興味を持った人物 1 (2002/10/27〜)
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あ行 甘粕正彦(あまかすまさひこ) 1891-1945 「甘粕大尉」 角田房子著 (中公文庫) 山形県仙台市北三番町出身。 日本陸軍軍人。

1923(大正12)年9月16日 甘粕事件で軍法会議10年の刑を受けるが3年で出獄。 満州に渡り政界の黒幕的存在となる。

1939(昭和14)年11月 満州映画協会理事長就任。 李香蘭こと山口淑子さんが中国人の振りをし続けるのに耐えられなくなり、理事長室で甘粕に「満映を辞めたい。」と告げたところ、「気持ちは分かる。」と言って怒りもせずにその場で契約書を破り捨てたエピソードがある。

1945(昭和20)年8月20日 新京の満州映画協会理事長室で青酸カリを飲み自殺。

辞世の句は、「大ばくち、もとも子もなく、すってんてん」。

ちなみに敗戦後、甘粕の自殺を防ぐ為、部屋の外で見張りをしていたのは赤川次郎氏の父、当時、映画科学研究所主事であった赤川孝一氏。

- 綾戸智絵(あやどちえ) - 「マイ・ライフ」 幻冬舎 Jazz Singer Ayado Chie



大阪生まれの庶民派ジャズシンガー。 高校卒業後、ロスに渡米。 1984年に当時エリントン楽団にいたアルトサックスプレーヤ、ケニー・ギャレットとの共演をきっかけにニューヨークに渡る。 

1988年に、ハーレムターベナクルチャーチでゴスペル・クワイヤーとしてコネチカット、ニュージャージー、ジョージアを中心に活躍。 シャーリー・ホーン、ジュニア・クックなどとのセッションを経験。 

1991年に帰国、神戸在住。 彼女の魅力はなんといっても熱いハートが伝わってくるライブ。 しゃべくりのうまさはお笑い芸人並み!?。

- 安藤昇(あんどうのぼる) - - 安藤昇


昭和27年、26歳で東興業(安藤組)を発足。 安藤組解散後は俳優として活躍し、多くの映画に出演。 他の役者とは違うホンモノの凄みのある演技を見せる。 

現在、映画プロデューサー、執筆家。 ちなみに作家の安部譲二氏は安藤組出身。

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- イサム・ノグチ 1904-1988 - イサム・ノグチ庭園美術館


20世紀を代表する石の彫刻家。 父は詩人の野口米次郎、母はアメリカ人。 米国ロサンゼルス生れ。 パリでブランクーシに師事し、彫刻、造園、家具デザインなど幅広い仕事に東洋的簡潔さを特徴とする。

イサム・ノグチは、モニュメント、庭や公園などの環境設計、家具や照明のインテリアから、舞台美術までの幅広い活動を行った、きわめてユニークな芸術家。 1956年、初めて庵治石の産地である香川県の牟礼町を訪れたノグチは、1969年からは五剣山と屋島の間にあるこの地にアトリエと住居を構え、以降20年余りの間、石の作家である和泉正敏をパートナーに制作に励んだ。

女優、ジャーナリスト、元参院議員の山口淑子さんの元夫。

自分のふるさと、香川県にあるイサム・ノグチ庭園美術館へは近々、訪問を計画中。

- 石井貴士(いしいたかし) 1973- - イエローゲートプロジェクト


元S放送アナウンサー。 2002年より、自由人としてアナウンサー養成講座講師、作詞家として活躍。 2002年10月現在、世界各国をミステリーハンターとして冒険中。

- 浮谷東次郎(うきやとうじろう) 1942-1965 「俺様の宝石さ」 筑摩書房、「速すぎた男のドキュメント」 三樹書房、「がむしゃら1500キロ」 筑摩書房 浮谷東次郎 Web Site


1960年代に活躍した天才レーシング・ドライバー。 

高校時代、アメリカへ留学し、自ら大学を設立するという生涯の夢を抱く。 その資金稼ぎのためにレーサーという職業を選んだといわれる。 親友、本田博俊氏(現「無限」社長)との出会いは彼がホンダの創業者、本田宗一郎氏に「お宅の息子さんと友達になりたい」と手紙を出した事から始まった。 現在では伝説となっている船橋サーキットでの大逆転レースは多くのファンを魅了した。

