| - | 人物名 | - | 関連書籍 | 関連Webサイト | 参考 |
| あ行 | 飯沼正明(いいぬま・まさあき) | 1912-1941 | - | 飯沼飛行士記念館 |
長野県出身。 飛行士。 「神風号」の操縦士。
リンドバークの大西洋無着陸横断で世界が湧いた1937年、同時期に東京−ロンドン間約1万5000Kmを94時間で飛行するという快挙を成し遂げた人物。 1937年(昭和12年) 朝日新聞航空部員として機関士塚越賢爾と共に純国産機 神風号にり、東京〜ロンドン間の飛行に成功。 1941年 太平洋戦争中、サイゴンで事故死。 |
| - | 市来龍夫(いちき・たつお) | 1906-1949 | - | 市来龍夫紹介ページ |
インドネシアの独立に尽くした日本人 1906年(明治39年) 熊本県出身 1914年(大正3年) 同郷人を頼ってスマトラ島へ渡航 1936年(昭和11年) ジャカルタの日蘭商業新聞に勤務。 その後、陸軍の宣伝班員としてジャワ派遣軍に加わる。 この間、オランダ植民地下の民族主義者と交流を深める。 1945年(昭和20年) 8月15日 敗戦、日本軍撤退後もインドネシアにとどまり独立戦争に参加。 1949年(昭和24年) 1月9日 東部ジャワ・マラン近郊のタンペット村にて戦死(享年42歳)。 |
| - | 石光真清(いしみつ・まきよ) | 1868-1942 | 「城下の人」、「誰のために」、「望郷の歌」、「曠野の花」(中公文庫) | 石光真清ホームページ |
慶応4年(1868)8月31日〜昭和17年(1942)5月15日。 現熊本市本山町生まれ。 軍人、諜報活動家。 日清戦後、ロシアとの戦争を予想して、ロシア語研修のため自費でシベリアに留学し、予備役に入って対ロシア諜報活動に従事。 ロシア革命に際し、シベリアで革命の実態を体験。 日本文学史上に名を残す自伝四作「城下の人」「望郷の歌」「曠野の花」「誰のために」を残している。 また、同時に満州・蒙古・中国・ロシアとの真の友好を求め続けた人物でもある。 |
| - | 大西秀明(おおにし・ひであき) | 1964- | - | Jimmy's Page ジミー大西関連ページ Part 1 ジミー大西関連ページ Part 2 |
1964年1月1日生まれ。 大阪府八尾市出身。 画家。 |
| - | 大場満郎(おおば・みつろう) | 1953- | - | Earth Academy 大場満郎 冒険学校 |
1953年 山形県最上町生まれ。 世界初の両極(北極、南極)を徒歩で制覇した人物。 1983年 アマゾン川6,000kmいかだ下り 1985年 グリーンランド西海岸1,400km単独徒歩行 1986年 北磁極往復900km単独徒歩行 1994年 北極海横断単独徒歩行、落水し約750kmで断念 1995年 2度目の北極海、約400kmで断念。凍傷のため足の指全部、手の指2本を切断 1996年 3度目の北極海、820kmで断念 1997年 4度目の挑戦で北極海横断単独徒歩行2,000kmに成功 1999年 南極大陸横断単独徒歩行、世界初の両極徒歩制覇 2000年 4月〜6月「北磁極をめざす第一回冒険ウオーク2000」スタート。 若者10人を組織して4月中旬レゾリュートを出発(北極圏への旅を実施。 環境教育の一環として、氷河、山、野生動植物等を観察。) 2000年 6月3日《’99植村直己冒険賞》受賞 2001年 5月「アースアカデミー・大場満郎冒険学校」スタート 2002年 8月「小学生と東海道500kmを歩く旅」決行 2002年 12月〜2003年1月、「真冬の冒険合宿」決行 |
| 長南年恵(おさなみ・としえ) | 1863-1907 | - | 長南年恵 |
