興味を持った人物 51 (2011/5/15〜) 森啓成(もりよしなり)
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な行 中村久子 1897 - 1968




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ヘレンケラー ライオンズクラブ 国際スピーチ大会


<Wikipediaより>

中村久子(なかむら ひさこ、1897年11月25日 - 1968年3月19日)は、明治〜昭和期の興行芸人、作家。両手・両足の切断というハンデにも関わらず自立した生活を送った女性として知られる。


幼少期:

1897年(明治30年)11月25日、岐阜県大野郡高山町(現高山市)で父・釜鳴栄太郎と母・あやの長女として出生した。2歳の時に左足の甲に起こした凍傷が左手、右手、右足と移り、凍傷の影響による高熱と手足が真黒に焼ける痛みと苦しみに昼夜の別なく襲われた。

3歳の時にこの凍傷が元で特発性脱疽となる。手術すべきか否か、幾度となく親族会議が行われたが、決断を下さないうちに、左手が手首からポロリと崩れ落ちたという。その後右手は手首、左足は膝とかかとの中間、右足はかかとから切断する。幾度も両手両足を切断し3歳の幼さで闘病生活が始まる。

7歳の時に、父・栄太郎がこの世を去る。不幸は続き10歳の時に弟とも生別する。そんな激動の生活の中、彼女を支えてくれたのは祖母ゆきと母あやであった。祖母と母の厳しくも愛情のある子育てのお蔭で、久子は文字や編み物を出来るようにまでなった。


青年期:

1916年(大正5年)、20歳になった久子は地元高山を離れ、上京し横浜市などで一人暮らしを始めた。

その後、母と再婚した継父に身売りされ、「だるま娘」の名で見世物小屋での芸人として働くようになり、両手の無い体での裁縫や編み物を見せる芸を披露した。

後に結婚し、富子(次女、1924年生まれ)らを設け、祖母の死や夫の死という不幸に見舞われながらもくじける事無く、子供たちを養い気丈に働き続けた。その後1934年(昭和9年)興行界から去った。

久子は見世物小屋で働き始めた時「恩恵にすがって生きれば甘えから抜け出せない。一人で生きていかなければ」と決意し、生涯を通じて国による障害者の制度による保障を受けることは無かった。

見世物小屋を辞めてから晩年まで1937年(昭和12年)4月17日、41歳の久子は東京日比谷公会堂でヘレン・ケラーと出会う。久子はその時口を使って作った日本人形をケラーに贈った。ケラーは久子を、「私より不幸な人、私より偉大な人」と賞賛したという。翌42歳の時、福永鷲邦に出会い、「歎異抄」を知る。

50歳頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始め、全国の身障者および健常者に大きな生きる力と光を与えた。久子は講演で全国を回る中で自分の奇異な生い立ちを語るとともに、自分の体について恨む言葉も無く、むしろ障害のおかげで強く生きられる機会を貰ったとして「『無手無足』は仏より賜った身体、生かされている喜びと尊さ(を感じる)」と感謝の言葉を述べ、「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるのだ」と語っている。1950年(昭和25年)54歳の時、高山身障者福祉会が発足し初代会長に就任する。65歳の時厚生大臣賞を受賞した。

1968年(昭和43年)3月19日、脳溢血により高山市天満町の自宅において波乱に満ちた生涯に幕を閉じる。享年72。遺言により遺体は、娘の富子らによって献体された。

中村久子の言葉幾度もの苦難を乗り越えて自分で生き抜いてきた久子は以下の言葉を残している。

「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」


あ行 大石順教 1888 - 1968




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<Wikipediaより>

大石 順教(おおいし じゅんきょう、本名:よね、芸妓名:妻吉 1888年3月14日 - 1968年4月21日)は元・大阪堀江の芸妓、日本画家、尼僧。大阪市出身。


生涯:

大石は道頓堀付近の「二葉寿し」の次女として生まれ、幼少の頃、山村流に師事し、1899年(明治32年)、名取となる。

1901年(明治34年)、堀江のお茶屋(貸座敷)「山梅楼」(やまうめろう)の芸妓になり「妻吉」と名乗り、その主人である中川萬次郎の養女となる。そこで舞を精進していたが、1905年(明治38年)、養父の萬次郎が楼内で6名を刀で殺害し、妻吉は両腕を切られる被害を受けたが幸いにも命は助かった。 これが世に言う「堀江六人斬り事件」である。両腕を失った彼女は地方(じかた、演奏する芸妓)に転向し長唄、地歌などを披露し、やがて旅の巡業をはじめるようになった。

その間、彼女は口で字を書く技法を習得、1912年(明治45年)、日本画家山口草平と結婚、同年に長男、1917年(大正6年)に長女をもうけた。しかし、1927年(昭和2年)、夫と協議離婚し、身体障害者の相談を始める。

1933年(昭和8年)、妻吉は出家得度し「順教」(じゅんきょう)と改める。以来、仏道の毎日を送る傍ら自分と同じ立場の身体障害者の世話をする福祉活動に励み、1947年(昭和22年)に佛光院を建立。また、長年培われてきた口筆による書画が入選し晩年までその道を全うした。1968年(昭和43年)、心筋梗塞により佛光院で入滅(死去)、遺体を献体した。



た行
浜園重義

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【静ちゃんへの手紙】〜神風特攻隊員の兄と幼き妹〜


特攻1/6 浜園重義さん





浜園重義さん  

プロフィール
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大正12年11月25日生
昭和17年
   5月 佐世保相浦海兵団
   8月 丙種特11期飛行訓練生として岩国航空隊
  10月 28期飛行訓練生として高雄航空隊
昭和18年
   4月 台南航空隊
   9月 第28期飛行練習生艦上爆撃機操縦専修課程修了
  10月 佐伯航空隊
  11月 582航空隊(ラバウル基地)
昭和19年
   3月 301空(トラック島)
   5月 宇佐航空隊
   6月 653空(空母千歳)
  12月 K501空(比島)
昭和20年
   2月 百里ヶ原航空隊
   8月 終戦

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著書:「水平線」
「水平線」(戦後に思うことより抜粋)

『私は海軍に3年間所属しました。短い期間だった。その3年間は1日も飛行機から離れることはなかった。1年3ヶ月は訓練生で肉体的・精神的に海軍で行われていた制裁の総ては受けたような気がする。それくらい飛行訓練生は、命がけの訓練と搭乗員気質の養成の場であった。そんな苦しさも夢と希望で打ち克って、同期生も人一倍の落伍者もなく頑張った。卒業すると一人前に取り扱って貰い、給与面でも恵まれて待遇は最高であったが、死闘は連日繰りひろげられており、生死はあざなえる縄のごとく、何時の死と対峙する日々であった。桜島に林扶美子の碑がある。