海外でのレース参戦を翌年に控え、またトヨタが東次郎の為に作ったともいわれる名車「トヨタ2000GT」の発表を間近に控えていた1965年8月20日、鈴鹿サーキットで練習中、コース上にでてきた二人の人間を避けるため、自分自身は照明灯に衝突して死亡。 享年23歳。

この人物を知ったのはアメリカ留学時代にお世話になったカーレース好きの先輩が貸してくれた浮谷東次郎の自叙伝がきっかけ。 この本を読んで自分も何かやってやろうと燃えていた懐かしい記憶がある。 留学を考えているひとは一読の価値あり。

- 岡本太郎(おかもとたろう) 1911-1996 「自分の中に毒を持て」 (青春出版社) 岡本太郎記念館
川崎市岡本太郎美術館



「人間にとっての成功とはいったい何なんだろう。 結局のところ自分の夢に向かって、自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか。 夢がたとえ成就しなかったとしても、精一杯挑戦した、それで爽やかだ。」 

「今までの自分なんか蹴飛ばしてやる。そのつもりでちょうどいい。」 (以上 「自分の中に毒を持て」青春出版社より)

「面白いねぇ、実に。 オレの人生は。 だって、道がないんだ。 眼の前にはいつもなんにもない。 ただ前に向かって心身をぶつけて挑む。 瞬間、瞬間があるだけ。」

「文章を書き、自分の考え、問題を追いつめる。 当然思索自体がアクションであり、アクションはまた同時に、、、激しい思索であるに違いないのだ。」

あるひとが言った 「あなたは絵描きさんでありながら、盛んに文章も書くし、いったいどっちが本職ですか」 「本職? そんなのありませんよ。 バカバカしい。 もしどうしても本職って言うんなら 『人間』 ですね。」

「芸術は爆発だ!」を自己の作品で体現したひと。 岡本一平、岡本かの子の長男。 若き頃、パリにて修行。 文化論の著作も多数ある。 氏の作品との最初の出会いは1970年大阪万博での「太陽の塔」。 氏の作品は見た人に「これはいったいなんなんだ」と考えさせる強烈なインパクトがある。

- 大山倍達(おおやまますたつ) 1923-1994 - 大山倍達極真記念館


9歳から拳法を学び、中学2年で初段となる。 1947年、戦後初の全日本空手道選手権に出場し優勝する。 生涯を空手に捧げることを決意し、山ごもり修行に入る。

1950年、千葉県館山で牛と対決。牛を倒すこと47頭。 その後、アメリカやメキシコでも牛と対決し「牛殺しの空手家」として世界にその名をとどろかせた。

1952年、日本空手の代表として渡米。 ウイスキー瓶を手刀で切る技は、神の手(ゴッドハンド)と称賛された。

1956年東京池袋に大山道場開設。後の極真会の母体となる。

1958年、「Whats is Karate?」を出版。海外で大ベストセラーとなる。

1964年現在の国際空手道連盟極真会館を正式に発足。

1969年、空手の生命は実戦にあるという信念に基づき、実際に相手にあててダウンをさせた場合にはじめて1本とするルールで、第1回オープントーナメント全日本空手道大会を開催。今日のフルコンタクト空手の原点となった。

1971年、少年マガジンに「空手バカ一代」連載開始。 この間、海外歴訪及び指導多数。世界中に公認支部道場多数をもつ。


1994年4月26日、永眠。

さ行 笹川良一(ささかわりょういち) 1899-1995 「颯爽たる人生 笹川良一」 (扶桑社) 人物探訪 笹川良一 (獄中の東条英機を叱咤した男)




1899年、大阪・豊川村(現・箕面市)で生まれた笹川氏は、二十六歳の若さで村会議員に当選。 国政に進出し、時の翼賛政治に抵抗。 世界を舞台に、その名の知られた行動家だった。

戦後には自らA級戦犯として名乗り出たが、それには日本の正当性を世界に訴える目的があったという。 後に全国モーターボート競走会連合会、日本船舶振興会(現、日本財団)会長に就任し、ハンセン病対策などの社会奉仕と青少年育成事業に心血を注いだ。