1863年(文久三年)10月26日、山形県鶴岡市日吉町生まれ。 1907年(明治四十年)10月29日没。 神戸地方裁判所が認めた物質化現象を起した人物。 1895年(年明治28年7月) 医師の資格なしに、怪しげな水(万病を癒す「神水」と呼ばれた)で病気治療と称する詐欺行為を行ったとして、警察に逮捕された。 この時は、69日間拘留されたが、証拠不充分で釈放された。 この69日間の拘留期間中、何も食べなかった為、警察は困ってしまい、少しでもいいから食べてくれと頼んだ。 そして、そんなにみなさんがお困りならばといって食べたのが、少量の生のサツマイモだけだった。 1896年(明治29年10月) 再び、逮捕。 一週間の拘留。 1900年(明治33年8月) 三度目の逮捕。 ついに大阪区裁判所で、拘留十日間の判決を受けた。 この処分を不服として、弟の雄吉が控訴した。 神戸地方裁判所で、再審が行われた。 尋問の後、中野岩栄裁判長が、自ら密封し、封印をした空きビンを、長南年恵に渡した。 厳重なチェックの後、精神を統一するために別室にこもった年恵は、わずか二分ほどで、神水が満たされたビンを、法廷に差し出した。 質疑のあと、即刻、無罪の判決が下った。 この記録は現在も神戸地方裁判所に残っている。 |
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| さ行 | 姜建華(ジャン・ジェンホワ) | - | - | 上海生まれ。 中国の伝統楽器、二胡の可能性を大きく広げた天才奏者。 10歳の時に叔父から二胡を学び、13歳から海外活動を開始。 ヨーロッパ、アフリカ、東南アジア等で演奏活動を行った。 1974年北京中央音楽学院に入学し、安如砺、蘭玉菘に師事。 1978年、小澤征爾が中国を訪問した際、姜建華の演奏する「二泉映月」に感動し、タングルウッド音楽祭に招いたことから一躍世界に知られることとなった。 その後も小澤征爾の招きで、ボストン交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などと協演し、高度なテクニックと深い芸術性で高い評価を得た。 1986年11月サントリーホール、1988年カザルスホール、1992年王子ホールの各オープニングコンサートに出演。 1990年カーネギーホール100周年記念コンサートにて、上海交響楽団と協演。 2001年ビクター・エンタテイメントより6枚目のCDとなる「マニフィーク・シノワ」がリリースされた。 2002年 中国上海市で日中国交正常化30周年記念としてコンサートを開催し、大成功を収め帰国。 現在、高崎芸術短期大学客員教授を務める。 また、多数の交響楽団、アーティスト達との協演、テレビ出演、CD作成等、幅広く活躍中。 国内のオーケストラとはもとより、日本音楽集団との協演や、三味線奏者の本條秀太郎のコンサート・ツアー、沖縄音楽のりんけんバンド、林英哲、葉加瀬太郎、加古隆のコンサートへの参加、黒田征太郎とのライブ、シンセサイザーとの共演など、多彩な活動を続けている。 NHKをはじめ、クラシック、邦楽の分野でのテレビ出演も多い。 ちなみに、二胡は英語でerhuという。 二胡は中国の民族楽器で、日本では胡弓と呼ばれている。 バイオリンのように弦を擦り合わせて音を鳴らす擦弦楽器。 弦は2本のみ。 その2本の弦の間に弓を挟みこみ、弓を内側に押して弾くと低い音、外側に押して弾くと高い音がでる。 音は基本的にモノフォニック(単音)のみだが、特徴的なポルタメントやビブラート等のテクニックにより、人間の声により近いような音を出す事が可能。
小澤征爾氏談 |
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| - | 鈴木紀夫(すずき・のりお) | 1949-1986 | 「大放浪 小野田少尉発見の旅」(朝日文庫) | 1949年、千葉県市原生まれ。 1974年、フィリピン・ルバング島で小野田元少尉を発見した人物。 「君はどこから来た」と、小野田さんが聞いてきた。 「千葉です」 「千葉はどこだ」 「市原です」 「………」 「町村合併ですが……」 (「大放浪 小野田少尉発見の旅」朝日文庫より) 1969年、法政大学経済学部中退。 同年よりアジア、中近東、アフリカなどで放浪の旅を続け、1972年一時帰国。 鈴木紀夫は、1969年3月、たいした荷物もお金も持たず初めて日本を出た。 19歳の時だった。 旅立ちの理由は「ただただ日本から出たかった」から。 帰国の時期も行き先もはっきりと定めぬ、家出同然の旅だった。 