郷土史カルタ『大東のふるさと』ウォーク 野 崎 ・ 寺 川 を 歩 く |
コース 四条畷駅→東高野街道→北条神社→山神石→十念寺→野崎観音→太子堂→専應寺→臍の王神社→野崎新池 →龍不動→宝塔神社→堂山古墳→法妙寺→十林寺→六地蔵古墳→大谷神社→大阪産業大前バス停 |
北条人権文化センター |
地車小屋・教照寺 |
行者堂 |
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北条神社 |
善女大龍王 |
十念寺 |
四条畷駅 北条人権文化センター 地車 カルタの句 『 村祭り われらの地車 誇りもつ 』 秋の収穫が終わる頃、各神社の祭礼日にあわせてだんじり祭りがはじまる。「コンコン、チキチン、コンチキチン」鐘と太鼓のだんじり囃。大東市内に現在33基ある。北条には一つの「だんじり物語」がある。毎年10月の「野崎ふるさとまつり」で野崎の駅前に各地域のだんじりが集結する。 教照寺 飯盛山と号し、浄土真宗。本尊は阿弥陀如来。 たびたび激しい合戦があったため、遺骨が散乱、これら無縁仏の霊を弔うために建てられたという。 北条山行者堂 明治十六年ごろ、不動尊を信仰していた初代の横谷宗吉氏は干天がつづいて、農民らが困っているとき、雨乞いをして慈雨に恵まれ、多くの信者ができてきたので、現地に居を移し、明治三十九年八月には庭先に「役行者石碑」を建てた。昭和五十二年十月には二代横谷誠教氏は「神変大菩薩報恩菩薩宝塔」の石碑を建立。天下泰平・五穀成就・家内安全を祈願している。 北条神社 北条神社は八幡大神(はちまんおおみかみ)と菅原道真を祀る。伝説によると、平安時代の寛弘年中(1004〜1012)京都の北野天満宮から多数の天神さんの木像(道真像)を流した。そして漂着したところで、それを祀るようにといわれた。深野池の水ぎわにも一体が着いたので、村人たちは飯盛山の中腹に祀ったという。天神さんの漂着したところは現在でも明神社といい、当社のお旅所となっている。(津之辺に流れついたが、平地であるため度々洪水の災いにあった。そこで、時代は不明であるが現在地に)明治に合祀された八幡宮は、鎌倉時代に京都男山八幡宮を北条の八幡山に勧請した。戦国期の飯盛城時代、この八幡宮は代々の城主の守護神と仰がれ、武士たちは武芸上達の神として武運長久を祈願した。 「狛犬」 「善女大龍王」 農業に大切な水の神。 「山神(やまのかみ)石」 山を支配する神としてあがめ、山路の行き帰りに必ず礼拝する。 東高野街道 〜四條畷〜十念寺〜野崎まいり公園〜専應寺〜龍間不動尊道標〜八尾〜 カルタの句 『 まだ遠い 東高野街道 弘法大師 』 平安時代に、空海(弘法大師)が高野山に金剛峯寺を創建して以来、多くの参詣者が往来した街道。京都から高野山まで通じている。鳥羽より淀・八幡・洞ヶ峠を越え河内に入り、郡津・星田・打上を経て飯盛・生駒山系の山すそを南下し、八尾・柏原・富田林を通って河内長野で西高野街道(鳥羽街道を南下して鳥羽から船で淀川を下って大阪に着き、ここから陸路で堺をすぎ河内長野に出る)と合流し紀見峠・橋本を経て高野山へ。 十念寺(融通念仏宗) 地蔵堂(木造の五輪塔型の供養塔) カルタの句 『 古戦田に 武士の魂祀る 十念寺 』 四條畷の戦いから320〜30年の後、地元の人々が、この戦いの戦死者を弔うために建立。「永禄のころまで付近の山野をさまよっていた武士の霊魂、山際の人びとが、尊像を奉じて融通念仏を修するとたちまちおとなしくなった。このようなことがあって、木の宮坊という人は、自分の田畑をなげうって寺を建て、毎年供養した。」室町時代に融通念仏の功徳によって飯盛山付近で戦死した人々の霊をなぐさめたという。融通念仏というのは、一人が唱える念仏の功徳と、衆人の唱える念仏がお互いに融通しあい、それが浄土する縁となるという教えで、平安時代中頃に大原の良忍上人(1073〜1132)という念仏聖によって始められたといわれている。古戦田が大東に1ヵ所、四條畷に2ヶ所ある。これは大合戦に由来する。 