(略歴)
1899年(明治32年) 大阪の豊川村(現・箕面市)にて誕生
1925年(大正14年) 豊川村村議会議員に当選
1931年(昭和6年) 国粋大衆党結成、総裁に就任
1935年(昭和10年) 恐喝、暴力行為取締法違反、業務妨害などの容疑で検挙される
1942年(昭和17年) 無罪確定、 衆議院議員に当選
1945年(昭和20年) 衆議院議員辞職、 A級戦犯指名を受け、巣鴨プリズン入り
1948年(昭和23年) 不起訴処分、釈放される
1951年(昭和26年) 全国モーターボート競走会連合会発足(会長・足立正)
1952年(昭和27年) デモ隊に火炎瓶・竹槍で自宅を襲撃される(吹田事件)
1955年(昭和30年) 全国モーターボート競走会連合会会長に就任
1959年(昭和34年) (財)日本船舶工業振興会設立、会長に就任
1962年(昭和37年) (財)日本船舶振興会設立、会長に就任
1968年(昭和43年) 国際勝共連合創設、名誉会長に就任
1974年(昭和49年) 船の科学館が開館
1978年(昭和53年) 勲一等瑞宝章受章
1987年(昭和62年) 勲一等旭日大綬章受章
1995年(平成7年) 死去(96歳)

ちなみに、川端康成(ノーベル文学賞受賞)とは、小学校時代の同級生。

- 三代目魚武濱田成夫(さんだいめ うおたけはまだしげお) 1963- 「自由になあれ」 角川文庫 三代目魚武濱田成夫11 


自分を褒め称える作品を創造し続ける芸術家。 デザイナーとしてパリでの作品発表経験もある。

女優 大塚寧々の元夫。

- 薩摩治郎八(さつまじろはち) 1901-1976 「せ・し・ぼん−わが半生の夢」 山文社


大正時代、パリ社交界でバロンサツマと呼ばれた人物。 当時、現在の価値で600億円もの金を使いまくったといわれる日本一(?)の放蕩息子。 パリ留学中の日本人画家のパトロンとして活躍。 治郎八の祖父治兵衛はもと綿糸綿布商であったが、戊辰戦争に際し彰義隊を相手に商売して莫大な儲けをなし、その後も帝国海軍と結んで軍需で巨富を積み上げた。 母方の実家、杉村家も毛織物を扱う一財閥であった。 大正前半の第一次大戦で、さらに財力を数倍にした。

治郎八の一大事業は、パリ市南部の大学都市に日本会館を建てて、寄贈したことである(大正9年から足かけ9年かけて昭和4年に完工。 総工費は現在の数十億〜100億と言われる)。 これは、もともと日仏両国政府の合意によって計画されたが、日本政府は資金不足を理由に薩摩父子に肩代わりを要請し、完成させたものである。 薩摩家の財力を枯渇させるため、参謀総長 上原勇作大将が中心になって、政府筋が企んだものといわれている。

- 白洲次郎(しらすじろう) 1902-1985 「風の男 白洲次郎」 新潮文庫 カントリージェントルマン。 その男の名は白洲次郎。 世界の超一流品を愛した男、重厚にして自由気まま。 毒舌家にして友情に厚く、紳士にして野性的、窮地に落ちても決して絶望することを知らない、まさに風の男。

カントリージェントルマン。 これは単にイナカ紳士と訳してはいけない。 地方に住みながら中央に目を光らせる時流に流されず自らの考えを身をもって実行する人のことである。

吉田茂内閣誕生時、貿易庁長官を任命され、吉田の経済政策を具体化する原動力となる。 「白洲三百人力」。 吉田は白洲次郎を頼る気持ちをそう表現した。 

世界の一流品をこよなく愛し、好きな車を乗り回し風のように生きた白洲次郎は1985年生涯の幕を閉じた。 その遺言状に書かれた言葉は、

一、葬式無用
一、戒名不用

白洲次郎は「巨人の星」の花形満同様、学生時代からオープンカーを乗り回していた兵庫県芦屋出身の資産家の子息。 ケンブリッジ大学留学中に実家が倒産し、帰国。 商社マンとして活躍中、吉田茂の知遇を得る。 白洲正子の夫。

- ショー・コスギ 1948- 「Make Dreams Come True」 (ウィネット)、 「頭はいらない! 英会話」 (講談社文庫)、「最強の男ケインコスギになる43の秘訣」 (講談社)ほか ショー・コスギ塾 


