さかがきいっとうき
新刊案内『坂柿一統記(抄)』
(菅沼昌平著,山本正名校訂・解説) 風媒社から令和2年8月末発売(2000円+消費税)
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江戸時代の古記録『坂柿一統記』,令和2年7月22日,故郷の東栄町に寄贈される。
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『坂柿一統記』(抄),令和2年9月1日,「風媒社」から自費出版
風媒社から発売(2000円+税)
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令和2年9月11日,『東愛知新聞』朝刊に,『坂柿一統記』(抄)」が掲載されました。
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2020年9月29日『東愛知新聞』朝刊に,伊藤正英氏による『坂柿一統記』(抄)の『書評』が掲載されました。
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書評 『坂柿一統記』(抄)
−花祭の里・村医者が子に語る仁の道
菅沼昌平・著 山本正名・校訂・解説
風媒社・発行 2020年9月1日 2000円
三河民俗談話会 伊藤正英
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江戸時代の日記を読まれることは一般にはない。英雄の伝記ならいざ知らず、一般の庶民のものとなると数もない。先頃、名古屋の風媒社から『坂柿一統記』が発刊された。書評を記してみたい。
著者は菅沼昌平(七郎兵衛)、安永8年(1779)に生まれ、弘化3年(1846)に死んだ。当時の振草郷中設楽村(現・東栄町)で主に活躍した。江戸時代の村医者の中では、筆マメであった様で、彼は日記を「天」「地」「人」の三分冊に分け、450ページほどの和紙綴じの備忘録を残した。
翻刻したのは、山本正名氏。法律家として実務に当たられてきたが、故郷の東栄町のため、既に『議定論日記』とよばれる天保期における奥三河の騒動のことを翻刻出版されている。郷土史に関わるものは今回で二冊目になるかと思う。本書の「飯田の仇討」の項は、山本氏らしい着眼である。また、初学者用に注を付けて、さらに解説があるのでわかりやすい。章で昌平のライフサイクルを、節で日記の内容をテーマ別に掲げているので、興味の湧くテーマから読んでも良いかもしれない。
さて、『坂柿一統記』は、ごくかいつまんで言えば、坂柿家(つまり菅沼家の屋号)の伝記ということとなる。大部分は、彼の親族と生業であった医業の知見の記録である。しかし、この日記には、当時の奥三河の庶民の暮らしが多く記載されており、その面からこの本を読めば多いに得る所があると思い取り上げた次第である。新城の茶席で飲んだ茶の作法のこと。雨乞いの儀礼、おかげまいり、花祭の立願、今も中設楽にある山田用水の開削、鬼面の由来など、江戸期の公式の古文書にはないような私文書であり、不正確で一方的な部分もあるが、庶民の目線からの記述が珍しい。
ところで、コロナ禍である今こそ、読者に読んでほしい理由がある。菅沼昌平は、江戸期に遠く京都の吉益南涯や飯田の本山良順など当時最先端の蘭方や漢方の医者の下で修業し、帰郷した後、新城や中設楽で多くの患者を救ってもいる。ことに、傷寒(腸チフス)や天然痘は当時不治の病でもあった。その感染で彼の長男なども命を奪われた。治療後の知見の多くは、現代の医療従事者も突き当たる、医療倫理の問題にも連なっている。いわゆる医に関して「人事を尽くして天命を待つ」覚悟で治療にのみ専念すべしとし、医を施す勇気を捨てなかったのである。もちろんの多くの失敗の治療もあったのであるが、そして、菅沼昌平は文化15年(1818年)には、人痘種痘法によって、長女と二男に種を植え、この予防法を拡大し、三河最初の予防接種の里と中設楽(東栄)がなった。ジェンナーの牛痘種痘法ほど安全な方法ではなかったが、この成功により多くの患者が救われた。
最後に、この本にまつわる因縁を伝える。花祭などの芸能の宝庫である奥三河を知悉した日本民俗学の父=柳田國男は、地元の郷土史家原田清からこの本の価値を問われた。その時柳田は、「是を精査して『或家の歴史』というものを書かば面白からん。・・・今後特殊な研究を為すべき人の資料として保存の方法を講ずべし。」とこの書の価値を評価している。昭和4年の秋のことである。100年近く経過したこの秋の日に、この本が再び陽の目を浴びたことは大変意義深いことである。
