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  大東の寝屋川沿い(野崎まいりなど有名)から中垣内、龍間、そして田原への古道が大和に続いています。住吉神社前の道が古堤街道です。田原には、大阪から奈良に続く街道が、 もうひとつ清滝峠越え大和街道(清滝街道)があります。 中垣内峠越え大和街道(古堤街道)は、山間道でありましたが、明治30年代に拡張工事がなされ、 大正12年に完成しまた。その完工記念碑が住吉神社内にあります。また、平成に入って、より大きく拡張されました。「右古堤街道・明治39年5月建立大阪府」「すぐ古墳街道」(すぐとはまっすぐのこと)と彫ってある 、高さ130センチの角柱碑が、 いま 森山の交差点近くに あります。

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 小松寺縁起帳(久安元年1145)に、「田原西郷、田原東郷」とあるので、平安期には、天の川を境に大和田原、河内田原に分かれていたようです。「慶安2年(1649)大坂町奉行曽我丹波守の再検地を受けて、西田原村は600石の村高となる。2年後には上・下田原村に分村され、上田原村273石余、下田原村325石余となり、それぞれ村方三役をおく独立村落となった.分村されても、両村立会住吉神社のもとに結合して、一体感を保ちつつ、泰平の江戸期へと入っていく。」と市史にあります。両村は天の川上流を上田原、下流を下田原とし、境界は、農協あたりから西へ、室池の東堤を結ぶ山の尾根です。この境界を確かめるため、1月11日に「ほうじさし」という伝統行事があります。

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  下田原の戎川沿いにめずらしい墓型のした道しるべがあります。 この道は、清滝越え大和街道(清滝街道)です。 石碑に「右なら郡山道 左やましろ すぐ大坂」「家紋・西川大吉」台石に「油若中」(すぐ→まっすぐのこと。若中→青年組織) 「弘化二歳巳七月上浣」(1845年江戸末)と彫られています。 故西川大吉の衆生への善行追善供養として 故人をしのぶ油若中の人たちが建立したものでしょう。                                           四條畷郷土史カルタは、【ぬれながら 旅人守る 道しるべ】とあります。大東市の方は【右ひだり 「すぐ」と教える 道しるべ】とうたっています。

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  下田原の法元寺の境内にあります。高さ30センチぐらいで、年代は究められないが、室町か江戸時代のものです。 地蔵さんはお堂のなかに安置されていますが、その前に木箱があって、そのなかに手向けた小石が山のように積まれています。その石をよく見れば、どれも小さな穴があいてす。ときに糸を通しているものもあります。耳をわずらった人が一週間余り願をかけ、 この穴のあいた石を家に持ちり、石を祭り、朝夕、 わずらっている耳を石でさすりお祈りをします。治してもらったら、どこかで穴のあいた石をもうひとつ探し出してお礼に来ます。石を増やすことは、耳のわずらった人に施しをしようということです。 法元寺から10メートルほど行ったところに、「耳なし地蔵是より北へ一T」という石碑が見えます。 その道しるべの横にも30センチぐらいの耳のない地蔵さんが置いてあります。 なぜ大きな道しるべがあるかといえば、かなり遠方の人たちまでご利益(りやく)にあやかっていたことがうかがえます。

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 仲秋の名月には、ススキ・萩・かるかやの花を花瓶にさして、その側に団子と芋といんげんなどを煮たものを供えます。月に芋を供えるところから芋名月ともいわれます。 この日だけは、村の若い衆が、お供えを棒の先で突き刺して盗んでも許されるという「お月見どろぼう」の風習があります。つきさして盗ると「良い縁」がととのうといい、また「福が来る」といわれています。 また、月の光で針の穴に糸を通したら、 また、 北向きの川で眼を洗うと、一年間健康な限で暮らせるともいわています。 現在、 田原地区では、お月見に子どもたちにお菓子などをプレゼントしているところがあります。それをいただきに各家庭をまわります。子どもたちの年に一度の楽しみの行事となっています。

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