お尻のエロティシズム

突然ですがお尻のエロティシズムについてマジメに考えて見ようと思います。
以前今東光氏が「僕は女性の胸も好きだがお尻はもっと好きだ」ということを書いていたのを見たことがあります。ぼくも以前、若い頃は女性の胸にはエロティシズムを感じたのですがお尻には感じませんでした。しかし、年を取ってくると何故かお尻のほうにエロティシズムを感じるようになってきたのです。
ところで世の中を見回すとむしろ胸にエロティシズムを感じない文化もあるようです。実は日本は古来は女性の胸にはエロティシズムを感じない文化だったと思います。ところが世の中が西洋化されてくると欧米の影響でバストにもエロティシズムを感じるようになってきた。
何故、古来日本の文化は胸に(はっきり言うとおっぱいに)エロティシズムを感じないと考えるかというと色々根拠があります。
まず、戦後もしばらくまでは人前でも母親が嬰児に胸を出して授乳する姿がめずらしくなかった。(今でもあるかも知れませんが)
また、海女は若い人でも上半身裸で海に潜っていた。(これは地方によって色々なようですが)
それから江戸時代の浮世絵などに女性の裸がありますがそれを見るとお尻は丁寧に書かれているのにおっぱいは非常に雑にしか描かれていない。ひどいにのになると乳首を省略してるのさえあります。
そから個人的な体験になりますが、まだぼくが子供の頃は少し年配の女性になると胸を出して腰巻のままで夕涼みをしているのを見たことがあります。このスタイルを考えると興味深いことに胸は出してもいいが太股は出してはいけないことに気が付きます。しかも腰巻というものはへそまで隠すのです。したがって胸はへそや太股よりもエロティシズムが乏しいということになります。
実はこういう文化(価値観)は日本だけでなく東南アジアから太平洋の島島まで共通なようです。と言いますのは太平洋には今でも男はふんどし一丁、女性は腰巻一枚でおっぱい丸出しというスタイルの島があります。ずいぶん前ですが兼高かおるのTV番組(「兼高かおる世界の旅」)でもそのような島の一つを見ました。そこでも胸を出してもいいが太股を出すのは非常に無作法となるので兼高が短パンの上にわざわざ腰巻をつけるという場面がありました。
つまり、太平洋の島々にはお尻にはエロティシズムを感じるが胸にはそれを感じないという文化があり、日本も古来はそれに属していたのではないかとぼくは考えるのであります。

では何故おっぱいがエロティシズムであったりお尻がエロティシズムであったりするのか? どうしてそのようにわかれたか?
ずばりぼくは性交の体位から来ると考えます。日本を含めて東南アジアから太平洋の島島まで元来性交の体位は正上位でなく後背位であった。というよりも後背位が哺乳類の本来の性行為の体位です。正上位は後年白人文化がもたらしたものなのです。
向かい合って交尾する動物なんかはヒトくらいしかいない。強いて上げればマンガ家の故・清水昆氏がクジラは海上で立ち泳ぎの姿勢で腹を合わせて交尾すると言うことを書いていたのですが、そのくらいでしょう。向かい合って交尾している犬がいたらお目にかかりたいものです。

後背位が正しい体位だったという根拠はある。
@夫のことを古語では背の君といいます。これは後背位でセックスをすると夫が背中になることから来た言葉だと言われている。
A正上位を英語ではミッショナリーポジションといいます。日本語にすると「伝道師の体位」。何故「伝道師の体位」かというと、太平洋の島島に来た伝道師が現地の女性といたすとき(やはり人間ですな)正上位でオコナった。で、原住民は「伝道師の先生達はケッタイナ格好でまぐわいをする」ってのでミッショナリーポジションという名がついたというのです。ということは本来が正上位でなかったということで正しいマグワイの仕方が後背位であったというわけです。
こういう風に考えると後背位文化圏とお尻=エロティシズム文化圏は重なることに気が付きます。
正上位で交わると当然男性にとって目の前にあるのは豊かな(そうでない場合もあるが)おっぱいであります。ここから性交→おっぱい→エロティシズムという経路が作られた。また、後背位で交わるとお尻や太股のほうが目につきますから性交→お尻→エロティシズムという道づけがされる。
エロティシズムでありますから正上位文化圏ではおっぱいが女性にとって恥ずかしい部分になり、後背位文化圏ではお尻、太股がが恥ずかしい部分になって行った。とこう考えるのであります。
ちなみに何故人類は性器を隠すのか、性器を隠しはじめたのかというのはなかなか難しい問題です。そんなの簡単じゃないか、恥ずかしいからだというでしょうが、その恥ずかしいというところが簡単ではないのです。
極端な例を上げればみんなが裸のところに一人、服を来て入っていくと服を着ているほうが恥ずかしいのです。
たとえば、銭湯の浴場から出て服を着たときに石鹸を忘れたことに気がつくとする。服を着たままで浴室のみんなが裸の中に一人はいっていくと意外や意外、服を着ていることが恥ずかしいことに気がつくのであります。
ことほど左様に「恥ずかしい」という感情は単純なものではなく、周囲の状況によっては逆にも作用するのであります。つまり、「恥ずかしいから性器を隠した」のではなく性器を隠すことによって逆に露出することが恥ずかしくなったのであります。
では、女性が何故パンツをはき始めたのかという説明ではぼくは非常にもっともらしい説を聞いたことがあります。(デパートで火事があってからというのではありませんよ。それよりずっと昔のことです)
それは細菌感染を防ぐためだというのです。文化程度も衛生も低いところでは女性は性器の構造上もともと細菌感染を起こしやすいので(特に水浴などをするとなおさらです)、細菌の侵入を防ぐためにパンツをはき始めたというのであります。もちろん細菌感染などという知識はなかったでしょうが経験的にパンツをはくと下の病気になりにくいということを知ったのでありましょう。これが非常にもっともらしく聞こえるのは南米のヤノマム族の例があるからです。
南米のアマゾンにはヤノマム族という原住民がいますが、彼らは一糸まとわぬ全裸でくらしています。ところが女性は陰毛を抜き取ってしまう習慣があるのです。(写真で見るとみんなパイパンです)虫垂炎の手術と同じで陰毛をなくしてしまえば細菌感染の危険性はぐっと防げます。これでわざわざパンツをはく必要がないとうわけで安心してすっぽんぽんでくらせるわけです。
パンツをはき始めると脱ぐのが恥ずかしくなるといのは容易に理解できることで、ここから羞恥心が芽生えた。つまり、恥ずかしいからパンツをはくのではなくパンツをはくから恥ずかしいのだとぼくは考えるんですがどうでしょうかね。