  「花の命は短くて 
   苦しいことのみ多かりき」

 同期生も85%が南海の空に散っていった。残りの15%の中、半分は何かの障害のある傷物である。私も12回棺桶に足を入れたが追い戻された。戦地の1年4ヶ月は毎日が全力投球、今日1日は安全という保証された日は1日も無かった。あと1時間後、30分後にはあの世という日ばかりであった。日本の数倍という物量には如何ともすることはできなかった。それをカバーするために搭乗員は、総員死をもって対処しなければならなかった。そして、最後は人間の極限、特攻隊なるものまで編成された。悲しいことである。どんな決死隊でも一握りの望みは残されていたが、特攻、それは零である。みんな良い男たちばかりであった。そして夢と希望を一杯持っていた。あの仲間は二度と帰らない。只、思いでだけが場所も時にも関係なく、私に面会に来てくれる。
 平和日本。衣、食、住、全てが満ち足りた祖国だが彼達は必勝を信じて特攻に散っていった。生きていればみんな孫がいてその孫を抱いて高い高いをしてやり人生で一番楽しい年齢である。私も体内に16発のグラマン機銃弾の破片が入っている。火傷もした。これは天と地が引っくり返るほど痛かった。耳の聞こえないことも4日間。目も10日間全く見えなかった。顔も、変形した。良いことは一つも無かった。ただことの善悪は別として、青春の情熱、命をかけて敵と戦ったことを今でも後悔していない。そして、生きていることだけで最高の幸福であり、特攻のことを思えばこの世にできないことは何一つ無いと思う。
 私は貴重な国の財産、零式艦上戦闘機3機と、艦上爆撃機2機を潰した。しかし、どの飛行機も自分の不注意怠慢は1機もない。その飛行機の持っている性能以上のことを私に与えてくれたので、敵機と対等の戦闘ができたと思う。特に知覧に不時着した艦爆は、78発機銃弾を受け、油系統を貫通されながら燃料の一適まで飛行してくれた。
 毎日、桜島、開聞岳をみるにつけ、ソロモン海をはじめとして、トラック、台湾、比島そして、人間の極限の沖縄特攻を想うとき、戦友たちのあの顔この顔が次々と浮かんでくる。
 70歳になってから急に、いろいろの体の不調を覚え、膀胱結石、右耳の突発性難聴、そして昨年からは原因不明の手足のしびれ痛みである。9軒の有名な病院にも診察してもらったけれども、老人病と体内に今も残っている16発のグラマンの銃弾の破片のせいだろうとの話しである。
 あれからもう53年、100%死は免れない命である。いつ終わりがきても少しも惜しくないけれども1日でも長生きをしたいし、人間生きられれば生きているほど素晴らしいことはない。残り少ない人生をより有意義に生きたいし、ボケなければ、戦争の苦しさ、みじめさ、むなしさを次の世代の若人達に少しでも語り伝えてゆくことが出来たらと、思っている昨今である』

SK Report 平成57号(平成13年2月22日)より抜粋

 太平洋戦争。この名称は戦後連合軍が命名したもので、大東亜戦争が正式な名称です。昭和16年の12月8日の真珠湾攻撃から始まり4年間弱続いたこの戦争は第2次世界大戦中、太平洋に限定された地域での戦争を指します。一夜で10万人の焼死者を出した東京大空襲や、一瞬にして30万人の命が消えた広島・長崎の原爆投下などの米国の非人道極まりない行為を含めると、本土の64の都市で計60万人もの一般市民が命を落とし、大東亜戦争全体では約300万人の日本人が亡くなっています。
 敗戦が色濃くなると、軍は体当たりを手段とした神風特別攻撃隊を編成し、250キロ爆弾を搭載した片道の燃料しか積んでいない飛行機を、沖縄海上で日本本土進攻を狙う米艦船轟沈のために、100パーセント生還不可能な作戦を断行しました。この作戦により沖縄海上にいた米艦船76隻が沈没、164隻が破損しましたが、陸海軍合わせて約5800人の若者が、祖国、そして愛する者たちの御楯となるために沖縄の海で散華しました。
 先月10日、久しぶりに浜園さん宅を訪問しました。浜園さんとお話しているとつい時間を忘れてしまいます。時空を超えた当時の風景が甦るのです。いつの間にか時間が過ぎ、帰り支度をしていると、もらってほしいものがあると何やら納屋から縦横50センチばかりの鉄くずを持ってこられました。聞くと、35年前に漁の最中に網に掛かったものだそうです。『開運 お宝探偵団』に出しても100円にも満たないただの鉄クズですが、手にした瞬間、浜園さんは零戦の破片だと分ったそうです。一緒にいた奥さんは海に戻すように勧めたそうですが、自分の網に掛かったのも、零戦や搭乗員の霊があえて自分を選んで引き揚げてもらいたかったのだろうと、家に持ち帰り大事に保管していたそうです。
 鹿児島県指宿郡前之浜在住の浜園重義(はまぞのしげよし)さんは、昭和20年4月6日、沖縄方面への出撃を命じられ午後2時に国分基地を飛び立たちました。これは菊水作戦第1号と呼ばれ、この日国分基地ほか、鹿屋、知覧などから陸海軍の航空隊300機が出撃しました。700キロ先の目的地まで約2時間。飛び立って直ぐ桜島を左に鹿児島市街地を右に見ながら、離陸後ちょうど20分ぐらいして故郷の前之浜上空にさしかかりました。幼い頃いつも父親と遊んでいた山々や小学校、自宅直ぐ近くの海岸に波が打ち寄せているのまで分かりました。親、兄妹、そしてこのきれいな山河を絶対にアメリカに渡したくなかった。家族
を守るため、故郷を守るために命を捧げる決心をし、本土最南端の開聞岳を右翼越しに見ながら敬礼、そして翼を3度横に振り一路沖縄海上を目指しました。