横浜から船で出航し、アジア各国を巡ると、ユーラシア大陸をさらに西へ。 中近東、ヨーロッパ、アフリカへと足を延ばした。 ユーゴスラビアでは獄舎に入れられ、インドでは日本寺院で断食修業。 移動はヒッチハイクが中心。 お金が無くなると、自らの血を売った。 日本へ帰国したのは、旅立ちから4年後の1972年12月。 長い放浪生活を経験した鈴木にとって日本は、あまりにもウソっぽく矛盾に満ちていた。 膨らむフラストレーションの中で、鈴木の心に浮かんだ思いがあった。 「小野田さんに会いたい」。 当時、小野田さんの救出に日本政府は努力を続けていた。 しかし、鈴木にとって政府のやり方はどこか間違っているように思えた。 とにかく小野田さんと一度話してみたいという欲求がつのり、単身フィリピンへ。 そして“世紀の大発見”をものにすることになる。 1974年2月、フィリピン・ルバング島で小野田元少尉との接触に成功。 救出への大きなきっかけをつくり一躍有名人となった。 フィリピン・ルバング島の元日本兵・小野田さんは、それまでの度重なる捜索隊の呼びかけにも応じず、戦時の命令に従って戦後三十年間“作戦”を遂行し続けていた。 現地の島民や軍と一種の緊張状態にあったそのただ中へひょっこりやって来たのが、千葉県市原出身の鈴木紀夫だった。 世界中をさまよい歩いた揚げ句に小野田さん探しを思い立ったのは、世間を驚かせようなどという野心ではなく、「戦争の生き証人と直接会って話してみたい」という単純な動機からだった。 鈴木紀夫の出現はあまりに無防備で唐突であり、そのことが逆に小野田さんの興味を引き付け、救出劇へとつながった。 その後、冒険家として「雪男発見」に情熱を燃やしたが、1986年、雪男探しに出かけたヒマラヤ・ダウラギリIV峰で遭難死した。 享年38歳。 |
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| た行 | 角田柳作(つのだ・りゅうさく) | 1878-1964 | - | ドナルド・キーン氏インタビュー 「角田センセイの思い出」 角田柳作 |
1878. 9. 8(明治11)生まれ。 1964.11.29(昭和39)没。 日本文化研究家。 1928(昭和3年)コロンビア大学に日本文化研究所を創設した人物。 コロンビア大学(ニューヨーク)に四十歳を過ぎて学ぶ。 後に「日本文化研究所所長」となる。 日本思想史を教え、ドナルド・キーン氏のような逸材を生む。 コロンビア大学では、日本語でセンセイと発音すれば角田先生のことに決まっていたそうである。 講義に没頭し、殆ど著作をなさなかった為、日本人にもあまり知られていないが、知る人のみぞ知る「無名の巨人」。 わたし(HP管理人)も、角田柳作氏のひ孫のひとりにあたる方との知遇を得て、角田柳作氏の存在を知るに至った。 |
| 土光敏夫(どこう・としお) | 1896-1988 | 「日々に新た わが心を語る」 土光敏夫著 (東洋経済新報社) 「経営の行動指針―土光語録」 土光敏夫著 (産能大学出版部) |
岡山県生まれ。 戦後の日本経済再に尽力した経済界の大物。 ミスター合理化、財界の荒法師、行革の鬼と呼ばれた男。 食事はメザシに梅干。 近在の小学校を終え、岡山中学を受験するが失敗。 私立関西中学に入学。 上京し高校を受験するがまたもや失敗、小学校の代用教員をしながら猛勉強をする。 大正6年に東京工業高等学校(現東京工業大学)機械科に優秀な成績で入学。 1920年(大正9)に東京高等工業学校(現、東京工業大学)機械科を卒業し、技術志向が強い民間造船所のパイオニア、東京石川島造船所に入社。 2年後、将来を託されてスイスのエッシャーウィス社へ留学、欧州の最先端技術を学ぶ。 1924年(大正13)に帰国し、上司の娘・栗田直子と華燭の典をあげ、東京青山の高樹町に居を構えた。 1936年(昭和11)、石川島芝浦タービンが設立されて技術部長に抜擢され、19年に専務、21年には社長に就任した。 1950年(昭和25)、親会社である石川島重工業社長となるが、1953年に造船疑獄が起こり、翌年には拘置を余儀なくされた。 しかし、拘留中も毎日端座して読書、その姿に看守は「求道者」の姿を見、畏敬の念を抱いたという。 