで全体を通してたいへんシンプルでオーソドックスな合唱編曲によるものでした。よく考えてみると、私が聴いた日本の少年合唱団のクリスマスコンサートの生演奏は、ほとんどTOKYO FM 少年合唱団のものであり(合計11回)、その独自の凝ったアレンジが耳に焼き付いているから、ボーイソプラノ合唱団の演奏がかえって、新鮮に感じられたものです。

 続いて高学年の3人によるイタリア古典歌曲などのソロが始めりましたが、最初の“Caro mio ben”が終わったところで、加賀先生よりこの合唱団のコンセプトとなる重要なメッセージが発信されました。それは、イタリアの古典歌曲の独唱を通して、ベル・カント唱法を身につけ、一人ひとりが合唱において自分の役割に対して責任をもつという理念的なことでした。半年や1年の練習で、それが完璧に身に着くとは考えられませんが、師がめざしているものがはっきりしていれば、きっと団員たちは師の想いを実現すべく努力し、それは、2〜3年後には一定の結実をもたらすであろうと思いました。それは、後半の1年以上団員を続けている2人のソロを通してより確かなものとして感じられるようになりました。“Vaga luna che inargenti”では、明るい声が前面に出ており、“彼方の光”では、高音の輝きに満ちた声を聴くことができました。

 イタリアの古典歌曲の独唱を通して、ベル・カント唱法を身につけ、一人ひとりが合唱において自分の役割に対して責任をもつという理念を持った少年合唱団は、これまで日本に存在しなかったと思われます。理念の後半部分だけなら当然あるでしょうが。そのような意味で、この合唱団が今後どのような歩みをしていくのかを興味深く感じながら鑑賞していました。団員達も、ON OFFの切り替えが素早く、その辺りにも好感をもちました。来年もし同じ会場で開催したら、鳥インフルエンザが再発しない限りもっと一般客は来てくれるだろう。秋のバスツアー演奏会も一定のファンをつかんだだろう。知多半島から名古屋市に進出することでこの合唱団はもっと発展するのではないだろうか。そんなことを思わせるクリスマスコンサートになりました。

 西宮市少年合唱団は、設立当初より少年少女合唱団であることが判明しました。

   
 2 解散または解散したとみられる少年合唱団

 下記の合唱団の中には,名称を変更したり所属変更のため名称が変わった団もあると考えられます。

  @ さくら少年合唱団(千葉県)

 A 上高田少年合唱団(東京都) 

