| - | 人物名 | - | 関連書籍 | 関連Webサイト | 参考 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| あ行 | 稲垣吉蔵(いながき・きちぞう) | 1876-1951 | - | ロダンの懐刀 稲垣吉蔵 |
フランスの生んだ世界的彫刻家「考える人」で有名なロダン(1840〜1917)が最も信頼していた助手。
明治9年(1876)4月1日、新潟県村上市小国町の稲垣末吉のニ男として生まれる。 小学校卒業後父について家業の彫刻を習う傍ら、有磯周亭について修行。 22歳の頃、志を立てて上京し、東京美術学校に入学。 苦学力行し、明治37年彫刻科を卒業。 学校から推薦されて香港に渡り、更に明治39年フランス留学を命ぜられて渡仏し、フランスの彫刻を研究するとともに日本の美術をフランスに教授する。 たまたま自己の作品を店頭に陳列しておいたのが巨匠ロダンの目にとまり、その技術の優秀性が評価されてロダンの助手となる。 ロダンの技術上の相談相手になるとともにロダンの晩年には秘書的存在であった。 昭和26年(1951)5月5日、渡仏以来一度も帰国することなく没。 享年76歳。 経 歴 明治9年(1876)4月11日 新潟県村上市上町290番地、現在の村上市小国町2-14に生れる 明治27年(1894) 村上工芸会第一回技大会(於安善寺)、彫刻の部 3等 褒賞 明治32年(1899) 日本漆工技大会(於東京上野公園)、巻莨入 3等 褒賞 明治32年9月(1899) 東京美術学校彫刻科選科入学 明治37年(1904) 同校卒業 明治39年(1906) フランスに渡る 大正3年10月(1914) パリ第15区新テアトル10番地でロール・ペルトル(日本名キク)と結婚、同12月フランスに帰化 昭和26年(1951)5月5日 パリの自宅で逝去。 76才 |
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| - | 浮田幸吉(うきた・こうきち) | 1757-1847 | 「空飛ぶ表具屋」(オール読物、1972年5月号)筒井康隆 | 浮田幸吉(岡山、玉野市) 空を飛んだ表具師 |
江戸中期に日本初の人力飛行を試みた人物。 宝暦七年(1757)〜弘化四年(1847)没。 1757年(宝暦7年) 備前児島郡八浜(現玉野市八浜)の櫻屋清兵衛の次男として生まれる。 後に岡山の紙屋に移って表具を習う。 表具職人、幸吉は、鳥のように空を飛ぶ夢にかりたてられ、鳥を観察して飛行理論を組み立てたようである。 その理論は伝承によって若干の相違はあるるが、大体次のようなもの。 「様々な(あるいは一種類の)鳥の羽と胴の重さを計測し、その割合を導き出す。 それを自分の体に当てはめて相当する翼を作れば、人間も鳥と同じように空を飛べるはずである」。 独力で胴の長さ(約2メ−トル)、翼の幅(約5メ−トル)の鳩型グライダ−を完成。 天明5年(1785年)7月 、備前岡山京橋朝市(現在の岡山県岡山市)の高さ10mほどの橋の上から飛び立ち、数十m滑空し、宴会客のいる草むらに墜落した。 その騒ぎが元で、岡山藩から所払いの刑を受ける。 一度郷里の八浜へ帰るが、間もなく駿府国(静岡県)へ居を移す。 そこでは手先の器用さを生かして時計の修繕をしながら、備考斎(びんこうさい)と名乗り、入れ歯師として生計を立てた。 優秀な表具師でもあった幸吉は、入れ歯師としての腕前も相当なものだったらしく、付け心地の良い精巧な入れ歯を作る男として知られた。 静岡の地で名声を得た幸吉だったが、夢は捨てきれず、飛行を試みたとする説がある。 生まれ故郷の玉野市は、幸吉の顕彰につとめ、研究会もある。 1997年には旧岡山藩主池田家の現当主から幸吉の所払いが許された。 <Wikipediaより> 浮田幸吉(うきた こうきち、1757年(宝暦7年)- 1847年(弘化4年)?)は、日本で初めて空を飛んだとされる人物。鳥人幸吉、表具師幸吉、櫻屋幸吉、備前屋幸吉、備考斎(びんこうさい)とも呼ばれる。 経歴 江戸時代中期1757年(宝暦7年)備前国児島郡八浜(現在の岡山県玉野市八浜)の浮田(櫻屋)清兵衛の次男として生まれた。7歳で父を亡くし岡山の紙屋に奉公に出て表具を習う。 空を飛ぶ鳥に興味を持ち、鳥が空を飛ぶメカニズムを研究した。「鳥の羽と胴の重さを計測しその割合を導き出す。それを人間の体に相当する翼を作れば人間も鳥と同じように空を飛べるはずである」と結論づけた。 表具師の技術を応用し、竹を骨組みに紙と布を張り柿渋を塗って強度を持たせた翼を製作した。試作を繰り返し1785年(天明5年)夏、旭川に架かる京橋の欄干から飛び上がった。風に乗って数メートル滑空したとも、直ぐに落下したとも言われる。河原で夕涼みをしていた町民の騒ぎとなり、即座に岡山藩士によって取り押さえられた。時の藩主池田治政により岡山所払いとされた(江戸幕府より打ち首にされたという説もあり)。この出来事は同時代の漢詩人菅茶山の著書『筆のすさび』にも言及されている。 その後、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)に移り、「備前屋幸吉」の名で郷里児島の木綿を扱う店を開いた。軌道に乗ったところで兄の子に店を継がせた。自身は歯科技師「備考斎」として技術力の高い義歯を製作することで評判となった。 晩年は、駿府でも空を飛んで見せ騒乱罪で死罪となったとも、遠江国見附(現在の静岡県磐田市)に移り妻子を得て平穏な余生を送り、1847年(弘化4年)に91年の長寿を全うし死去したとも伝えられる。 墓は静岡県磐田市の大見寺にあり、戒名は「釋帝玄居士」。 幸吉の飛行が事実であるならば、それは1849年のジョージ・ケイリーのグライダーによる有人滑空実験よりも60年以上早い。とは言え幸吉はこの種の実験を試みた最初の人物というわけではなく、古くは9世紀から同様の実験家たちが存在したことが知られている(下記リンク参照)。また、重航空機に限らなければ、有人飛行はモンゴルフィエ兄弟の熱気球によって幸吉の飛行の二年前の1783年11月に達成されている。 なお、1997年(平成9年)(没後150年余り?)には旧岡山藩主池田家当主・池田隆政より、幸吉の岡山所払いが許されている。 表具師幸吉の碑(岡山市旭川河畔)
