想い出の日本の少年合唱団
 日本には、かつて40近い少年合唱団がありましたが、諸般の事情で少年合唱団から少年少女合唱団に移行したり、解散に追い込まれてしまったところも少なくありません。(財)桃太郎少年合唱団では、各地の児童合唱団や教育委員会関係者を通してその調査を行いました。その調査結果は、「日本の少年合唱団の現状と課題」と題した小冊子にまとめられています。この文献をもとに、まとめてみました。その後、tosiさんによって過去の少年合唱団の存在がいくつか判明しています。また、元団員の方の情報提供でわかってきたことや、同窓会が開かれたことなどもわかってきました。このHPの読者の皆様のお知らせによって、より正確で詳しいものにしていきたいと念じています。

 
 1 少年合唱団から少年少女合唱団に移行した団体

 @札幌少年合唱団→札幌少年少女合唱団(北海道札幌市)
    創立 1955年  移行 1960年
    
 Aエンゼルボイス少年合唱団→エンゼルボイス少年少女合唱団(富山県高岡市)

 B大垣少年合唱団→大垣少年少女合唱団(岐阜県大垣市)
    創立 1960年  移行 1972年

   6期生で昭和42〜45(1967=1970)まで在籍していたmiyaさんによると、当時は、指導者の先生方は小学校の音楽の先生が4、5名で、団員は同じく大垣市内の小学生3年生から6年生約80名、練習生は小学2年生が約20名、 総勢110名ほどの団体でありました。また、練習は大垣市の青年の家を拠点として、週末の土曜日の午後1時から4時までで、間に約15分ほどの休憩をはさみながら、正月以外は練習をしていました。普段の練習はとにかく厳しく、団員が楽しみにしていたのは、夏の合宿と冬のクリスマスでした。また、夏の合宿は三日間の泊り込みで、一人お米2合をもっていき、岐阜県内の小学校か中学校で行っていました。昼は登山や川遊び、乗鞍岳にも登り、頂上で歌ったりもし、夜はグループに分かれて怪談話などで楽しかったそうです。さらに、クリスマスはケーキと本物の七面鳥を食べたりしました。
 当時のレパートリーは、童謡・唱歌・古い日本の歌・なぜかドイツ語の歌・ブルガリア語の歌であり、「美しき青きドナウ」などのワルツや「流浪の民」などにも挑んでいました。また、活動としては、地域での演奏会のほかに、NHKの音楽番組に出演したり、ドラマの主題歌を歌ったりもしていました。昭和45(1970)年に行われた大阪万博のステージで歌ったこともあるそうです。
 なお、平成23(2011)年における大垣少年少女合唱団は、団員数は約30名でその中に少年は2名ほどであり、練習方法も歌いながら寝転んでみたりと、当時の団員には見慣れないやり方であり、指導者は、当時指導された先生の教え子の方が中心です。
    
 C東京少年合唱隊→東京少年少女合唱隊(東京都新宿区)
    創立 1951年  移行 1961年

    敗戦から6年、未だその傷跡が癒えない昭和26(1951)年、東京都中央区の紅葉川中学校の音楽教師であった長谷川新一は、ヨーロッパの音楽的伝統に基づいた理想的音楽教育の実践のために少年合唱団を創立することを企画しました。ヨーロッパ古典宗教曲に造詣が深く、都内でグレゴリオ聖歌の講習会を行なっていた故ポーロ・アヌイ神父の協力も得て、東京都内の小・中学校から募集した少年たち30名によって、東京少年合唱隊が結成されました。少年合唱団としては10年間で、やがて東京少女合唱隊と一緒になって東京少年少女合唱隊となり、現在に続いています。ところで、東京少年合唱隊は、宗教曲の録音も残しています。合唱としては混声合唱でやや重い感じもしますが、基礎をしっかり積み重ねていることが伺える歌声です。また、ソリストの少年はたいへん美声で驚かされます。



     
 D西六郷少年合唱団→西六郷少年少女合唱団→新西六郷少年少女合唱団→西六郷少年少女合唱団(東京都大田区)
       創立 1955年    移行 1961年       新生 1999年         改名 2005年

