さかがきいっとうき
新刊案内『坂柿一統記(抄)』
(菅沼昌平著、山本正名校訂・解説) 風媒社から令和2年9月1日発売(2000円+消費税)
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コロナ禍で『坂柿一統記』を書いて
江戸時代の村医者は、種痘について、どう考えていたのか。『坂柿一統記』には、天然痘(疱瘡)の「種痘法問答」が記されている(天保9年(1838年)菅沼昌平60歳の日記)。
該当部分を現代口語文に訳(意訳)して掲載すれば、次のとおりである。原文は『坂柿一統記(抄)』を参考にされたい。
昌平は、診察に行く道すがら、道連れの原田助弥から、「今天然痘が流行しているが、種痘は役立つのか」と質問される。
「『種痘必順弁(しゅとう・ひつじゅんべん)』という書があると答えるが、助弥から「そこには、どう書かれているのか」と問われる。
〔(注)「種痘必順弁」は、筑前(福岡県)秋月藩医緒方春朔(しゅんさく)が、寛政2年(1790年)に国内で初めてシナ式の種痘を実施し、寛政5年(1793年)に書き著した書である。〕
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昌平は、「種痘をして、7日にして熱を発し、天然痘にかかった症状になる。熱などで体力が消耗している時期には症状は重くなるから、その時期を除く。病身の子供には決して種痘をしない。無病の者に施した後、大事にしていれば、軽くて済む。」と話す。
続けて自分の体験談を話す。
「自分の子3人〔(注)新作、美津、仁輔〕に植えたが、皆軽かった。後にまた三男謙治にも植えたが、他病があって重かった。しかし、跡(あばた)は残らなかった。(略)
わが師浜名の阿部玄岑(げんしん)は、種痘をおよそ六百児に施したところ、三人が死亡した。その者らは多病故に断ったが、その親に強くせがまれて施したものの、死亡させてしまった。これは種痘の業(わざ)によるのではなく、みずから死に至ったものである。すなわち天命だ。」と言う。
その時助弥は、しばらく思案して、「天命の有無は、何を以て知るのか。」と切り込む。
昌平は、すぐ返答できる言葉はなく、「ただ、必順の理を以てするのは天命のある者だ。種痘を受けるに自然の者、また天命存するものである。」という。そして、「その論に至っては自分の力に及ばないことだ。天に向かい問うしかないよ」と、笑って別れたという。
昌平は、このやりとりが忘れられなかったとみえて、後年思い出して、日記に書く。
「種痘は万全だと言っても、天命は聖なるもの(神々)でなければ計れない、計れなければ術(すべ)はない。ただ、必順の理を以て助けなければならない。道心(仏心)を以てすれば助けられるのか。ここに至って自分では弁明できない。君子(高い教養ある人格者)の明解を待つしかない。」と。
〔(注) 昌平は、「一統記」の中で2、3度、「天命の逃れざるところか」という言葉を使っている。ここでは議論を深めないで終わっているが、いわゆる「天命説」に関係する。昌平の師吉益南涯の父吉益東洞は、その医説を述べた中で、「死生は命なり、天よりこれを作(な)す。・・医もこれを救うこと能(あた)わず」(同人著『医断』の「死生」)とし、死生は天命であり、「医の與(あずか)らざる所なり」と言った。
これが「天命説」であるが、この説に対しては、「天命を持ち出すのは医術の未熟さの言い逃れにされる」、「医業の放棄だ」等との批判が巻き起こり、江戸時代最大の医学論争になった。ただ、東洞は、先の言葉に続けて、「人事を尽くして天命を待つ。いやしくも人事これを尽くさずして、豈(あに)命に委ねるを得んや」と言い、医者として行うべき治療の規準・方法に従って全力を尽くせば恥じることはない、という趣旨を述べている。
こうした議論は、引き続き現代の医師、医療に対しても問われている。〕
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私がこの『坂柿一統記』を翻刻・校訂し、原稿の最終点検に取り掛かっていた時だった。令和2年(2020年)1月以降、感染力の非常に強い新型コロナ・ウイルスが、急激に拡大していった時期だった。
世界的にも大変な大流行ともなり、わが国でも、感染者が急増し、医療対応が困難を極め、4月には「緊急事態宣言」が出されるに至った。外出自粛、休業、休学等が続き、経済、社会の生活全般が停滞、混乱し、大変な状況に至った。
天然痘について調べると、感染力、罹患率、致命率が高く、紀元前からある疫病で、日本では奈良時代にも既に天然痘があったという。
「感染は飛沫感染による。およそ12日間(7〜16 日)の潜伏期間を経て、急激に発熱する」、「治癒した場合でも顔面に醜い瘢痕が残るため、江戸時代には「美目定めの病」と言われ、忌み嫌われていた」という(国立感染研究所ホームページ「天然痘(痘そう)とは」)。
