少年が出演するオペラ(歌劇) (少年合唱団(隊)の定期演奏会を除く)
東京二期会オペラ劇場 モーツァルト 歌劇「魔笛」 平成27(2015)年7月16日(木) (テレビ鑑賞) |
「魔笛」ってこんなオペラだっけ?クラシック音楽そのものが絶滅危惧種になった今、オペラを現代的解釈と演出をすることによって新たな魅力をつくり、これまでとは違う観客を獲得しようという試みは、20世紀末頃から盛んになってきました。2年前、宮本亜門がリンツ州立歌劇場で演出した「魔笛」は好評で迎えられ、日本上陸することになりました。しかし、これは古典的な演出の「魔笛」やイングマール・ベルイマン監督による映画を見てその印象に支配された者にとっては、あまりの違いに唖然としたというのが正直な想いです。未来を舞台にし最先端テクノロジーが支配する世の「魔笛」は、仕事の関係でしかたなくガラケーを持たされ、電子ゲームに関心のない私にとっては、異次元の世界でした。
未来の世界にも当然のことながら平凡でさえない家族はあり、その3人の孫たちが遊ぶゲームの中から「魔笛」のストーリーが立体的な舞台と共に展開します。歌手たちは総じて二期会の理念でもあるアンサンブルオペラという意識が強く、あるいはそういう演出のためか、歌をきれいに歌っても、歌芝居による名人芸を楽しむところまでには至りませんでした。タミーノとパミーナの子どもたちが3童子で、祖父は弁者という家族の人間関係も新しい演出でしょう。未来になっても家族の人間関係には、不易の部分があります。また、歌以外でTOKYO
FM少年合唱団員の3童子が登場する場面が多いところや、その3重唱が抑え気味な大人たちよりも輝かしい声であったところが、ボーイ・ソプラノファンとしては楽しめるところでした。いや、大胆な3D映像や演出に目を奪われていると、善と悪が入れ替わるところなど対立するものが希薄に感じられ、まだ私が見落としているところ、聴き落としているところがたくさんあるのかもしれません。録画しているのですから、繰り返し見ることによって新たな発見があるのでしょう。
歌劇「トゥーランドット」 令和元(2019)年7月12日 東京文化会館 (テレビ鑑賞 同年9月9日) |
TOKYO FM少年合唱団が登場するからこのオペラのレポートを書こうとしたのですが、定期演奏会で「おぺら・オペラ・OPERA」ので赤い衣装を着て宮廷の子ども役の合唱を舞台で演じていたものとは違う想像を超えたものを観ることができました。特にオペラの場合、舞台の鑑賞とテレビでの鑑賞では見えてくるものは違ってきますが、見えてきたものを書こうと思います。
先ず、舞台装置そのものが「高さ」を活かして、エッシャーの無限階段のようなものを上手と下手の両方に配置し、広い空間の各所より歌声が客席に届くような構図ができており、舞台中央の高い位置にある玉座が上がったり降りたりすることで、王の「権威」というよりも「権力」を象徴しているかのようでした。また、求婚をしてもトゥーランドット姫の質問に答えられず首を取られた無念の王子たちの首が並んでいるおどろおどろした大道具か小道具かわからない装置は、このオペラが本来もっている悲劇性を象徴していました。
主役級の4人の歌唱表現力は、いずれも高い水準にあり、素晴らしい演奏であっただけでなく、宦官の三大臣ピン(桝貴志)、パン(与儀巧)、ポン(村上敏明)は、国内では主役級の実力者であり、歌のアンサンブルだけでなく、踊りながら歌う演技もあり、幕ごとに衣装を変え、コミカルさだけでなく、シリアスさも表現していました。さて、トゥーランドット役のイレーネ・テオリンは、澄んだ声質でありながら鋭い刃物のように鋭角的な歌で、姫の冷徹さを表現していました。カラフ役のテオドール・イリンカイの声質は、高音は輝かしく中低音は太目でたくましく響きそこから強い意志を感じさせました。リュー役の中村恵理は、リューがただ可愛いやさしさだけでなく、むしろ強い意志をもって行動していることを感じさせる歌唱であり、この歌声は、第1幕よりも第3幕のアリアこそがふさわしいと思います。ティムール役のリッカルド・ザネッラートは、落ちぶれて、ボロは着てても心の錦の凛とした気品を感じさせ、とりわけ、リューの死の場面の悲しみの表現には心惹かれました。
