横山まさみちの思い出 V

劇画・漫画家への道B             ※「横みちソレーユ」(横山プロダクション・昭和41年12月)より抜粋 

 「人間は平等である」という。しかし理屈はそうであっても、現実は違う、とぼくは思う。人間は生まれながらにしてその地位、貧富などにおいて、すでに色々なひらきがある。

 完全に平等なのは“時間”だけだ。金持ちの子でも貧乏人の子でも一時間は一時間に変わりがない。

 勤労と学業と漫画と、これだけを一つの身でやっていくには、時間の利用しかなかった。

 「あいつが二時間でおぼえることなら、ぼくは一時間でやってやろう」この意気込みでぼくは頑張った。当時はこのファイトだけがぼくを支えていてくれた。そして学業と漫画の両道を続けていった。

 その頃の単行本は大体96頁か、60頁のもので、B版といった。(児童用月刊雑誌のフロク位の大きさ)

 昭和27年暮頃からそろそろA版(現在単行本の大きさ)が出はじめた。しかし90頁位の、今から見ればうすい本であったが……。

 ぼくが執筆していた出版社日照館では、このA版をとりあげたとき、ぼくに最初に執筆させてくれた。

 ぼくはおよそ一ヶ月がかり、「黄金丸と白銀丸」というのを描きあげた。少年剣士を主人公にした時代マンガで、兄弟愛をテーマにしたものだった。この作品で、はじめて出版社あてにファンレターが一通来た。出版社でもこんなことは初めてだと言っていた。ファンレターといってもある母親から来たもので「ストーリイがおもしろく、内容が良くって子供のためにもなる」といったことが書かれてあった。当時は作者と読者の間にほとんど交流のなかった時代なので、社長は大喜びしており、ぼくも大いに意欲をもやしたものだ。

 こうしてぼくがスタートした昭和27年中には、A版B版あわせて10本執筆した。

 昭和28年は一ヶ月平均一本半の割で、合計17本かきあげた。すべて90頁のA版と、96頁のB版で内容はすべて時代もの。大体サムライにお姫様や下町娘をからませた
ものばかりだった。その主なものは 「虎若丸の冒険」 「一本歯の左近」 「お福小町」 「天馬太郎」

 この年の暮、太閤堂という出版社からも新しく依頼され「つんつんつばき姫」というのを作成した。

 当時は貸本店はあまりなく、こういうマンガ本は一般の書店に並んでいた。通りかかった書店に自分の作品が並んでいるのを見かけた時は、喜しいものだ。

 ある日、とある書店で一人の少女が棚に並んでいるマンガ本をあれこれえらんでいるのを見かけた。ぼくはジッとその少女の手先を見守っていた。少女は迷ったあげく、やっと決心して一冊の本を手にとった。ぼくは今でもその光景を目のあたりにおもいだすことができる。本は「星とお美代ちゃん」。ぼくの作品だ!!

 ぼくは本を買って帰るその少女をよびとめた。「おじょうちゃん」 

 不審そうに振り返った少女に、ぼくはもう一冊本を買って与えた。「これ あげる」

 ますます不審そうな表情をつくる少女をあとに、ぼくはホテつくホホを冷やせとばかり、いそいで立ち去った。少女にとっては、ぼくが時ならぬサンタクロースであったかもしれぬ。ぼくにとっては、少女が天使だった。

 ある歌手がまだカケ出し時代に、通りかかった酒場で見知らぬ男が唄っているのをフト耳にした。その唄はその歌手がはじめてレコードに吹き込んだものだった。かけ出し歌手はすぐその酒場へとび込み、その見知らぬ男に「飲みねえ、喰いねえ」サンザおごったそうだ。という話を聞いたことがある。

 その気持、よーく判る。

 諸君もぼくの気持わかってくれるでしょ。

 昭和29年、ぼくが上京して3年目だ。ぼくは代々木の下宿から新宿のアパートへ移った。昼間は学校へ行き、夜はおそくまで漫画を描くという不規則な生活が下宿にはむかなかったからだ。

 この年は、日照館・太閤堂の2社で60頁・96頁の単行本あわせて24本を描いた。その主な作品名「海洋児・早若丸」「鷲ヶ岳の姉妹」「曽我兄弟」「星の小天狗」「珍・竜虎伝」「高原の白鬼」 この頃、単行本マンガがちょっと下火になって来て絵物語のほうがはやってきた。