1948年6月17日生まれ。 19歳で単身渡米。 1981年、スタントマンとして参加した「燃えよニンジャ」で準主役に抜擢される。 以後数々のハリウッド映画主役を張り、日本人唯一の100万ドルスターに。

まさにジャパニーズドリームの体現者。

- 住田修(すみだおさむ) 1969- - Shimano Racing Team 1969年10月14日香川県生まれ

立命館大学卒業、 1996年アトランタオリンピック出場選手。 種目/自転車 (ロード/個人ロード)。 シマノ所属。

住田氏とは高校時代の3年間、同じクラスメートだった。 高校時代から自転車部に所属し、当時からその分野では目立った存在だった。

た行 高見広春(たかみこうしゅん) 1969- 「バトル・ロワイヤル」 (太田出版) 高見広春インタビュー


1969年兵庫県生まれ、香川県育ち。 大阪大学文学部美学科卒業、日本大学通信教育部文理学部中退。 四国新聞社で5年間勤務後、『バトル・ロワイアル』でデビューした。 東映系で公開された深作欣二監督の映画版が国会を巻き込んだ大論争となったのも記憶に新しい。

ちなみに高見氏の実家はわたしの香川県の実家からわずか50メートルほど離れたところにある。 出身小学校、中学校、高校と同じで、幼少の頃から、ものすごい読書家であったことは知っていたが、まさかこのような衝撃作で作家としてデビューするとは、、、。 小学生の時、地元の秋祭りで、ペアを組んで和太鼓をたたいていた頃がなつかしい。 今後のご活躍を期待しています。

- たにもとたずこ - - 腹話術チャタリック 


腹話術師。 腹話術講師。 

国際腹話術師協会会員、北米腹話術師協会会員、人権団体アムネスティーインターナショナル会員。

1986年より活動開始。 北米で多くの腹話術師を育てたメイハースタジオの腹話術講座で学び、1996年より世界腹話術大会に毎年参加,出演。 2000年に腹話術教室開設。

現在、教育関係や国際交流行事、幼稚園、保育所、小中高校、地域の祭り、ミュージアムや商業イベント等で活動中。

- 谷豊(たにゆたか) 1910-1942 「マレーの虎 ハリマオ伝説」 (文春文庫) 福岡県生れ。 実存したハリマオ伝説の主人公。

ハリマオ、すなわちマレー語で虎を意味する『HA・RIMAU』とは、太平洋戦争の開戦劈頭、日本陸軍の特務機関員として行動した谷豊の、マレー社会におけるニックネームである。 

谷豊という31歳で生涯を終えた青年は、戦後、映画、小説、テレビにマンガにと一世を風靡した、「マレーの虎・ハリマオ」のモデルとなった実在の人物だった。


ハリマオの生涯

- 頭山満(とうやまみつる) 1855-1944 - 頭山満と玄洋社 


右翼の巨頭。 福岡藩士の子。 萩の乱に連座して入獄。 出獄後、自由民権運動に従い、玄洋社を創設、井上・大隈の条約改正案に反対。 国会開設後は国権の伸張、大陸進出を唱え、孫文との交流もあった政界の黒幕。 中村天風氏が師と仰ぐ人物。

- ドクター中松(どくたーなかまつ) 1928- - ドクター中松ドットコム


東京大学卒業 ・国際創造学者 ・工学、法学、医学、理学、人文学博士

・米国科学学会で歴史上5人の「世界一の偉大な科学者」に選定される。

・最初の発明は5歳。コンピューター、フロッピィ-ディスク、灯油ポンプ、セレブレックス等 発明件数3000件を突破して、エジソンの1093件を抜き、世界第一位

・IBM社に、フロッピー、リジッドディスク、リール等の16の特許をライセンスしている世界 唯一の個人

・ブッシュ大統領招待晩餐会において米国発明最高賞「発明先駆者大賞」を受賞。

・アトランタ「国際著名人名誉殿堂」殿堂入り第一号に選定される。

・ニューズウィーク誌の「世界12傑」に日本人から唯一選ばれ、その価値1時間1万ドルと評価される。

・アメリカ大リーグ、ピッツバーグ・パイレーツの始球式を大統領の代わりに行う。 (野茂や伊良部よりも10年前にマウンドに立つ)