このオペラにおいては、合唱の位置づけが大きいと思いますが、ただ人数が多いというだけでなく、よく揃った力強い声が印象的でした。テレビでさえそう感じたのですから、実際の舞台ならなおさらそう感じたでしょう。また、宮廷の子ども役のTOKYO FM少年合唱団団員は、白い衣装で上手と下手の階段に]字を描いて歌っていました。第1幕は、特に暗い舞台なので、この白さがとても清純に見え、また歌の雰囲気にも似合っていました。
ここまでは、このオペラ公演のよいところを書いてきましたが、最後にトゥーランドットが自責の念にかられて?自刃する演出は、トゥーランドットがカラフの名を「愛」と呼び、ハッピーエンドになるオリジナルの台本からしても意外なだけでなく、個人的にはあまり納得のいかないところです。確かにプッチーニは、この作品の完成・上演を観ることなく亡くなりました。リューの死以後の部分は、友人のアルファーノの手によるものですから、プッチーニはこういう結末を考えていたのではないかという想像の余地が残ります。このオペラの練習風景を描いた動画の中では、指揮者・演出家より、これは、トゥーランドットがトラウマから解放された結果行った行為という風に説明されていましたが、それならば、リューがしたことはトゥーランドットの死への誘いを示唆し、カラフがこれまでにしてきたあらゆる努力は無に帰してしまって何だったの?と言いたくなります。このステージに実際に接していたら、帰りの新幹線では、音楽的には満足しながらも、演出的には東京駅弁名物の「賛否両論弁当」を食べながらこんなことを考えていたでしょう。
歌劇『ミランダ』 2017年9月29日 パリ・オペラ・コミック座 (テレビ鑑賞 2022年3月21日(月)) |
令和4(2022)年3月21日にNHKBSプレミアムシアターで放映(再放送)されたパリ・オペラ・コミック座による歌劇『ミランダ』は、演出家ケィティ・ミッチェルと指揮者ラファエル・ピションがシェークスピアの戯曲『テンペスト』とヘンリー・パーセルの作品をもとにして新しく創作したオペラということです。従って、私にとっては、原曲も知らない創作オペラですから、観た感想を書くしかありません。
「ミランダ」という名前は、はシェイクスピアの戯曲『テンペスト』に登場するプロスペローの娘の名前ですが、このオペラは、教会で行われるミランダの葬式から始まり、舞台はそこに集った人たちとそこに乱入してくる不審者たちのぶつかり合いを描く教会内部の室内劇として描かれていますが、動きはあまりなく、音楽も不審者乱入の場面を除いては動きが少なく、全体的には淡々とした流れで、この作品そのものは現代の創作オペラでとしても、そこから、バロック時代のオペラは、このように変化の乏しいものだったのかと推測させるようなオペラでした。
あらすじは、ミランダが、ずっと自分を支配し続けた父親に対して反逆する大芝居を仕組み、葬式は大乱闘になるというものですが、結局、オペラとしては、緊張が張りつめた歌と演技が心に残ったというぐらいで、これまでに鑑賞してきたオペラとは、あまりにも質的に違うため、このオペラをどこまでその本質をつかんだ鑑賞ができているかわからいというのが正直な感想です。
興味深かったのは、アンソニー(ミランダの息子)を演じるアクセル・リクヴィンが歌うアリアの清澄でありながらも微妙な心の動きを表す歌唱と、舞台に登場する人物全員がスローモーションになる場面の演出でした。アクセル・リクヴィンは、自分の歌の本質をバロック〜古典派の音楽に見つけ、決して当世流行のヒーリングミュージックには流れない信念をもった少年声楽家でこの時14歳。まさに変声期直前のボーイ・ソプラノとして最高の時期の演奏をこのような形で残せたことに価値を感じます。
歌劇『アマールと夜の訪問者』 (Blu-ray鑑賞) |
2022年12月17日、18日 ミュージアム・クォーター ムジークテアター・アン・デア・ウィーン
