応仁2年
(1468年)
本願寺第八世の法主蓮如上人が、三河御巡化の折り、真宗繁昌の中心たるべき寺院として、
額田郡土呂の郷に創建されました。蓮如上人につづき、第九世実如法主も本宗寺を拠点として
三河門徒教化につとめられ、四男実円上人を本宗寺の初代住職に任ぜられました。
永禄2年
(1559年)
その後 実証(教証)を経て証専(教什)の時には、朝廷より勅許院家(ちょっきょいんげ)の栄誉を賜りました。
永禄6年
(1563年)
三河に広がった一向一揆の兵乱により、三河の本願寺派の主要な寺院道場は悉く破却され
宗門禁制の悲運を蒙ったため、本宗寺も広大なる伽藍(がらん)を取り壊され、
ここに寺は一時断絶するのやむなきに至りました。
天正11年
(1583年)
家康の叔母 芳春院妙西尼(ほうしゅんいんみょうさいに)の再三にわたる懇請(こんせい)の結果、
宗門再興の赦免状(しゃめんじょう)が発せられ、本宗寺は最初に復興を許されました。
慶長6年
(1611年)
土呂の旧地に替えて 寺地を転々としていましたが、現在の平地山に御坊本宗寺が完成しました。
江戸時代には、平地山の丘陵地に、本堂・庫裡(くり)・対面所・書院等を備えた大坊舎において
教化を続けました。
明治9年
(1877年)
明治維新後、大名と同様に寺領は国有地となりました。建物や寺宝も減少しましたが、
本堂・庫裡・書院は残されました。
昭和43年
(1959年)
火災により本堂を焼失。恵信僧都(えしんそうず)作といわれた御本尊(ごほんぞん)阿弥陀如来像を
はじめ、貴重な寺宝を焼失したのは、極めて惜しいことでした。
昭和48年
(1964年)
鉄筋コンクリート造ではあるが、旧来の日本的伝統に基づいた新しい本堂が完成しました。
平成14年
(2002年)
開基(かいき)蓮如上人五百回遠忌法要をつとめ、それにともない山門はじめ多くの箇所を改修しました。
上人の教えを伝える道場として、充実したものとなりました。
石川数正の墓
芳春院妙西尼の墓
鐘つき堂