カルタの句 『 太平記 戦さを語る 伝承地 』 四條畷の合戦(正平三年1348正月五日) 南北朝時代の南朝方の楠木正成(まさしげ)の子楠正行(まさつら)と北朝方の足利尊氏の家臣、高師直(こうのもろなお)との戦い。師直は6万の軍勢を率いてここ四条に布陣。一方東高野街道を北上してきた正行は3千余りで突入。多勢に無勢の正行はついには弟正時と刺し違えて自刃し23歳で壮絶な最期を遂げた。 条里制 カルタの句 『 土地区画 四条・北条に 条里のあと 』 東大阪市の北に位置する中垣内が1条で、2条・3条が南条ともよばれた寺川・野崎に、そして4条・5条が北条にあたる。条里制では、土地を6町(654メートル)すなわち1里の方格に画して、その方1里を36の坪に分け、1町をさらに10段に区分する。 |
野崎観音 |
江口の君 |
三十三所観音堂 |
お染・久松の塚 |
九層の石塔 |
薬師堂 |
野崎まいり |
南条神社 |
野崎観音・慈眼寺(じげんじ)(福聚山慈眼寺 曹洞宗 本尊十一面観音) 創建の年代や開基不明。永禄八年(1565)松永久秀の兵火で堂塔すべて焼く。平安初期の十一面観音だけ運び出される。寺伝によれば、この寺はもと、さらに西へくだった(門真市)低地にあったが、平安時代の中頃に、観音信仰によって健康を取り戻した江口の君が現在地に移した。江口の君が慈眼寺中興の祖となっている。現本堂は昭和二十五年(1950)に元禄期の本堂にかえ、大龍寺(東大阪市)の観音堂を移築したもの。 君堂(中興の祖江口の君を祀っている) カルタの句 『 野崎観音 中興の祖 江口の君 』 平安末期、江口の君(摂津江口の遊女)が、ながのわずらいに苦しみ、大和の長谷観音に病気平癒の願をかけたところ、河内の福聚山に参って病苦を免れるよう祈るがよいと教えられた。江口の君はさっそく慈眼寺に参り、七昼夜籠もって祈ると、たちまち難病が治った。喜んだ江口の君は感謝のため、堂を建立することにした。その頃慈眼寺は門真市にあって、低地でいつも洪水に悩まされていたので、寺地を現在の地に移して堂宇を再建した。そこで江口の君を中興の祖という。 仁安二年(1167) 西行法師が天王寺へ参詣のおり、江口の里を通りかかった。雨宿りを乞うが、家主の遊女はこばんだ。そこで一首「世の中をいとうまでこそかたからめ仮の宿りをおしむ君かな」 これを聞いて遊女の返歌「世をいとう人としきけば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ」と。歌の縁で長雨の一夜を歌のやりとりに過ごした。二人の歌は「新古今和歌集巻十」にある。 三十三所観音堂 カルタの句 『 霊場を 一度に拝む 観音堂 』 西国札所一番那智山(和歌山)から三十三番谷汲山(岐阜)までの三十三ヵ所の寺の観音を祀っている。この堂に参詣すると、三十三霊場の観音を一度に拝むことができる。 お染久松の塚 カルタの句 『 お染久松 人形浄瑠璃 恋ものがたり 』 近松門左衛門がとりあげたのは、宝永七年(1710)「心中鬼門角」である。それは油屋五兵衛の娘お染と丁稚の久松の悲恋物語。さらに安永九年(1780)道頓堀の竹本座で「新版歌祭文」が上演された。 近松半二『新版歌祭文』 久松は大坂瓦屋橋の油屋の丁稚であるが、父は相良丈大夫(さがらじょうだいゆう)といい、もと泉州石津の家中で千五百石をとって大身の武家である。だがお家重代の宝刀を盗まれた責任をとって切腹したので、乳母の兄に当たる野崎村の久作に預けられ、十才のとき、行儀見習いのため油屋に奉公した。久作の後妻のつれ子で、在郷育ちだがなかなかの器量よし、気立てもやさしくけなげな娘である。久作はこれを久松の嫁にしようと思っていたが、そこへ久松が油屋から帰されて来たので、善は急げと早速祝言をあげさせようとする。そこへ大坂から、お染が、観音参りにかこつけて久松に会いにきた。だがことをわけての久作の頼みに、お染もついに久松をあきらめるといい、久松とお光は祝言をあげることになった。だが嫁の座についたお光が綿帽子をとってみると、思いがけなく、黒髪をぷっつりと断ち切り、しかも白無垢に袈裟(けさ)までかけている。