 「きみも絵物語をやってみないか」と出版社から言われたが、ぼくはマンガを描き続けた。ぼくはコマわりした漫画が好きだった。流行にのってその主旨を曲げる気持はなかった。

 しかし、正直大いに迷いはした。漫画が好きでもその仕事がなくなってはどうしようもない。おまけに学校へも行けなくなってしまう。せめて学校へ行っている間だけでも仕事が切れないでほしい― というのがぼくの切なる望みであった。

 それにもう一つ、3年目の迷いがでてきた。

 新しい作品を描きあげると出版社へ持っていき、前に描いた作品が本になっているともらってくるのだが、その本を見るたびに悲しくなった。何と下手な絵か! 以前は出版された本を手にすれば、ただ嬉しかったものだが……。
 ぼくは情けなかった。多少疲れていたのかもしれぬ。おれはどうなっていくのだろう。
 仰臥して見上げる空はどこまでも青い、秋の日の昼下り……。長い長い管を口元につけ、あの高い空の、青い空気を胸一パイ、直接に吸ってみたい。
                                                                                       ―当時の日記より―
 (車のふえた今では、スモッグで高い青空を仰ぎみることの出来る日は、きわめて少なくなったが……)

 昭和30年
 日照館は単行本マンガの下火の打開策として、その名も漫映出版社と改め、映画のシナリオを漫画にした本を出版しはじめた。本の形はA版で頁数は120頁程度。大体いまの単行本ぐらいである。ただ表紙が厚いボールを使っていた。

 これは映画の封切られる前に映画会社からシナリオをとりよせ、それを漫画化するものだった。映画の封切りと同時に本を出したほうが効果があるので描く日数には制限があった。いわゆる原稿の〆切が重要であった。

 さいわいぼくは描くことが早いほうであり、物事に熱中するほうであったので、とりかかればどんな事があっても〆切日までには間にあわせた。〆切日は一つの約束ごとである。ぼくはどんな約束も大事にする主義だ。作者の中には気分がのらなければ、かかぬというのが多いが、その気分は結局自分でつくるものであり、かかぬということは、かけぬという言葉のいい逃れだと、ぼくは思う。

 大学は3年、4年生となれば専門科目もふえ、卒業論文もかかねばならず、多忙をきわめていたが、徹夜してでも仕事の〆切日は守った。漫映で最初に仕上げたのは、黒川弥太郎主演の「長脇差大名」という作品だった。映画のシナリオがもとだから恋愛場面などもあり、そういうところはカットして筋をつくりなおし、ほかに漫画的ギャグなどを挿入していく必要があった。

 このシナリオつき漫画は企画のめずらしさもあって、すべりだしの評判はよかった。そしてこのあと、「怪奇黒猫組第1部・第2部・第3部」、月形竜之介主演の水戸黄門「火牛坂の悪鬼」、美空ひばり主演の「娘船頭さん」と描いた。

 ぼくが漫画化したシネリオの映画は必ず見に行った。映画には音も動きもある。しかし本には絵でしか表現できない場面もある筈だ。

 当時まだ劇画という名はなかったが、その要素はすでに多分に、はぐくまれていたと思う。いわばこの漫映はそのハシリであった。

 このあと「女中っ子」というのを依頼された。この作品がぼくの絵の一つの転換期になり、また出世作の一つにもなった。「女中っ子」はぼくの作品の最初の現代ものであった。これまでおよそ4年間に長中篇あわせて60本余り描いてきたがすべて時代ものであった。そこへ現代ものの「女中っ子」を依頼されたのである。

 さすがに絵のきりかえには苦労した。しかし多いに勉強にはなった。とにかく漫画家である以上、なんでもこなせなくてはならない。「女中っ子」は由記しげ子の名作であり、映画では左幸子が主演した。

 嬉しいことに漫映本のほうも大当たりし、本の出来が良いというので映画の試写会にも招待された。

 当時単行本出版社では最も老舗である中村書店というところから、一度来てほしいという連絡をうけた。行ってみたところ、「あなたが女中っ子をかかれた横山さんですね」と言われ、うちでも描いてほしいと頼まれた。

 そして、「星よびヒトミ」という現代少女ものの長篇を描きあげた。創作作品である。(のちにこれが冒険王などの秋田書店の目にとまった。)

