『坂柿一統記の世界』
(地図上の位置)
さかがきいっとうき
新刊案内『坂柿一統記(抄)』
(菅沼昌平著,山本正名校訂・解説)
『坂柿一統記』(抄),令和2年9月1日
風媒社から発売
(2000円+消費税)
アマゾンからも購入可能
『坂柿一統記(抄)』 風媒社から発売
(2000円+税)
1
『坂柿一統記(抄)』 目次
2
『坂柿一統記(抄)』刊行の経緯
(中日新聞,東愛知新聞,朝日新聞の各紹介記事,書評,
東栄町町民展示会での「議定論日記」「坂柿一統記」各原書展示会の模様)
3
菅沼昌平の生涯(年表)
4
『坂柿一統記(抄)』の表紙には何が書かれているのか
5
「医は仁術なり」
6
村医者・菅沼昌平が育った環境
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村医者・菅沼昌平が使った漢方薬・処方
8
コロナ禍中の『坂柿一統記』
9
江戸時代の医療史と医者の養成
10
菅沼昌平は儒学者か
多くの人は,江戸時代の本当の姿を知らない。
大岡越前や遠山金四郎の時代劇ドラマを見て知っていると言っても,それはフィクション(作り物)の世界でしかありません。江戸時代に生きた人がどんな暮らしをし,どんな考えを持っていたのか,生の記録を知っている人は少ないと思います。
実際に江戸時代に生きて,自らの生き様と随想を,つぶさに日記風の記録に残した人物がいました。
江戸の文化・文政・天保の時代に,奥三河の花祭の里・振草郷(現東栄町)の山村で村医者をしていた男で,名を「菅沼昌平」といいました。
飯田,江戸で医者の修行をし,京都の吉益南涯の門人となり,振草郷,新城で医業を営みました。儒学者でもありました。
この時代,天然痘がしばしば流行しました。天然痘も,今流行のコロナと同様ウイルスであり,感染力は強く,高熱を発症して死亡者が多く出ました。命が助かっても顔などに醜いアバタを残し,人々におそれられていました。
菅沼昌平は,文化14年(1817),三河で初めて天然痘予防の種痘(人痘法)を自分の子に実施し,村人にも広げていきました。近年,この功績は『愛知県史(近世編)』にも取り上げられています。
人痘法は,寛政元年(1789)に,秋月藩藩医緒方春朔が人痘法接種を成功させており,これが伝来したものと思われます。1796年にイギリスの医師ジェンナーは,より安全・確実な天然痘予防の牛痘種痘を開発しましたが,鎖国下の日本に入ってきて広まり出すのは,遅れて嘉永の時代(1850年代)に入ってからでした。こうした長い戦いにより,今や天然痘ウィルスは,この地球上から駆逐され絶滅に至っています。
村医者菅沼昌平は,先祖代々の家伝や自分の代になってからの村の出来事,自らの取組や思索などを日記『坂柿一統記』(さかがきいっとうき)全9巻(天・地・人の3分冊)に残しました。種痘の話は,その中に出てきます。
家伝の中では先祖の逸話が語られ,日記では,儒学者らしく,論語,孟子等の中国古典,徒然草,一休等の名言を引用して人の生き方を語り,医者としての仁の道を説いています。また,世話好きであったので,日記の中には,男女の仲を取り持つ話,山持ちと山なし者の入会地をめぐる確執,長年経過した借金の訴求の問題,殺人事件への対処,雨乞いの儀式等,当時の暮らしぶりが分かる記述があって,面白い読み物にもなっています。
昌平は議論好きでもあったので,動物殺生の是非,種痘の是非・効果をめぐる問答も日記の中で再現されており,博奕に対する考え方,商人と百姓の間の議定論天保騒動(「江戸の裁判」参照)への関与,江戸へ旅の途中に起きた大塩平八郎の乱についても書かれています。
この時代,この山奥の知識人の意識と思想がどのようなものか分かって,興味深いものがあります。
今回は,今まで公開されていなかったこの古記録『坂柿一統記』から,その一部を抜粋し,記事ごとにタイトルを付して構成し,『坂柿一統記(抄)』として出版するものです。
本書の「はじめに」にも書きましたが,この書では、論語や孟子など先哲の言葉を交えて、人間を、人生を、いかに考え、対処すべきかを考えさせてくれると思います。これは著者の体験記ではあるが、父が子に語る人生の教科書、リーダー育成の指南書にもなっています。
本書によって、江戸後期の歴史と山里の暮らしぶりや医者兼儒学者(知識人)の生き様と思想、中国古典の知恵力の奥深さを知ることができます。それは、現代人に生きる我々に、改めて「人間」や「人生」、「仕事」等の基本を考え直すきっかけを与えてくれるだろうと思います。江戸時代を知る第一級の史料と言ってもよいでしょう。
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『坂柿一統記』の舞台=中設楽集落。西方に御殿山を臨む
坂柿一統記の収納箱
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