  東京にあった少年合唱団で、昭和30〜50年代(1950年代から1970年代前半)に活躍しました。東京第二師範学校(現・東京学芸大学)を卒業した奥田政夫が、昭和23(1948)年東京都中野区立上高田小学校(令和2(2020)年度より新井小学校と統合して、令和小学校に統合)に赴任して、同小学校の上級生を集めて合唱指導を始め、60?70人の児童が集まりましたが、当初はほとんどが女子であったそうです。そこで、方針を変更して、昭和25(1950)年、男子だけの合唱団となり、同年11月「全日本学生音楽コンクール」合唱部門で、いきなり東日本1位になりました。昭和28(1953)年「NHK全国唱歌ラジオコンクール」で、全国1位になり、昭和29(1954)年、両コンクールで全国1位になることで、「上高田」の名が全国的に知られるようになりました。その頃から、レコード、ラジオ、テレビ番組の主題歌の仕事も舞い込むようになり、「上高田小学校児童」として歌うわけにもいかないということで「上高田少年合唱団」という芸名でレコーディングすることになり、この名前が全国的に知られるようになりました。なお、最初の放送番組は、昭和32(1957)年に放送開始したラジオ番組『赤胴鈴之助』の主題歌です。ところが、昭和34(1959)年、奥田は東京都練馬区立開進第四小学校へ転任。さらに、昭和37(1962)年、東京都板橋区立中根橋小学校へ転任しましたが、転任先でも合唱の指導を続け、テレビの収録などにはその時々の教え子を連れて行いましたが、名称は引き続き「上高田少年合唱団」を踏襲しましたた。つまり、有名な日本最初のアニメ『鉄腕アトム』(昭和38(1963)や『スーパージェッター』(昭和40(1965))などの主題歌を歌っていたのは、中野区上高田ではなく、実際には練馬区や板橋区の児童であったということになります。上高田少年合唱団は、硬質な声と詩を縁取るような力強い歌い方で、その番組を視聴する子どもたちの精神に正義感を育んでいきました。戦後、日本の教育音楽の世界では、歌詞よりも曲が優先される傾向があります。私は、それを否定しません。しかし、昭和30年代から40年代にかけては、テレビやラジオの子ども番組の主題歌が、学校における教育音楽を補完していたと言うこともできるのではないでしょうか。上高田少年合唱団の歌には、ヨーロッパの聖歌的な響きはありませんが、戦前より引き継がれた日本の少年らしい凛としたものを感じます。ある意味では、その歌声は昭和初年の戦時歌謡にもつながるものかもしれません。上高田少年合唱団は、昭和30〜50年代(1950年代から1970年代前半)にかけて、数多くのテレビのアニメ番組・実写番組のテーマ・ソングのレコードが残されていますが、昭和50(1975)年奥田政夫の退職によって解散しています。平成8(1996)年、上高田小学校は創立70周年を迎え、その記念に往年の合唱団のOBに集まってもらい児童に歌を披露してもらおうという話がもちあがりましたたが、全国に散ったOBたちの多くは消息がつかめず、一時的な復活の夢は果たせませんでした。平成18(2006)年、「東京国際アニメフェア2006」で上高田少年合唱団は、特別功労賞を受賞しました。授賞式には、奥田政夫が代表として出席しています。なお、一時期コロムビア少年合唱隊という少年合唱隊がありましたが、これは、上高田少年合唱団から選抜されたメンバーによる合唱団だそうです。
 上高田少年合唱団の功績は、その卒団生が、合唱界というよりも芸能界で活躍していることです。歌手で俳優の高橋元太郎(『水戸黄門』のうっかり八兵衛役など)は、上高田小学校出身で上高田少年合唱団メンバーでした。また、大川興業代表取締役総裁大川豊は、板橋区立中根橋小学校出身で、上高田少年合唱団メンバーでした。昭和48(1973)年放送の特撮テレビ番組『風雲ライオン丸』の主題歌「行け友よ ライオン丸よ」を歌った浜 ジョージ(本名・佐々木清和)は、母親の勧めで小学生時代に上高田少年合唱団に在籍しており、学生時代にはコーラスグループを結成していました。その後は、スナックを営むかたわらラジオ局で手伝いをしていた際に、声優の大平透と知り合い、大平に浜ジョージと命名されたそうです。東京にあった少年合唱団で、奥田政夫が、東京都中野区立上高田小学校に赴任してつくりました。「全日本学生音楽コンクール」合唱部門や「NHK全国唱歌ラジオコンクール」で全国1位になったので、全国的に有名になりました。レコーディングの仕事が入ったため、学校名でやるわけにいかず、「上高田少年合唱団」という芸名でレコーディングことになりました。奥田政夫が練馬区立開進第四小学校・板橋区立中根橋小学校へと転勤後も、それぞれの小学校でつくった少年合唱団はこの芸名でレコーディングしています。1950年代から70年代前半にかけて、数多くのテレビのアニメ番組・実写番組のテーマ・ソングのレコードが残されていますが、1975年奥田政夫の退職によって解散しています。その歌唱の特徴は、「日本の少年合唱」に掲載しています。

  B 湯沢少年合唱団(秋田県湯沢市)
  
 昭和45(1970)年大阪で万国博覧会が開かれましたが、その初日にエキスポランドの南側にある野外劇場で開かれた「第五回アジア少年少女合唱祭万国博大会」に秋田県から湯沢少年合唱団が参加、美しい歌声を響きわたらせました。 この大会には韓国、インド、インドネシア、フィリピン、台湾、それに国内から出演した二十五合唱団が参加しました。
 湯沢少年合唱団は、そろいの紺のブレザーに赤のネクタイ、クリーム色のズボンをスマートに着こなし、湯沢西小学校、菊地先生の指揮、湯沢南中学校 高橋先生のピアノ伴奏で「神の栄光」「アルプスの谷間」「ぼくらの空は四角くて」など五曲を歌い、とくに「冬の行進」のコーラスの途中に、観衆が手拍子を合わせて楽しい交歓風景を繰りひろげ、大会気分を盛り上げたという記録が残っています。  (出典:あきた(通巻96号) 1970年(昭和45年)5月1日発行) 

