昨年(2009年)7月 母が亡くなりました。

13年間共に暮らし、介護した日々が終わりました。

13年前、老人性癲癇の発作でわたしは危うく母を死なすところでした。
その年の夏、伊太利亜の姉がひと月の帰省を終え、帰国の準備を始めたある早朝、
母は突然の悲鳴と共に癲癇の発作に襲われました。発作は二日続けに起き、二回目の
発作では血中酸素が不足し、危うく命を落とすところでした。
当時、横浜で暮らしていたわたしは母がだんだんと衰え、日々の生活に不安を覚えて
いる様子をわかりつつ、手を拱いておりました。
自分の生活を優先し、毎月の帰省と毎日に電話でお茶を濁していたのです。
二回目の発作で命が危ないとの連絡を受け、明け方の東名高速を走らせる車の中で、
わたしは自分の冷酷さを呪い、腹の底から後悔しました。そして、もし母の命が救わ
れたのなら、わたしのその後の人生は母への償いにすると誓いました。
それが13年前の出来事です。

住居を横浜から静岡に移し、新幹線通勤をしながらの介護が始まりました。
老人性癲癇と共に、浜松西部医療センター金子先生の診断は生活習慣に伴うボケでした。
定期的なカウンセリングを受けながら、毎日帰宅すると肩を揉み、仕事の話を聞かせ、
週末は俳句の材料を探して二人で歩くリハビリが始まりました。
半年、一年経ち、外観は元気そうに見えても、金子先生は「目が死んでいる。
お母さんは人生を楽しんでいない!」そしてわたしの顔を見て、「あんた冷たい目を
してる。見ればわかる。お母さんがボケるのは自分の生活過ごし方のためだが、
家族が冷たいからこうなるんだ」と叱責された。

それでも幸いボケは3年で治り、ようやく普通の82歳の母に戻ることが出来ました。
その日、金子先生は母が作った絵手紙を見ながら、「あんたなんでここにいるの、
もう来なくていい!」と笑いながら言いいました。
母はようやく安心して暮らせると心から思えてきたのでしょう。
しかし、母が生き直しが出来たのは、私自身の生き直しができたからなのだとその時
深く思いました。

穏やかな日々が続く中、「発作は忘れたころにやってくる」と言われた医者の言葉に、
毎日母の寝息が聞こえるまで隣室で耳を澄ませ、夜中のトイレや咳払いにも細心の注意を
払って過ごしました。
米寿が近くなるとめっきりと体力も落ち、私の食事の世話を生きがいにしてくれていた母も、
台所に立つことが難しくなり、寝ていることが多くなり、昼間はヘルパーを頼み、
夜はわたしが支度をするようになりました。
それでも外出が好きでしたので毎週末、車で海を見に行ったり、お寺を回ったり、
食材を見たりと気持ちが落ち込まないよう工夫しながら二人で過ごしていました。

実際、仕事との両立は一日4時間の睡眠時間と言うことになり、体力的にも精神的にも
ギリギリの状態だったと思います。だんだんと弱気になっていく母となんとかモチベーションを
高めようとするギャップが最高潮に達したとき、わたしは顔面麻痺と言う思っていない
症状に襲われました。そのときのことは、[インド旅日記]で触れているのでここでは
書きませんが、恐らくあの時がピークだったと思います。
インドに行けたことで、わたしを取り巻く日常のストレスが一気に消滅したことで、
また介護を続けることが出来ました。
そして、2008年夏、定期検診の結果、腎臓の値が悪いとのことで総合病院へ入院。
長い検査ののち、ANCA血液関連と言う県内一人と言う難病と判明。
ネットで調べると、病後6ヵ月の生存率が50%と言うの病でした。
わたしは母との残された時間を改めて理解しました。
医者と綿密な相談をし、苦痛を与えず、延命のための治療はしない、
最後は、わたしが判断することを伝えました。

入院の間、会社から帰るとそのまま病院に泊まり、翌日病院から出勤する日々をひと月、
その後はイタリアから戻った姉に代わってもらい、2ヵ月後、退院することができました。
入院中わたしが出来ることは、QOL(クォリティ オブ ライフ)をいかに落とさないようケアできるかでした。
夜中に目が覚めたとき、食事のとき、トイレのとき、いままで一緒に暮らしてきたことを
病院でもしたかったのです。

しかし腎臓の機能低下により人工透析になってしまいました。
成人男性でもきつい人工透析にも関わらず、母は体がだるくて動けないよ、言いながら愚痴も
言わずに懸命に生きていました。
退院して2ヶ月、夏からの帰国を延ばしていた姉もイタリアに戻ることになり、また以前と同じように
母との二人暮らしができるか悩みました。

へルーパー、お手伝いさん、早期退職とさまざまな手立てを考えましたが、限界と悟り母に話し
施設を探すことにしました。母もいつも誰か傍にいてくれる所がが安心だと言ってくれ、幸い姉の友人が
優良な介護施設を紹介してくれました。
本当に偶然、入居予定者が病気でキャンセルしたばかりの1部屋を確保することが出来ました。
そして2008年11月末から平日は施設でお世話になり、金曜日にわたしが仕事から帰ると迎えに行き、
週末は自宅で過ごす、新たな生活が始まりました。
少しずつ施設にも慣れ、スタフもよく教育されていましたが、日曜日の夕方になり施設へ戻る時間が
近づくと、寂しげにうつむき加減になる母でした。

週2回だった透析も3回になり、体力、精神力、知力も目立って衰えて行きました。
自立歩行が困難になり車椅子の生活になり、自宅の畳の部屋には厚さ2cmのベニヤ板を敷き、
車椅子でも生活できるよう工夫し、まだまだ自宅で看てあげれる思っていました。
亡くなる年の春、車椅子に座りながら瀬戸川の桜吹雪を見る母の横顔は、今生の桜を名残惜しんでいる
ように見えました。