 昭和30(1955)年、西六郷小学校少年合唱団として鎌田典三郎のもとに発足しました。当初鎌田が求めていたものは、ボーイ・ソプラノによる少年合唱でした。昭和33(1958)年からTBS全国子ども音楽コンクール合唱の部で6年連続日本一に輝くなど、常に日本の児童合唱の先頭を走ってきました。昭和36年には女子も加え、西六郷少年少女合唱団となりましたが、男子と女子の比率は常にほぼ1対1ということも特筆されます。平成11(1999)年鎌田典三郎の逝去後、西六郷少年少女合唱団は解散しましたが、元のメンバーを中心に、新西六郷少年少女合唱団として再発足。平成17(2005)年5月に西六郷少年少女合唱団と改名しました。現在、団員は小学校5年から高校3年まで、現在でも西六郷小学校合唱部とその卒業生を中心としたメンバーで構成されています。(旧)西六郷時代の伝統を受け継ぐことはもとより、常に新たな少年少女合唱文化の創造を目指しています。



  E三島少年合唱団→三島少年少女合唱隊(静岡県三島市)
 
  F蕨少年合唱団→蕨少年少女合唱団(埼玉県蕨市)

 蕨少年合唱団は、昭和33(1958)年、蕨市立北小学校の合唱クラブが中心となり、「蕨少年合唱団」として結成されました。昭和58(1983)年の創立25周年から女子もメンバーに加わり「蕨少年少女合唱団」となりました。現在では、未就学児から高校生まで一緒に活動しています。

  Gキンダーコール鳩笛の会→キンダーコール鳩笛の会(愛知県名古屋市)

  H今治少年合唱団→今治少年少女合唱団(愛媛県今治市)

 ウィーン少年合唱隊は、昭和30(1955)年の初来日をきっかけに、初期は3年に1回ぐらい来日していましたが、その来日がきっかけになって、児童発声やボーイ・ソプラノの研究をする指導者も現れ、日本各地で子どもの合唱団の創立が始まりました。愛媛県では昭和36(1961)年に今治では、今治少年合唱団が創立されました。今治では当時高等学校、中学校、小学校の先生であった、井上佳・近藤隆光・柳瀬潔が中心になって当時小学校の校長であった宇野隆義を団長とする愛媛県では最初の少年合唱団として結成されました。その後、昭和40年代には団員が100名を超える大きな団に成長しました。しかし、昭和58(1983)年には少女も加え今治少年少女合唱団となり、平成8年にはバンビの部(幼年部)も創設されました。平成22年に創立50周年という記念の年を迎えました。

 I宇和島少年合唱団(愛媛県宇和島市)
 
 昭和37年創立

  J松山少年合唱団→松山少年少女合唱団(愛媛県松山市)

 松山少年合唱団は、昭和39年(1964)年5月、小学4年〜6年の男子だけの少年合唱団として設立されました。そのきっかけになったのは、昭和38年のNHK全国学校音楽コンクールで、愛媛大学教育学部附属小学校が全国最優秀賞を受賞したことです。その時の指導者は、久米孝義と高須賀タキでした。そこで、「少年合唱のすばらしさを、附属小学校の子どもたちだけでなく、松山の少年たち全体にも経験させたい。」という声がわき起こりました。指導者には、もちろん附属小学校の二人の先生にお願いしたいという声があがりました。設立当初の育成団体は、松山道後ライオンズクラブ、松山市、南海放送の地域の3団体でした。その後17年間は少年合唱団として活動していましたが、昭和56(1981)年に小学5年〜6年の少女を加え、松山少年少女合唱団と団名を変えて活動しています。

 L新居浜少年合唱団→新居浜少年少女合唱団(愛媛県新居浜市)

 新居浜少年少女合唱団は、県下5番目の少年合唱団として昭和41(1966)年に誕生しました。と、新居浜少年少女合唱団のホームページには書いてありますが、それならば、愛媛県にはさらにもう一つ少年合唱団が存在したことになります。それは、どこでしょう?