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| ま行 | 宮武外骨(みやたけ・がいこつ) | 1867-1955 | 「宮武外骨此中にあり」(ゆまに書房) | 宮武外骨 |
香川県出身の反骨のジャーナリスト。 新聞史家、江戸明治期の風俗研究家。 生涯反権力をつらぬき筆禍による入獄4回、罰金刑、発行停止・禁止約30回を数える。 1867年(慶応3年〜1955年(昭和30年)没。 1867年(慶応3)、香川県に生まれる。 1889年、帝国憲法発布の際、当時発行していた「頓智協会雑誌」に、憲法発布錦絵と憲法条文のパロディを掲載し、不敬罪に問われ入獄。 その後、大阪で彼の代表的な雑誌「滑稽新聞」を創刊、明治末期の役人や政治家、堕落した権力、それにこびるマスコミ、世相などを滑稽に表現し、人々の喝采をうける。 最盛期には、月に8万部の発行部数を誇った。 しかし、歯に衣着せぬ言動に度々、当局から処分を受け、『滑稽新聞』発刊中だけでも、関係者の入獄が5回、罰金刑は16回に及んだ。 これらの処分に対して外骨は『滑稽新聞』の刊行を自ら停止するが、最終号を「自殺号」とするなど、権力への風刺は止めなかった。 その後も、「此花」「不二」「奇」「スコブル」「面白半分」「赤」などの雑誌を次々に発行。 晩年には、1927年に東京帝国大学に創設された明治新聞雑誌文庫の初代主任として、1949年までその資料収集と整理にあたった。 生涯に40点以上発行した雑誌のほかに、風俗研究家としても活躍し「筆禍史」「私刑類纂」「賭博史」「明治奇聞」「文明開化」など多数の著書がある。 <Wikipediaより> 宮武 外骨(みやたけ がいこつ、慶応3年1月18日(1867年2月22日) - 昭和30年(1955年)7月28日)は明治?昭和期のジャーナリスト、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家である。 生涯: パロディから反官僚へ: 宮武による、「頓智研法発布式」(安達吟光画)。明治憲法の「第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」をもじり「第一條、大頓知協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統括ス」とある。奥に立つ骸骨は明治天皇であるとして、この作品が不敬罪に問われた。讃岐国阿野郡小野村(現在の香川県綾歌郡綾川町小野)に庄屋宮武家の四男として生まれた。幼名は亀四郎。 17歳の時に戸籍上の本名を"外骨"に改める。幼名の亀四郎の亀が"外骨内肉"の動物であることに因んだ物である。正式の本名であるにもかかわらず、号のようにしか受け止められないことが多く、役所や図書館の窓口などで「号ではなく本名をお願いします」などとたびたび言われるのが癪だと言って、「是本名也」と彫った印鑑を用いたことも少なくなかった。なお、晩年に「外骨」の読みを「とぼね」に改めている。 当初は比較的穏健だったが、反骨精神に富み自ら新聞・雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁・差し止め処分を受けた。明治22年(1889年)、『頓智協会雑誌』で大日本帝国憲法発布をパロディ化して不敬罪に問われ禁錮3年の実刑判決を受けた。未決勾留日数の刑期算入も認められず、投獄は3年8ヶ月に及んだ。それからは官僚を宿敵と見なし、活発な権力批判を行うようになった。その後も検挙投獄は3回に及んだ。また雑誌は数多く創刊したが比較的短命なものが多く、1号のみの廃刊誌は実に17を数える。 警察署長の不正や悪徳商法の主(野口茂平)を長期間紙面で晒し上げる一方で日露戦争に対する社説を翻した『万朝報』を批判するなど、批判精神を忘れて権力・世論に迎合するジャーナリズムに対する批判も行い、反権力を貫く一ジャーナリスト(当時の訳語では「操觚者」)として徹底した行動を取りつづけた。もっとも日露戦争自体については主戦論ではないが反戦論でもなく、戦争協力を誌面で説いたこともある。これは当時の世論にある程度影響されたものと言えた。 特に、自らの力を悪用して私欲を働くマスメディアには「ユスリ記者」と呼び激しい批判を行った(『滑稽新聞』では「ユスリ」に特注の極太ゴシック体を使用して強調した)。もっともその主張の中には「味の素の原料は青大将」など、後に結局デマと分かったものもあった(「一癖随筆」)。 外骨の厳しさは読者や親族にも及んだ。たとえば『滑稽新聞』明治40年(1907年)11月20日号で吉田東伍の『大日本地名辞書』の誤りを指摘し、版元の冨山房ともども「文壇の山師」と批判した。