作成:2015/3
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-37
写真1
杉山神社の鳥居周辺状況
写真2 本殿
写真3 石段脇の震災復興之碑
<杉山神社の祭神と由緒 神奈川県神社庁HPより>
御祭神 五十猛命 ( いそたけるのみこと )
御由緒 勧請年代不詳、新編武蔵風土記稿には甚だ古い神体を祀るとある。慶長18年再興時の棟札が残されている。明治6年村社に列格。同16年社殿改築。
震災復興之碑は鳥居をくぐり、石段の手前左側にあります。
碑の正面には、次のような内容が刻まれています。
杉山神社のある佐江戸は震災当時は都筑郡都田村(つだむら)大字佐江戸でした。
都筑郡は被害が大きい地域ではありませんでしたが、都田村はそれでも都筑郡内では最多の7名の死者が出ました。
出原孝夫著 歴史散歩余録 [杉山神社めぐり] P153~154 平成13年より
神奈川県といえば昔の国名は相模と考えるが、川崎市及び横浜市の大部分は武蔵野の国に属する。(南武蔵のうちの橘郡・都筑郡・久良郡の三郡がこれである。)武蔵野国には四十三社、四十四座の延喜式内社(* 参照)が数えられるが、その多くは多摩川以北にあり、神奈川県下の上記三郡内には都筑郡に杉山神社一社あるのみである。
横浜市・川崎市の鶴見川流域を中心に杉山神社と称する神社は六十余社あるといわれ、都筑区、青葉区内で杉山神社はどこですかなどと問えば、手近な杉山神社を教えられることになろう。このように多数の杉山神社が存在するのは、古来、式内社の杉山神社を祀る人々が勢力の拡大に伴って分社を進めていった結果であると考えられている。杉山神社は式内社の内でも格式が高く、武蔵野国六の宮として府中の総社(大国魂神社)に祀られている。ところが、多数の杉山神社のうちどの社が古来の延喜式内社に該当するかは明らかではない。その中で可能性が高いと考えられる(比定される)のが四社ばかりある。西八朔・新吉田・中川の旧郷社と茅ヶ崎の杉山神社(旧村社)である。
* 「延喜式」は、今から約千五百年前の延喜五(905)年後醍醐天皇の勅令により編纂されたもので、延喜八(927)年に上進されている。延喜式の巻九には霊験の高い全国の大小の神社二千八百余の名称が記されている。延喜式神明帳といわれるものがこれで、神明帳に記載された神社を式内社とよんでいる。
延喜式内社の数の単位には「社」、「座」の二通りが使われる。社は神社数、座は祭神の数を数える単位と考えてよい。
[注] 西八朔(緑区)、新吉田(港北区)、中川と茅ヶ崎(都筑区)で、いづれも横浜市。