マグニチュード7.3 1927年(昭和2)3月7日 午後6時27分発震
写真1
郷村断層(郷村から公庄に至る里道)の当時の状況 断層でほぼ道路幅と同程度のずれが生じています。(写真は奥丹後震災誌 京都府 より)
写真2
写真の現在の姿(京丹後市網野町) 天然記念物に指定されており、案内板と石碑があります。
写真3
写真3 京丹後市峰山町の震災記念塔と丹後震災記念館
写真4
丹後震災記念館の正面 「震災記念館」の文字が掲げられている
写真2~4 撮影:2004/10
< 「理科年表 2015」 より >
M7.3
京都府北部:『北丹後地震』:被害は丹後半島の頸部が最も激しく、淡路・福井・岡山・米子・徳島・三重・香川・大阪に及ぶ。全体で死2,925、家屋全壊12,584(住家5,106、非住家7,478)。郷村断層(長さ18km、水平ずれ最大2.7m)とそれに直交する山田断層(長さ7km)を生じた。測量により、地震に伴った地殻の変形が明らかになった。[-1]
最後の[ ]内は今村・飯田による津波の規模
< 「北丹後地震」*1 はじめに より>
北丹後地震は今から約80年前*2の3月初旬という寒い時期の夕食時に発生した。風呂や台所のかまどでは薪が燃え、火鉢やコタツには炭火があった。倒壊家屋は火種を抱えたまま倒壊し、倒壊家屋の中から脱出できずに生きたまま焼死するという悲惨な出来事がいたるところで発生した。とくに峰山町では全壊+全焼97%に及び、町民の24%(1,103名)が死亡するという事態が生じている。
震災後の山田村を対象とした詳しい被災調査によると圧死者と焼死者を合わせて142名全員が全壊あるいは全焼家屋の住人であった。この調査結果を峰山町に当てはめると、死者10人のうち7人までが倒壊した住家に閉じ込められて脱出できずに焼け死んだ人々であろうと推定できる。一般に震災の根源に建物の倒壊があるといわれるが、北丹後地震は建物の倒壊と火災の連鎖が震災そのものを生み出したことを示している。(漢数字をアラビア数字に変更)
火災が猛威を振るった北丹後地震が契機となり、地震の3年後の3月7日(北丹後地震の記念日)に大日本消防協会(現日本消防協会の前身)が京都、大阪、兵庫、滋賀および奈良の近畿二府三県が参加して「防火運動」を実施しました。この運動が全国に広まり、全国火災予防運動の始まりになりました。
< 「北丹後地震」*1 p170 より>
1923年(大正12年)の関東大震災で日本は歴史上最大の震災を経験した。
地震学の基礎的な研究が欠けていたという大きな反省が起こって研究方針の転換が叫ばれ、地震学への期待と関心が高まった。このような社会背景のなか、新たな研究方針を掲げて大正14年11月に東京帝国大学に地震研究所が設立された。
北丹後地震が発生したのはそれから間もない1年4カ月後のことである。
北丹後指針が起こるや地震研究所を始めとして各大学や気象台などの関係機関が丹後に入って詳しい調査を実施した。
余震観測から余震の立体的分布と断層の関係が、三角測量と水準測量からや地震後の地塊の動きなどが判明しました。図1はその成果の1つです。
水準測量の繰り返しによる地殻の上下方向の変動は明治24年の濃尾地震後に実施され、その後も地震が起こるたびに実施されてきましたが、北丹後地震後では特に念入りに実施され、地塊境界の検出・地塊独自あるいは相互の動きが捉えられ、また、断層を跨いだ両側の変位の増大は、郷村断層では地震後1年程度で停止したのに対し、山田断層では地震後3年が経過しても変位が拡大する方向に動いていることが見出されました。北丹後地震では、地震と断層および地塊の動きなどの現象が総合的に解釈され、現在の地震学の基礎に繋がる成果が得られました。
図1 三角点の水平変位(坪井忠二1930) 1888年(明治21年)と地震後の1928年(昭和3年)の測量結果を比較 図中の数字は三角点番号
出典および参考資料
*1 蒲田文雄 シリーズ日本の歴史災害1 北丹後地震 -家屋の倒壊と火災の連鎖- 古今書院古今書院 2006
藤井陽一郎 日本の地震学 紀伊国屋新書 1967