 M西条少年合唱団→西条少年少女合唱団(愛媛県西条市)

 N津山少年合唱団→津山少年少女合唱団(岡山県津山市)           

 津山少年少女合唱団は昭和44(1969)年に少年だけの合唱団として生まれ、その後少女が加わり、これまで津山を代表する合唱団として定期演奏会や国内での演奏旅行など様々な活動をしてまいりました。昭和62(1987)年 4月 1日 津山少年合唱団から津山少年少女合唱団へ改名しました。

 西宮市少年合唱団は、設立当初より少年少女合唱団であることが判明しました。

   
2 解散または解散したとみられる少年合唱団

 下記の合唱団の中には,名称を変更したり所属変更のため名称が変わった団もあると考えられます。

 @東京ニッポン少年合唱団(東京)

  Aさくら少年合唱団(千葉県)

 B上高田少年合唱団(東京) 

  東京にあった少年合唱団で、奥田政夫が、東京都中野区立上高田小学校に赴任してつくりました。「全日本学生音楽コンクール」合唱部門や「NHK全国唱歌ラジオコンクール」で全国1位になったので、全国的に有名になりました。レコーディングの仕事が入ったため、学校名でやるわけにいかず、「上高田少年合唱団」という芸名でレコーディングことになりました。奥田政夫が練馬区立開進第四小学校・板橋区立中根橋小学校へと転勤後も、それぞれの小学校でつくった少年合唱団はこの芸名でレコーディングしています。1950年代から70年代前半にかけて、数多くのテレビのアニメ番組・実写番組のテーマ・ソングのレコードが残されていますが、1975年奥田政夫の退職によって解散しています。その歌唱の特徴は、「日本の少年合唱」に掲載しています。

  C湯沢少年合唱団(秋田)
  
 昭和45(1970)年大阪で万国博覧会が開かれましたが、その初日にエキスポランドの南側にある野外劇場で開かれた「第五回アジア少年少女合唱祭万国博大会」に秋田県から湯沢少年合唱団が参加、美しい歌声を響きわたらせました。 この大会には韓国、インド、インドネシア、フィリピン、台湾、それに国内から出演した二十五合唱団が参加しました。
 湯沢少年合唱団は、そろいの紺のブレザーに赤のネクタイ、クリーム色のズボンをスマートに着こなし、湯沢西小学校、菊地先生の指揮、湯沢南中学校 高橋先生のピアノ伴奏で「神の栄光」「アルプスの谷間」「ぼくらの空は四角くて」など五曲を歌い、とくに「冬の行進」のコーラスの途中に、観衆が手拍子を合わせて楽しい交歓風景を繰りひろげ、大会気分を盛り上げたという記録が残っています。

 D静岡少年合唱団(静岡)

 E金光少年合唱団(岡山)