 C 静岡少年合唱団(静岡県静岡市)

 D 金光少年合唱団(岡山県金光町)

 E ビクター少年合唱隊(東京都) 後継団体であるTOKYO FM少年合唱団のページにも同様のことを掲載しています。

 ビクター少年合唱隊は、昭和36(1961)年に東京都内の小学校4〜6年生の男子で構成、新しい音楽教育の要望にあった少年合唱隊をという主旨で設立されました。その後、隊員は小学校1年生から募集するようになり、最大時は120名を越える大所帯であったといいます。 
 指導者陣は少しずつ異動していますが、名指揮者北村協一を中心としており、レコード会社の附属機関であったために、これまで多くの録音を残しています。とりわけ昭和49(1974)年から53(1978)年にかけて、「天使のハーモニーシリーズ」として、毎年2枚ずつ計10枚・ 140曲の歌を残しています。これは、唱歌や従来の児童合唱曲に加え、当時流行していたフォークソングや、各国の民謡等を集大成したものです。この合唱団の発声は、純粋なクラシックの発声ではありませんが、男の子らしい生き生きとした歌声であり、全体として、爽やかな仕上がりです。この発声の理念は外国の少年合唱団の模倣ではなく、日本の少年ののどにあった発声を求めていたと考えられます。また、ソリストが大変個性的で、独唱曲も何曲かあり、合唱曲の中にも、かなり独唱部分がみられるのが、このシリーズの特徴です。名前は記載されていませんが、「荒城の月」を歌う少年の抒情的な歌唱、「カリンカ」を歌う少年の声の輝かしさ、「二人の天使」のスキャットを歌う少年の巧みさなどが心に残っています。
 さて、ビクター少年合唱隊時代の「天使のハーモニー」シリーズの5年間の中でも、変化は見られます。この「天使のハーモニー」シリーズは発売当時に買ったものですが、その後日本にこれだけの少年合唱曲集はないと言う点でも貴重なLP集です。この文を書くに当たり、通して聴くと新たな発見がありました。
 まず第1は、1974年〜1978年の5年間でも歌声が3回ぐらい変化していることです。第1集と、第2・3集と第4.5集の間には違いがあります。第1集は、爽やかな少年合唱という雰囲気、第2・3集はフォークポップスに挑戦のため活動的でややクラシックから遠ざかり、第4.5集で、ポップスにも挑みながらまたクラシックに戻りつつあるという感じです。
 第2は、日本民謡をアレンジしたものが購入した当時より好きになってきたことです。当時はむしろ1回聴いたきりだったものもあります。
 第3は以前より好きだった「みんなの歌」で取り上げられたような外国曲は、やっぱり今でも好きだという少年時代の刷り込みの影響が大きいことです。今のTOKYO FM少年合唱団のさらっとしたヨーロッパ的な清澄な響きと比べると、いかにも日本の少年らしい歌という感じがします。しかし、これにはまた格別の味わいがあります。
 漫画家の竹宮恵子がボーイ・ソプラノによるレコード「ガラスの迷路」と「過ぎゆく時と友達」を企画・制作したときに、ソリストたちをこのビクター少年合唱隊から選んだのもうなずけます。さて、昭和54(1979)年に発売された「過ぎゆく時と友達」は、竹宮恵子好みのボーイ・ソプラノの美しさを生かした12曲の独唱曲(一部バリトンの平野忠彦や少年合唱とのかけ合いもある)が収められています。このようなレコードは、それ以前にもなく、それ以後にもない点で貴重ですが、できばえの方も優れたもので、日本のボーイ・ソプラノのレベルが上がってきたことを感じさせます。歌は、歌曲、映画音楽、カンツォーネ等いろいろなジャンルの曲が含まれているので、同じ基準では評価できません。5人の少年が歌っていますが、とりわけ、河村卓也の歌い回しのうまさと、日向理の歌の気品に心をひかれました。なお、日向理は、変声後バリトンとして高校時代、毎日学生音楽コンクールの代表として全国大会に出場し、シューベルトの「春の信仰」を歌ったのをラジオで聴いたことがあります。また、東京芸術大学声楽科在学中から劇団四季からスカウトされ、卒業と同時に入団。「オペラ座の怪人」「ジョン万次郎の夢」などに出演。卒業後も、オペラからミュージカルまで幅広い音楽活動を行いました。平成13(2001)年秋、長年の夢であったうたのおにいさんのオーディションに合格。「ひなたおさむ」の芸名で、番組開始の平成14(2002)年4月から平成22(2010)年3月まで8年間出演。番組終了後はポコポッテイトに出演しています。また、久世基弘は、爽やかで真っ直な歌声の持ち主ですが、「ガラスの迷路」でも歌っており、ソプラノからアルトへと変声していく過程が記録されていて興味深いものになっています。このLPは、クラシックのレコードとしては異例のベストセラーとなり、ビクター少年合唱隊の人気を高め、その当時の定期演奏会にはなかなか入場できないといった現象が起きました。しかし、急激な児童合唱のブームの衰退にともない昭和59(1984)年4月にビクター音楽産業が経営撤退。名目上のビクター少年合唱隊は解散に追い込まれました。しかし、「狼少年ケン」(東映昭和38(1963)年「サンダーバード」(朝日プロモーション/東北新社昭和41(1966)の各テレビ主題歌や「青雲」(日本香堂昭和58(1983)年のCMソングなど、同じ世代を生きた人にとって忘れられない歌声を世に送っています。
 ビクター少年合唱隊は、設立後定期演奏会はもとより、オペラ・テレビなどに活躍して、團伊玖磨のオペラ『夕鶴』の決定盤と呼ばれる昭和45(1970)年に録音した合唱の歌声は今でもCDで聴くことができます。また、当然のことながら、活動は東京が中心であり、「歌はともだち」などにも出演したそうですが、残念ながら私はテレビ出演を見ていません。あるいは見ていたのかもしれませんが、記憶にありません。なお、広島少年合唱隊は、初期において組織作り等ビクター少年合唱隊に学んでいるそうです。