2009年7月、透析中に高熱が出て緊急入院。
一時は持ち直し、食事が出来るようになりましたが、もう自分で起き上がる体力もなく、わずかに
話ができるくらいでしたが、だんだん飲み込む力もなくなり流動食になってしまいました。
流動食では気も滅入るっだろうと、少し歯耐えのあるお菓子を買って来て、小さく割ってしばらく
噛ませてから取るようにすると嬉しそうな顔をしていました。

毎朝母の歯を磨いてから出勤、日中は姉が看てくれました。
7月21日午前、容態が急変したとの姉からの知らせで、急遽、新幹線に飛び乗り病室に駆け込むと、
母は人工呼吸器を付け、すでに意識がない状態でした。
大声で「遅くなってごめんね、いま戻ったよ!」と耳元で叫ぶと、母はわずかに目を薄く開けました。
それが最後でした。

母を一昨年の入院の時から看てくれた若い副主事医が、わたしが横浜から戻るまで、すでに自立呼吸の
出来ない母を手動の人工呼吸器を使い、何時間も空気を送り続け、命を保ってくれていたのです。
最後に母は私を認め、静かに逝きました。

葬儀は家族とごく親しい親戚だけで行いました。
母は、本当に笑っているような穏やかな顔をしていました。

母との13年間で、本当は、生かされたのはわたし自身でした。
13年の営みの中で、自分と言うエゴと戦い、敗れ、疲れ、そして放棄し、ようやく、生きるとは
どういうことか、母との生活の中で学ぶことができたのだと思います。

ようやくホームページに書くことが出来ました。
今思うと、精神的にも肉体的にもギリギリの中でよく持ちこたえたなぁと言うのが実感です。
苦しくなると、13年前のことを思い出しました。母の危篤の報を受け、夜明けの高速道路をひた走り、
途中のサービスエリアで腹の底から悔いたことを思い出すと、今あることを感謝し、
また歩き出すことができました。
そして、たくさんの運がなければ、間違いなく母と共倒れだったと思います。

〔生命の源〕は、朝日新聞の(千の風になったあなたへ贈る手紙)に応募した時のものです。

(2010年2月)



旅に出ました!
会社のリフレッシュ休暇を利用してインドへ行ってきました。
疲れました!でも、すっごく良かったです♪
(2007年2月)


すいません!
相変わらずさぼっておりました・・・
その間も、チラホラ来て頂いていた方もおられるようで・・・まったく恐縮!
ようやくやりたい事が出てきましたので、また再開!
〔山歩記〕と言う写文集です!どうかな?
(2006年1月)


まる1年間未更新で、クモの巣状態のHPでしたが、
外野からの暖かい励ましとシッタに押されて、また始めることに致しました。
これからは[モノクロ写真館]で、格調高く迫ってみたいと・・・無理ね。
(2004年9月)


この1年間の出来事。

1・腎臓結石で2回入院。ようやく8月に二個目の石(10mm×8mmくらい)が出て、
なんとか チンポの先から内視鏡を突っ込むと言う最悪の事態を回避し、やれやれ。

2・昨年10月に、
10ヶ月間で体重を15Kg減らし、10Kgの荷物を背負い、3000mの南アルプスの稜線に立つ
と言う誓いをたてました。
今年7月、その誓い通りに、筋トレと食事療法で減量し、南アルプス上河内岳(2800m)に25年ぶりに登頂。
稜線で猛烈な雨と風に吹き飛ばされそうになりながら、「俺は戻ってきたぞ!」と雄叫びしてきました。
でも、山小屋は、中高年の社交場と化し、昔の面影はなし。俺はどこへ行けばいいんだ!

3・モノクロ現像を開始。高校時代に写真部の奴にパネルにしてもらった写真を見ながら、
南アルプスの写真を自分で現像したくなり、オークションで機材を集め、独学で始めた。
この頃、ホンノ少し、楽しさがわかってきた。

4・林道で愛車ルーテシア全損。たまたまガードレールがあり、70mジャンプをまのがれた。
8月に、山小屋の喧騒を逃れ、南アルプス最深部(大無間山)に行き、
シラビソの林の山頂で独りテントを 張り、鹿の声とリスを見て遊んだ。
手荒い歓迎を受けた上河内岳とは対象的な桃源郷のような山行だった。
その帰り、 事故った。
まさに天国から地獄だった。
いや、幸い、誰も巻き込まず、怪我ひとつなく無事であった。
友人曰く、「まだ寿命があるんだ。やるべきことがあるんだよ」

と、波乱の1年でした。
これからは、モノクロの写真の紹介(自慢)のページ[モノクロ写真館]を中心にアップしたいと 思っています。
よろぴくデス。


絵手紙 俳句 雑記帳

下手だから、描けた時の歓びがある。 伝えたいと言う思いが、俳句になる。


なんて、言うのは出来すぎで・・・

書店で絵手紙の本を買ったのがきっかけで始めて早3年。
近所の公民館で月一回女性のみ(実は私は男である)の 絵手紙教室に、
若干違和感を覚えながらも、 「まぁ、いいか」と会社仲間には知られないように通っている。

俳句は母の持分である。
2001年12月には、どうにか句集を自費出版することができました。
押し付けられる方には迷惑な話ですが、
80歳を越えても 俳句への情熱は変わらず、我がハハなれど恐ろしい気も致しまする。

まぁ、雑記帳なので適当に遊んでいってください。(2001年9月)