お光は久松とお染の間柄を見抜いて、自分から身を引いたのだった。そこへお染の身を案じた油屋の女房が来て、万事はめでたくおさまり、お染は母とともに船で、久松は陸(おか)を駕籠で油屋へ帰っていく。「野崎村の段」 九層の石塔 カルタの句 『 りんとそびえる 九層の石塔 福聚山慈眼寺 』 高さ約3.6m。もと九層の石塔。全体の豪壮さなどから鎌倉時代の特色をあらわしている。この塔は永仁二年(1294)四月八日沙弥入蓮(しゃみにゅうれん)と秦氏(はたうじ)が主君ならびに両親の霊を弔うために建立寄進。台座の金石文(きんせきぶん)は北河内最古のものである。 野崎城跡(展望台あたり) 野崎城は、標高114.4mの山頂に本曲輪の削平地を構築した。また飯盛山の東の支脈の突き出した場所で、平地が狭かったことから、交通の便、天然の要害で古くから戦略上の要点とされてきた。慈眼寺から飯盛山城に向かう登山道にこの野崎城が位置する。河内国守護畠山氏の内紛の際、畠山尚順が立てこもる野崎城に畠山義豊が攻めた、という記述あるのみで、歴史については不明な点が多い。河内国の北半分の拠点であった若江城の支城として、守護代の遊佐氏が守っていたのではないかという説もある。飯盛山城が築城後は、東高野街道から飯盛山城に向かう推定の大手通り上に野崎城があるため、むしろ飯盛山城の支城となったのではと考えられている。野崎城に関する築城、廃城が記載された文献は残されていないが、廃城に関しては、飯盛山城と同時期天正4年(1576)ではないかと推定されている。山頂に本曲輪を設け、その東側に10m以上の堀切を配し、本曲輪の西と北に出曲輪、更に西の山麓の傾斜添いに3段にわたる4つの曲輪を設けている。 「薬師堂」「慈母観音石像」 芭蕉の句碑「観音のいらか見やりつ花のくも」 南条神社 素盞鳴命(すさのおのみこと)・牛頭天王(ごずてんのう)を祀っている。一般に牛頭(ごず)天王社と呼ばれるが、牛頭天王というのは平安時代の怨霊のたたりをおさえるために出てきたもの、仏教における神将のようなものだという。この牛頭天王が、のちに密教系僧侶たちによって素盞鳴命と手を結ばされ、神社へ祀られるようになったのである。当社においても、もともとは農業神、水神として素盞鳴命を祀っていたのが、いつの頃からか慈眼寺との関係ができてくることによって、牛頭天王社として変質していった。 野崎参り カルタの句 『 口ずさむ 野崎小唄は 津々浦々に 』 作詞・今中楓渓 作曲・大村能章 歌・東海林太郎 @野崎参りは 屋形船でまいろ どこを向いても 菜の花ざかり 粋な日傘にや 蝶々もとまる 呼んでみようか 土手の人 A野崎参りは 屋形船でまいろ お染久松 せつない恋に 残る紅梅 久作(きゅうさく)屋敷 今もふらすか 春の雨 B野崎参りは 屋形船でまいろ 音に聞こえた 観音ござる お願かけようか 打たりよか滝に 滝は白絹 法(のり)の水 落語『野崎まいり」 大坂の若い者がが、野崎の観音さんにお参りしようやないかと、徳庵堤まで出て参りまして、寝屋川で舟に乗ります。・・舟の中で一人が相棒に、「ちょっと陸(おか)を見い。えーぎょうさん歩いてくるヤツがあるやろ。あれつかめて喧嘩すんねん」「喧嘩するちゅうたかて、舟の中と陸の上。石投げられたら、逃げ場がないがな」「野崎詣りの喧嘩は言い合いばっかりで、どつきあいはない。これに勝ったら一年中の運がええ、ちゅうねん」・・野崎参りは、舟と堤を行く人との口喧嘩で、勝つと運が良い、という奇習です。(ふり売り喧嘩) 近松門左衛門『女殺油地獄』<徳庵堤の段>野崎参りの場面がある。 観音浜(野崎駅から南へ200m)
野々宮神社(野崎駅より深野5丁目・八幡宮)キリシタン灯籠2基 |
専應寺 |
太子堂 |
聖徳太子像 |