な行 中村天風(なかむらてんぷう) 1876-1968 「成功の実現」、「盛大な人生」、「心に成功の炎を」 以上、日本経営合理化協会出版局。 「運命を拓く」 講談社 中村天風ファンクラブ 

本名は中村三郎。 日清・日露戦争で軍事探偵として活躍。 30歳のとき、肺結核発病、救いを求めて欧米へ。 米国滞在中にコロンビア大学にて医学博士となる。 偶然出会ったヨガの大聖人カリアッパ師に教えを受け、インドで悟りを開く。 帰国後、東京実業貯蔵銀行頭取など実業界で活躍。 

大正8年43歳のとき一切の社会的地位、財産を放棄し大道で辻説法をはじめ、現在の「財団法人天風会」を創設。 直接薫陶を受けた者は十万人を超える。 

天風門下生の主なひとびと: 原敬、尾崎行雄、重宗雄三、杉浦重剛、三島徳七、大佛次郎、宇野千代、東郷平八郎、山本五十六、山本英輔、双葉山定次、六代目三遊亭円生、松下幸之助、浅野総一郎、広岡達郎、稲盛和夫など。

- 西村真琴(にしむらまこと) 1883-1956 - 西村真琴 


生物学者。 長野県生れ。 コロンビア大学植物学専攻科にて博士号取得後、北海道帝国大学教授となる。 その後、大阪毎日社会事業団常務理事、大阪府豊中市市議会員、豊中市公民館長を歴任。 

1928年、ロボット「学天則」を製作し、京都の昭和天皇御大礼記念博覧会に出品。 この「学天則」は映画 「帝都物語」にも登場した。

俳優 故西村晃氏の父。

- 南原繁(なんばらしげる) 1889-1974 「国家と宗教」 南原繁


政治学者。 元東大総長。 対日講和条約締結にあたり、全面講和を唱え吉田茂首相と対立。 我が母校、香川県立三本松高校の前身、香川県立大川中学校出身。

- 二代目引田天功(にだいめひけたてんこう) 1959- - Princess Tenko


本名:板倉満里子

1959年6月29日新潟県生まれ。

日本女子体育短大中退。 
昭和51年から初代引田天功に師事。 同 53年には歌えるマジシャン「朝風まり」としてデビュ ー。 初代急死に伴い、昭和55年末に2代目天功を 襲名、翌年6月、故郷の新井市で初公演を果たす。 以来、初代が得意とした脱出マジックを踏襲しながらも、自分なりの新しい技と演出でマジック界に新風を巻き起こす。 昭和62年のパリ公演から活動を世界に広げ、平成2年にはマジック界最高の栄誉「米国マジック・ア カデミー大賞」を受賞。

現在、世界のトップマジシャ ン、そしてアメリカの人気アニメ「TENKO」のキ ャラクターとして絶大な人気を誇り、全世界で年間 300ステージをこなす。 平成12年には、人気俳優のジ ャン=クロード・バンダムとの熱愛宣言が話題になっ た。

は行 早川雪洲(はやかわせっしゅう) 1889-1973 - 千葉県生まれ。 渡米して名監督セシル・B・デミル(1881〜1959)に起用され、日本人初のハリウッド・スターとなり国際的に活躍した。 代表作に「タイフーン」(1917)、「ああ無情」(1951)、「戦場にかける橋」(1957) がある。

 
- 花登(はなとこばこ)
1928-1983 - 本名:花登善之助(旧姓川崎)

劇作家・脚本家・演出家

昭和3年(1928)大津市上北国町(長等一丁目)に生まれ。
同志社大学卒業後、船場商社に入社するが病のため退社。
民放開始とともにその才能を見出され、喜劇の道を歩む。

昭和23年(1948年)、大津で自立劇団人間座の結成に参加、後に文芸座を創立するなど演劇活動に取り組む。 昭和33年「やりくりアパート」(朝日放送)の脚本・演出でテレビデビュー、以後「番頭はんと丁稚どん」(朝日放送)、「細うで繁盛記」(読売テレビ)、「どてらい男」などで一世を風靡した。

