五月雨のころ・六


 男は富三郎と名乗った。もういい年のようだが嫁はないという。名前の示すとおりの三男坊で、さほど大きくもない農家の三男では継ぐ田畑もなく、そんな男が嫁をもらうのは大変なのだそうだ。戦で一旗揚げようかと思ったが、傷を負って怖くなり、逃げ出したのだと、ぽつりぽつりと語った。
 利吉は富三郎の世話をしながらそんな話を聞いていた。利吉はここ数日毎日翠庵のところへ通っていた。半助にからかわれたように、お人好しでしているわけではない。自分が不本意ながらも関わってしまった物事を途中で投げ出すことができないだけだった。翠庵も半助も忙しいのだ。自分が連れてきてしまった男の世話を任せきりにするわけにはいかない。せめて昼間の間ぐらいはと通ってきては、右腕を負傷して食事を摂るのも不自由そうな富三郎の世話をやいていた。
 富三郎は逃げ出してからろくに食事も睡眠もとっていなかったらしく、最初は少々衰弱していたが、2、3日もするとすっかり元気を取り戻してきた。
 富三郎は、例のお守りの中からほんの少々の小銭を取り出した。本当にいざというときのために母親が持たせてくれたものだそうだ。とても足りないだろうが、せてめものお礼にと小銭をすべて翠庵に差し出し、お守りを大切そうに懐に収めたのだった。気にするでないと言いながら翠庵は、断るでもなくその銭を受け取った。翠庵も慈善事業でやっているわけではないから、貧しい人々からはむやみに銭を取らないとはいえ、相手が払うというものを断ることはない。それでも帰りの路銀はどうするのかと、利吉は気遣った。翠庵にはさすがにそうも言えないので、そっと半助にそれとなく聞いてみたのだが「なんとかなるんじゃないか?」と、脳天気な笑顔で返されただけだった。
 それはここまでなんとか逃げてきたわけだし、この先もそれほど遠いというわけでもない。多少の食糧を持たせてやるぐらいのことは利吉にだってできる。だが、富三郎に対する半助の態度は、利吉には少しばかりいぶかしく思えた。
 冷たいというのではないが、利吉との訓練に手製の弁当まで持ってくるようないつもの世話焼きぶりと比べると、ほとんどほったらかしと言ってもいい。近隣の子供たちにはただで文字やら山菜の見分け方やら教えてあげるくせに、手越村への道順一つ富三郎には教えてやらない。腰を傷めた老婆を嫁がおぶって連れてきたときは、大変だろうと帰りには半助が老婆を自宅までおぶっていったこともある。だが利吉の見る限り、右腕の不自由な富三郎に手を貸している様子もない。ただ利吉に一言、石蕗は落城したと、ぽつりと漏らしただけだった。利吉は当然それを富三郎に伝えたのだが……。
 もちろん本職が忍者だということを考えれば、ふだんの半助のほうがおかしいのだが、それでも利吉はなんとなく腑に落ちない。老人でも子供でも女性でもないからか? そういう人なのか? 勝手に理不尽な反発も手伝って、利吉は富三郎が安全に帰れる方策をあれこれと考えた。


 そんなある日のこと。その日は朝から患者やら来客やらが立て込んでいて、翠庵も半助も忙しそうだった。
 富三郎が、外に出たいというので、利吉は連れだって散歩に出た。翠庵のところに出入りする者にはどのような人間がいるか分からないので、一応富三郎の姿を見られないように、2人は裏庭に出て、そこからそっと外に出た。
 翠庵の庵が見えなくなると、富三郎がぽつりと言った。
「俺、もう帰ろうかと思うんだが……」
確かに、右腕はまだ不自由そうだが、体は元気なのだからそれは早く帰り着きたいだろう。居候の身も居づらいに違いない。だが……。 
「大丈夫だ。落城したんなら、俺らの主ももういねえってことだろう。逃げ帰ったからって咎める人間もおらんてこったろ」
 それは確かにそうなのだが。富三郎は武将ではない。実家も城下にあるわけではなく、領地の外れの村にあるのだから、こちらで調達した百姓姿で帰ればそうそう厳しい詮議があるとも思えない。
「そうですか。では今夜にでも翠庵先生にご挨拶をして、明日出立されるといいでしょう。少しばかりの食糧は用意できますから」
 利吉は少し考えてからそう答えた。
 富三郎は足を止めて、利吉に向き直った。
「あんたには迷惑かけてすまんかった」
まったく……とはさすがに利吉も言えないから、
「いえ、べつに」
と小さな声で答えた。
富三郎はべつだん気にする様子もなく、
「そうだ、つまらんもんだが、お礼に受け取ってもらいてえもんがあるんだ」
と言って、まだ少し思うように動かない右手を懐に入れた。
「いいですよ。お礼なんて」
慌てて利吉は言ったが、富三郎はお構いなしに、例の守り袋を取り出した。
「ちょっとこれ、持ってくれんか?」
富三郎がその守り袋を利吉のほうに差し出したので、利吉は仕方なしにそれを手に取った。利吉に持たせたまま、富三郎が左手を使って紐を解いた。
「この守り袋にはちょっとした秘密があってな」
「秘密?」
「中を覗いてみろや」
 利吉が守り袋を顔に近づけたその時だった。
 パン!と、富三郎が袋を下から強くはたいた。
「うわっ!」
 利吉は眼球に強い痛みを感じて思わず目を閉じた。
(め、目つぶし!?)
次の瞬間、鳩尾を強く殴られ、息が詰まったところを首筋に今度は手刀を入れられ、利吉は気を失った。
   




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