読者に、この記事は出版社をユスろうとしているのではないかと批判投稿した者がいた。12月20日号で採用した上でこの読者に対する反論を行い、さらに「間抜け」な批判をした読者を磔にした挿絵を付け文字通りさらし者にしたことがある。この読者からは冨山房の店員(拡販員と思われる)から『滑稽新聞』の記事について「善悪とも交渉すべからず」といわれたため疑念を抱いたのだという返信が来たため、外骨は冨山房に抗議した上で『大日本地名辞書』批判をしばらく続けた。 また、著書『つむじまがり』で「予の先祖は備中の穢多(えた)であるそうな」と書いたところ、「未だ穢多の子孫と云ふ事は耳にしたる事無之候、(中略)宮武家一門三百人の大迷惑」と抗議した親類があった。外骨は「予の親族中にも、今尚斯る舊弊思想の脱しない者がある位だから、予は飽迄も穢多の子孫なりと叫ばねばならぬ」(『スコブル』大正6年(1917年)第10号)と反論した。部落差別が解消されていれば「穢多の子孫」と自称しても全く意味はないはずだから、抗議した親類の態度こそ差別であると主張したのである[1]。 『滑稽新聞』の成功: 外骨の出版した刊行物の中でも最も有名な『滑稽新聞』は、明治34年(1901年)に大阪で創刊された。名目上の発行人は三好米吉。これは、外骨に万一のことがあっても発行を続けられるように別人を立てたためである。外骨は「小野村夫」(出身地にちなむ)のペンネームで執筆。無署名なども含めると、記事の大半を自ら書いた。寄稿は編集者によるものを含めほとんどがペンネームで、外骨以外の編集者、寄稿者で実名がはっきりしているのは三好、溝口駒造、板橋菊松、森近運平、松崎天民、結城禮一郎、寺門咲平の7人である。また、印刷は福田友吉が担当した。 モットーは『威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもやらずハッタリもせず、天下独特の肝癪(かんしゃく)を経(たていと)とし色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あり』。時事批評だけでなく下世話な世相の話題まで扱い、現代の週刊誌に相当する内容であった。外骨の記事は巧みに仕込まれた毒とパロディー精神に富み、さらに挿絵も腕の良い職人(実名がはっきりしているのは墨池亭黒坊こと前野一廣、竹久茂次郎)の手になるもので一般大衆に人気を博した。活字を並べて絵に見せたり、他愛ない小説に見せかけて(縦組みのページを)横に読むと本願寺への皮肉が隠れていたりと今日各種ウェブサイトで一般化した技法(アスキーアートや縦読みなど)の原形も見られる。検閲などのため刊行が遅れることが多く途中からは「例の延刊」と自ら表紙に載せ、たまに予定通り発行されると「例の延刊にあらず」とネタにしたほどだった[2]。最盛期の部数は8万部。この時代の雑誌としてはトップクラスの売れ行きだった。そのため類似誌も複数登場し、外骨は「猿雑誌」と類似誌を評しつつ『滑稽新聞』の影響力を自慢した。 重複になるが、たとえば野口に対しては野口が誹毀罪で告訴したためもあるが毎号野口がさらし首にされた絵を載せ攻撃し続けるなど同じ対象を長期間にわたって追跡する記事が多かったのも特徴である。もっとも、他誌にまま見られた金銭などのユスリ目的ではないことは野口も承知していた[3]。 明治41年(1908年)10月、当局は『滑稽新聞』に対して発行禁止命令を出した。外骨は発行禁止に先んじて173号を以て「自殺号」として廃刊。しかし翌月には『大阪滑稽新聞』を創刊して事実上の後継誌とした(途中で外骨は編集を離れたが、大正3年(1914年)まで存続)。同誌では批判対象の伊藤博文・井上馨・山縣有朋の死期を当てる懸賞という不謹慎企画を立てた(明治42年(1909年)10月15日号、通巻24号)[4]。外骨は懸賞商法を批判していたが内務省が規制に乗り出したため、わざと懸賞を始めたのである。その直後に伊藤が安重根に暗殺されると11月1日号(通巻25号)は風俗関連の記事が安寧秩序を乱し、風俗を害するとして発禁となった。11月15日号(通巻26号)では伊藤追悼一色のマスコミを批判し「非常の死は幸福」と題して津田三蔵や小山六之助(李鴻章襲撃犯)を例に挙げ[5]、暗に安を擁護した。これも発禁処分となった。また12月15日号(通巻28号)では「我輩と社会主義」と題し、「社会主義者ではない」が社会主義を取り入れた国家社会主義によって「今日の政弊を除去し得られる」と主張したがこれは発禁にはならなかった。外骨と編集発行人の金子又次郎は25号、26号について自首した。その結果、大阪区裁(村野美雄裁判長)は25号、26号の記事を無罪としたが代わりに検察が問題にしなかった「我輩と社会主義」を有罪とし又次郎は新聞紙法違反で罰金80円、外骨は禁錮2ヶ月の実刑判決を受けた。 『スコブル』以降: 大正4年(1915年)、第12回衆議院議員総選挙に立候補し「政界廓清(かくせい)・選挙違反告発候補者」を名乗り選挙違反を片っ端から告発。落選運動の走り的存在といえた。結果は259票と、法定得票には辛くも到達したが落選。当時、制限選挙のため有権者数が少ないせいもあったが、一部の高額納税者にしか選挙権が無いという当時の選挙制度を正面から批判した。 大正5年(1916年)、月刊誌『スコブル』を創刊し軌道に乗せた。大正6年(1917年)、第13回衆議院議員総選挙でも再び選挙違反告発を目的として立候補。『スコブル』に選挙違反告発の目的を達成できなくとも「自己の賣名」は達成できると開き直ったり、投票日前に「落選報告演説會」の告知を出したりした。