劇団「笑いの王国」「喜劇」を主宰、昭和43年「飛騨古系」で芸術祭文部大臣賞、同57年、第一回滋賀県ブルーレイク賞を受賞。 昭和58年、56歳で没した。 

「泣くは人生、笑うは修業、勝つは根性」が人生訓。 生涯の舞台脚本数500本、テレビ脚本6,000本に及んだ。

ちなみに超カルト野球アニメ「アパッチ野球軍」の原作者でもある。 ―> アパッチ野球軍歌詞

ま行 前田光世(まえだみつよ) 1878-1941 - 前田光世 


グレイシー柔術の生みの親。 

1900年代の初頭に始まった世界的な格闘技運動のさなか、前田は柔道の技をひっさげて世界の格闘家達と闘い抜いた。 その戦歴は2000試合をほとんど無敗。 前田は,世界を転戦しながらブラジルへ渡りグレイシー一家に柔術を教えた。 エリオ・グレイシーは,この柔術を総合格闘技として体系だて、これが現在のグレイシー柔術の始まりとなった。

- 升田幸三(ますだこうぞう) 1918-1991 「勝負」 中央文庫、「歩を金にする法」 小学館文庫 升田幸三の生涯 


広島生れ。 14歳で家を出、木見金治郎名人に入門する。 昭和27年、木村義雄名人を破り王将位獲得。 昭和31年には大山康晴名人に対し、「名人に香車を引いて勝つ」という将棋史上空前絶後の記録を残す。 

昭和32年、名人位を獲得し、
王将・九段を合わせ、史上初の三冠王となる。 この時、彼は一つの言葉を残した。

「たどり来て 未だ山麓」

ライバル大山との数々の名勝負をとおして、「大山升田時代」と呼ばれる一時代を築く一方で、「新手一生」を掲げ常識を覆す独創的な新定跡を次々と創作していった。
 

- 松岡洋右(まつおかようすけ) 1880-1946 - 松岡洋右




政治家。 山口県生れ。 13歳で渡米。 アメリカで苦学しオレゴン州立大学を卒業。 外交官・満鉄副総裁ののち、政友会代議士。 国際連盟脱退の際の首席全権。 満鉄総裁を経て近衛内閣の外相として日独伊三国同盟・日ソ中立条約を結ぶ。 第二次大戦後、A級戦犯として裁判中、病没。

松岡洋右を初めて知ったのは中学校の歴史の時間。 「国際連盟の総会で45分にわたる連盟決別の演説を英語で行い、席を蹴って、堂々と退場した」と聞いたときには、その所業の賛否は別にしてすごいひとがいたもんだと一種の感動を覚えた。

(国際連盟脱退までの流れ)
1931年、満州事変が起こる。 中国東北部の鉄道爆破事件をきっかけに、日本軍が軍事行動を開始。 中国東北部のほとんどを占領する。 1932年3月、日本軍は、清朝最後の皇帝溥儀を皇帝に加えて、満州国建国を宣言させる。

1932年11月、満州国建国を認めるか否かをめぐり、スイス、ジュネーブで、国際連盟の臨時総会が開かれた。 このとき松岡は、日本代表団の主席全権に任命された。 本会議で、日本は非難を浴びる。 議場では、満州国建国は認められないという意見が相次ぐ。 これに対し松岡は、得意の英語で反論し、これは、「日露戦争での10万の英霊の犠牲と、満州事変で確保したものである」との日本の立場を訴えた。

そんなある日、日本政府からの指示が届いた。 「もし、満州国建国が認められなければ、国際連盟からの脱退もやむなし」。 松岡は電報を送り返した。 「脱退のやむなきにいたるが如きは、遺憾ながら、あえてこれをとらず」と。 松岡自身は、あくまで、国際連盟に残るべきだと考えていたのである。

1933年2月24日、決議が行われた。 満州における中国の主権を認め、日本の占領を不当とする決議案は、賛成42の圧倒的多数で可決される。 反対は、日本の投じた1票のみだった。 可決直後、松岡は演壇に登り、次のように発言した。 「この会議で採択された勧告を、日本が受け入れることは不可能である」。


連盟の総会で首席代表の松岡洋右は、45分にわたる連盟決別の演説を行い、堂々と退場した。 それは、日本を非難した各国代表にさえ多大な感銘を与えるものだった。

その一月後、1933年3月、日本は、国際連盟脱退を通告する。 朝日新聞の見出しは「連盟よさらば。 わが代表堂々と退場す」と満州国の承認を否決した国際連盟の会議の席を蹴った松岡洋右を称えた。

