興味を持った人物 5 (2003/5/18〜)
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さ行 清水卯三郎(しみず・うさぶろう) 1829-1910 - 清水卯三郎
1867年のパリ万博博覧会に美術工芸品を出品し、日本の名を世界に広めた市井の国際人。 また、国民の知識・教養の向上を目指し、平仮名による表記を唱えた「かな文学論者」でもあった。

文政12年(1829)3月4日、寛永年間から代々造り酒屋を営む資産家、清水弥右衛門誓一(ちかかず)の三男として、羽生領町場村(まちばむら・現在の埼玉県羽生市中央4丁目)に生まれる。

21歳で上京し、薩英戦争(1863)では、通訳としてイギリスの軍艦に乗り組むとともに、大久保利通らの依頼により薩摩藩とイギリスとの和平交渉に東奔西走。

1867年(慶応3年)、パリ万国博覧会に商人としてはただ一人、使節団に加わり美術工芸品などを出品し、日本の名を世界に広めた。 
コバルトの他、西洋の陶磁器用絵具を購入し、明治元年5月に帰朝した。

帰国後は、浅草に瑞穂屋商店を開業。 西洋物品の輸入業を営むともに、西洋と肩を並べるためには、日本で万国博覧会を開催する必要があるとの建白書を明治政府に提出。 先覚者として、このほかにも貴重な足跡を後世に残している。 陶磁器用絵具として使われるコバルトを日本で最初に用いた人物でもある。 明治元年(1868)パリから持ち帰り、服部杏圃(はっとりきょうほ)に試用させたといわれる。

1870年(明治3年)、『大千世界國盡壽語録』を著す。

1874年(明治7年)に英国の科学の本を翻訳し『ものわりのはしご』を出版。 全てひらがなで書かれていた。 また、当時の第一級の洋学者で結成された明六社の雑誌に平仮名論を投稿したり、この考えに賛同した学者等と「かなのとも」という会を発足させ、機関誌『かなのみちびき』を発行し、かな文字論を展開した。 国民への知識の普及をはかるため、だれにでも分かりやすい平仮名による表記を唱えたのである。 身分制度の厳しい時代に商人でありながら、幕末から明治への大変革の時代に常に世界に目を向け、わが国の文化振興・発展に貢献した。

1875年には、日本で初めて歯科器材を輸入し、関係する洋書を翻訳して図書出版するなど、わが国の近代歯科医学の発展に大きく寄与。

1910年(明治43年)1月20日、82歳で永眠。 清水卯三郎の墓は、羽生市北の「正光寺」にある。 その正面にはかな文字論者としての意思が表れ、「志みづうさぶらうのはか」と大書されている。

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な行 長野桂次郎(ながの・けいじろう) 1843-1917










トミー・立石斧次郎(長野桂次郎)









1860年、日米修好通商条約の条約批准書交換のため、アメリカ合衆国へ向かった77人のサムライのひとり。 当時、16歳、無給通詞見習という肩書きで米国の軍艦ポーハタン号に乗船した人物。 天才的な語学力と、物怖じしない性格、気品、容姿にも恵まれ、米国人(特に婦人の間で)の人気の的になり『トミーポルカ』というヒット曲まで誕生させた。

略歴:
1843年10月9日 (天保十四年九月十六日)、江戸小石川の小日向馬場東横町(現在の新宿区東五軒町)の役宅で、幕府直参の旗本、小花和度正の次男として生まれる。

1854年頃(嘉永七年頃)(11歳頃)幕府のオランダ語通詞・立石得十朗のもとで語学を学ぶ。 オランダ語、英語を学んだ。

1857年(安政四年)13歳頃、幕府の許可を得てアメリカ総領事ハリス、通訳のヒュースケンから英語を学ぶ。

安政五年七月(1858年)、幕府が長崎に開設した英語伝習所にて、教授であったオランダ海軍2等尉官ヴィッヘルス、英国人のフレッチェルらの助手を勤める。

1859年(安政六年五月)(15歳)、幕府が鎖国をとき、神奈川、長崎、函館の三港が開港。 長崎から呼び戻され、神奈川運上所の通弁見習いとして採用される。

1860年(安政七年正月)(16歳)、奉行所のオランダ語通詞だった叔父・立石得十朗の養子となり、立石斧次郎教之という名義で、日本初の遣米使節派遣に随行。

1860年2月13日(安政七年正月二十二日)(16歳)、日米修好通商条約の批准書交換のため、総勢77名の遣米使節団が結成され、アメリカ海軍の蒸気ボーハタン号に乗船し、サン・フランシスコへ向けて出航。

1860年3月29日木曜日(安政七年三月九日)、サン・フランシスコへ入港。

5月14日月曜日(万延元年閏三月二十三日)にワシントンへ到着。 ホワイトハウスでジェームズ・ブキャナン大統領に謁見。
 
5月22日には国務省で、日米修好通商条約批准書の交換を国務長官ルイス・カスとの間で行う。 その後、使節一行はニューヨークへ入り、全市を上げての大歓迎を受ける。 ニューヨークには2週間滞在し、6月29日、帰国の途につく。

1861年1月11日(万延元年十二月)(17歳)、帰国の二ヶ月後、十人扶持の御雇通詞として幕府に出仕。

1861年12月(18歳)、米国公使館として通訳を勤める。 〜1862年(文久二年四月)

1861〜1863年までの文久年間(18〜20歳)、下谷七軒町(上野と浅草の間)の自宅で英語塾を開く。 生徒を六ヶ月間食事付きで泊め、英語以外の言葉を禁じた。 この英語塾に出入りするものの中には、矢野次郎、益田孝(当時は得之進)、中山右門太、津田仙(津田英学塾の創設者、津田梅子の父親)などがいた。 また、内弟子の中には三宅秀(後に東京大学医学部長、東京医科大学長と医学界で活躍した人物で、日本初の医学博士、初の東大名誉教授)がいた。

その後、将軍慶喜の通訳、二度目のアメリカ行き、ハワイでの生活など波乱万丈の人生を送る。

1917年(大正6)1月13日、西伊豆戸田村で死去(享年73歳)






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