この時代の総選挙は厳密には立候補制ではなくどこの選挙区で運動することも可能だったが、東京市、大阪市それぞれの選挙区でいずれも3票と惨敗した。ちなみに「落選報告演説會」は落選後予定どおり開催され、外骨の他、外骨を下回る2票で惨敗した職工の厚田正二、1295票で法定得票には到達したが及ばなかった講釈師の伊藤痴遊も弁士として出席し盛況であった。入口に「入場料金三銭、貧民無料、新聞記者は貧民同様無料」と掲げたところ新聞記者たちは始めはそのまま入場しかけたが、「貧民同様」の文言にプライドを刺激されたのか慌てて入場料を支払ったという。 また、社会主義には当初は「到底世人の賛同を得られまい」「今の政府者がコンナ社會主義者を怖がるのは何故であるか、我々は其の理由が判らない」(『滑稽新聞』通巻125号)と冷めた見方をしていた。その後は「極端なる社會主義の実行には不賛成」だが「(政府を)普通尋常の手段で攻撃してもその功は無い、これは社會主義でおどかして改心せしめるより外に途はない」(『滑稽新聞』通巻139号)と間接的に評価するようになった。さらに思想的には距離を置きつつも森近の『大阪平民新聞』刊行を援助し「平民新聞の提灯持ち」を自称したため、特別高等警察に「社會主義派」の「特別要視察人」としてマークされた[6]。森近が師事した幸徳秋水にも好意的で面識はないが幸徳の死刑廃止論を評価し、第二次大戦後になって『明治社会主義文献叢書』(龍吟社)の秋水文集の編纂に協力している。その後吉野作造の民本主義に傾倒し、大正8年(1919年)3月には雑誌『民本主義』を創刊した。しかし創刊からわずか4日後に即発禁処分となり廃刊させられている。大正13年(1924年)に吉野が明治文化研究会を立ち上げた際にも、外骨は同人として名を連ねている。 昭和2年(1927年)に博報堂の創業者・瀬木博尚の資金援助を受け、東京帝国大学法学部に明治新聞雑誌文庫(通称「明治文庫」)が創立された。外骨は東京帝国大学の嘱託となり、吉野とともにその充実に貢献した。外骨が全国の旧家を回って収集を行った新聞等の資料は文化史としての歴史的価値のあるもので現在の東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センターに改組された明治新聞雑誌文庫に所蔵され、広く研究のための利用に供されている。 終戦後もGHQによる検閲や発禁処分を度々受け、「何が言論の自由か」と言論の規制を敷いている点では戦前の日本政府とGHQは大して差が無いことを批判した。 昭和24年(1949年)に東京帝大を退職。昭和30年(1955年)7月30日に文京区駒込追分町の自宅で死去。晩年は容姿がガンジーに似ているといわれた。 家族及び親族: 外骨自身は結婚しているが、若くして妻子に先立たれている。外骨が27歳の時に緒方八節(おがた やよ)との間に、一男天民(てんみん)をもうけたが、わずか1歳で天民は夭折。妻八節とも48歳の時に死別している。明治39年(1906年)に養女にした三千代は大正13年(1924年)に嫁ぎ先で流産の為に死去。その死を知らせて来た電報を外骨は生涯手元に置いていた。 晩年の外骨と生活をともにし外骨の伝記や復刻本を多数刊行、近代史関係の著作もある吉野孝雄は甥。 従兄弟の曾孫にフリーライターで宮武外骨を研究するグループ「ぐわいこつふあんくらぶ」会長の、砂古口早苗(さこぐち さなえ、昭和24年(1949年) - )がいる。
宮武外骨
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| や行 | 保井コノ(やすい・この) | 1880-1971 | 保井コノ博士
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差別とたたかいながら日本初の女性理学博士となった人物。 植物学者。
1880年(明治13年)、香川県大川郡三本松村(現 東かがわ市三本松)に生まれる。 明治時代は「男尊女卑」の社会。 今では想像できないが、学校教育でも公然と「女子のくせに学問なんて」と言われていた時代である。 学問の道を進んだ保井コノはいたるところで差別を受けた。 初の被差別体験は1903年。 物理の教科書を執筆したが、 「女性に書けるはずがない」と検定で不合格にされた。 1912年には海外留学を申請したが許可されなかった。 「家事研究のため」と書き加え、ようやく2年後(1914年)にアメリカ留学を許可され、シカゴ大学で細胞学的研究開始。 1915年ハーバード大学のジェフレー教授に師事して石炭の研究開始。 帰国後、東京帝国大学に研究者の職を求めたが拒否され、 嘱託とならざるを得なかった。 しかし保井コノは研究をやめず、ついに1927年、 石炭の研究で東京帝国大学から理学博士号を授与された。 これをきっかけに、その後10年間で20人の女性博士が誕生し、 日本の研究水準は高まった。 保井コノは差別や偏見とたたかい、 女性の地位向上に貢献した。 ちなみにわたしの母校、香川県東かがわ市にある三本松小学校の正門から約50メートルほど歩くと、右手に眼鏡をかけ後年の保井コノ博士の胸像がたっている。 小学校時代に日本初の女性博士となった人物であるということは知っていたが、多くの差別とたたかってきたことまでは知らなかった。 <Wikipediaより> 保井 コノ(やすい コノ、1880年2月16日 - 1971年3月24日)は日本の植物学者。日本女性初の理学博士。学位論文は「日本産石炭の構造の研究」。元お茶の水女子大学教授。 