アマール……………………石嶋天風(ボーイ・ソプラノ)
アマールの母………………シャミリア・カイザー(メゾ・ソプラノ)
カスパール…………………パウル・シュヴァイネスター(テノール)
メルキオール ………………ニコライ・ボルシェフ(バス・バリトン)
バルタザール………………ヴィルヘルム・シュヴィングハマー(バス)
リージング音楽学校生徒 ダンス・チーム
アルノルト・シェーンベルク合唱団(合唱指揮:エルヴィン・オルトナー)
ウィーン交響楽団 指揮:マグヌス・ロドガール
演出:ステファン・ヘアハイム
メノッティの歌劇『アマールと夜の訪問者』は、1951年のクリスマス・イヴに、NBCのテレビ全米ネットワークでライヴ放送され、それ以後も何度か映像化されていますが、本作は、2022/23のシーズンにムジークテアター・アン・デア・ウィーン劇場の芸術監督に就任したステファン・ヘアハイムの演出により、2022年12月17日、18日に同劇場で上演されたステージの収録映像で、言語はドイツ語です。(最近は原語上演と字幕が主流ですが、特に、観客に子どもが多ければ、ウィーンの観客にとってわかりやすいドイツ語で上演するのもよいことだと思います。)
私は、これまでにいくつかの『アマールと夜の訪問者』の映像を見てきていましたが、1978年のアマールにロバート・サポルスキ 母をテレサ・ストラータスが演じたベツレヘム・ロケを交えた約2000年前の時代を忠実に再現したバージョンを先に見てしまうと、『アマールと夜の訪問者』は、こんなオペラかい?という気になってしまいます。このオペラの冒頭、アマールは笛を吹かず、アマールの虚言癖の物語を舞台の後ろで3人の人物がパントマイムで演じるような演出で(これは、視覚的効果を狙ったのならよいと思いますが)、後になって笛が出てくるので、笛があまり生きていないのではないかと感じます。また、アマールは時々杖をつきながらも、杖がなくても敏捷な動きをするときもあり、脚が不自由という前提が崩れてしまうのではないかと思いながら見ていました。
最近のオペラは、原典や時代を無視した演出家の解釈によるものが一般化してきており、この演出も、砂漠地帯のベツレヘムにある貧しい家とその周辺が舞台ではなく、小児病棟のような病室が舞台で、服装は、アマールは白い病衣で母親はセーターにブルージーンズのズボンをはくなど現代的なものであり、アマールはじめ、出演する子どもたちは、マルコメみそのCMのように、坊主頭に剃ったりしませんが、丸刈りのかつらをかぶって白いパジャマの衣装を着て登場します。村の子どもたちも、同じような衣装で背中に天使の羽のようなものが生え、アマールも最後には天使の羽が生えて、天国への?階段を昇って行くような舞台の構造は、アマールは、これから、いったいどこへ行くのだろうと思ってしまいます。
アマール役の石嶋天風(ウィーン少年合唱団員)は、清純な声で、けなげな感じを出そうとしていますが、このような演出のため、解説書を読まないと不治の病に侵された少年であることが伝わらず、脚が悪い悩みをあまり感じさせません。母役のシャミリア・カイザーは、母性を感じさせるものの、舞台全体が3人の王ではない白と緑と黒の衣装を着た訪問者や村人を含め、ダンスチームの来訪のように感じてしまい、母が盗みを働いて、3人の訪問者からとがめられる場面では、アマールがベッドに倒れ伏してしまったので、訪問者たちがそれを気遣って母を許すような話に感じてしまいます。そのような意味では、原作とは全く違う物語を演じているのではないかと感じてしまいました。
現代的な演出はこれからますます増えていくでしょうし、それは止められない流れになっています。しかし、そのような現代的な演出のために、一般的な観客、あるいは古くからのオペラファンががどんどんオペラから離れていき、原作者の意図から遊離していったのでは、意味がなくなってしまいます。現代的な演出が一人よがりになっている限り、オペラは次第に、あるいは急激に衰退していくのではないかと感じてしまいました。