2000/10/31



藤原氏の秘密5(その4)


天皇家の元になった「かぐしまグループ」が主力部隊の総力を挙げて大和に向かった後の鹿島は一体どのように推移していったのでしょうか??私はそこに住む人達は同じように営みを続けていったものと推測しています。つまり「大躍進」に出発した後の鹿島はその傍流が支えていたのではないだろうかと思っているのです。具体的にいえば家臣筋に当たる者達が仕切っていったのではないでしょうか。


しかしその中にも鎌足の系統は実のところはっきりとはしてはいないようです。この理由とは鎌足の本当の出目が更に下の家系にあったからではないでしょうか。つまり天孫族の被官のさらに被官の出目だったからではないかと思うのです。そのような環境の中で生を受けたのが鎌足ではなかったのかと考えています。この考えを押し進めてみると鎌足の躍進には特別の意味があるように思われてきます。藤原鎌足の正体とは何者なのであろうかと多くの人たちが様々な仮説を立てています。しかしいずれも決定打に欠ける状態のようです。


藤原鎌足は614年に生まれ669年に没したと記録されています。7世紀の人物で天皇以外に生没年が分かっているのは実は鎌足が初めてなのです。しかし、これほど画期的な記録を持っているにもかかわらず生誕地が何故か記録されていないのです。これを不自然な出来事だと感じているのは私だけではない思っています。


このために大和地方生誕説や伊豆生誕説などが生まれたのではないかと思っています。更には朝鮮人説まであるようですがさすがにこれはトンデモ過ぎるように感じています。鹿島神宮の近くに鎌足神社があります。正にこの場所こそが鎌足生誕地であると伝えられているのです。しかし100パーセント確実かと問われれば怪しいところもあると答えざるを得ないのもまた事実なのです。


しかし実際に鎌足が何処で生まれたのかという事については実のところ余り大した問題ではないように思っています。要するに鎌足とはどの勢力の代表者なのかという点こそが注目すべきだと思っているからです。言い方を換えれば鎌足の力の根元とは何処にあったのかということでもあります。宮中だけのクーデターでは所詮コップの中の嵐に過ぎないとは以前に書いた通りです。彼らは各地の豪族の代表者であった筈なのです。


例えば江戸時代末期の名君と言われた鹿児島藩主の島津斉彬は江戸生まれの江戸育ちでした。つまり江戸弁を話す生粋の江戸っ子だったわけです。何しろ藩主として初めて国入りした時などは言葉が通じなくて「通訳」が必要とされるほどであったと言われているくらいなのです。しかし彼の力の根元が九州最南端の鹿児島を本拠地としていた事に拠っていたのは疑いようのない事実だったのです。あるいは鎌足の場合もこれと同様のようなものだったのかも知れません。しかしそれでも私は常陸国鹿島こそが鎌足の出生地として一番可能性が高いように思っています。


ところで、賜った姓はどうして「藤原」なのでしょうか??これについてももっと深く追求されてしかるべきではないかと思っています。確かにいろいろと推測されているようです。その中で最も整合性があると見られているのが鎌足の出生地を意味する地名ではないかという意見です。私もこれについては同意見です。しかし「藤原」が大和の藤原(現在の橿原市高殿町)であるのかどうかについては疑問を持っています。


茨城県北相馬郡といえば平将門の本拠地として有名な場所でもありますがここに藤原(=藤代)という地名が存在しているのです。この場所は鹿島から見て霞ヶ浦の西の外れに当たります。鎌足と常陸鹿島の繋がりから考えるとこの場所こそが鎌足の本貫地ではないかと思われてきます。鹿島エリアの西の外れの地域は被官の被官の本拠地としても相応しい場所ではないでしょうか。このように考えてくると大和の藤原はいわばカモフラージュではないかと思えるのです。


天皇以外で初めて生まれた年を明記しているのにも係わらず具体的に生まれた場所を明らかにしなかった理由とは予め予期される反応に対する対応策ではないでしようか。これは普通に考えればどうしても不自然なのです。


鹿島神宮の分社として春日大社をつくり自らの神として祭る事は鹿島との繋がりを語らずとも物語っていると思っています。大化改新の功績として常陸国久慈郡の封戸を受けているのはどうしてなのでしょうか。敢えて蝦夷との国境地帯を受ける必要があったのは特別な理由があるからだと考えた方が自然ではないでしょうか。鎌足はきっと土地勘があったのではないかと思えるのです。正にこれは鎌足の地元がこの地方である証拠ではないかと思えて来ます。


それでは藤原氏は何故その繋がりを隠蔽したのでしょうか。それは「かぐしまグループ」の一員として天皇家と同様に蝦夷とのハイブリッドであったからに他ならないからだと思えるのです。近くに住む集団同士が血縁関係を築いていくことは当然のことなのです。


不比等によって他の血統の中臣には藤原を名乗らせないことになりました。ひょっとすると中臣とは全国各地で後期に台頭してきた中小の新興豪族たちのフランチャイズのようなものだったのかも知れません。鹿島中臣はこれにフランチャイジーとして参加していたのではないでしょうか。これは一種の企業グループのようなものであると見る事が出来るのかも知れません。不比等が藤原と中臣とは全く別であると宣言した理由とはこのようなところにあるのではないでしょうか。


奥州の覇者として歴史にその名前をとどめている藤原清衡は阿部氏の母をもち、敵でもある清原氏を養父としています。そして後三年の役により清原氏が滅んだためにその傘下から独立することが出来ました。本家の藤原氏の場合も同じようなことが中臣との間で行われたのかも知れません。歴史は様々なバリエーションをもって繰り返すものなのです。


藤原氏が天皇家を構成する「かぐしまネットワーク」の重要拠点である常陸鹿島の被官であるとすると、藤原氏の歴史とは天皇家の歴史を後追いしているとも言えるように思われてきます。藤原氏はその発祥からして鹿島の天孫族の被官だったと考えると藤原氏の行動原理を理解できるような気がしています。つまり藤原氏の寄生体質の原因をここに求めると分かりやすいように思えるのです。藤原氏は天孫族の被官から始まった歴史を持っているからこそ天皇家と血筋が交わることこそが最高の名誉であり究極の目的であると捉えていたのではないでしょうか。そしてそれは達成されたのです。このように考えると天皇家に取って代わる(簒奪する)意識がないのは当然であると言えるのではないでしょうか。


そして鹿島神宮とは単なる東国経営の拠点ではなく逆にこの場所こそが天孫一族の最重要本拠地でもあったのです。これこそが常陸国が古代においてあれほど重要視された理由なのではないでしょうか。しかし、農耕の普及によって定住化が進み人々の意識の変化が起こったのではないかと思います。農業によって安定した生活とともに土着化がさらに進み、そして移動性が低下していったものと考えています。このような事態は鹿島との精神的距離を大きくしていったのかも知れません。


藤原氏もまた時代を別にしても蝦夷と近い関係にあったとすれば天皇家と蝦夷の関係は二重の意味で近い存在であると理解していたのかも知れません。それ故に天孫族は敢えて姓を封印したのではないでしょうか。同時に藤原氏は新たな姓を手に入れたのです。一つの歴史的事象に重層的な意味を持たせながら伝説は完成していくものなのです。


※補足
このページは鹿島神宮元宮司の東実さんに贈りたいと思っています。

下記のタイトルはここと関連する内容の一覧です。併せてご覧下さい^^

藤原氏の秘密
藤原氏の秘密2
藤原氏の秘密3
藤原氏の秘密4
鹿島1
鹿島2
神話から出雲へ
出雲の置きみやげ
インドラ神の飛礫
京都の恋
パスカルの言葉