専應寺(せんのうじ)・太子堂 野崎観音前の東高野街道を南へ200m カルタの句 『 のこる文献 由緒ある 専應寺 』 戸森山と号し、浄土真宗。本尊は阿弥陀如来。開基は親鸞の直弟子の唯信と伝える。本堂・太子堂・鐘桜・山門・庫裏の整った江戸中期の建築物。寺には聖徳太子自作といわれる孝養(きょうよう)像や永正十七年(1504)の仏画がつたわる。梵鐘は延宝八年(1680)の銘。 カルタの句 『 累代の 信仰をもつ 太子堂 』 太子堂は聖徳太子の自作といわれる孝養像で、毎年彼岸に開扉され、多くの参拝者があった。昔は野崎参りの人々も。、いったん専應寺・太子堂に詣でてから観音さんに参詣した。聖徳太子孝養像(父の用明天皇が病いの時、十六歳の太子は昼夜を分かたず看病し、また手に柄香炉をとって病気の平癒を祈ったという。頭髪を美豆良(みづら)に結い、赤い御袍を着て袈裟をかけ、右手に柄香炉をもち左手の小指を右の衣の袖にかけている。) 京極丹後守高知(1572-1622)は元和の大坂城築城普請で、野崎の山麓の石を切り出し、大坂城へ舟で運ぶ。陣屋のお礼に当寺の太子堂回りの石垣と階段を積み、感謝の印として手水鉢を寄進する。蓮如の手植えの松。 |
臍の王神社 |
野崎新池 |
滝・八大龍王 |
不動明王 |
宝塔神社 |
とめやんたぬきの碑 |
臍の王神社 専應寺の南側の道を登っていくと・・参道がある。 昭和三十六年喜多一二臍翁が臍の王神社本宮の建立祭神を発願し、昭和四十三年社が完成した。経典基本は、臍の緒は神人連綿として一貫、明々実々である。即ち祖我一如是身即神である。依って是が妙境に徹信、祖先崇拝の念愈々一同心に深く植えつけて、明治天皇の御示給える「父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭倹己を持し博愛衆に及ぼし」等を基本として、現国家の民主主義精神をよく体得拳々服膺、然して人類愛信の道義にもとづき一層互助の精神を涵養、人心善導に力を捧げ自らは健康と幸福を神に祈請、真に平和日本建設の礎石たらんと希うを本旨とし、進んで世界平和を祈り以って是を経典す。 野崎新池 龍不動 宝頭山不動明王(石像) 宝塔(頭)神社 野崎3丁目野崎新池沿いを登っていく。 祭神・市杵島姫命(いつくしまひめのみこと)。「宝塔」が「宝頭」とも書かれるが、なぜかはっきりしない。近くに宝塔寺と呼ばれるような寺院があったのか、宝塔は多宝塔とともに法華経にもとづき、藤原時代頃からさかんに建立されたものであるがそのような遺物も見当たらない。十月に宮座の儀式が行われる。当日は境内に竿の先に日輪・月輪をつけた大提灯をたてた中で盛大に行われる。まず巫女による湯あげ式があり、そのあと座員が円座につき飲食をともにする。以前は一晩中餅つきをし、また笹の葉の上に麹(こうじ)をのせて参拝者にそれぞれ配ったそうである。 カルタの句 『 ほめてくれ とめやんたぬき 大明神 』 とめやん狸は、野崎新池に住んでいた。かれのわるさはたいへんなもので、毎日のように、付近の田や畑やにわとり小屋を荒らしまわるので、村人はほとほと困りはて、知恵を働かせてワナをつくって、かれを捕らえた。「とめ公、なんでこんなにわるばっかりするねん。」「そやかて、人間はみなわる口ばっかりいうて、ちょっともほめてくれへん。それが腹たつねん。」「ほな、どうよべというんや。」「とめ公、とめ公よばんと、『たかはた大明神』いうて、まつってくれたら、もうわるさせえへん。」と、約束した。村人は相談して、自然石に、『正一位高吉大明神』とほり、しめなわをつけて祀った。「どや、こんでええか。」「こんでええ。」とめやんは、よろこんで住みかに帰り、それからは、わるさをしなくなった。 「龍間不動尊之龍」道しるべ |
堂山古墳 |
紫雲山蓮光寺縁起 |
堂山古墳 宝塔神社から水道局配水場をめざして登っていくと、配水場より少し上の右側に地肌でもりあがった土地。 カルタの句 『 初日の出 堂山古墳に 金の鳥 』 正月元旦の朝、金のにわとりがなく、との伝承地。堂山に総数7基の古墳がある。1号基は5世紀中頃の円墳で、よろい・かぶとのほか多数の太刀、鉄鏃、短剣など出土。2〜7号墳は、6〜7世紀の横穴式石室が主体。勾玉(まがたま)をはじめ、おびただしい副葬品を出土した。 瓦堂跡 寺川4丁目 カルタの句 『 もうろうと 瓦堂に浮かぶ 幻の寺 』 寺川の通称「瓦堂」に廃寺跡。伝承から古代寺院があったようだ。