1880年2月16日、愛媛県讃岐国大内郡三本松村[1](現・香川県東かがわ市三本松)で実業家の保井忠治とウメの長女として生まれた。香川県師範学校(現・香川大学)を経て女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業し、教員となる。 1914年から文部省在外研究員としてシカゴ大学、ハーバード大学で学び、帰国後は女子高等師範学校の教授と東京帝国大学理学部の嘱託を兼務した。 岩川友太郎らの指導を受け、東京帝大理学部では藤井健次郎と親交があった。 略歴: 1898年 女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)理科入学 1902年 岐阜県立高等女学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)教諭 1905年 女子高等師範学校研究科入学 1907年 女子高等師範学校助教授 1914年 アメリカ留学 1919年 女子高等師範学校教授 1927年 「日本産の亜炭、褐炭、瀝青炭の構造について」の研究で東京帝国大学で日本初の女性理学博士となる 1949年 お茶の水女子大学教授 |
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| - | 米山梅吉(よねやま・うめきち) | 1868-1946 | 米山記念奨学会 米山梅吉記念館 |
日本ロータリークラブの創設者。 勝海舟に師事、大正天皇に謁見、米ルーズベルト大統領と会見した人物。 1868年(慶応4) 江戸芝田村で和田竹造三男として生まれる。 1873年(明治5) 5歳のとき父親が死去、母方の故郷三島市に移り、映雪舎(静岡県 長泉小学校の前身)に学ぶ。 1880年 12歳のときに地元の庄屋・米山家の養子となる。 沼津中学、東京英和学校(青山学院大学)で学び、20歳の時米国に留学。 シラキュース大学等で8年間法学を学び、1895年に帰国。 その後、三井銀行に入行し、42歳で常務取締役。 57歳で三井信託銀行を創立し社長、信託協会会長も勤め日本の経済界に貢献。 また、三井報恩会の理事長として我が国の社会奉仕事業の先鞭をつけた。 この間、数次の外遊で欧米の教育、文化の導入をはかり、国際化の先達としても活躍。 53歳の時『新隠居論』の実践を始める。 わが国で初めての東京ロータリークラブを創設し、会長となり奉仕事業を推進。 学問を特に重要視し、私財で青山学院小学校を創立して寄贈。 長泉小学校に米山文庫を寄贈する等教育面でも大きな功績を残している。 人、平和、郷土を愛し「社会事業は見えないところに仕事があり、目立たないところに妙味がある」という梅吉の教えは、多くの人々や子供たちに受け継がれている。 <Wikipediaより> 米山梅吉(よねやま うめきち、慶応4年2月4日(1868年2月26日) - 正和21年(1946年)4月28日)は、明治?昭和時代前期の銀行家、貴族院議員。日本にロータリークラブを初めて設立した人物でもある。 略歴: 1868年に江戸(東京)の和田家に生まれる。5歳の時に父親が他界したため、母親の郷里である静岡県三島に移住する。14歳で旧制沼津中学に入学するも2年で退学し上京する。銀座の江南学校に入学するが、19歳で東京英和学校(青山学院の前身)に転入し、米人講師のもとで英語を学ぶ。翌年に米山家に養子となり、渡米。8年間の在米中、オハイオ州ウェスレアン大学やニューヨーク州シラキュース大学などで法学を学ぶ。日本に帰国後に勝海舟に師事し、博文館より「提督彼理(ペルリ)」を出版する。 1897年、三井銀行に入社し三井銀行各支店長などを経て、常務取締役に就任。1920年に日本初のロータリークラブである「東京ロータリークラブ」を設立し、初代会長に就任。1924年に三井信託株式会社を創立し取締役社長に就任。1937年に財団法人緑岡小学校(現、青山学院初等部)創立し校長に就任する。1938年には、貴族院議員に勅選される。晩年も、財団法人三井報恩会理事長、三井信託株式会社代表取締役会長、第15回赤十字国際会議日本赤十字代表委員などを歴任。1928年に紺綬褒章受章、1942年に勲四等瑞宝章受章。最終学位は、マスターオブアーツ(MA)(オハイオ州・ウェスレアン大学)である。 |
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| ら行 | 雷電為右衛門(らいでん・ためえもん) | 1767-1825 | 雷電為右衛門 |
生涯成績254勝10敗、勝率9割6分2厘。 天下無双の力士。 1767〜1825 (明和4年〜文政8年) 1767年(明和4年) 信濃国(長野県)小県郡大石村の関半右衛門家に生まれる。 幼名は太郎吉。 江戸相撲の浦風林右衛門の門弟となって18歳で江戸に上り、23歳にして雲州松江藩主のお抱え力士となり、藩ゆかりの四股名「雷電」をもらって「雷電為右衛門」を名乗る。 29歳で大関に昇進し、45歳で引退するまでの16年間27場所で大関を保持。 また、強すぎるため「かんぬき」「張り手」が禁じ手とされていたといわれる。 最高位が大関で横綱ではなかったことには、江戸時代横綱が儀礼的な地位であったためとか、抱えの松江藩と、相撲の家元と関係が深い細川藩との確執があったため、など諸説あるが、いまだ謎につつまれている。 寛政2年(1790)付け出し関脇として土俵にのぼって以来、文化8年(1811)引退までの成績は、総取組数285、勝星254、負星10、勝負預り等21、勝率9割6分2厘。 (254勝10敗、引き分け他21、勝率96.2%) 連続優勝7回と、いずれも古今最高を記録、相撲史上最強の力士と言われている。 ちなみに千代の富士の勝率は76.1%、曙が74.1%。 体格は、身長7尺(約2.1m)から6尺5寸(約197cm)。 一説には6尺7寸5分(約202cm)、体重49貫600匁(約168.8kg)。 K−1選手ボブ・サップが205cm、160kgなので、ほぼ同じくらいの体格。 ちなみにジャイアント馬場が身長209cm、体重135kg。 貴乃花が身長183cm、 体重150kg。 1975年4月4日から1976年3月26日までに全50話が放送されたロボットアニメ「勇者ライディーン」は、「雷電」を英語風にもじって名づけたといわれれる。 雷電為右衛門生家:長野県小県群東部町大字滋野乙1981−2 <Wikipediaより> 雷電爲右エ門(雷電為右衛門 、らいでん ためえもん、明和4年(1767年) - 文政8年2月21日(1825年4月9日))は、信濃国小県郡大石村(現長野県東御市)生まれの江戸時代の大関。 本名:関太郎吉(爲右衛門)。力士生活21年、江戸本場所36場所中(大関は27場所)で通算で喫した黒星がわずかに10、勝率は9割6分2厘であり、大相撲史上、古今未曾有の最強力士に推す意見も多い。横綱免許は受けなかったが富岡八幡宮の横綱力士碑に「無類力士」として顕彰されており、横綱と同列に扱われる場合もある。 略歴: 生い立ち〜初土俵: 信濃の豪農関家に生まれ、幼名を太郎吉(あるいは樽吉とも)。少年期から巨体、怪力にまつわるさまざまな伝説が残る。例えば、15歳のころのこと、中仙道の碓氷峠を荷馬を引いて歩いていたところ、向こうから大名行列がやってきたが、道は狭く戻ることもできなかったため、太郎吉少年は荷馬を担ぎ上げて大名行列を通したという。やがて相撲好きな隣村の庄屋上原源吾右衛門の目にとまり、彼の私塾で相撲のほか読み書きなどを習った、と伝わっている。 天明4年(1784年)9月、地元に巡業に来ていた江戸相撲の浦風林右エ門の目にとまり、彼とともに江戸へのぼる。江戸では当時の第一人者谷風梶之助の預り弟子となって、初土俵までの6年を過ごす。この間、将来の有望性をみこまれて、出雲国松江藩松平家に抱えられる。初土俵前から士分への抱え上げは異例だった。初期の禄は「切米8石3人扶持」と伝わる。 「雷電」の四股名はもともと雲州ゆかりのもの。雲州力士の先達としては宝暦から明和・安永にかけての雷電爲五郎がいる。爲五郎は釈迦ヶ嶽雲右エ門の看板大関の下で実力関脇をつとめ、晩年には松江藩相撲頭取に任ぜられた。講談などでは時に爲右エ門の雷電と混同されるが、爲右エ門が松江藩に抱えられるのとほぼ1年違いで没しており、両者の面識はない。爲右エ門と同時代では、明石藩抱えの雷電灘之助がいて、寛政2年(1790年)11月、寛政3年(1791年)4月、寛政5年(1793年)10月には「東に雷電、西に雷電」の取組も実現したが、爲右エ門に2連敗(1預)の後、抱えが姫路藩に変わったのもあって、寛政6年(1794年)3月から手柄山繁右エ門に改名している。維新後の明治の世に、兜山和助が「雷電震右エ門」を名乗った際にも、雲州松平家に形式的に伺いを立てる手続きが踏まれた(のち大関を陥落して阿武松和助)。震右エ門以降、雷電を名乗った力士はいない。 現役時代の体格は、身長6尺5寸(197センチ[1])、体重46貫(172キロ)の筋肉質な巨人だったと伝わる(異説もある)。 ちなみに平成18年(2006年)5月場所における把瑠都の身長、体重がともに雷電とまったく同じ数字であった。力士が大型化した21世紀においても把瑠都の体格の大きさは群を抜いているが、平均的な体格が現代に比して著しく小さな当時の日本にあって、その巨漢ぶりは現代人が想像する以上のものであっただろう。現存する雷電の手形は、長さ23.3センチ、幅13センチである。 現役時代: 史上最強力士の呼び声に恥じない、圧倒的な記録・逸話を多く残している。 本場所登場は寛政元年(1789年)7月の大坂が初見(全休)。江戸では寛政2年(1790年)11月、いきなり西方関脇に付け出しで初土俵。親藩松平家の影響力も大きい。しかし、同じ雲州抱えの実力者、柏戸勘太夫(小結)の上におかれたあたり、期待度はやはり大きかった。横綱免許の小野川喜三郎と預かりの相撲を取るなど強者ぶりを見せ、この場所で8勝2預と現在でいう幕内最高優勝に相当する成績をあげる。以来、三都で段違いの相撲を見せ、対戦者を圧倒した。 江戸相撲では寛政5年(1793年)11月場所から約7年にわたり出場した11場所全ての場所で優勝相当成績を記録。その後も引退までに出場した場所で7連続と9連続で優勝相当成績を記録。通算で優勝に相当する成績を残すこと28回(柏戸との優勝同点の都合上25回ともいわれる)のうち全勝が7回という驚異的なものであった。優勝回数は年2場所制の時代にこれを上回るものはついに現れることがなく、年6場所制に移行した現在であってすらも大鵬(32回)と、千代の富士(31回)の二人が上回ったにすぎない。全勝記録は2場所制では双葉山(8回)が追い抜いたのみで、6場所制でも大鵬(8回)だけが越え、北の湖(7回)と千代の富士(7回)も追いついたものの抜くことは出来なかった。連覇記録は朝青龍(7連覇)をも超えている。 勝率9割6分2厘は横綱最高勝率の初代梅ヶ谷(9割5分1厘)をも凌ぐ。