 

  F キング少年合唱団(東京都) キングレコードに所属する少年合唱団で「ポンポン大将」などの録音が残っています。

  G コロムビア少年合唱隊    上高田少年合唱団より選抜(東京都)

 コロムビア少年合唱隊は、中公新書ラフレ12読売新聞社会部編「東京今昔探偵」や、毎日グラフ昭和38(1963)年6月23日号の表紙に2代目コロムビア・ローズと共に写真が掲載されています。コロムビア少年合唱隊は、上高田少年合唱団から選抜された児童で構成されています。指導者の奥田奥田政夫は、この時期、練馬区立開進第四小学校で指導しており、さらに、昭和37(1962)年、板橋区立中根橋小学校へ転任していたため、中野区立上高田小学校の児童ではありません。コロムビアレコードに所属していたことから、いろいろな童謡歌手や2代目コロムビア・ローズの「長い一本道」のバックコーラス等に多くその名を残していますが、コロムビア少年合唱隊単独としては、「神州天馬峡」の主題歌や「月寒の少年」などをレコードに録音しています。さらに、10インチ(25cm)LPにも、コロムビア少年合唱隊として、昭和36(1961)年に「貝がら小径」「少年ロシア民謡集」「少年フォスターアルバム」の3枚のレコードを残すなど、昭和35(1960)年〜昭和38(1963)年の短期間に活躍していたことがわかります。

    

  H 金沢少年合唱団(石川県金沢市) 

   プロフィール

 昭和31(1956)年2月27日、当時金沢大学助教授であった石本一雄が設立し、市内小学校から選抜された団員(1期生31名)が入団して誕生しました。また、最初のステージは、同年11月4日の「金沢市社会教育研究大会」への出演でした。昭和40年代後半には180人を擁し、40年を超える歴史をもった合唱団で、ボーイ・ソプラノの少年合唱だけでなく、変声後の団員を加えた男声四部合唱を聞かせていましたが、その生涯をかけて主宰した、石本一雄が平成12年(2000)4月24日、他界されたことがきっかけで、その年に解散しました。俳優 鹿賀丈史やシンガーソングライターの松田亜世もこの少年合唱団の出身です。なお、平成24(2012)年と、令和元(2019)年には、恩師をしのんで同窓会を開いています。

