マグニチュード8.0 1896/6/15(明治29年) 午後7時32分頃 約30分後に津波来襲
写真1
岩手県下閉伊郡普代村 北山崎より南側を望む 遠景の岬は弁天崎
写真2
岩手県下閉伊郡田野畑村 鵜ノ巣断崖より北側を望む 遠景の岬は弁天崎
写真3 宮古市浄土ヶ浜 新生代古第三紀に貫入した流紋岩体からなり、海中から突き出た岩山も海岸の扁平な石も白い。
写真4 大船渡市碁石海岸より北方を望む 対岸は大船渡市長崎付近
写真1,2 撮影:2003/11
写真は岩手県の海岸
三陸地方は複雑に入り込んだ海岸線が続きます。奥まった湾に河川が流入するような場所では狭いながらも平坦地があり、多くの人はが暮らす町や集落がはあります。
< 「理科年表 2015」より >
M8.2
三陸沖:『三陸沖地震』:震害はない。津波が北海道より牡鹿半島にいたる海岸に来襲し、死者総数21,959(青森343、宮城3,452、北海道6、岩手18,158)、家屋流出全半壊8~9千、船の被害約7千、波高は、吉浜24.4m、綾里38.2m、田老14.6mなど。津波はハワイやカルフォルニアに達した。Mは津波を考慮したもの。[4]
最後の[ ]内は今村・飯田による津波の規模
地震の規模あるいはゆれの程度から予想される津波よりはるかに大きな津波が発生する地震を津波地震と呼びますが、この地震は典型的な津波地震であり、日本史上最大級の津波が来襲しました。
< 「歴史地震」*1 (p50-51)より >
・・・・・ 三陸沿岸に微弱な地震を感じた。震度はたかだかⅡ~Ⅲ程度であったらしい。しかし、宮古では緩慢ながらも5分も続いたという。これは、遠方に起きた大地震の兆しであったが、住民は気にもしなかった。住民は2年前の明治27年3月22日の同じ夕方7時23分ころの根室沖地震のときは、もっと激しくゆれたことを思い出していた。そのときは、宮古・大船渡などに小津波があったにすぎなかった。しかし、今回は違っていた。地震後、30分で沿岸各地に津波が来襲した。一瞬にして三陸沿岸は地獄と化したのである。 ・・・・・
< 三陸沿岸大津波*2 (まえがき)より
・・・・・ 或る婦人の体験談に、津波に追われながらふとふりむいたとき、二階家の屋根の上にそそり立った波がのっと突き出ていたという話があった。深夜のことなので波は黒々としていたが、その頂は歯列をむき出したように水しぶきで白くみえたという。私は、その話に触発されて津波を調べはじめた。そして、津波の資料を集め体験談をきいてまわるうちに、一つの地方史として残しておきたい気持ちにもなった。 ・・・・・
深刻な津波被害を契機として、多くの集落が高台へ集団移転または分散移転しました。又、人口減少が共同作業である漁業が継続することができなくなり、岩手県気仙郡では他地方からの移住民を受け入れる移住民補助規則が制定されました。*1
*1 宇佐美龍夫 歴史地震 -古記録は語る- イルカぶっくす8 海洋出版 1976
*2 吉村昭 三陸海岸大津波 中公文庫 1984