処分保留のまま不起訴となった。 大赤字、給料遅配、スト続きでくるしむ石川島重工業の社長として、役員の降格から手をつけ「ミスター合理化」とよばれるほどの経営合理化で再建をはたした。 1960年に、石川島重工業は播磨造船所と合併して石川島播磨重工業(IHI)が誕生、土光が社長に就任。 1964年からは会長となる。 1965年、業績低迷の東京芝浦電気(現、東芝)の社長をひきうける。 1972年からは会長となった。 1968年に経団連副会長、1974〜1980年に第4代経団連会長をつとめた。 ミスター合理化、財界の荒法師、行革の鬼と呼ばれた男にも挫折はあった。 学生時代には4度も受験に失敗している。 「僕の学生時代は、失敗と挫折の連続だった。」と自身も振り返っている。 しかし、若き日の度重なる挫折が、再建屋−いわゆる失敗した会社を立て直す−の精神的骨格を形成してきただろうことは、想像に難くない。 土光氏曰く、「失敗は失敗ではなく、ひとつの道行き、経験だと考える。 人間失敗してはいかんと思うと萎縮する。 そうではなく、失敗してもいいんだ。 しくじってもよろしい。 失敗してもそれを肥やしにして取り返す。 前以上に盛り返す。 失敗して投げ出してはいけないんだ。 僕はそういうふうに考えて今までやってきました。」 「能力は必要な条件ではあっても、十分な条件ではない。 その条件を僕は執念と呼びたい。仕事に困難や失敗はつきものだ。 そのようなときに、困難に敢然と挑戦し、失敗に屈せず、再起させるものが執念である。 およそ独創的な仕事といえるものは執念の産物であることが多い。 できないのは能力の限界だからではない。 執念が欠如しているのだ。」 石川島・東芝・経団連の重役に就いていたころ、経済界の大物にもかかわらず、土光氏は自宅からJR鶴見駅まで歩き、電車に乗って会社へ通ったという。 決して会社を私利私欲のために使わなかった。 毎朝、午前4時起床。 休日はゴルフや釣りではなく庭いじりと畑仕事。 応接間にエアコンはなく、夏は扇風機、冬は石油ストーブ。 経団連名誉会長当時の年収が5100万円。 しかしその多くは、母が設立した『橘学苑』の運営に充てられた(橘学園への寄付は3500万円)。 所得税、地方税、寄付を除いた後には、土光氏の手元には年100万円程度しか残らない。 経団連の名誉会長ともあろう人が、月額8万円の生活をしていた。 そして好物ということもあって、安価で栄養豊かなメザシが食卓によく並んだ。 夕食のおかずがメザシ一匹にウメボシ、キャベツの一番外側の葉、大根の葉っぱ。 歯ブラシやコップは50年も使っているもので、日曜日に裏の畑で汗を流す農作業でかぶる帽子は拾ってきたもの、ズボンのバンドは古くなったネクタイだった。 封筒は来信の封筒を裏返して発信用につかっていた。 自分自身の家庭における合理化が出来ない者に会社の合理化などできるはずがないといったところでしょうか。 |
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| - | 大黒屋光太夫(だいこくや・こうだゆう) | 1751-1828 | - | 大黒屋光太夫 |
伊勢国若松村(現在の三重県鈴鹿市若松)出身。 江戸時代にロシアに漂流し、女帝エカテリーナ2世に謁見した人物。
宝暦元(1751)年、伊勢国若松村(現在の三重県鈴鹿市若松)に誕生。 8歳の時、父の四郎次が逝去。 江戸の親族の下で育てられる。宝暦12(1762)年、江戸小網町の商家へ奉公に出向く。 安永8(1779)年、父方の親族の商屋(一説に廻漕業)・大黒屋の養子となって伊勢に戻った。 天明2(1782)年12月9日、伊勢国白子港より16人の舟乗りを雇い入れ、紀州藩米を積んだ亀山の彦兵衛の弁才船・神昌丸が江戸航行中の夜、嵐に遭って蛇行し1人死亡。 7ケ月間海上を漂流したのち、天明3(1783)年7月、アリューシャン諸島(アムチトカ島)に到着。 この地で舟乗り7人が壊血病によって逝去。 天明7(1787)年、ロシア政府の役人の駐在するカムチャッカ半島に渡り、帰国願いを出すが認められず、シベリア総督府を目指しシベリア横断を決行。 