2002/1/23



藤原氏の秘密6


うばら、いばら、おおはら、おばら

茨城の「いばら」とは「うばら」が変化したものであるとする説があります。ちなみに「き」は城、つまり砦=柵(さく)を指しています。更にこの「うばら」の「う」とは「おおはら」(=おほはら)の「おお」もしくは「おほ」が訛ったものであるとする意見があります。そして「ばら」は「薔薇」ではなく「原」の濁音になるというわけです。つまりここから推理すると「いばらき」の「いばら」とは「大きな原っぱ」を意味した言葉であるように思えて来ます。


茨城県は関東平野の北部に位置しています。この地理的環境のために茨城県は広大な平野面積を誇っています。つまり茨城県のほとんどの地域が平野部分に当たりますので栃木県や群馬県などの北関東の他の地域と比べるとその差は余りにも明らかになります。栃木県は県面積の約半分が山の部分になっています。また群馬県ではそれ以上の比率になります。このように同じ関東地方北部と言っても茨城県と他の地域とでは決定的な違いを持った場所であるのです。


この空間の広さは現在においても居住可能面積が北海道に次いで全国2位である点から見ても頷けるものであると思っています。まして古代において常陸国の北には東北地方全てを網羅した陸奥国しかありませんでしたから、遙か遠方にまで広がる大平原はあたかもアメリカ西部の大平原を見たフロンティア達の感動に似たものがあったのではないでしょうか??


名前とは必ずそれにまつわる理由が存在するものだと思います。これは自分の名前を思い浮かべてみれば納得し易いのではないでしょうか??ですから地名に関しても同様であると考えるのが自然の発想だろうと思うのです。このために「倭国」の由来や「卑弥呼」の謎が今でも続いているのだろうと思っています。もっともこの謎は当時の「ある地方」で話されていた言葉の「音」を「外国人」によって漢字で記録されたデータを基にして現代人が様々な発想を繰り返す為にますます深まっていくような気もしています。


例え漢字(文字)がない時代であっても地名が名付けられるには必ず何らかの理由がついて来るものだと思っています。ですから、もし古代人と同じ視点に立つことが出来るならばあるいはこの理由が見つかるかもしれません。将来には邪馬台国の謎を解明する事が出来る可能性は十分にあると思っています。


ちなみに「茨城」の地名の由来となった場所の近くの場所の地名は「内原」という名前になっています。内原のある場所は水戸の近くの広い田園地帯にあたります。ここで見る景色はまさに「大原」に相応しいと私も思っています。この「うちはら」という言葉も「おおはら」が変化したものではないかと考えると納得し易いものがあります。「おお」=「おほ」が「おう」から「う」へと「変格活用」していった法則がここでも生きているのです??


確かに古代の茨城の地には野薔薇が覆い茂るほど咲き乱れていたのかもしれません。常陸風土記にあるように「野薔薇」を使って佐伯を滅ぼしたという逸話はその現れのような気がしています。かつてこの地には見渡す限りの野薔薇が咲き誇っていたのだと想像すると心が一気に古代に飛んで行くような気持ちになって来るのです。日本一広い関東平野の北部に足を踏み入れると、そこには見渡す限りの大平原が薔薇で溢れていたのでしょうか??「いばらき」という発音に対して「茨城」という漢字を選択した理由としてはこの地方が見渡す限りの大平原であり、無数の野薔薇が咲き誇っていた風景があったからであると考えるのは正しいように思われて来ます。


この地方の古代のキーワードの一つである「おお(おほ)氏」を漢字で現すと「大氏」もしくは「多氏」になります。両者は表記上では全く別のグループのような印象を受けますが実は同一の存在ではなかったかと私は思っています。「おお」とは土地が広い、肥えている、豊かだとという内容を指していると考えるのが自然です。全国的に見られる太田(=大田)という地名は同様の意味をもった場所であると考えられるような気がしています。「太田」を全国に造り出そうと幾世代にもわたって努力をしてきたのが「日本人」の歴史の本質であるように思えて仕方がありません。勿論、一つの事象に対して複数の意味が幾重にも絡みつきながら後世の伝説を造り出して行くように「理由」もこれ一つばかりではないと思っています。