天然痘の病原体はウイルスであり、感染力の強さといい、発症の潜伏期間といい、その説明を読めば、現在感染拡大が進む新型コロナウイルスとの類似点に気づかされた。
それにしても、江戸時代、病人が高熱にうなされたり暴れたりすれば、「人皆、狐狸(きつね・たぬき)の所為」、「女人のさわり」、「神仏のたたり」などと言われていた(「坂柿一統記」)時代である。人々の頼りは加持祈祷が中心であり,地域によっては天然痘(疱瘡)をつかさどる疱瘡神を奉り祈念する習俗もあった。恐ろしい天然痘から逃れ,あるいは軽症で済むことをひたすら願っていた。昌平が行った種痘は、中国伝来の人痘法(傷跡のかさぶたを粉にしたものを鼻孔に注入する方法等)だったと推察されているが、この施術を無知蒙昧、無理解な人々が多い中で行うには、相当の困難があったと想像する。
しかし、天然痘は、顔面、頭部などに発疹し「紅斑→丘疹→水疱→膿疱」と進み、発症が目に見えるところに特徴があった。また、一度罹患すれば免疫ができることなども知られていた、これが発症者の発見と対処、予防法の開発には幸いであったとも言える。
その後、天然痘予防の接種としては、1796 年(寛政8年)にイギリスの開業医エドワード・ジェンナーにより牛の痘膿を利用する牛痘法が発明された。この種痘法(天然痘ワクチンの接種)がわが国に入ってきたのは、鎖国政策により遅れて、昌平が亡くなった後の嘉永(1848年〜)の時代になってからであったが、その後、世界中にこの安全確実な牛痘法が普及し、根絶の努力が払われた。1980年、WHO(世界保健機構)により天然痘の世界根絶宣言が行われるに至った。以降今日まで、世界中で天然痘患者の発生はないという。
(天然痘の歴史と恐ろしさ、根絶の歴史等については、加藤茂孝氏「第 2 回「天然痘の根絶−人類初の勝利」(モダンメディア 55 巻 11 号 2009[人類と感染症との闘い]283
参照)」
新型コロナも、当初はインフルエンザ・ウイルス程度で、これも人類の英知を結集した医療科学技術とワクチン開発で早晩収束に向かうと思っていた。
ところが、新型コロナは、タチの悪い、史上最大のやっかいものとして現れた。目に見えないところで人々の体内に深く忍び込み、世界中に急拡大していった。国によっては医療崩壊、都市封鎖等が大きな問題となっている。
「緊急事態宣言」から2か月後、緊急事態が解除され、一旦は収まりかけたと思いきや、また第2波、第3波があり、今なお、第1波を上回る感染者が増え続けている。11月、担当大臣は「神のみぞ知る」という(11/19新聞記事)。「神の領域にまで挑戦する」とまでいわれた現代医療技術を前に、「天命説」が説かれるわけでもないが、いったいどうなっていくのだろう。アメリカでは連日感染者が15万人になっているという。
こうなっては、どれだけ科学技術が進んだ今日でも、もはや天然痘のように世界根絶することはそう簡単にいきそうにない。効果的なワクチンの早期開発は期待されるほどに進むのだろうか。感染縮減はできても、撲滅には百年単位の長期戦になりそうに思う。「withコロナ」は、それを見越した科学者の弁解のように聞こえてしまう。未知の強力ウイルスに対抗する有効な術(すべ)はあるのだろうか。
『坂柿一統記』の「あとがき」に、私はこう書いた。
「人間にとって最も基本的な対話や触れ合い、協働、共学、共感等が制約され、人間の存立基盤が脅かされる最悪なウイルスです。こうしたニュースに接する度に、江戸時代に、目にみえない脅威、天然痘ウイルスに苦しんだ人々の不幸と、この救済に挑んだ菅沼昌平の勇気は、どんなだったろうかと想像されます。天然痘ウイルスは、既に1980年にWHOにより撲滅宣言がされており、人類が初めてウイルス撲滅に成功した唯一の事例だといわれます。新型コロナウイルスは、天然痘とは違って感染しても症状が目に見えず、もはや簡単には封じ込めはできないとは思いますが、これが「天命の逃れざるところ」となっては困ります。今は、昔とは比較にならないほど医学や生命工学、医療技術が進んでいます。第二の根絶例として早期に撲滅されることを祈らずにはいられません。」
この元の文には、『対応策として、検査と感染者の隔離、サーベイランス(追跡・監視)の徹底、抗ウイルス薬、ワクチンの開発等が急がれますが、確かな先行きは見通せない日々が続いています。』という文があった。天然痘の撲滅には、「サーベイランスと封じ込め」が効を奏したという(前記国立感染研究所)。
その対応策は既に実施され始めていたことであり、この文は門外漢が「あとがき」で触れるほどのものでもないと考え削除したが、半年経った今、改めて、この基本的な対応策に立ち返って強力に進められるべき必要を痛感する。これまでの3密回避・マスク着用・手洗い等の「人」単位政策を基本としつつも,「地域」単位に面的対策を広げ,人々の感染防衛の自覚を高め,状況に応じて地域混雑・人的交流の自粛・制限を図っていかなければ,感染拡大の阻止はできないように思う。
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