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| あ行 | 朝河貫一(あさかわ・かんいち) | 1873-1948 | - | 朝河貫一 |
イェール大学にて、日本人として初めて正教授となり、西洋中世法制史を担当、東西封建制の比較研究で前人未到の境地を開拓した世界的な歴史学者。 毎日、英和辞典を食べて英語を猛勉強。 日米開戦を阻止しようとした人物。 明治6年(1873)12月20日(戸籍上は22日)旧二本松藩士朝河正澄・ウタの長男として、二本松町下ノ町新長屋(現 福島県二本松市根崎)に生まれる。
翌年8月父の伊達郡立子山小学校校長赴任に伴い、立子山の天正寺に移住し、立子山小学校から川俣尋常小学校と進む。 明治20年(1887)福島尋常中学校(のち安積中学校に改称)に入学。 在校中の成績は全学年を通じて常に一位を占め、4年生からは特待生に選ばれている。 中でも英語は抜群で、卒業式で首席としての答辞を流暢な英語で演説し、参列者を驚かせた。 氏の英語の勉強については毎日、英和辞典を2ページずつ暗記しては食べるか破り捨て、残ったカバーを校庭の隅の若桜の根元に埋めたというエピソードを残し、後にこれを“朝河ざくら”と呼ぶようになった。 明治25年(1892)東京専門学校(現早稲田大学)に入学し、同28年首席で卒業。 中学校時代に決意していた“将来アメリカに留学して世界の広い知識を学び、日本文化の発展に貢献する”という志しを抱き、大西祝・大隈重信・徳富蘇峰・勝海舟らの渡航費援助により、12月7日横浜港を出航。 翌年1月ダートマス大学に編入学、卒業後はダートマス大学長タッカーの援助とイェール大学の奨学金を得てイェール大学大学院歴史学科に入学、優秀な成績をあげ、明治35年(1902)論文『日本における初期の制度的生活、645年改革の研究』で哲学博士の学位を授与される。 後にダートマス大学講師に迎えられ、東西交渉史の講義を担当。 明治37年(1904)『日露衝突』を刊行し、日露戦争における日本の正義を英米国民に説き、翌年日本側のオブザーバとしてポーツマスにおける日露講和会議に出席し妥結を主張。 この年、ニューヘイヴン市の女性でイェール大学時代に知りあったミリアム・J・キャメロン・ディングウォールと結婚(8年後死去、以来独身)。 翌年帰国し、イェール大学図書館および米国議会図書館への日本関係図書の収集を行う。 明治40年、イェール大学に迎 えられ、日本外交史と日本文明史を担当、のち大学院の日本文化史助教授、さらに歴史学助教授に昇進。 この間、『日本の禍機』『入來文書』など諸論文を発表するとともに、日本をはじめ中国、欧州諸国への調査旅行を精力的に行う。 滞米54年間のうち、36年間はイェール大学に奉職し、昭和12年(1937)日本人として初めて同大学の正教授となり、同17年定年退職して名誉教授になるまで西洋中世法制史を担当し、東西封建制の比較研究で前人未到の境地を開拓した。 一方、国際関係論にも優れ、世界的視野と日本国民の幸福という観点に立ってなされた祖国日本への警鐘は数多く、特に日米開戦の危機の前に立ちはだかって天皇に送るべき米国ルーズヴェルト大統親書の草案に熱意を込めたことは、偉大な愛国者であったことを物語る。 開戦後、米国は博士の学績と思想に敬意を払い、その自由を保証している。 昭和23年(1948)8月11日早朝、避暑研究先のバーモント州ウェスト・ワーズボロの山荘で心臓麻痺のため74歳の生涯を終える。 その訃報はAP電・UPI電を通じて「現代日本がもった最も高名な世界的学者が逝去した。」とその死を悼み世界の隅々まで打電された。 さらにイェール大学は告別式を挙行、博士はニューヘイヴン市グロウヴ・ストリート墓地に葬られ、永遠の眠りについた。 また、市内金色墓地にも博士夫妻の墓が建立されている。 |