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2020年10月22日『朝日新聞』朝刊・文化欄に掲載されました。
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奥三河の古記録「議定論日記」「坂柿一統記」を読む
知的発酵促す先人の生きざま
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私の故郷は奥三河の東栄町、真冬に一晩中鬼や人が舞い明かす花祭で有名な所である。江戸時代には振草郷と呼ばれる天領だった。望郷の念から、その歴史に興味を持って調べていくと、古記録「議定論日記」と「坂柿一統記」があった。原本を探し出し、解読に取り組み、自費出版するに至った。
「議定論日記」は、振草郷の造り酒屋湯浅武八が議定論騒動の顛末をつづった日記である。
地元産物の売買等について商人仲間が作成した取り決め書(議定書)をめぐり、天保四年(1833年)、生産者の百姓たち七、八百人が商人宅をめざして押し寄せる騒動が起きた。騒ぎは江戸の勘定奉行所を巻き込む事態にまで発展した。悪事を働いたのはどちらか。商人代表の武八と農人代表の新八がお白州で弁論対決する。最終決着までに五年を要する争いだった。
この争いには,地域取締を名乗る郷士の名主,百姓をけしかける訴訟好きの奸僧,感情をあらわにして内済(示談)を迫る役人等,多彩な人物が登場し,江戸時代に書かれたとは思えない人間ドラマ,裁判ドキュメントとなっている。
この騒動記に、七郎兵衞の名で、「坂柿一統記」を書いた菅沼昌平が登場する。湯浅武八の義父にあたる。菅沼家の祖先は、長篠合戦の落武者だった。菅沼家の家伝と昌平の年代記を書き留めたのが「坂柿一統記」である。
昌平は,医者だった父親の死後医業をめざし,信州飯田の蘭方医のもとで医者の修行をしたのち、文化四年(1807年)京都の著名な漢方医、吉益南涯に入門し、医者の地歩を固めた。疫病が蔓延していたこの時代、昌平は天然痘予防の種痘をまず自分の子に試し、その後、村民に接種した。三河で初めての種痘だった。天然痘は感染力の高いウイルスで現在では地球上から撲滅されているが、コロナ禍に苦しむ今から想像すると、当時の苦労がしのばれる。
昌平はまた儒学者でもあった。「医は仁術なり」の考えを持ち、貧者から治療費は求めず、患者が求める治療を施した。有効な医術を秘匿して独り占めしようとすることには強く反発し、医者仲間での共有が大切だと説いた。医者の活動のほか村の新田開発、用水路の開削などにも取り組んだ。
昌平は若い頃から先進的な気概を持ち、自分の考えに基づいて果断に決断実行するところがあった。因習や慣行に従う村人からみれば、それこそ理解不能で、わがまま、頑固と見えただろうが、昌平は相手が多勢だからといってひるまなかった。
「坂柿一統記」には、村の出来事や揉め事の調停の話のほか、論語や孟子によって思索を深め,自らの随想も書いている。自分の弱さ、失敗談、悩みまでも率直に告白している。そこから伝わってくるのは、事実を冷静に見て正直に書き留める主体的な精神であり、論語などの言葉を交えつつ我が子の誤りなきを祈る、「仁」の道への熱い思いである。
日本民俗学の創始者柳田國男は,昭和初年,この「一統記」を読み,歴史的,民俗的な研究資料としての価値を評価していた。
歴史は、単なる過去の出来事の羅列ではない。ここに取り上げた二冊は、押入れにしまい込まれていたものであったが、ひもとけば、悩み苦しみながらも自らの真実を追い求めようと格闘する人間の生きざまと、作り物でない歴史の真実が見えてくる。二百年前の人が何を考え、どう取り組んだかを知ることは、現在の我々に「人間とは何か」、「どう生きるべきか」を考えさせてくれる。
「議定論日記」及び「坂柿一統記」。これは東栄町の宝物であるばかりか、現代に生きる者の知的な発酵促進剤でもある。
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東栄町『町民作品展示会』(2020年10月31日〜同年11月4日)で,
町の古文書『議定論日記』と『坂柿一統記』の原本(ガラス・ショーケース内)が展示されました。
原本の一部を見開きに展示し,小中学生にも理解できるよう,パネルで分かりやすい解説が加えられ,上手にまとめられていました。
感動でした。ありがとうございました。
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