『坂柿一統記の世界』
  さかがきいっとうき
新刊案内『坂柿一統記(抄)』
(菅沼昌平著,山本正名校訂・解説) 風媒社から令和2年8月末発売(2000円+消費税)

『坂柿一統記』 天・地・人 3巻


 江戸時代の古記録『坂柿一統記』,令和2年7月22日,故郷の東栄町に寄贈される。
新刊本
(2020年7月31日中日新聞記事)
 

 『坂柿一統記』(抄),令和2年9月1日,「風媒社」から自費出版
風媒社から発売(2000円+税)

  令和2年9月11日,『東愛知新聞』朝刊に,『坂柿一統記』(抄)」が掲載されました。

坂柿一統記


2020年10月22日『朝日新聞』朝刊・文化欄に掲載されました。
奥三河の古記録「議定論日記」「坂柿一統記」を読む
知的発酵促す先人の生きざま
 私の故郷は奥三河の東栄町、真冬に一晩中鬼や人が舞い明かす花祭で有名な所である。江戸時代には振草郷と呼ばれる天領だった。望郷の念から、その歴史に興味を持って調べていくと、古記録「議定論日記」と「坂柿一統記」があった。原本を探し出し、解読に取り組み、自費出版するに至った。

 「議定論日記」は、振草郷の造り酒屋湯浅武八が議定論騒動の顛末をつづった日記である。
 地元産物の売買等について商人仲間が作成した取り決め書(議定書)をめぐり、天保四年(1833年)、生産者の百姓たち七、八百人が商人宅をめざして押し寄せる騒動が起きた。騒ぎは江戸の勘定奉行所を巻き込む事態にまで発展した。悪事を働いたのはどちらか。商人代表の武八と農人代表の新八がお白州で弁論対決する。最終決着までに五年を要する争いだった。
 この争いには,地域取締を名乗る郷士の名主,百姓をけしかける訴訟好きの奸僧,感情をあらわにして内済(示談)を迫る役人等,多彩な人物が登場し,江戸時代に書かれたとは思えない人間ドラマ,裁判ドキュメントとなっている。

 この騒動記に、七郎兵衞の名で、「坂柿一統記」を書いた菅沼昌平が登場する。湯浅武八の義父にあたる。菅沼家の祖先は、長篠合戦の落武者だった。菅沼家の家伝と昌平の年代記を書き留めたのが「坂柿一統記」である。
 昌平は,医者だった父親の死後医業をめざし,信州飯田の蘭方医のもとで医者の修行をしたのち、文化四年(1807年)京都の著名な漢方医、吉益南涯に入門し、医者の地歩を固めた。疫病が蔓延していたこの時代、昌平は天然痘予防の種痘をまず自分の子に試し、その後、村民に接種した。三河で初めての種痘だった。天然痘は感染力の高いウイルスで現在では地球上から撲滅されているが、コロナ禍に苦しむ今から想像すると、当時の苦労がしのばれる。
 昌平はまた儒学者でもあった。「医は仁術なり」の考えを持ち、貧者から治療費は求めず、患者が求める治療を施した。有効な医術を秘匿して独り占めしようとすることには強く反発し、医者仲間での共有が大切だと説いた。医者の活動のほか村の新田開発、用水路の開削などにも取り組んだ。  昌平は若い頃から先進的な気概を持ち、自分の考えに基づいて果断に決断実行するところがあった。因習や慣行に従う村人からみれば、それこそ理解不能で、わがまま、頑固と見えただろうが、昌平は相手が多勢だからといってひるまなかった。
 「坂柿一統記」には、村の出来事や揉め事の調停の話のほか、論語や孟子によって思索を深め,自らの随想も書いている。自分の弱さ、失敗談、悩みまでも率直に告白している。そこから伝わってくるのは、事実を冷静に見て正直に書き留める主体的な精神であり、論語などの言葉を交えつつ我が子の誤りなきを祈る、「仁」の道への熱い思いである。
 日本民俗学の創始者柳田國男は,昭和初年,この「一統記」を読み,歴史的,民俗的な研究資料としての価値を評価していた。

 歴史は、単なる過去の出来事の羅列ではない。ここに取り上げた二冊は、押入れにしまい込まれていたものであったが、ひもとけば、悩み苦しみながらも自らの真実を追い求めようと格闘する人間の生きざまと、作り物でない歴史の真実が見えてくる。二百年前の人が何を考え、どう取り組んだかを知ることは、現在の我々に「人間とは何か」、「どう生きるべきか」を考えさせてくれる。
 「議定論日記」及び「坂柿一統記」。これは東栄町の宝物であるばかりか、現代に生きる者の知的な発酵促進剤でもある。


 東栄町『町民作品展示会』(2020年10月31日~同年11月4日)で,
町の古文書『議定論日記』と『坂柿一統記』の原本(ガラス・ショーケース内)が展示されました。


展示
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