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| - | 安達峰一郎(あだち・みねいちろう) | 1869-1934 | - | 安達峰一郎 | “世界の良心”と称えられた日本を代表する外交官、国際法学者。国際司法裁判所長。 その死に際しては、オランダにて国葬がとり行われた。 1869年(明治2)〜1934年(昭和9)没 外交官、国際法学者、国際司法裁判所長。 大学では国際法を専攻、法理学者ボアソナードからフランス語を学び、英語、イタリア語も習得、卒業と同時に外交官となる。 ポーツマス講和会議では小村全権委員をたすけて条約草案の作成にあたった。 大正8年、国際連盟創立以来、その重要な会議には必ず日本代表として出席、会議の主導的役割を果たし、またたびたび議長にも推された。 第一次大戦後の複雑な国際情勢の中で、外交官として、国際司法裁判所長として、少数民族の権利擁護のために尽くした努力は、各国から高く評価されている。 1869年(明治2)〜1934年(昭和9)没 明治2(1869年) 山形県山辺町山辺に生まれる 明治25 東京帝国大学法科大学卒 明治38 ポーツマス講和会議全権委員随員 明治40 法学博士 大正 2 メキシコ公使 大正 8 パリ平和会議代表代理 大正10 ベルギー大使 昭和 2 フランス大使 平和条約実施委員長 昭和 3 パリ不戦条約締結に参与 昭和 4 ハーグ対独賠償会議日本代表 昭和 6 国際司法裁判所長 昭和 9(1934年) 永眠 |
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| - | 杉原千畝(すぎはら・ちうね) | 1900-1986 | - | 杉原千畝 |
第二次大戦中に日本の通過ビザを発給し、ナチス・ドイツによる迫害から多くのユダヤ人を救った元リトアニア領事代理。 世界中のユダヤ人から日本のシンドラーと呼ばれる人物。 1900年(明治33年)1月1日〜1986(昭和61)年7月31日
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| た行 | 高木兼寛(たかき・かねひろ) | 1849-1920 | - | 高木兼寛 |
イギリス留学後、慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大造営などの数々の偉業を成しとげた人物。 1849(嘉永2年)〜1920年(大正9年)永眠。 1849年 9月15日宮崎県東諸県郡穆佐村大字小山田白土坂に生まれる。 1856年 中村敬助について四書五経を学ぶ。 1858年 読書勉学の余暇に、阿万孫兵衛について示現流の剣術を習う。 1861年 医師になろうと志し、父喜助、及び、師敬助 に同意を求む。 1866年 鹿児島に出て毛利強兵衛宅に寄宿し、石神良策の門に入り、医学を修行する。 1867年 岩崎俊斎の門に入り、蘭学を習う。 1868年 4月、東北征討軍に従い、京都に行く。 6月、 鹿児島九番隊付となり、会津若松に向かう。 この従軍中、他藩医師の優れた洋医術を見、 大いに発奮する。 1869年 再び鹿児島に出て藩立開成学校に入学する。 1870年 英医ウィリアム・ウィリスが東京大学病院を去り鹿児島開成学校長となる。 医学、英語を習う。 1872年 4月15日、海軍省九等出仕。 6月結婚。 11月海軍中軍医。 1875年 本籍を東京に移す。 英国留学(ロンドンのセント・トーマス医学校) 1880年 英国外科学校で優秀な成績をおさめて帰国。 東京海軍病院長を命ぜられる。 1881年 成医会結成。 会頭となる。 5ヶ月後成医会講習所を開設し所長となる。 海軍大医監に任ぜられる。 1882年 有志共立東京病院を設立する。 海軍医大に任ぜられる。海兵の脚気予防対策につき、天皇に拝謁し奏上する。 1884年 海軍軍医本部長兼軍医学舎長を命ぜられる。 有志共立東京病院の施療患者に薬代を贈るため婦人慈善会員によるバザーを鹿鳴館にて開催。 我が国最初のバザーである。 1886年 海軍軍医総監に任ぜられ、海軍軍医本部長となる。 成医会月報英文版に脚気病に関する論 文を欧米学会に発表する。