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”ハンセン病”ったがゆえに、家族をいわれなき偏見と差別に家族を巻き込まないよう、本名はおろか出生も秘密にされた。昭和63年に静岡の女性史研究家、市原正恵氏が、季刊誌「静岡の文化・秋号」で海人の本名・出生地(沼津市)・出身校を公表したのが最初だった”ようです。
誰しも生を受け、人生を無事に過ごすことは幸せなことです。37歳という短い生涯を終えた、海人。
教職にあった海人は結婚し長女も生まれ、人生これからというときにハンセン病を発病し、突然、絶望の淵に立ます。いわれなき偏見や差別から家族を守るため、名も素性も隠し療養生活をおくります、一時は精神錯乱状態になり、でもそこから立ち直り、短歌を始め、その終焉の時まで自分の情熱を歌に込め、自分の伝えたい事を世に発表してきました。海人は「光を失った人達」にそれが温かい光となってもどってくることを願って・・
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  SBS スペシャル 生くる日の限り 〜ハンセン病の歌人・明石海人〜  
平成14年3月17日(AM00:50〜)に、また再放送として、5月19日(25:00〜)SBSで放映。
この白描の序文を日下武史氏が朗読して始まりました。千本浜歌碑の除幕式には海人のお孫さんである関信之さんも出席されており、「この歌碑が立てられることを知って、初めて祖父が歌人で、ハンセン病であったことを知りました」と語っています。「熊本地裁で国の責任を認める判決」がおり、国が控訴断念をしました。

この訴訟の原告に加わってる入る沢田二郎さん西村時夫さんが記者会見で「これからは体だけでなく心の社会復帰を、人間復帰をしたい」との思いを語っていた、お二人の駿河療養所での生活や経験談、活動も紹介しながら、そして、海人の研究をした岡野久代さん、また長島愛生園の園内誌「愛生」編集部の双見美智子(85)さんや、愛生園で医者を務め今は御殿場在住の林富美子(94)さんに海人の出会いや、
お三人の話などから海人の生きた時代の背景と、海人の長島愛生園での療養生活こと、歌碑に刻まれた故郷沼津を歌った歌、歌集白描の歌の紹介し海人の思いを伝え、愛生園や関さん所蔵の資料やスケッチを交えなから、海人その37歳の生涯の足跡をたどります。歌碑建立などの顕彰活動の意味である偏見差別をなくしていくことを訴え、最後に日下氏のこの序文の朗読で終りました。

 再放送が出きるといいと思っていましたが、この放送が「前島賞」(郵政事業や通信・放送分野で功績があった 人(番組)に贈られる)受賞しましたので、再放送がありました。

癩は天刑である  
加はる笞(しもと)の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは呷吟(しんぎん)しながら、
私は苦患(くげん)の闇をかき捜って一縷(いちる)の光を渇き求めた。
深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない
そう感じ得たのは病がすでに膏盲(こうこう)に入ってからであった。
齢(よわい)三十を超えて短歌を学び、
あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、
己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもって感じ、
積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞(べんぶ)しながら、
肉身に生きる己れを祝福した。
人の世を脱(のが)れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、
明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。
癩はまた天啓でもあった


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