イルクーツクに到着するがここでも却下される。 そして、当地で知り会った植物学者キリル・ラクスマンの、ロシア女帝エカテリーナ2世への嘆願書によって、首都サンクト・ペテルブルグ(旧レニングラード)に向かった。 寛政3(1791)年6月、女帝エカテリーナ2世に拝謁。 日本との通商を開く事を条件に、ようやく帰国を許される。 寛政4(1792)年10月7日、通商使節となったキリルの息子・アダムと共に、蝦夷地根室・弁天島に帰着。 しかし当時の日本は鎖国緩和を示す田沼意次が寛政2年に失脚して以後、鎖国体制が強化された影響下にあったせいもあって、アダムは強制送還となり、光太夫ら三人は幕府から捕縛を受ける。 寛政5(1793)年に江戸に移送されて雉子橋外の厩舎に留めおかれ、老中松平定信らの取り調べを受けたのち、9月、江戸吹上御殿にて将軍徳川家斉にロシア事情を上奏。 寛政6(1794)年6月、番町薬草園に幽閉。 1797年、帰国から4年後、妻をめとってのちに亀次郎(後の儒学者、大黒梅陰)をもうける。 享和2(1802)年、かつての船乗り達の供養と、ロシア通商の夢が断たれた事を憂いながら、故郷・伊勢国若松村を歴訪。 文政11(1828)年、番町薬草園にて逝去。 享年78才。 |
| は行 | 平田篤胤(ひらた・あつたね) | 1776-1843 | 「仙境異聞・勝五郎再生記聞」(岩波書店) |
江戸時代に生まれ変わりに関する取材記録を残した人物。
平田篤胤は生涯に膨大な著作を残したが、その守備範囲は非常に広く、国学、神道学、言語学はもちろん、天文学にも通じ、独自の暦を作ったり、いち早く地動説を認めるなど、その博学多識ぶりは同時代において群を抜いている。 その著書の中のひとつ、「勝五郎再生記聞」は、江戸時代版の生まれ変わりに関する取材記録。 江戸時代末期に現在の東京・八王子で起こった生まれ変わりに関する事件をもとに、平田篤胤が勝五郎本人及び周辺の人々を取材してまとめた。 奇想に満ちた持論を展開し、江戸の世を騒がせた輪廻転生譚。 この事件の内容は江戸奉行所の公文書に残っている(現在は博物館展示)。 文政五年(1822年)、武州多摩郡の農民、源蔵の息子勝五郎は、8歳の頃に「この家に生まれる前は、程窪村で勝蔵(または藤蔵)という名前だった。」と言い出した。 当時の両親の名前や、死んだときの様子なども話した。 ウワサは村中に広がり、庄屋や役人がやってきて勝五郎を調べた。 そして、祖母が勝五郎を程窪村に連れて行ってみると、勝五郎は、「昔はあの店は無かった。」「あの木は別の場所にあった」等といい、前世での家を懐かしそうに指差した。 その家の主人夫婦も大変驚いたが、勝五郎の言う事が全て本当の話であり、しかもその顔立ちが死んだ息子の勝五郎にそっくりだと泣き出してしまった……。 この話は、明治の文豪、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も興味をそそられたらしく「勝五郎の再生」という本をアメリカで出版している。 勝五郎が、自分の葬儀の様子を見ていたなどというのは、現在における臨死体験にも共通したパターンである。 平田篤胤: 江戸後期の国学者。 国学四大人(羽倉東磨・岡部真渕・本居宣長・平田篤胤)。 本居宣長没後の門人として古道の学に志し、復古神道を体系化。 草奔の国学として尊王運動に影響を与えた。 1776年(安永5年)出羽国秋田佐竹藩の藩士の子として生まれる。 幼少時、浅見絅斎の流れを汲む中山青我に漢籍を学び、国学を修めて古道研究の端を開いた。 20歳のとき江戸に出て苦学し、25歳のとき備中松山藩士平田篤穏の養子となって藩主板倉家に仕える。 本居宣長に入門せんとするも宣長没により果たせず。 33歳のとき神祇伯白川家より神道教授、吉田家より学師の職を受ける。 儒仏を排して皇道の発揚を唱導したが、宣長学に比べて著しく宗教的神秘的色彩が濃厚であり、儒教・仏教・蘭学さらにキリスト教を援用して自説の権威づけに努めた。 幕末、篤胤学は尊皇攘夷運動の一支柱となり、その影響は地方豪農層にまで広く及んだ。 |
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