連勝記録は比較的短い44連勝ではあるが、それでも史上7位(上は双葉山、谷風、初代梅ヶ谷、太刀山、千代の富士、大鵬と歴代の最強横綱を含む)。単独の連勝記録ではやや譲る代わりに、30連勝以上を4回記録している。雷電以降でこれを達成したのは6場所制での大鵬のみである。 一場所で2敗することはついになく、同じ相手に2度負けることも一人(花頂山)を除いてなかった。 あまりの強さに「鉄砲(突っ張り)」「張り手」「閂(かんぬき)」「鯖折り」を禁じ手とされたという逸話が有名である。閂で八角政右エ門の腕をへし折ったと伝えられている。この逸話は多くの相撲講談で語られ、相撲について書かれた多くの本にも記載されているが、実際にそのような規制がなされたかどうかを疑問視する意見もある。真実がどちらであれ、そのような伝説が語られるほどに強すぎたとはいえるだろう。 引退〜晩年: 文化8年(1811年)2月の全休を最後に44歳で現役を退き、松江藩相撲頭取に任ぜられる。この面での最大の働きは、のちの7代横綱稲妻雷五郎を見出したことである。 文化11年(1814年)大火で焼失した報土寺の鐘楼と釣鐘の再現に尽力するが、この鐘の形状などが幕府上役の不興を買い、江戸払いに処せられる。文政2年(1819年)には藩財政緊縮の流れの中で相撲頭取職を解任。 晩年は妻八重の生地下総国臼井(現千葉県佐倉市)で永く暮らし、ここで亡くなった。享年59。その死の詳細を伝える資料は少ない。 墓所は赤坂の報土寺。他に、生地の長野県東御市の関家の墓地、妻・八重の郷土である千葉県佐倉市の浄行寺、島根県松江市の西光寺にも雷電の墓と称するものがある。 当時の力士としては高い教養の持ち主でもあり、「諸国相撲控帳」(通称「雷電日記」)、「萬相撲控帳」を残した。これは相撲に限らず、江戸の風俗を知る上で貴重な資料にもなっている。 戦績:
家族・子孫: 父半衛門は身体は小さかったが、相撲と酒は強かった。雷電が大関の時たてた墓石が長野県東御市に現存するが、酒樽と枡と盃をかたどったユニークなものとなっている。母・けんが子宝を祈願したという仁王像もまた現在に残る。 妻・八重は前名を「はん」、現在の千葉県佐倉市の出身、実家の甘酒屋で働いているところを、巡業でおとずれた雷電が一目で見初めたという。間に一女をもうけたが、幼くしてなくなっている。 現在、「雷電の子孫」を名乗る「関家」は長野県東御市と島根県松江市に一軒ずつある。前者は雷電の18歳下の妹・ときの流れを汲み、雷電顕彰会を主宰している。後者は雷電の没後、松江藩のとりはからいで、雷電夫人の八重が雲州力士・朝風石之助を養子に迎えて松江藩士としての家系存続を許されたもの。両家は現在も交流を続けている。 雷電に勝った10力士: 陣幕嶋之助 寛政3年(1791年)6月の上覧相撲(本場所の番付では東関脇) 最高位は大関、雷電戦通算は(1勝)6敗1預 (○)●●預●●●● 同年4月場所を中断しての上覧相撲だったが、当時の感覚では本場所以上の「公式戦」だった。 梶ヶ濱力右エ門 寛政3年(1791年)4月5日目(東前頭4枚目) 最高位は前頭4枚目、雷電戦通算1勝1敗 ○● 4月場所は雨天順延と上記上覧相撲開催のための中断で、7月まで日程がずれこんだ。雷電の本場所初黒星だが、時期的には陣幕に次ぐものとなった。 市野上浅右エ門 寛政5年(1793年)3月8日目(東幕下筆頭、四股名は常山五郎吉)/寛政9年(1797年)3月7日目(東前頭2枚目、四股名は花頂山五郎吉) 最高位大関、雷電戦通算2勝3敗1預 ○○●●●預 雷電に唯一連勝した。5年の幕下筆頭(現在なら十両筆頭ではあるが、当時の幕内人数の少なさ、完全東西制を思えば現在では幕内中位に相当) 鯱和三郎 寛政12年(1800年)10月初日(東幕下3枚目) 最高位前頭3枚目、雷電戦通算は1勝3敗 ●○●● 幕下3枚目は現在なら十両。雷電の最多連勝44を止める。 柏戸宗五郎 (初代) 文化元年(1804年)10月5日目(東小結) 最高位大関、雷電とは通算で1勝5敗1分2預3無勝負 無○●●預●無無●預●分 春日山鹿右エ門 文化2年(1805年)10月6日目(東前頭筆頭) 最高位小結、雷電とは1勝10敗 ●●●●●●●●○●● 前名を大綱、その名で8連敗のあと春日山にあらためて雷電を破る。 音羽山峰右エ門 文化3年(1806年)2月4日目(東前頭4枚目) 最高位前頭3枚目、雷電とは1勝6敗 ●○●●●●● 鏡岩濱之助 文化5年(1808年)10月4日目(東前頭3) 最高位小結 雷電戦は1勝9敗 ●●●●●○●●●● のち雷電最後の皆勤場所で最後の白星を献上した。 立神盤右エ門 文化6年(1809年)10月3日目(東前頭7) 最高位関脇、雷電と1勝1敗 ○● 江戸ヶ崎源弥 文化7年(1810年)10月5日目(東前頭筆頭) 最高位関脇、雷電戦1勝11敗2預 ●預●●●●●預●●●●●○ 雷電に勝った力士は、それだけでも大相撲史に名を残したともいえる。中でも陣幕、市野上、柏戸の名が高い。上覧相撲での陣幕は立ち合い一気ののどわ攻めだったと伝わり、記録に残る限りで、雷電をそこまで正攻法で破った力士は他にいない。初土俵2場所目での上覧相撲に雷電に緊張があったのではとする意見も強いが、平幕や幕下力士相手のいわゆる取りこぼしではなく、三役同士で敗戦は柏戸と二人だけである。 柏戸は雷電と顔は合うこと12回、よく渡り合って好敵手の筆頭にあげられる。この取組は江戸の庶民にも人気を博し、何を質に入れても見物に行くとまで言われた。雷電最後の土俵で、彼にふたつしかない引き分け(もうひとつは、寛政6年3月7日目の勢見山兵右エ門)も記録している。