1933年4月、松岡は失意の中に帰国。 しかし、そこで思いもよらぬ光景を目にする。 交渉に失敗した松岡を待っていたのは、国民の大歓声だった。 新聞は、次のように報じた。「松岡の姿は、凱旋将軍のようだった。 わが国は始めて、[我は我なり]という独自の外交を打ち立てるにいたったのだ」。 松岡は、一躍、国民的英雄となっていた。

 
- 松浪健四郎(まつなみけんしろう) 1946- 「松浪健四郎 アフガンを行く」 (五月書房) 松浪健四郎ホームページ


大阪府生れ。 アメリカ東ミシガン大学に留学後、日本体育大学を卒業。 日本大学大学院博士課程単位取得。 アフガニスタン国立カプール大学で3年間体育学の指導に従事した後、専修大学教授。 専修大学教授辞任後、衆議院議員となる。

 
- 松本道弘(まつもとみちひろ) 1940- - 大阪生れ。 関西学院大学卒業。 日商岩井勤務。 アメリカ大使館同時通訳、NHKテレビ上級英語講座講師を務めた後、国際ディベート学会会長、ホノルル大学教授。

19歳のとき、初めて氏の書籍と出会い、その英語習得にかける執念に感銘を受けた。 数年前、大阪で一度直接お会いしたときがあるが、気さくな方で「いつでも連絡していらっしゃい」と自宅の電話番号を名刺にさらっさらっと書き、それをくださった。

- 水野弥一(みずのやいち) 1940- 「最初の一歩、最後の一歩」 (タッチダウン社) 京都大学アメリカンフットボール部監督。 京都大学大学院工学研究科修士課程卒業。 (株)スズキインターナショナル役員。 (株)修英役員。 (有)アクト代表取締役。 関西学生アメリカンフットボール連盟理事。 

京都大学アメリカンフットボールチーム監督として、関西リーグ優勝(うち2回同率)10回、甲子園ボウル優勝6回、ライスボウル優勝4回。

(略歴)
1940年 6月13日生まれ
1959年 防衛大学校入学
1961年 京都大学工学部鉱山学科入学
1965年 同大学院工学研究科進学
1968年 同修士課程修了
  トヨタ自動車工業株式会社入社
1971年 コロラド・スクール・オブ・マインズ大学院留学
1974年 株式会社スズキインターナショナル入社
1981年 同顧問就任
現在 株式会社スズキインターナショナル役員
株式会社修英役員
有限会社アクト代表取締役

<アメリカンフットボール>
  防衛大学、京都大学で選手
1965〜80年 京都大学コーチ
1980年 京都大学監督就任
現在 京都大学監督
関西学生アメリカンフットボール連盟理事
(戦績) 関西リーグ優勝9回(うち2回同率)
甲子園ボール優勝5回
ライスボウル優勝4回

- 水森亜土(みずもりあど) 1939- - 水森亜土 


本名:里吉文江 (さとよし・ふみえ)

1939年12月23日東京都中央区日本橋生まれ

イラストレーター、ジャズ歌手、舞台女優、作家

桜蔭女子学院卒、 モロカイ・ハイスクール(ハワイ)卒

ハワイアン、ジャズを学び、日劇ミュージックホールで歌手デビュー。 ジャズは水島早苗に師事。 昭和39年、劇団未来劇場公演「彼も仲間も悪い奴」で初舞台、以来同劇団の中心女優として活躍。 イラストの作家としても知られ、子供向けのノートやハンカチなどキャラクター商品に使用されている。 平成6年、長野県松川村の信濃松川美術館に個人美術館「水森亜土館」が併設された。

活動記録

- 南方熊楠(みなかたくまぐす) 1867-1941 「南方閑話」、「南方随筆」、「十二支考」 南方熊楠記念館 


民俗学者・博物学者。 和歌山県生まれ。 

南北アメリカに遊学、1892年(明治25)渡英、大英博物館東洋調査部員。 粘菌を研究し、諸外国語・民俗学・考古学に精通。 

記憶力抜群、19ヶ国語に通じ、アメリカ、イギリスなど海外で大活躍。 また孫文との親交も有名。 生物、民俗、鉱物、文学、宗教学などほとんど独学で研究。 多くの発見、研究論文を発表した。 柳田国男と並ぶ偉人。

