― マリア・アンナ(1738 - 1789) ― マリア・クリスティーネ(1743-1798) ― マリア・エリーザベト(1743-1808) ― マリア・アマーリエ(1746-1808) ― マリア・カロリーネ(1752-1815) ― マリア・アントニア(1755-1793) |
マリア・テレジアは16人の子を生みましたが、そのうち、長生きした娘たちは6人。便宜上、夭折せずに生き残った娘たちを、上から順に、長女・次女・三女・・・とします。 長女のマリア・アンナは、母に疎まれたそうです(^^;) これに対して、三女のエリーザベトは、始め、母に愛されます。あまり賢くはなかったそうですが、何しろとても美しい娘だったためだとか(汗)それで、次女のクリスティーネと組んで、長女のマリアを馬鹿にしていた、と(うわあ・・(汗))フランス王のルイ15世との縁談も持ち上がっていたそうです。 さて、次女のクリスティーネは、女帝に一番愛されたといわれます。なかなか美しかったためでしょうか(笑) なお、女帝が世を去ると、後を継いだヨーゼフ2世は、姉妹たちをウィーンから追放します。若くして死んだ、ヨーゼフの妻イザベラをいじめたからだとか・・(うわあうわあ・・(汗)) クリスティーネとは異なり、、四女のアマーリエは、愛する人との結婚が許されず、イタリアのパルマ公のもとに嫁がされます。この年下のフェルディナンドという夫がまた、全然魅力的でなく、君主の器ではなかったといいます。 五女のカロリーネはナポリのフェルディナンド(う・・同じ名前ばっかりでややこしい・・)に嫁ぎます。実は、すぐ上の姉のマリア・ヨーゼファが嫁ぐはずだったのですが、代理結婚式まで済ませたあとで、天然痘で世を去ってしまいます。そのため、妹のカロリーネがナポリへ行くことになります。 六女のアントニア(アントワネット)は、フランスのルイ16世に嫁いだわけですが、実は、カロリーネがフランスへ行っていた公算も大きかったのですね。フランスのブルボンとの縁組が考え始められたとき、末娘のカロリーネが候補に上がったのだけども、アントニアが生まれたので、年ごろの釣り合うアントニアがフランスに行くことになったとか。 もしも、カロリーネがフランスへ行っていたら、その後の展開はどうなったのだろう・・と考える人もいるみたいです。 |
目次へ ホームページへ |