 浜園さんは終戦になると、それまで大好きだった酒もタバコも、『先に逝った戦友に悪いから』とキッパリ止めました。海上自衛隊を昭和48年に退職された時も、生きていただけでもありがたいと、恩給を辞退し、故郷の海で一介の漁師になられました。お世辞にも立派とは呼べないお住まいですが、遊びに行くたびに、取れたての海の幸や山の幸をご馳走になります。
 昨年の2月、ドイツのテレビ局が浜園さんのお宅を訪ねました。人間が自ら国のために死ぬなどという行為は、外国人にとっては自殺以外に説明がつかないのか、今ではドイツ国民の60%が特攻隊が実在したことを信じていないそうです。浜園さんの体内には未だにグラマンの機銃弾の破片が16個も残っており、零戦のパイロットとしてフィリピンやラバウルで数々の作戦に参加し、生死の境をさまよう様な激闘12回。その度に奇跡的な生還をされた勇士です。ドイツのテレビ局は、そういう歴史の生き証人の真実の声をはるばる聞きに来たのでした。彼らが、『また特攻隊員として飛ぶか?』との質問に、『今では1日でも長く生きていたい、そんな馬鹿な質問はするものではない』と激怒しました。
 平成13年1月24日、映画『ホタル』の鹿児島・知覧最終ロケに浜園さん夫妻が招待されました。この映画で高倉健さんが演じる役は浜園さんがモデルです。
昭和20年大戦末期、死線を越えてめぐり会った男と女が、戦後40年間ずっと沈黙をまもりながら、漁師としてひたむきに生きる元特攻隊員と、それを支える余命いくばくもない妻との愛の物語です。この日撮影現場で浜園さんは皆さんから天皇陛下のように大切に扱われたと照れながら言われました。高倉健さんは、わざわざ自分の椅子を浜園さんの奥さんへ持って行き座るように勧め、初めて対面する浜園さんと固く握手を交わしながら、はらはらと大粒の涙を流されたそうです。


 浜園さんは昭和40年からこれまで、北海道から九州まで、特攻で散華された戦友の慰霊墓参を行いました。当初、浜園さんが訪ねた遺族の半数は両親が健在で、お母さんなどは、『息子が帰ってきたようだ』と喜び固く握りしめた手を放さなかったそうです。終戦からほんの55年しか経っていないにも拘わらず、愛する我子を受験戦争に送り出さねばならない母親の姿を見るたびに、特攻隊の最後の言葉が『おかあさん』だったことを思い出します。


 ドイツから来た撮影隊からの質問が全て終わった後、一呼吸おいて『もし、もし日本が再び外敵に攻められそうになれば、自分は特攻隊員として祖国を守る』
と語った浜園さんを見てドイツ国民は何を感じたのでしょう。今年77歳の元特攻隊員は携帯電話のかけかたや、インターネットの意味は分りません。しかし、彼の背中は、人を引きつける魅力とは、知識や能力などではなくひたむきに生きるという生き様であることを教えてくれます。