 続いて映画シナリオつき、江利チエミ主演の「裏町のおてんば娘」というのを漫画化した。

 もちろん日照館でもシナリオつきの漫画は続け、「柿の木のある家」(高峰三枝子 主演)、「続・警察日記」(伊藤雄之助 主演)、「大江戸出世双六」(高田浩吉 主演)と描いた。

 またシナリオつき漫画ばかりでなく、喜劇俳優古川ロッパを主人公にしたロッパ・シリーズをはじめた。ストーリイはすべて創作である。「ロッパの園長さん」「ロッパ七つの顔」「ロッパののんびり先生」と続けた。

 この頃の作品で一番思い出に残っているのは、「力道山対カルネラ」という本である。

 当時は力道山を中心にプロレスの大隆盛時代にあり、そこへアメリカからボクサーあがりで強烈な殺人パンチの大男カルネラが来日してプロレスファンを大いに涌かせた。これを漫画化しようということになったのである。

 これを依頼されたぼくは、まず力道山とカルネラの少年時代からの生い立ちをかき、ぐっとしぼっていって、その二人が対決する……という構成法をとることにした。これには相当の資料を必要とした。本やスポーツ新聞などを買い集め、二人の半生を調べた。

 ただここに問題が2つあった。

 一つはカルネラが日本にいる間にタイミングをあわせて本を出さねばならないことである。したがって描きあげる日数はすこぶる制限されていた。だから二人が対戦する前に前半の生い立ちなど描きあげ、試合の日にそなえた。

 今一つの問題は、是が非でも力道山に勝ってもらわねばならぬことである。もし力さんが負けるようなことにでもなれば本の結末に大いに困り、本も出なくなるのである。描いてしまった前半がムダになるのである。

 試合の経過をつぶさに描くため、ぼくは街頭テレビや風呂屋のテレビにかじりついた。(この頃はまだテレビが一般家庭にまで普及していなかった)。ちょうど学校は夏休みだったので、各地に転戦する試合について名古屋まで行ったりした。そしてまた東京へもどり、いよいよ二人のシングルマッチ決勝戦。

 力さんが勝ってくれた時は嬉しかったね―。まだその興奮がさめやらぬうちにペンをとった。そして徹夜を続けて描きあげた。この本のよく売れたこと。これだけ苦労して描いたのだが、A判128頁の長篇で原稿料は一万二千円也。でもぼくは満足だった。

 昭和31年
 以前、太閤堂といった出版社が葵出版社と名をあらため再出発した。ここで「黒いソフト」という長篇探偵ものを描いた。これも評判がよかった。自分でいうのもおかしいが、今読み返してみてもストーリイはおもしろい。絵はぜんぜん下手っくそだ。

 こうしてこの年のはじめは、日照館、中村書店、葵出版社と3社で交互に執筆した。その主な作品は「大都会の魔人「怪剣士鬼の面」「馬っ子兄弟」「メエ子ちゃん」「誘拐魔と少女」。題名の示すとおり、現代もの、時代もの、少女もの、いろいろだった。

 かくて昭和31年3月 明治大学卒業。

 この4年間に描きあげた作品は79本。

 感無量であった。

 夢と不安と2つ抱いて上京してきた4年間……

 学校と漫画の両立。まがりなりにもこの初期の目的が達成できたのは、目に見えぬ何かの加護があったと感謝している。

 もちろん努力はした。懸命であった。友人が遊んでいる間にペンをとった。裕福な学友がバーなどへ出入りしている間に勉強した。ぼくは当時を回顧してみて「苦労したな!」とはちっとも思わない。結構たのしい思い出になっている。情熱をかけて一生懸命やったことに満足をおぼえている。少しの悔いもない。白熱の時代であった。

 ぼくは学校と漫画のために上京して来た。どちらが欠けても上京はしなかったろう。しかし漫画は学費と生活費を支えていく上のアルバイトであった。不況な時には、せめて学校を卒業するまでは仕事があってくれと願ったりしたものだ。それがどうやら4年間は通り過ぎることが出来た。

 ぼくは本当は小説家、映画のシナリオライターになりたかった。あるいは新聞記者にもなりたいと思っていた。学校の成績は良かった。「これならどこの会社へでも推薦できる」と学生課では言ってくれた。しかしぼくは、ここで困惑した。

 いつしか漫画への情熱が完全にぼくをとらえていたのである。ぼくはどの道へ進むべきか? ひたむきに4年間進んできたが、ここでハタと足がとまった。

 人生の大きな岐路に立ったのである。

 そして誰もがたどる道なのである。



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