 Fビクター少年合唱隊(東京) 後継団体であるTOKYO FM少年合唱団のページにも同様のことを掲載しています。

 ビクター少年合唱隊は、昭和36(1961)年に東京都内の小学校4〜6年生の男子で構成、新しい音楽教育の要望にあった少年合唱隊をという主旨で設立されました。その後、隊員は小学校1年生から募集するようになり、最大時は120名を越える大所帯であったといいます。 
 指導者陣は少しずつ異動していますが、名指揮者北村協一を中心としており、レコード会社の附属機関であったために、これまで多くの録音を残しています。とりわけ昭和49(1974)年から53(1978)年にかけて、「天使のハーモニーシリーズ」として、毎年2枚ずつ計10枚・ 140曲の歌を残しています。これは、唱歌や従来の児童合唱曲に加え、当時流行していたフォークソングや、各国の民謡等を集大成したものです。この合唱団の発声は、純粋なクラシックの発声ではありませんが、男の子らしい生き生きとした歌声であり、全体として、爽やかな仕上がりです。この発声の理念は外国の少年合唱団の模倣ではなく、日本の少年ののどにあった発声を求めていたと考えられます。また、ソリストが大変個性的で、独唱曲も何曲かあり、合唱曲の中にも、かなり独唱部分がみられるのが、このシリーズの特徴です。名前は記載されていませんが、「荒城の月」を歌う少年の抒情的な歌唱、「カリンカ」を歌う少年の声の輝かしさ、「二人の天使」のスキャットを歌う少年の巧みさなどが心に残っています。
 さて、ビクター少年合唱隊時代の「天使のハーモニー」シリーズの5年間の中でも、変化は見られます。この「天使のハーモニー」シリーズは発売当時に買ったものですが、その後日本にこれだけの少年合唱曲集はないと言う点でも貴重なLP集です。この文を書くに当たり、通して聴くと新たな発見がありました。
 まず第1は、1974年〜1878年の5年間でも歌声が3回ぐらい変化していることです。第1集と、第2・3集と第4.5集の間には違いがあります。第1集は、爽やかな少年合唱という雰囲気、第2・3集はフォークポップスに挑戦のため活動的でややクラシックから遠ざかり、第4.5集で、ポップスにも挑みながらまたクラシックに戻りつつあるという感じです。
 第2は、日本民謡をアレンジしたものが購入した当時より好きになってきたことです。当時はむしろ1回聴いたきりだったものもあります。
 第3は以前より好きだった「みんなの歌」で取り上げられたような外国曲は、やっぱり今でも好きだという少年時代の刷り込みの影響が大きいことです。今のTOKYO FM少年合唱団のさらっとしたヨーロッパ的な清澄な響きと比べると、いかにも日本の少年らしい歌という感じがします。しかし、これにはまた格別の味わいがあります。
 漫画家の竹宮恵子がボーイ・ソプラノによるレコード「ガラスの迷路」と「過ぎゆく時と友達」を企画・制作したときに、ソリストたちをこのビクター少年合唱隊から選んだのもうなずけます。さて、昭和54(1979)年に発売された「過ぎゆく時と友達」は、竹宮恵子好みのボーイ・ソプラノの美しさを生かした12曲の独唱曲(一部バリトンの平野忠彦や少年合唱とのかけ合いもある)が収められています。このようなレコードは、それ以前にもなく、それ以後にもない点で貴重ですが、できばえの方も優れたもので、日本のボーイ・ソプラノのレベルが上がってきたことを感じさせます。歌は、歌曲、映画音楽、カンツォーネ等いろいろなジャンルの曲が含まれているので、同じ基準では評価できません。5人の少年が歌っていますが、とりわけ、河村卓也の歌い回しのうまさと、日向理の歌の気品に心をひかれました。なお、日向理は、変声後バリトンとして高校時代、毎日学生音楽コンクールの代表として全国大会に出場し、シューベルトの「春の信仰」を歌ったのをラジオで聴いたことがあります。また、東京芸術大学声楽科在学中から劇団四季からスカウトされ、卒業と同時に入団。「オペラ座の怪人」「ジョン万次郎の夢」などに出演。卒業後も、オペラからミュージカルまで幅広い音楽活動を行いました。平成13(2001)年秋、長年の夢であったうたのおにいさんのオーディションに合格。「ひなたおさむ」の芸名で、番組開始の平成14(2002)年4月から平成22(2010年3月まで8年間出演。番組終了後はポコポッテイトに出演しています。また、久世基弘は、爽やかで真っ直な歌声の持ち主ですが、「ガラスの迷路」でも歌っており、ソプラノからアルトへと変声していく過程が記録されていて興味深いものになっています。このLPは、クラシックのレコードとしては異例のベストセラーとなり、ビクター少年合唱隊の人気を高め、その当時の定期演奏会にはなかなか入場できないといった現象が起きました。しかし、急激な児童合唱のブームの衰退にともない昭和59(1984)年4月にビクター音楽産業が経営撤退。名目上のビクター少年合唱隊は解散に追い込まれました。しかし、「狼少年ケン」(東映昭和38(1963)年「サンダーバード」(朝日プロモーション/東北新社昭和41(1966))の各テレビ主題歌や「青雲」(日本香堂昭和53(1983)年のCMソングなど、同じ世代を生きた人にとって忘れられない歌声を世に送っています。
 ビクター少年合唱隊は、設立後定期演奏会はもとより、オペラ・テレビなどに活躍して、團伊玖磨のオペラ「夕鶴」の決定盤と呼ばれる昭和45(1970)年に録音した合唱の歌声は今でもCDで聴くことができます。また、当然のことながら、活動は東京が中心であり、「歌はともだち」などにも出演したそうですが、残念ながら私はテレビ出演を見ていません。あるいは見ていたのかもしれませんが、記憶にありません。なお、広島少年合唱隊は、初期において組織作り等ビクター少年合唱隊に学んでいるそうです。