寺川の瓦堂の背後にある堂山については、もと七堂伽藍を備えた寺院があったが兵火で焼け、その後、毎年元旦の朝、この山で金の鳥が鳴くようになったという伝説がある。 蓮光廃寺の位置 「蓮光寺略縁起」や地元伝説により、その位置が堂山あたりとかんがえられる。略縁起に「川原堂」という所が出てくる、これが堂山の南側にある小字「瓦堂」と推定される。古代において瓦が使用されたのは、宮殿や官衙の一部を除く以外寺院に限られていた。寺院を「瓦屋」と呼んでいた。寺川の「瓦堂」の地名は、かなり古くからここに寺院があったことを物語る。また、布目瓦の破片十数片を採集し、あわせて円筒埴輪や土師器・須恵器の破片なども数片を得ることができた。略縁起の蓮光寺が、この位置に存在したことは間違いないと考えられている。(野崎一丁目にある蓮光寺とは無関係) 「紫雲山蓮光寺略縁起」(しうんざんれんこうじりゃくえんぎ) 聖武天皇が直接命令を下して建てられ、神亀四年(732)、行基菩薩が開創。七堂伽藍。本尊十一面観音菩薩。本堂は南向きで、左に阿弥陀堂があり、その中に聖徳太子のつくった阿弥陀如来・薬師如来・弥勒菩薩の三仏像がまつられている。さらに弘法大師のつくられた仏像をまつる不動堂や大日如来堂などがある。そして東の方には、金堂・講堂・鐘楼堂等があり、西は蓮の花が咲く大きな池がある。 |
法妙寺 |
近松門左衛門の墓 |
十林寺 |
六地蔵古墳 |
大谷神社 |
おかげ灯籠 |
法妙寺(日蓮宗) 近松門左衛門墓 カルタの句 『 移りきた 近松の墓 法妙寺 』 大阪市南区谷町から昭和42年に法妙寺が大東市(現地)に移転。法妙寺は近松門左衛門の妻の実家が檀家であったので、境内に近松門左衛門の墓があった。この墓は移転できなかった(史跡の指定が解除になるので)が、その他関係したもの(近松の一族の墓や過去帳など)は大東市に移転された。もとの墓は、ひっそりと地下鉄の通風塔のかげにある。また、尼崎市の広済寺にも墓がある、ともに本墓である。 大東市の方は、近松門左衛門の墓は移転しなかったが、同じような墓石をつくっている。その土台石(「近松氏」と彫った右に「施主」、左に「正七」と彫ってある)を立てて供養塔としている。 江戸蜀山人撰「平安堂近松翁墓碣(けい)」文政四年辛己仲冬建立 供養塔「南無妙法蓮華経」(大阪夏の陣、冬の陣の死者の名列記) 十林寺(浄土真宗) 本尊は木像阿弥陀如来像。瓦堂廃寺発見のきっかけとなった掛け軸が蔵されているが、由緒不明。 前方後円墳の後円部に位置し、その北には環濠の名残りを残している。「紫雲山蓮光寺略縁起」と題するものが、十林寺に額装して架蔵されていた。 六地蔵古墳 十林寺からなお登って山地に入っていくと、参道に六地蔵がある。木棺や円筒埴輪(古墳の聖域をめぐらした素焼きの土製)が十数個出土。(棺の配置からより古い前方後円墳) 大谷神社 湯あげ行事 おかげ灯籠 祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。由緒不明。本殿前の灯籠・寛永二十年(1643)と天和三年(1683)に「須天大明神」と書かれている。神社の扁額が「須M大明神」となっている。「スハマ」が「スアマ」となったのか。地元は大谷神社(小字名からきている)と呼んでいる。 カルタの句 『 湯あげ行事 祭りの儀式 巫女の笹 』 毎年7月14日夏祭りに行う行事。巫女さんが奉納の舞いをし、その後大釜の中の沸騰させた湯の中へ、おみき・洗い米・塩の順で入れ、竹の先に御幣をはさんだので湯をまぜ、その湯を少量取って神前へおそなえする。次に束ねた笹を両手に持って熱湯の中へ入れ、外へ向かって周囲の人々の頭にかかるよう何度も何度もまきちらす。この儀式が終わると使用した笹を参拝者に配り、参拝者はこれを頭にさす。頭痛にならないまじないだといわれている。 おかげ灯籠 カルタの句 『 ええじゃないか お伊勢参り おかげ灯籠 』 2mの変形灯籠 「太神宮」 道しるべ「南かうや道 北京のざき道 文政二年(1819)八月 吉竹大明神 玉光大明神 豆八大明神 |