【文政二卯(う)年(1819)昌平41歳】 《地101》
五月、医療必用を読んでみた。その述べるところは,先生の古方(こほう)の趣旨で、傷寒論及び療法を説いている。ことごとく国字で書いてある。思うに、このように見やすくするのは,古方の概要を,座ったまま先生の説明にあずかるようなものだ。なおまた、近来国字を以て療法の頼りとするもの、出版も多くある。これによって民俗療法を知れば、医の職に害がありそうだが,全く害をなすことはない。民俗も,その療法を受くべきことの大事さを知れば,医事の助けにもなる。世の広大なること、我が小国にあっても、なおかくのごとしである。
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【天保九戌(いぬ)年(1838)昌平60歳】 《人117》
道連れの原田助弥なる者が私に聞いてきた。「医に古方(こほう)と後世(ごせい)の説があるが、いずれが正しいのか」と。
私は,答えた。「いずれであっても,修業がすぐれる方がいいだろう。しかし,今、古方が流行って、後世(ごせい)は医者にあらずなどと言って,後世の書は見たこともないのに後世をいやしむ者もある。
僧法の祖師方は、八宗〔天台宗、真言宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗、浄土宗、浄土真宗、時宗〕を兼学して、そのうち自分の心に叶(かな)うものを良しとして一宗を立てたけれども、今僧たちは、他宗は知らないままに、我が宗ばかりを貴(たっと)んで,高慢顔をするのは、これ祖師の真似をするだけのこと。医もその通り、みな師家の真似ではないか。
しかし,今源氏が盛んの世であって、平家の武士は役立たずのように思う者もあるようだ。平家の武士にも源氏の武士より勝(すぐ)れた者もあるようだけれども、みな隠れて現れない。源氏の武士は劣れる者であっても、なかなか立派に見える。このように考える時は、いずれを是とし、いずれを非とするか,迷うものである。
もっとも今、古方といっても,後世方(ごせいほう)を取り交ぜて使い、後世といっても古方を取り交ぜて使っており,いずれも気性を立て、一方のみを使う者は少ない。そうであれば、いずれを賤(いや)しむこともできないけれども,みな己れが流儀を貴(たつと)んで他流を賤(いや)しむのは、道心〔正しい道を求める心〕ではない。その人心は,聖人の賤(いや)しむ所である。」
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