 

  Gキング少年合唱団(東京) キングレコードに所属する少年合唱団で「ポンポン大将」などの録音が残っています。

  Hコロムビア少年合唱隊=上高田少年合唱団より選抜(東京)  

 中公新書ラフレ12読売新聞社会部編「東京今昔探偵」に歌っている写真が出ています。上高田少年合唱団から選抜された児童で構成されています。コロムビアレコードに所属していたため、(神州天馬峡」の主題歌などをレコードに録音しています。

  I金沢少年合唱団(金沢) 

 昭和31(1956)年、当時金沢大学助教授であった石本一雄が設立し、市内小学校から選抜された団員が入団して昭和40年代後半には180人を擁し、40年を超える歴史をもった合唱団。ボーイ・ソプラノの少年合唱だけでなく、変声後の団員を加えた男声四部合唱を聞かせていましたが、その生涯をかけて主宰した、石本一雄が平成12(2000)年4月24日、他界されたことがきっかっけで、その年に解散しました。俳優 鹿賀丈史やシンガーソングライターの松田亜世もこの少年合唱団の出身です。なお、平成24(2012)年には、恩師をしのんで同窓会を開いています。

  

  Jクラウン少年合唱団(東京?) クラウンレコードに所属する少年合唱団

  Kみのお少年合唱隊(大阪) 

 昭和20年代から30年代にかけて、箕面町(市)立箕面小学校において、品川三郎が指導した男子合唱クラブが「みのお少年合唱隊」であり、正しい発声法を指導すれば、男の子の歌声(ボーイ・ソプラノ)は、女の子の歌声をしのぎ、芸術的にも高いものになることを証明していきました。この歌唱法は、ボーイズ・エコー・宝塚の中安保美によって受け継がれています。

 Lジャニーズ少年団(東京)  ジャニーズ事務所の前身

 Mロザリオ少年合唱隊(長野)

 長野県松本市の松本教会に付属していた少年合唱隊。現在は教育博物館になっている重要文化財の旧開智学校を前身とする 松本市立開智小学校の児童(2年生〜6年生)が多く入団していましたが、中学生になると変声期と重なるため、卒業(隊)していったそうです。指導者は、教会の神父でハンガリーのネムスギ神父が指導していた時期や、アルゼンチンの神父が指導していた時期があるそうです。活動は主に1950年代と1960年代に行われ、少なくとも1972年までは、活動していたことが判明しています。教会付属の少年合唱隊のため、宗教曲が中心でした。隊員には、ギリシャ語・言語学者の
八木橋正雄などもいます。

 N伊予少年合唱団

 愛媛県で4番目に創立された少年合唱団でしたが、昭和58年頃からその活動が休止状態になったようです

 O原少年合唱団(東京?)

  Pそよかぜ少年合唱団(東京 江戸川区) 現在休止中

 Q栃木少年合唱団(栃木)
 
プロフィール

 栃木少年合唱団は、ウィーン少年合唱団の来日を機に昭和37(1962)年に発足し、平成13年で40周年を迎えましたが、創立50周年を直前にして平成21(2009)年に解散しました。最大時は70名を越す団員を擁し、少年独特のきれいに澄んだボーイソプラノ、響きのある美しいハーモニーを目指し、また、ミュージカルという新しい分野にも挑戦し、二世の団員なども加わって練習に励んでいましたが、団員の減少により団を維持することができなくなり、ついに解散となりました。その経緯を述べたホームページは現存し、再興への想いを感じることができます。

 私が、栃木少年合唱団の舞台を鑑賞したのは、第2回と第3回の全国少年合唱祭で20分程度のステージに接しただけです。ですから、それだけで、この少年合唱団の全貌をつかむことはできませんが、第1回の全国少年合唱祭を栃木の地で開催したという心意気には感動しました。「無」から何かを創り出すというのはたいへんな情熱がなければできないことです。考えてみれば、私がこのHPを開設して、ファンサイドから日本の少年合唱団を応援しようと決意したのも、栃木少年合唱団の心意気と重なるものがあります。ここでは、第2回と第3回の全国少年合唱祭のステージを紹介します。