有志共立東京病院 内に看護婦教育所を開設する。 我が国最初の看護学校である。 1887年 有志共立東京病院を東京慈恵医院と改称し、 院長を命ぜられる。帝国生命保険会社創立に参画。(現在の朝日生命保険相互会社) 1888年 医学博士となる。 1890年 成医会講習所を成医学校と呼びかえる。 明治天皇に拝謁し、脚気病がなくせたことを奏上する。 1891年 勲二等瑞宝章をたまわる。 成医学校を東京慈恵医院医学校と改称する。 1892年 貴族院議員に勅選される。 1894年 帝国生命保険会社の相談役となる。 1898年 神武天皇御降誕大祭会を発足し、幹事長におされる。 1901年 東京市会議員に当選。 1902年 宮崎神宮造営のため帰郷する。 1903年 東京慈恵医院医学校を東京慈恵医院医学専門学校に昇格。学校長。 1905年 華族に列せられ、男爵を賜う。 1906年 1月〜7月欧米旅行。 各地で講演、コロンビア、フィラデ ルフィア、ダラムの各大学より名誉学位を受ける。 1907年 社団法人東京慈恵会を設立、東京慈恵医院を東京慈恵会医院と改称。院長。宮崎神宮の大 道営ができる。 1908年 東京慈恵医院医学専門学校を、私立東京慈恵会医院医学専門学校と改称する。 1914年 国民衛生、精神修業について各学校で講演。 1917年 東京教育会長。 麻布区会議員。議長。 1918年 「日本民族衛生」を著述刊行。 1919年 「神社概説」「心身強健法」の2著述出版。 1920年 4月13日死去 |
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| - | 津太夫 | - | 「環海異聞」(大槻玄沢) |
陸奥の漂流民。 鎖国下の日本で世界を一周した男。 石巻港を出航し、シベリヤ横断、太西洋、太平洋を航海、地球を一周して長崎に戻った。 |
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| ま行 | 三宅速(みやけ・はやり) | 1866-1945 | - | 三宅速 | アインシュタインと親交のあった徳島出身の世界的医学博士。 1866年(慶應6年)、徳島県美馬郡三島村(現穴吹町)に三宅玄達の長男として生まれる。 三宅家は、代々から外科医の一族として知られており、速は9代目。 12歳で上京後、英才教育を受け、一族の期待通り順調にエリート街道を歩む。 1887年(明治20年)に東京帝国大学医科大学に入学。 在学中は、学業優秀者として特待生になり、卒業時も首席。 卒業後、二年間、助手として大学に残って研究生活を続けていたが、年老いた父玄達の懇願で1893年(明治26年)9月に同医科大学助手を退官。故郷の徳島県に戻って、徳島県初の私立病院(三宅病院)を開設。 1898年(明治31年)に、当時ドイツ領ポーランドのブレスラウ大学に留学。 内臓外科学の権威であったミクリッツに師事し、胆石症の研究を行う。 ミクリッツには、ウイーン大学のビルロート(近代的胃癌切除術を世界で初めて成功)の助手を務めていた経歴もあったため、三宅は胃癌治療に関する様々なノウハウも手に入れる。 1900年(明治33年)に帰国後は、ミクリッツに師事した経験を生かして国内の臨床分野で活躍。 当時、日本の外科学は、ようやく虫垂炎の手術が普及しはじめたという状況にあったが、「胆嚢摘出はミカンの皮を剥ぐがごとし」と公言し、胆石症700例以上、胃癌1600例以上、日本初の脳腫瘍摘出術の成功など、驚異的な臨床実績を積み上げる。 医学以外では、ドイツ語が堪能であったこともあり、かのアインシュタインと深い交友関係があった。 1945年の終戦直前、太平洋戦争の犠牲者となってしまった三宅の死を悼んで、アインシュタインから以下の弔辞が寄せられた。 三宅の墓碑にはドイツ語の原文のまま刻まれている。 『ここには三宅博士とその令室三宅三保夫人が眠っている。 両人はともに世の人々のあやまちの犠牲となってこの世を去った。 アルベルト アインシュタイン』 |