      金沢少年合唱団のレパートリー

  昭和31(1956)年に金沢大学・教育学部の石本一雄は「人間の声で一番美しいのは声替わり前の少年の声である。」と唱え、金沢市の各小学校から歌のうまい児童を数名ずつ出させ、それを更に試験して厳選し「金沢少年合唱団」を結成しました。金沢少年合唱団が、定期演奏会においてどのような曲を演奏していたかを探ることは、この少年合唱団の志向を知ることにつながります。幸い、完全ではないものの40年間に演奏された定期演奏会のプログラムと録音が残されていますので、それをもとにして、考察しましょう。幸い、第1期生情報提供によって、初めての発表会である昭和32(1957)年のプログラムがわかり、それを見ると、金沢少年合唱団単独の演奏というより、賛助の地域の合唱団・声楽家の演奏もあり、確実に金沢少年合唱団の演奏曲と考えられるものは、第一部の二部合唱「緑のそよ風」「もみじ」「仔鹿のバンビ」といった当時としては新しい童謡・唱歌、富田祐次独唱のシューベルトとブラームスの「子守歌」、第二部の二部合唱「南部牛追い歌」「五木の子守歌」「夢見る桜貝」といった日本民謡・日本歌曲、上野三郎独唱の文部省唱歌の「砂山」「月見草」といった曲が選ばれており、金沢少年合唱団が、当時としては正統派のクラシック音楽志向の少年合唱団であることがうかがえます。この傾向は、さらに団員の年齢が上がるごとに変声期を迎えていたかどうかは不明ですが、次第に混声合唱団になりそのステージも設けられています。さらに、当初よりボーイ・ソプラノによる独唱で1ステージ設けるなどもかなり独唱を重視していたことがわかります。

 その後、40年以上にわたって活動した金沢少年合唱団のレパートリーを、その発表会(定期演奏会)のプログラムから考察すると、童謡・唱歌、NHK「みんなのうた」の中の曲、日本と世界の歌曲・民謡から宗教曲まで多彩です。昭和40(1965)年ごろより、フォークソングなどのポップス系の曲が若者世代で流行するようになってきましたが、その頃には、「バラが咲いた」や昭和52(1977)年に発表され長年流行していた「北国の春」なども採り入れていますが、昭和から平成に移っても、それをレパートリーに採り入れることはあってもトピック的な扱いで、あまり多く採り入れてていないと考えられます。この傾向は基本的には変わらず、一貫して、クラシック音楽へ誘うような選曲がなされています。ハイドンの「天地創造」「来よ、のどけき春」や、モーツァルトの「グローリア」、フォーレの「レクイエム」のような曲をレパートリーにした日本の少年合唱団は、グロリア少年合唱団のような宗教曲をメインとした少年合唱団以外ほとんどないのではないでしょうか。また、演奏形態も、合唱を中心としながらも、独唱や重唱のステージを積極的に採り入れています。なお、誕生時点でどうであったのかは不明ですが、比較的早期より、混声合唱に取り組んでいることから、団員が変声後も同合唱団で歌い続けることができるような生涯学習につながるような合唱をめざしておられたのではないかと推測できます。石本先生がウィーン少年合唱団のような少年合唱団を目標としながらも、変声後についても継続して指導するという理念は、まだ、日本において少年合唱の萌芽期の昭和30年代(1950〜60年代)としては特筆できます。

 これは、石本一雄が、金沢大学教育学部の教官であり、金沢大学フィルハ−モニー管弦楽団の創設にかかわったり、地域の学校の校歌の作曲をしたりするなど、地域に根ざしたクラシック音楽の振興をめざしておられたこととも関連します。

  

  I クラウン少年合唱団(東京都) クラウンレコードに所属する少年合唱団

  J  みのお少年合唱隊(箕面小学校少年合唱団)(大阪府箕面市) 

 品川三郎が、昭和26(1951)年から昭和34(1959)年まで箕面町(市)立箕面小学校に勤務していたときに指導した男子による合唱隊がみのお少年合唱隊(箕面小学校少年合唱団)です。同校の小学5・6年生男子40名で編成されていました。ほとんどの少年合唱団が同じ地域の複数の学校の児童から編成されるのに比べ、みのお少年合唱隊は、箕面小学校の男子児童によって編成されている少年合唱団であるところに特色があります。箕面小学校は、当時、音楽教育で全国的に有名で、年に一度、全校挙げての音楽発表会を行っていました。品川三郎は、正しい発声法を指導すれば、男の子の歌声(ボーイ・ソプラノ)は、女の子の歌声をしのぎ、芸術的にも高いものになることを証明していきました。品川三郎の児童発声の理念については、岩ア洋一が発表した「児童発声の系譜 ー品川三郎の実践ー」でも知ることができます。レパートリーとしては、唱歌、日本の世界の歌曲、クリスマスソング、児童合唱曲などが挙げられます。また、箕面市立箕面小学校の同窓会の方が当時の歌声の情報 昭和29(1954)年11月12日の近畿地区音楽研究発表大会で演奏されたものの一部をYouTubeで公開されていますが、この年は、まだウィーン少年合唱団の初来日の前であることも特筆されます。
https://misho82.jimdofree.com/%E7%AE%95%E9%9D%A2%E5%B0%91%E5%B9%B4%E5%90%88%E5%94%B1%E9%9A%8A-%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8E/
 なお、この歌唱法は、ボーイズ・エコー・宝塚の中安保美によって受け継がれました。

