関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 相模原市 SG-1

相模原市津久井町 --- 地震峠の地蔵尊と慰霊碑  ---

  • 対象:地震峠の地蔵尊と慰霊碑および崩壊・埋没地跡
  • 所在地:相模原市緑区鳥屋(旧津久井町鳥屋)
  • 交通:JR横浜線「橋本」駅北口~鳥屋(バス45分程度 最寄りのバス停は「馬石橋」)
地震峠と案内板

写真1 地震峠と案内板

地震峠の慰霊碑

写真2 地震峠の慰霊碑

写真上段は馬石橋バス停方向を振り返ってみています。前方の道路擁壁が終了し、道路のカーブが終わって直線になった付近が馬石橋です。手前、道路擁壁の上に地震峠の案内板があります。

当時地震とともに写真右側の斜面から崩壊土砂が押し寄せ、人家が埋没し、串川が埋まりました。崩壊土砂を切り通して現在の県道が通過しており、串川は崩壊土砂を避けるように県道を横断して写真左側に大きく迂回しています。

『・・・当津久井郡内では、死者三十三名、負傷者十六名、全壊棟数百二十戸、半壊棟数四百二戸となっているが、この内ここ馬石では、死者十六名、埋没棟数九戸で、死体が確認されたのは八人のみ、ある家では六人家族全員が埋没死したのである。当時の串川は現在の県道よりもずっと南側(編集者注:写真の右側で現在は山地側の斜面になっている)を流れていたが、山津波のために串川がせき止められ、上流五百メートル位まで湖のようになってしまったという。・・・

昭和六十一年三月 津久井町教育委員会

(案内板の記載から抜粋)

慰霊碑周辺および山側斜面一帯は礫の多い崩壊土砂(崩積土)で覆われており、その崩積土の上に慰霊碑(写真下段)が建立されています。中央の地蔵菩薩像の向かって右側の石碑には、「南無妙法蓮華経 大震殃死諸精霊」と刻まれています。




地震峠遠景

写真3 地震峠遠景

撮影:2003/1

写真3は串川の左岸からの遠景で、向かって右側が上流(鳥屋)方向になります。

写真左側の杉や雑木に覆われている人家などの建物が見えない付近が地震峠です。全体的な地形を眺めると、写真右の山地斜面中腹からから写真左に向けて谷地形が認められ、その延長に地震峠があります。谷地形および地震峠付近の一連の高まりは、写真では落葉した雑木の薄茶色として、なだらかでしかも直線的に写っています。関東大震災で土砂が流出および堆積した場所はその後、杉や檜が植林ができなかった理由があるのかもしれません。逆に、山が安定するように広葉樹が植林されているのかもしれません。

地震峠から写真右側(上流)に向かって谷幅は広くなります。当時、崩壊した土砂が地震峠付近で串川を埋めて谷を閉塞したため湖が出現しました。川沿いの人家が写っている周辺は水没したと思われます。

・・・郡下で最も悲惨をきわめた災害地は山の崩潰による7戸の埋没と16名の死者を一時に出した鳥屋村馬石の地区であった。更に崩潰した土砂は、麓を流れる串川の流れを遮り、上流の人たちが浸水の危険に晒されていた。余震のまだ続く中を、隣村の消防団員が、道具・弁当持参で土砂の取り除き作業の救援に参加をした。串川村より延べ700人、青野原村より延べ225人、宮ヶ瀬村より延べ70人と記録されている。

(津久井町郷土誌より)

地震や大雨による山地斜面の崩壊とこれに続く河川の閉塞、決壊による土石流の発生や洪水といった事例たびたび発生しています。