投稿作品1:両腕に時計をしている、そのわけは
その日は、夏のはじまりの蒸し暑い日だった。その人は、右腕に時計をはめていた。クウォーツタイプのようなビジネスマンが好みそうな形で、ほどよく使い込まれた感じが格好良い。ぼくは普段から時計を持ち歩かないので時間を知りたいときは、携帯電話をみるか、満員電車のなかでは(まさに今がそうだ)、周囲の人の時計を盗み見ることにしている。そのおじさんは、ひじを軽く曲げゆったりと釣り革をつかんでいた。とその途端、釣り革をから手を話したかと思うと、ポケットからハンカチを取り出して額の汗をぬぐった。今度は左腕が持ち上がり、釣り革をつかんだ。その左腕にも腕時計ががひかっていた。時計のことは詳しくないのだが、いわゆるダイバーズウォッチというのだろうか、文字盤の周囲にも目盛が切ってあるものだ。はて、なぜ両腕に時計?。僕はおじさんの時計をみつめた。
電車がゆれるたびに、おじさんは釣り革を握る手をいれかえた。そのたびにぼくは、おじさんの右腕をみつめたり左腕をみつめたりした。どちらの時計も時間は同じに合わせてあるようで、時差をつけてある様子はない。やがて自分の降りる駅に到着をした。どうやら、おじさんも降りるようで、二人で肩を並べるようにしてホームにおりた。改札に向かう途中、突然話かけられらのだ。 「さっきから私のことを見ていませんでしたか」 えぇ?っと、声のしたほうへ向くと、おじさんがこちらを見ていた。 「えっ、いやいや、なんと言うか、あなたが両腕に時計をしていたので気になったんです。ただ、それだけなんですけど」 「あぁ、これですか」おじさんは納得したように右腕、左腕、と交互にみた。 「変ですか、これ」 「変じゃないですけど、腕時計ってひとつあればこと足りるかなっと思って」 「ふつうのひとは、そうなんですけどね。おっと」おじさんは改札機に定期券を機械にかざして、それに続くように僕も定期券を機械にかざした。 「そうですねー、昔は私も時計は一つで充分でした。その当時は二つも必要になるなんて思いもしませんでしたよ。そのころは、私も純粋でしてね、この世の中に対して大きな不満をいだいて、それを何とか変えたいという気持ちを持っていました。そのせいで、ちょっとやんちゃもしてましてね、若気の至りっていうのかな。それでやりすぎて警察に厄介になりました。」 「はぁ」話を続けるおじさんに、仕方なく相づちを打った。ぼくが進もうとしていた出口は通りすぎてしまった。 「そうこうするうちに警察沙汰になったことが、仕事先にも伝わりまして、一つの決断を迫られました。仕事を続けたければ今の活動に関係するのをやめること。そうで無ければ逮捕を理由に会社をクビにする、と。私は悩みました。そのころ子供が生まれたんです。なんとしても子供は育てなければ、との思いから仕事を選びました。それは仕方がないことでした・・・・・・。」 「仕方がないだと、そんなことは無かったんだ。やつが仲間を裏切って活動から抜けたから、生活を選んだから、残った仲間たちは状況に追い詰められて先鋭化していったんだ、エスカレートしたんだ!」 ぼくは驚いた。それまでは穏やかな口調で話をしていたおじさんが、荒く激しい調子でこちらをにらみつけていたのだ。その視線は、ぼくに声をかけてきたときのような遠くをみるような虚ろな目つきではなく、怒りにもえた光が鋭くこちらにむけられていた。 「それで、それで、仲間たちは、追い詰められて、自ら命を投げ出すような手段を選んだんだ。俺は生き残ってしまったんだ。あの時、やつが、いや俺が裏切らなければ、みんなはまだ死ななくてすんだかもしれない・・・。」 その後は沈黙があった。いつしか、激しく燃えるような視線は弱まり、うつろでよどんだ感じの目つきで、おじさんが僕を見つめていた。 「・・・・、ああ、私は何か言ってましたか?私を非難するようなことを言ってましたか?」 「はい、『やつ』が裏切ったって言ってました。」 「そうですか、そうかもしれませんね。でもやはりそれは仕方がないことなのです。そして、そんな私の考えを、私自信が許せないのです。あの時から、私は自分の半分を見失いました。あのとき生活を選んだことで苦悩しました。でもそれは、必要なことだったのです。それだからこそ、自分の中のもう一人の自分は、そんな自分を許せなくなったのです。」 「???」 「そんな思いが強くなった或る日、私は自分の左腕が見えなくなっていたことに気付いたのでした。手のひらを握ったり、開いたりして、その感触はあるようです。右手を伸ばしたら、左腕に触ることもできるようです。でも自分にはそれが見えないのです。いや、そうではない、正確に言うならば、『私の右目』がみることができないようだったのです。そして、左腕だけでなく左足も見えなくなっていました。私がそのことに混乱していたときに、さらに拍車をかけるようなことが起こりました。自分自身が意識を失い、その間に自分とはちがう自分が私を支配していたようなのです。そのときの『私』は右腕が見えない、右半身が見えないと言っていたようです。」 「つまり、・・・」 「おわかりになりましたかな、ご想像のとおりですよ。右腕の時計は私のため。左腕の時計は左にいる私のため、なんです。」 「そんなことってあるんですか?」ぼくは驚きを隠さずに、おじさんの両腕をみつめた。ぼくには何ごともなく、そこに右腕左腕が存在するのだ。 「おや、信じていらっしゃらないかな、でも本当なんですよ。」おじさんは、ぼくをじっとみつめると、やさしく諭すように言った。 「きっと、あなたにもそんな気持ちがあると思いますよ。では私はこれで、お引止めしてすみませんでした。」
おじさんが、むこうに歩いていくのを、ぼくは見送るだけだった。そして、その進行方向にあったお店のショーウィンドウに映ったおじさんの表情がニヤリとしたように見えた。ホラを吹かれたかな、と思いつつ、急いで自分の用事にむかった。
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