- 棟方志功(むなかたしこう) 1903-1975 「板極道」 中央公論新社 棟方志功記念館 




版画家。 青森県生まれ。 土俗的ともいわれる奔放な作風の「板画」は、国際的にも評価が高い。 昭和30年、サンパウロで開かれた国際美術展版画部で一等賞を受け、昭和31年には、ヴェニス・ビエンナーレ展で国際版画大賞を受ける。 昭和34年、外遊。 アメリカの諸都市の大学で講演。 この年、青森県第一回文化賞を受ける。 昭和40年、朝日文化賞を、昭和45年、毎日芸術大賞を受ける。 同年、文化勲章を授与される。

氏が創作する姿をはじめて見たとき、神がかり的なものを感じた。自叙伝「板極道」に幼少期、青年期の苦労時代の話しが書かれている。 一読の価値あり。 氏の作品は贋作が多いことでも有名。

や行 山口淑子(やまぐちよしこ) 1920- 「李香蘭 - 私の半生」 山口淑子、藤原作弥著 (新潮文庫) 1920年2月12日中国・撫順に生まれる。 本名・大鷹淑。

1938年、中国人女優・李香蘭として映画デビュー、瞬く間に日本と満州の銀幕のスターへと駆け上がっていった。 戦後は山口淑子の名で再デビューする。

アメリカの世界的彫刻家イサム・ノグチの妻としてハリウッドへ渡り、“シャーリー山口”として映画・ミュージカルで活躍。 ノグチ氏と離婚後の1958年、外交官の大鷹弘氏と結婚。

その後、キャスターとしてジャーナリストとしてブラウン管に登場、1974年から参院議員を3期務めた。

- 吉野敬介(よしのけいすけ) 1967- 「さらば、借り物人生 何も言わない受験生」 (PHP研究所) 元暴走族の肩書で知られる代々木ゼミナールの人気カリスマ講師。 代ゼミでは古文を担当。

高校時代、神奈川県下3000人の暴走族を率いる“特攻隊長”だった過去を持つ。 自著などによると、20歳のころに交際していた女性にフラれ、大学受験を決意。 わずか4カ月の勉強で国学院大学に合格し、代ゼミの講師試験に史上最年少、最高得点で合格した。

参考書のほか、少年隊の錦織一清主演でビデオ化された『だからおまえは落ちるんだ、やれ!』など著書8冊を出版。

「仕事一本・夢一本・ロマン一筋」という座右の銘を持つ。 氏の著書、『さらば、借り物人生』では、「人生で最も輝かしい日は、成功した日ではなく、挫折から立ち直ろうと決意した日だ」と書かれている。

ら行 ロッキー青木(ろっきーあおき) - 「人生死ぬまで挑戦だ」 (東京新聞出版局) BENIHANA

デヴォン青木 


1959年、慶應大学在学中に全日本学生レスリング代表選手団の一員としてアメリカへ渡る。 ニューヨークにそのまま単身残りアイスクリームの屋台で貯めた資金で1964年、ニューヨークにステーキハウス「ベニハナ・オブ・トーキョー」を開業。

以降、レストランは世界に100を超える店を持つ大チェーンに発展。 その起業精神を著した本はベストセラーになり、また著名人との交流も深く、「アメリカンドリームを掴んだ男」「アメリカで最も有名な日本人」と称される。

冒険家としても有名で、気球で初めて太平洋横断に成功、パワーボートレースで世界的大会で優勝。 華やかな実績と「今まで21ヶ所を骨折、手術は12回」の事実が語る武勇伝をもつ。

夢とロマンを全て実現したような人生だが、60歳を超えた現在も「ビジネスもグローバル化、ボーダレスの時代。 こんないい時代に引退なんかしてたらもったいない!」と熱く語る。

ちなみに、清涼飲料水のCMでコケテ ィッシュな魅力を見せたデヴォン青木はロッキー青木氏の愛娘。 彼女は、シャネルのショ ーをはじめ、パリ・コレクション、ミラノ・コレ クション等の世界的なファッションショーに出 演。 2000年5月に恵比寿ガーデンプレイスで行われたシャネルのメガショーではオープニングとフ ィナーレを飾った有望な若手スーパーモデル。 

女性誌への露出も数多く、今後の活躍が期待されて いる。 国籍はアメリカ。 日本、イギリス、ドイツ の血をひく。