栃木少年合唱団の制服の美的センスは特筆できます。
  

第2回全国少年合唱祭」より

 幕が開くと、2‘nd Japan Boys Chorus Festibalという横断幕を背景に栃木少年合唱団が整列していました。ベレー帽とベストがオレンジ、シャツと胸ハンカチとハイソックスが白、蝶ネクタイとズボンと靴が黒で、この色彩的な調和は目を引きます。半ズボン22名(小学生)長ズボン3名(中学1年生)の25名で、今度初挑戦する合唱ミュージカル「けんちゃんとおばけ」の8曲を演奏してくれました。最初声部のバランスがやや悪いようでしたが、次第に調子をあげ、最後の「信じてる夢を」では、おそらくこの合唱団の持ち味の繊細な声の音色を楽しむことができました。ただ、この合唱ミュージカルは初挑戦の分野だけに、この合唱団の持ち味が十分発揮されたかというと疑問が残ります。きっと、旋律の美しい作品なら、この合唱団のよさをもっと見つけることができたでしょう。また、1曲ごとに解説をしてくれたのはよかったのですが、ズボンのポケットからメモを取り出して読むというのは感心しません。暗唱して語りかけるようにすべきだと思いました。ところで、解説の話し声を聞くと、中学生の2人は変声し、小学生にも変声期に入りかけている少年がいましたが、それでもがんばっている姿には好感が持てました。これは、後輩によい影響を与えることと思います。

「第3回全国少年合唱祭」より

 栃木少年合唱団は、今回もベレー帽とベストがオレンジ、シャツと胸ハンカチとハイソックスが白、蝶ネクタイとズボンと靴が黒で、この色彩的な調和は秀逸です。はっきり言って前回の、合唱ミュージカル「けんちゃんとおばけ」は初挑戦の分野だけに、この合唱団の持ち味が十分発揮されたかというと疑問が残りました。今回の演目は団歌と「ふるさとの四季」よりという小学唱歌のメドレーです。こういう曲は、みんなが知っているだけに、よくも悪くも失敗があれば目立ってしまいます。しかし、今回の演奏ではそういう破綻は見られませんでした。むしろ、この合唱団の特色である繊細な声による美しい日本の自然の移り変わりとそこに住む人の心の美しさを楽しむことができました。「故郷」で始まり「故郷」で終わるこの組曲は、ともすれば忘れがちになる日本の美を体現していました。人数的には厳しい状況ですが、それだけに、少人数でも表現できる曲に挑むことが大切だと感じました。神永秀明先生の指揮には秘めたる情熱を感じました。

「栃木少年合唱団を想う」
 このたび、栃木少年合唱団のホームページと相互リンクすることになりました。そのきっかけは、相互リンク先の「児童合唱頁」に、栃木少年合唱団のホームページが誕生したという情報を得たからです。一面識もありませんでしたが、ホームページ管理者で副団長の大豆生田さんにメールを送ってその想いを伝えました。大豆生田さんのホームページには既に、「ボーイ・ソプラノの館」についての紹介文もあり、見えない糸を感じた次第です。
 かつては70人を超える団員を擁した栃木少年合唱団も、今は団員10名程度という厳しい状況であるとのこと。何としても栃木少年合唱団の灯を消してはならないとの想いから、この文を書きます。
 桃太郎少年合唱団が平成10年6月にまとめた「日本の少年合唱の現状と課題」がきっかけとなって、かつて日本に40団体あった少年合唱団が9団体になっていることが確認されました。その後、調査漏れとなっていたボーイズ・エコー・宝塚や、新しく創設された新潟少年合唱団等が発見されましたが、それらの団体が厳しい状況におかれていることに変わりはありません。金沢少年合唱団も解散となりました。
 しかし、その厳しい中、栃木少年合唱団は、全国の少年合唱団がお互い励ましあって頑張ろうと、「全国合唱祭」を企画され、第1回の主管をされました。その志の高さは特筆できるものです。ただ、昔はよかったと言うだけでは発展性はなく、今だからこそ少年合唱団が少年の音楽的・人間的成長に貢献できるという新機軸を打ち出さなければならないときが来ています。この相互リンクをきっかけに、さらに新しい人間関係が生まれ、栃木少年合唱団が発展することを期待するものです。


  
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