雷電と優勝同点も記録、違う時代なら当然横綱の可能性もあった実力派大関の一人である。 常山・花頂山の市野上も、幕下(十両)時分の初顔あわせだけなら大番狂わせの主役で終わっているところ、のち入幕して雷電に連勝した唯一の力士となる。見方を変えれば、寛政3年から12年までの9年間、雷電は彼にしか負けていない。彼への2敗をまたいで雷電は19連勝、43連勝、44連勝を記録、彼にも勝っていれば、108連勝に達していたことになる。雷電不在場所ではあったが優勝相当成績一回を記録。のちに大関にも昇進して、これからという時に病没、ある意味劇的な土俵人生だった。 逆に生涯最高の大番狂わせで名を残したといえるのが寛政12年の鯱で、その後は幕内と幕下(十両)を行き来しながら土俵人生を終えることになる。雷電にとっては痛恨の星だった。勝負あったと結果も見ないで観客も帰り支度をはじめていたというこの一番、立ち合い大きく変わっていなしたか、後ろにまわりこんで送り出し、といった相撲だったらしい。俳人安井大江丸が、「負けてこそ人にこそあれ相撲取」と詠んだのがこの相撲である。総帥小野川以下、雷電一人に名をなさしめた久留米藩勢にとっては、悲願の白星だった。のちの昭和の世、出羽海一門が打倒双葉で一致団結、安藝ノ海を以ってその連勝を69に封じたのと似る。 横綱免許について: 雷電が横綱免許を受けなかったことは、相撲史上最大の謎とされている。 一般に、当時まだ横綱が大関の中の強豪という認識がなかったため、という説が広く知られている。しかし、すでに横綱免許を受けた小野川を相手に互角以上に渡り合ったことから、これが疑問視される。 講談などでは、遺恨相撲で相手を死なせてしまったためなどとされるが、当時の星取表からすると、これはまったくの創作である。 容姿が醜く、人気の点で谷風や小野川に劣ったためではないか、という意見もある。しかし、現在に残る錦絵などからこれは否定的に見られている。 また、当時の力士は藩のお抱えであった為、藩の持つ力によって昇進が左右されることもあり、雷電もその例外ではなかったという説もある。 相撲史研究家の小島貞二はその著「力士雷電」で、出雲大社から横綱免許を受けその本殿で生涯一度だけの横綱土俵入りを行った姿を描いている。「雷電日記」に見える出雲大社での土俵入りの記述からの推測であるが、仮説とするにもこれはやや強引に過ぎる。 池田雅雄が1970年代に『相撲』誌で〈歴代横綱正伝〉を連載していた時期に唱え、それを受けた能見正比古の説では、当時の横綱免許は上覧相撲の際に与えられるもので、雷電の時期にはたまたま上覧がなかったからだというものであるが、享和2年に上覧相撲があり雷電も出場しているので、その説も確固たる根拠がない。また、当時の相撲関係者は横綱免許については、事実上の初代横綱である谷風・小野川の一度限りと考えていた可能性もあるとしている。 史跡・遺品など: 雷電生家: 長野県東御市。生家とは呼ばれるが、実際には雷電が大関の時建てた家で、屋内に稽古土俵や、近隣の住人に見物させるための二階座敷などがある。昭和になって復元されたもので、一般公開は1984年から。雷電直筆とされる「諸国相撲控帳」(雷電日記)、「萬御用覚帳」の原本の写しなどもここで保存されている。[1] 雷電顕彰碑: 長野県東御市。佐久間象山の撰文、揮毫により文久元年(1861年)建立される。碑文に「雷電没後27年」とあるのは「37年」が正しいが、当時幕府に蟄居謹慎の処分を受けていた象山が、それ以前の仕事と見せるためにあえて誤って書いたもの。突っ張り、張り手、閂を禁じ手とされた逸話も述べられている。 その石片は勝負事に利益があるとしてたびたび削り取られ、明治期には碑文はもう読めないほどになっていたため、勝海舟、山岡鉄舟らの発起で新碑が建立された。現在新旧の両碑がT字型に並び立っている。 雷電為右衛門顕彰碑: 千葉県佐倉市臼井台。妙覚寺の前にあり、碑には等身大(1m97cm)の雷電の肖像と佐久間象山(1811〜64年)の筆による「天下第一流力士雷電之碑」と刻まれている。 雷電自身の墓と妻子の墓: 千葉県佐倉市臼井台。妙伝寺近くにある浄行寺跡地(妻の菩提寺だった)にある。 報土寺の鐘: 東京都港区赤坂。文化年間に大火で焼失、雷電の支援を得て復元されたが、「天下無双雷電」と刻まれていたため、幕府から不届きであるとして取り壊された。明治末になってほぼ同じものが再現され、太平洋戦争で軍部に供出され行方知れずとなっていたが、平成になって戻ったもの、という。 それぞれの一番鐘をついたのは、文化の復元時には雷電、明治に再現された時は18代横綱大砲万右エ門、平成に帰還した時には58代横綱千代の富士貢だった。 雷電袂鐘: 長野県小諸市養蓮寺(関家の菩提寺)の所蔵。雷電の寄贈したもので、「江戸から袂(たもと)に隠して持ってきた」と語った逸話から、「袂鐘」の名がある。上述の報土寺の釣鐘をめぐる騒動ともかかわりを持つ。損傷がひどく現在は一般公開はされていない。 手形: 現在の力士もそうであるように、雷電も多くの手形を残した。そのほとんどが左手であることから左利きだったのではないかと見られている。狂歌師蜀山人が「百里をもおどろかすべき雷電の手形をもって通る関と里(関取)」と添えたものが有名で、生家のほかに十数枚が現存し、江戸払いを受ける直前となる「文化十一年四月四日」の日付のついたものを、相撲博物館が所蔵している。 勝川春亭画雷電(コモンズより)
雷電爲右エ門像(東御中央公園)
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