 

   K ジャニーズ少年団(東京都)

 ジャニーズ少年団は、ジャニーズ事務所に所属していたジャニーズJr.のメンバーで結成されたユニットで、昭和51(1976)年から昭和52(1977)年にかけて活動しました 。活動内容はレコードを2枚発表したのみであり、テレビやコンサートへの出演はありませんでした。昭和51(1976)年に、日本テレビの早朝子供番組『おはよう!こどもショー』のオープニングテーマや挿入歌を歌うための企画ユニットとして結成されました。昭和52(1977)年に、ジャニーズJr.の古川清隆が出演していた特撮ヒーロー番組『小さなスーパーマン ガンバロン』(日本テレビ)の主題歌&エンディングテーマを、ザ・バーズとの共演でビクターレコードよりリリースしました。作曲を担当したのは「ゴダイゴ」のミッキー吉野。なお、後年『3年B組金八先生』第1シリーズの第1シリーズに生徒役で出演した「たのきんトリオ」の一員になる野村義男もガンバロンの出演者オーディションを受けていますが、主題歌への参加のみとなりました。
 このメンバーは、ギャングス(松原秀樹 曽我泰久 大野祥孝 長谷部徹) 古川清隆 野村義男 渡辺和晃 山口裕章 その他、ジャニーズJr.数名からなり、レコードは、日本テレビ『おはよう!こどもショー』の挿入歌「巨人の好きな子この指とまれ」(日本コロムビア)「ガンバロン'77/友達のガンバロン」があります。
 なお、リトルギャング(松原秀樹と曽我泰久)は、「日本のソリスト」でも採り上げています。

 L ロザリオ少年合唱隊(長野県松本市)

 長野県松本市の松本教会に付属していた少年合唱隊。現在は教育博物館になっている重要文化財の旧開智学校を前身とする 松本市立開智小学校の児童(2年生〜6年生)が多く入団していましたが、中学生になると変声期と重なるため、卒業(隊)していったそうです。指導者は、教会の神父でハンガリーのネムスギ神父が指導していた時期や、アルゼンチンの神父が指導していた時期があるそうです。活動は主に1950年代と1960年代に行われ、少なくとも1972年までは、活動していたことが判明しています。教会付属の少年合唱隊のため、宗教曲が中心でした。隊員には、ギリシャ語・言語学者の
八木橋正雄などもいます。

 M 伊予少年合唱団(愛媛県伊予市)

 愛媛県で4番目に創立された少年合唱団でしたが、昭和58年頃からその活動が休止状態になったようです

      N 原少年合唱団(東京都?)

   原少年合唱団を調べているうちに、『くらやみ五段』 (くらやみごだん) のタイトルで主演 : 千葉真一、制作 : NETテレビ・東映、1965年9月7日から1966年3月1日の毎週火曜日19時30分から20時までの30分枠で放映された。全26話。 モノクロ作品。の主題歌を千葉真一と共に歌っていることがわかってきました。
(主題歌「くらやみ五段の唄」唄 - 千葉真一・原少年合唱団 作詞 - 若井よしはる 作曲 - 清井雄三 規格 - ソノシート)
https://www.uta-net.com/song/223477/
https://www.allcinema.net/person/478664
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%97%E9%97%87%E4%BA%94%E6%AE%B5
   ところが、最近になって、千葉真一・上高田少年合唱団が歌ったソノシートがYouTubeに出ています。ということで、原少年合唱団=上高田少年合唱団かどうかは現時点では不明です。(なお、コロムビア少年合唱団が上高田少年合唱団の選抜であることは間違いありません。)
https://www.youtube.com/watch?v=yep-Ct5M_oc