鎌倉時代の関東地方の地図を見ると利根川や霞ヶ浦が現代のものとは大きく違っていた事が伺われます。まして更に時代を遡ればこの「差」が大きくなるのは当然の事です。霞ヶ浦は「浦」と名付けられているように元々は内陸に大きく入り込んだ湾のようなものだったのではないかと思っています。海中の深さは別にしても外見上の風景は東京湾のそれとほとんど変わりがないものだったのではないでしょうか。この内海を挟むように鹿島神宮と香取神宮は建てられています。まるで「聖域」を守るために造られた巨大な門(あるいは鳥居??)のようなイメージをこの両神宮の配置から受けてしまうのです。もしくはボスボラス・ターダネルス海峡を挟んで発達したイスタンブールのように鹿島と香取は一つのものと見た方がいいのかもしれません。


つまり古代に生きる人たちにとって霞ヶ浦は大きな「湖」ではなくて「海」であると考えていたのではないかと思うのです。勿論霞ヶ浦は外見的には十分に「内海」だと認識されるに相応しい姿を見せていたような気はしています。ここで私はこの場所に住む人たちは霞ヶ浦の事を「内海」の意味を込めて「なかうみ」(=中海)と呼んでいたのではないかと推測しています。「なかうみ」とは内陸部に食い込んだ海を意味する言葉です。藤原氏一族が中臣氏グループの傘下に入った動機もここに見つける事が出来るのではないかと思えてきます。ひょっとしたら古代においてこの内海だった地域に勢力を張っていた鹿島の豪族は前々から「なかうみの〇〇」のように呼ばれていたのかもしれません??


現代人の私たちはつい漢字の意味から物事を推測してしまいがちになります。でも古代の日本では文字を持ってはいませんでした。後になって漢字が日本にもたらされたために「万葉仮名」という表記法を発明したのです。万葉仮名とは漢字の意味を無視して使う事に特徴があります。あくまで耳から聞こえる「音」だけを取り出してそれを記録に残そうという発想から生み出されたものでした。現代に生きる私たちは文字に接した時に「漢字」の意味をなかなか捨て去る事が出来ないでいます。しかし「かな」として使われた「万葉仮名」を理解するにはあくまでそこに残された「音」だけを頼りにすべきだと思うのです。ですから漢字から受けるイメージを頭の中から追い出す必要があるのではないでしょうか??古代人のように「音」だけに集中して意味を考えていくのであれば色々な発想が浮かんでくるはずだと思っています。しかしながら書かれた文章を漢字の意味から推測してしまうという呪縛からなかなか抜け出せない現実があります。これがバリアとなって私たちに誤った過去の幻を掴まえさせようとしているのではないか??とさえ思うことがあります。


古代には「語り部」によって親から子供へと様々な話しが伝承されて行きました。多くの情報は耳から聞こえる「音」だけを頼りに次の世代へと語り伝えられて行ったのです。だからこそ「言葉」は最も重要であるとされていたのはないでしょうか??音を伴った言葉を大切にするという歴史を持っているが故に「ことだま」という発想が生まれていったように思われて来るのです。そして「言霊」に対する様々な思いが付け加えられて行ったものと考えているのです。


このように言葉の「音」について様々に考えを巡らしていくと「なかうみ」と「なかとみ」=「なかおみ」=「なかをみ」とは極めてよく似た音だと改めて気が付くと思います。まして「標準語」がなく「方言」レベルが各地方で際立つった差異を持っていたであろう古代においては、遠隔地の言葉や単語の発音に大きな「差」を生じていたはずだと考えるのは間違いではないと思えるのです。つまり「同音同義語」は極めて狭い限られた地域でしか通用していなかったのではないかと思うのです。日本列島規模で見ると「異音同義語」に溢れていた時代と言えるような気がしています。


「なかうみ」と「なかとみ」=「なかおみ」=「なかをみ」が極めて近い相似形の「音」を持っていたことが「鹿島の豪族」が中臣グループに入る事を選んだ大きな理由の一つなのではないかという考えをうち消せないでいます。「鹿島中海一族」が時代の変化により勢力を維持するためにも中央のフランチャイジーになるのは時代の要請だったような気がしています。これは明治以降の歴史で言えば「日英同盟」であり「三国同盟」を選択していった事と変わりがないと思っています。地方が中央と同盟するという事は「中央の傘下に入る」事でもあります。これを中央から見れば「勢力の拡大」そのもの以外の何ものでもありません。しかし圧倒的な中央の圧力という状況の中でも複数の「強者」が存在する場合に一人を選択するにはそれに相応しい動機が必ず存在していたはずだと思えるのです。