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雁屋を流れる権現川の支流、川はそこを流れる地名で名付けられるのが通例です。雁屋は、屋島・刈屋とも書く、となれば、 仮屋は、 仮り住まいの家並み、刈屋は、深野池の葦を刈って屋根葺きした集落の意味があるのでしょう。
「屋」がつく集落に蔀屋・仮屋があり、 ともに「仮り住まい」の同意語となります。 雁屋川に沿って古い集落が開け、 代官屋敷、郷蔵、地車小屋などが立ち並んでいました。雁屋川 |
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清滝川の源は、逢阪の龍王川に発し、流れ流れて中野、二丁通りを経て寝屋川に注ぎます。この川に沿って、 大和と河内を結ぶのが清滝街道です。清滝街道の起点が、蔀屋の池村酒屋前にある自然石道標 「 やハたみちすじ これより東清滝越 」 から始まっています。奈良に向かう途中、田原の里(下田原・墓型道標)を通ります。土地の人は清滝峠越え大和街道とも、伊勢街道とも呼んでいました。その古道のおもかげは、上清滝付近にわずかに残っていましたが、 トンネルが開通したため、なくなってしまいました。 テレビ大阪 「ふるさと四條畷」にこの古道や開発前の田原を収録したことがあります。ご覧ください。 |
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四條畷の市の花はサツキで、 木は楠木となつています。江戸中期の文書に「正長二(1429)年、 楠木二本を一夜の間に植えたり」とあり、元禄期の貝原益軒が「大いなる楠木あり」と書いていることから、 樹齢587年にはなっています。 小楠公(しょうなんこう)とは大楠公(楠木正成まさしげ)に対して、 その子楠木正行(まさつら)をいいます。四條畷の戦いの立役者です。南北朝の戦乱が続き、四條畷の戦いがくりひろげられました( 1348年・正平二年正月5日午前10特〜夕方6時)。 正行が戦死し、80年たって2本の楠木がうえられ、その間に小石碑がたてられました。年月がすぎて2本の楠木は1本にがっして、 その石碑は木のなかに入り込んでしまいました。現在ある墓の前の1メートルほどの自然石碑は天正12年のものです。 「 南無権現 」 と しるされています。 左手には、 四面には2000字あまりの碑文がきざまれている石碑があります。 これは文化5年のものです。 そして、右手には巨大な墓碑が高くそびえています。 「贈従三位楠正行朝臣の墓」の文字は、大久保利通の筆によるもので、彫るのに5カ月をようしています。 |
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163号線に沿う清滝池より、山道を南へ500メートルの森閑のところに高さ20メートルの滝があります。(瀑布→滝のこと)滝にうたれて不乱の祈りをささげ、現状打開の啓示をあたえてくれた神々の碑が数多くあります。1979年に郷土史カルタの立て札をたてましたが、榊が手向けられていました。信者のひとが、立て札に神聖なものを感じられ、 大切に思っていただいたのかもわかりません。 木製なので朽ちてしまい、35年ぶりに立て札は再建されました。 |
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急流を利用して、権現川の水車と清滝川の水車がありました。手工業の域にとどまった 江戸期までの技術の中で 水車の動力は大きいものです。 渓流を水路に導入し、 樋(とい)を通して大きな水車を回転させ、ギヤ切り替えで数個から20個あまりの杵(きね)を上下させる、 江戸中期に急速に発展し、 昭和20年代まで続きました。 水車を動力として薬種、香料、マンガン等を生産し、米麦を精白しました。 水車の数は、昭和18年には、権現川に20ありました。水流が不足すると杵は半減するそうです。また水稲成長期には休業しなければならないので、 水源を守るため室池西堤下方200メートル、南側の土堤を築く水車池を築造しています。明治の大阪府誌に「交野のソーメン、茨田の蓮根(レンコン)、讃良(四條畷)の胡粉(こふん)」と書かれています。 |