  O そよかぜ少年合唱団(東京都 江戸川区)

 P 栃木少年合唱団(栃木県栃木市)
 
プロフィール

 栃木少年合唱団は、ウィーン少年合唱団の来日を機に昭和37(1962)年に発足し、平成13(2001)年で40周年を迎えましたが、創立50周年を直前にして平成21(2009)年に解散しました。最大時は70名を越す団員を擁し、少年独特のきれいに澄んだボーイソプラノ、響きのある美しいハーモニーを目指し、また、ミュージカルという新しい分野にも挑戦し、二世の団員なども加わって練習に励んでいましたが、団員の減少により団を維持することができなくなり、ついに解散となりました。その経緯を述べたホームページは現存し、再興への想いを感じることができます。

 私が、栃木少年合唱団の舞台を鑑賞したのは、第2回と第3回の全国少年合唱祭で20分程度のステージに接しただけです。ですから、それだけで、この少年合唱団の全貌をつかむことはできませんが、第1回の全国少年合唱祭を栃木の地で開催したという心意気には感動しました。「無」から何かを創り出すというのはたいへんな情熱がなければできないことです。考えてみれば、私がこのHPを開設して、ファンサイドから日本の少年合唱団を応援しようと決意したのも、栃木少年合唱団の心意気と重なるものがあります。ここでは、第2回と第3回の全国少年合唱祭のステージを紹介します。


栃木少年合唱団の制服の美的センスは特筆できます。
  

第2回全国少年合唱祭」より

 幕が開くと、2‘nd Japan Boys Chorus Festibalという横断幕を背景に栃木少年合唱団が整列していました。ベレー帽とベストがオレンジ、シャツと胸ハンカチとハイソックスが白、蝶ネクタイとズボンと靴が黒で、この色彩的な調和は目を引きます。半ズボン22名(小学生)長ズボン3名(中学1年生)の25名で、今度初挑戦する合唱ミュージカル「けんちゃんとおばけ」の8曲を演奏してくれました。最初声部のバランスがやや悪いようでしたが、次第に調子をあげ、最後の「信じてる夢を」では、おそらくこの合唱団の持ち味の繊細な声の音色を楽しむことができました。ただ、この合唱ミュージカルは初挑戦の分野だけに、この合唱団の持ち味が十分発揮されたかというと疑問が残ります。きっと、旋律の美しい作品なら、この合唱団のよさをもっと見つけることができたでしょう。また、1曲ごとに解説をしてくれたのはよかったのですが、ズボンのポケットからメモを取り出して読むというのは感心しません。暗唱して語りかけるようにすべきだと思いました。ところで、解説の話し声を聞くと、中学生の2人は変声し、小学生にも変声期に入りかけている少年がいましたが、それでもがんばっている姿には好感が持てました。これは、後輩によい影響を与えることと思います。

「第3回全国少年合唱祭」より

 栃木少年合唱団は、今回もベレー帽とベストがオレンジ、シャツと胸ハンカチとハイソックスが白、蝶ネクタイとズボンと靴が黒で、この色彩的な調和は秀逸です。はっきり言って前回の、合唱ミュージカル「けんちゃんとおばけ」は初挑戦の分野だけに、この合唱団の持ち味が十分発揮されたかというと疑問が残りました。今回の演目は団歌と「ふるさとの四季」よりという小学唱歌のメドレーです。こういう曲は、みんなが知っているだけに、よくも悪くも失敗があれば目立ってしまいます。しかし、今回の演奏ではそういう破綻は見られませんでした。むしろ、この合唱団の特色である繊細な声による美しい日本の自然の移り変わりとそこに住む人の心の美しさを楽しむことができました。「故郷」で始まり「故郷」で終わるこの組曲は、ともすれば忘れがちになる日本の美を体現していました。人数的には厳しい状況ですが、それだけに、少人数でも表現できる曲に挑むことが大切だと感じました。神永秀明先生の指揮には秘めたる情熱を感じました。

