注意する人、しない人


新聞の投書欄などで「公共の場で騒いでいる人や、声高に会話している人を注意した人が一番、声が大きかった」と非難する論調が、昔から見受けられる。これは、しごく真っ当な意見のようにも思えるが、実は明らかにおかしい(ことに誰もが気付くべきである)

注意した人の声のほうが大きいのは、そうしないと相手に声が届かないからである(1)。そして、ここが肝心なところなのだが、大声の注意は一瞬で終わるのに対し、注意される側の迷惑行為は、それまで延々と続いていたのである(2)。

また最近の悲しい出来事で、2003年1月21日、古書店で万引きした容疑で警察署員から任意同行を求められた中学3年の少年が逃走し、遮断機が下りた踏切をくぐって電車に跳ねられ、死亡する事故が起きた。別に、このことが「悲しい出来事」というわけではない。そのとき警察に通報した店長の対応を非難する声が全国から寄せられ、とうとう6月15日付で閉店してしまったことが、私には悲しいのである。その事故以来、万引き行為を見つけても、店長が注意できなくなってしまったのが、廃業を余儀なくされた直接の原因とのことであった。

ちょっと注意しただけで、逆恨みされる。それで、誰も注意しようとしない。結果的に、注意する者だけが馬鹿をみる。そんな世の中であってはいけないと思う。

良識ある皆さん、注意する側の人間を悪役にするのは、もうやめませんか?

[脚注]
(1) これは私のことではない。私は、大声を出して相手を威嚇するような話し方は、昔から好きではない。私が他人に注意するときは、その人の傍らまで行き、静かな声で話すことにしている。その人に近づけない状況のときは、覚悟を決めて大声で注意するが、その後は自己嫌悪に陥るのが常である。
(2) 各人が相手の立場を考えて行動すれば、世の中の迷惑行為も少なくなるし、なにより注意する側の人間が、逆に非難されなくて済むだろう。相手を思いやる心が、最近の日本人には足りないのではないだろうか?


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