明石海人
明石海人顕彰会のページへ ようこそ 明石海人 のページへ
 静岡県(沼津市)に生まれた天才歌人・明石海人、その歌集「白描」は25万部のベストセラーに、しかし、ハンセン病であったことや戦争が起こったことで、歴史の中に埋もれてしまいました。この明石海人を、みなさまに知っていただき、海人が思っていたことを、お伝え出来ればと思います。長い間この「おくさまネット」で「明石海人のホームページ」として紹介してまいりましたが、新たに単独URLでスタートさせていただきました。詳しくはそちらでどうぞ・・
深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない
明石海人のホームページへ
◆明石海人のホームページはこちらです・・ http://web.thn.jp/kaijin/index.htm
   リニューアルし引越しを致しました。詳しくはここでどうぞ・・・
明石海人の思い
26歳の時にハンセン病を発病します32歳で長島の地に来た海人はかなりの病状悪化にもかかわらず、短歌を勉強し、34歳ごろから短歌を発表しその才能が開花しますが、歌集「白描」を世に出した年、昭和14年、37歳の短い生涯を閉じました。
『私自身は人間である以上に癩者です。私が作る芸術品は世にいくらでも作る人があります。けれども、癩者の生活は我々が歌わなければ歌う者がありません。我々の生活を出来るだけ広く世人に理解してもらいたい。癩に対する世の感心を高めたい。自分の書くものが何らかの光となって数万の癩者の上に返ってくるように・・・・。それが私の念願なのです。明石海人などという名がどんなに広まろうとも、そのことは私にとって、何のよろこびでもありません。』と、「日本歌人」の前川佐美雄へあてた手紙に、その歌人としての海人の心境を伝えています。
沼津市千本公園の明石海人の歌碑
千本公園には、歌集「白描」の中から海人が故郷を懐かしんだ、以下の3つの歌が歌碑に刻まれています。歌意は海人HPでどうぞ・・・
さくら花かつ散る今日の夕ぐれを幾世の底より鐘のなりくる
ゆくりなく映画にみればふるさとの海に十年のうつろいはなし
シルレア紀の地層は沓(とほ)きそのかみを海の蠍(さそり)の我もすみけむ
県立沼津商業高等学校の明石海人の歌碑
わが指の頂きにきて金花蟲(たまむし)のけはひはやがて羽根ひらきたり
海人の母校である沼津商業高等学校の歌碑は、母校の百周年を海人生誕百年を記念して作られました。歌は上記の一首です。沼津商業ではこれを記念し「校内短歌コンクール」が開かれ、第一回「明石海人賞 最優秀賞」には二年 原美幸さんの
さざなみに負けじとカニの仁王立ち砂に埋もれどまたはひ出たり
の歌が選ばれました。
この歌は海人歌碑の横に紹介されています。
25万部のベストセラーになった。歌集「白描」
海人が亡くなった昭和14年に発行された歌集『白描』ですが、生誕百年を記念し歌碑建立と復刻版の発行が顕彰事業の柱となり、この歌集『白描』(復刻版)については、明石海人顕彰会が千本公園、母校の歌碑建立の資金を寄付していただいた方に記念として贈られました。この復刻版については、よくお問合せがございますが非売品で販売はしておりません。在庫はまだあるかもしれません。顕彰会が扱っております。この「明石海人生誕百年歌碑建立記念・明石海人歌集」『白描』についてのお問い合わせは・・下の顕彰会HPでお願いします。
歌集「白描」序文の中の言葉・・・ 「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない」
この言葉が有名になったのは、大島渚映画監督が座右の銘として、サインなどの時に色紙に書いていただけたことがあると思います。教職にあった海人は結婚し長女も生まれ、人生これからというときにハンセン病を発病し、突然、絶望の淵に立ます。いわれなき偏見や差別から家族を守るため、名も素性も隠し療養生活をおくります、一時は精神錯乱状態になり、でもそこから立ち直り、短歌を始め、その終焉の時まで自分の情熱を歌に込め、自分の伝えたい事を世に発表してきました。海人は「光を失った人達」にそれが温かい光となってもどってくることを願って・・
そんな境遇の中から生まれた言葉だから、どんな人生の苦難・苦境・絶望の淵にいても、「まだ海人よりまし」と自分を励ましてくれる言葉だと思います。
顕彰会のホームページに沼商百周年史によせた大島渚監督の「私の明石海人」を紹介しています。是非ご覧下さい。
◆SBSテレビで放映された 「生くる日の限り 〜ハンセン病の歌人・明石海人〜」の紹介はこちら。・・ 生くる日の限り ページへ
明石海人顕彰会HPページへ
ビジネスマンの勉強部屋
おくさまネットHOME