「栃木少年合唱団を想う」
 このたび、栃木少年合唱団のホームページと相互リンクすることになりました。そのきっかけは、相互リンク先の「児童合唱頁」に、栃木少年合唱団のホームページが誕生したという情報を得たからです。一面識もありませんでしたが、ホームページ管理者で副団長の大豆生田さんにメールを送ってその想いを伝えました。大豆生田さんのホームページには既に、「ボーイ・ソプラノの館」についての紹介文もあり、見えない糸を感じた次第です。
 かつては70人を超える団員を擁した栃木少年合唱団も、今は団員10名程度という厳しい状況であるとのこと。何としても栃木少年合唱団の灯を消してはならないとの想いから、この文を書きます。
 桃太郎少年合唱団が平成10年6月にまとめた「日本の少年合唱の現状と課題」がきっかけとなって、かつて日本に40団体あった少年合唱団が9団体になっていることが確認されました。その後、調査漏れとなっていたボーイズ・エコー・宝塚や、新しく創設された新潟少年合唱団等が発見されましたが、それらの団体が厳しい状況におかれていることに変わりはありません。金沢少年合唱団も解散となりました。
 しかし、その厳しい中、栃木少年合唱団は、全国の少年合唱団がお互い励ましあって頑張ろうと、「全国合唱祭」を企画され、第1回の主管をされました。その志の高さは特筆できるものです。ただ、昔はよかったと言うだけでは発展性はなく、今だからこそ少年合唱団が少年の音楽的・人間的成長に貢献できるという新機軸を打ち出さなければならないときが来ています。この相互リンクをきっかけに、さらに新しい人間関係が生まれ、栃木少年合唱団が発展することを期待するものです。

  Q 和歌山児童合唱団 少年の部(和歌山県和歌山市)

 プロフィール

 和歌山児童合唱団は昭和33(1958)年にNHK放送児童合唱団として設立され、その後和歌山放送合唱団を経て、現在の和歌山児童合唱団となり、合唱フェスティバル・合唱連盟からの招待などで、国内外で年に20〜30回の演奏をこなしています。人数的には小学1年生から中学生まで約200名の少年少女合唱団ですが、平成11(1999)年、新たに『少年の部』を創立し、小学2・3年生を中心に取り組んで、第3回全国少年合唱祭では、中学生団員まで加え約40名ほどが参加しました。また、現代的な感覚でいろいろな曲に挑戦し今後の活躍が期待されていましたが、残念ながらこれはあくまで試験的実施にとどまったようです。コンサート情報を見ると、その後は、『少年少女の部』に収斂されたようで、『少年の部』として単独に活動はしていないようですので、このコーナーに移しました。
   
 「第3回全国少年合唱祭」より 〜現代的な表現〜

  幕が開くと、第3回 全国少年合唱祭広島大会 −ぼくたちの清純な歌声をあなたの心に響かせたい− という横断幕を背景に初出場の和歌山児童合唱団<は、小学校2、3年生が中心だそうですが、5年生から変声後の中学生もファルセットで合流して出場しました。どちらかというと胸声の強い発声で、ときには力強さを超えるところもありましたが、それが現代的な曲にはよくマッチしていました。とりわけ、あとの2曲は、独唱のファルセットを歌った中学生の少年の好唱とあいまって独特の美しさを表現していました。沼丸晴彦先生の指揮もエネルギッシュかつはつらつとしていて、好感が持てました。

       R 名古屋少年合唱団(愛知県日進市)

 プロフィール

  日進市の日進キリスト教会を練習会場・コンサート会場に平成27(2015)年に誕生した「名古屋少年合唱団(Nagoya Boys Choir)」は、トム・ウィルソン先生の指導のもと、活動をしています。ウィルソン先生は、以前はアメリカのバーミンガム少年合唱団(Birmingham Boys Choir)をご指導されていたということです。平成29(2017)年7月2日にサマーコンサートを行いました。その当時の団員は16名だそうです。平成30(2018)年5月27日には、スプリングコンサートを行っています。ポスター(ちらし)を見ると、持ち歌は、聖歌が中心ではありますが、ブロードウェイ、テレマン、ヘンデル、メンデルスゾーン、ドボルザーク「家路」、民謡と多彩です。また、伴奏はピアノだけではなく、クリスマスコンサートではヴァイオリンや管楽器であるところにも特色があります。また、この教会ではゴスペルもやっているようですが、それも採り入れながらやっているようです。なお、ウィルソン先生は、現在(令和3(2021)年4月)アメリカに帰国中なので、休止状態ですが、また来日後活動を再開してほしいと願っています。

       


  
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