五月雨のころ・ 七


 利吉は意識を取り戻すと、すぐに目を動かして、見える範囲の周囲と自分の状況を確認した。天井は梁がむき出して、天井板もなく、かなり長い間使われていない小屋といった様子だ。
 利吉は後ろ手に胸の辺りと、そして両足首をぐるぐる巻きに縛られていた。
「目が覚めたようだな」
 その声に、利吉はどうにか体をねじって上体を半分ぐらい起こして振り返ってみた。そこは今は使われていない炭焼き小屋のようだった。
 声の主は利吉の顔を見て、にたりと笑った。利吉を縛ってある縄の端を自分の足首に結びつけている。その顔は確かにあの富三郎には違いないのだが、まるで別人のようにも見えた。
 もし利吉が忍びとして訓練を受けたのではないごく普通の子供であったなら、まさに別人と思い込んだかもしれない。服装が忍び装束に替わっていたというだけではない。顔自体が違って見える。変装をしているわけでもなければ、今までが変装でそれを解いたのでもない。ただ、その眼光は鋭くなり、口元には不遜な笑みが浮かんでいる。それだけで人相までが変わったように見えるのだ。
 隠していた本質が現れたのだ、と利吉は悟った。
 彼が何者なのか、なぜ自分が捕らえられているのか分からないが、それでも相手が侮れない忍者であることは勘が教えてくれる。
 縄の片端を自分につないでいるということは、少しでも利吉が不穏な動きをすればばれてしまう。縄抜けは不可能だ。だが、逆に言えば、敵も身動きを制限されるということだ。ということはおそらくは、仲間がいる。利吉は鼓動が速くなるのを懸命に抑え、冷静に頭を働かせた。
 まずは慎重に相手のことを探らなければ。
「千倉の手の者か?」
 そうではないということを百も承知でそう尋ねてみた。今さら利吉を捕らえてみたところで、何の得になるわけでもないのだから。ただ、あなたはどこの誰ですかと聞くのも間抜けすぎるので、そう言ってみただけだ。
 相手は、それを見抜いていたらしい。苦笑とも失笑ともつかぬ冷たい笑みを浮かべた。そうでないことは分かっているだろうにとでも言いたげに。
 仕方なく利吉は質問を変える。
「富三郎というのは本当の名なのか?」
「そんなことはどうでもいいだろう」
 とりつく島もない。
「目的は何だ」
 ああ、とうとう不毛な問いを発してしまった、と、利吉は妙な部分で軽く落ち込んだ。
「おまえは敵の前で任務をべらべらしゃべるよう教育されてるのか」
 そうだよな。しかしこのまま黙って何かが起こるのを待っているのは嫌だ。
「殺さずに連れてきたということは、僕は人質なんだろう? 狙いは誰なのかぐらい教えろ」
 言いながらしかし、利吉は絶望的にその答えもまた分かっていた。自分を人質にするからには、ターゲットは1人しかいないと言っていい。むろん、可能性としては半助であったり、母である場合もありうるのではあるが……。
 ただ、半助に対しては利吉が人質としての価値を持つのかどうかそうとうに疑問であるし、母を脅迫するということは、それはそのまま、つまりは父を脅迫することにつながる。
「お察しのとおりだ」
 これもまた、お見通しの冷たい答えが返ってきた。そして、
「正確には誰、というより、どこ、だがな」
「?」
 どこ、とは。普通に考えれば、目的は伝蔵個人ではなく、伝蔵が所属するところ、つまり現在は忍術学園ということになる。
 しかしそれではあまりにも回りくどく、しかも不確実だ。利吉自身は忍術学園の人間ではない。一介の教師の家族が巻き込まれたからといって脅迫に屈するほど忍術学園は甘くはないはずだ。
 むろん、学園の教師に直接手を出すのは困難ではあろうが、生徒ならば機会はあるだろう。生徒は大勢いるのだし、下級生ならば利吉を狙うよりよほど楽なはずだ。
 利吉が図りかねていると、富三郎は再び、にたりと笑った。
「心配しなくても、親爺殿はもうここに向かっているぞ」
 利吉は思わず戸口のほうに目をやる。
 どういう手順になっていたものかは知らないが、ともかく仲間はいるに違いない。
 それにしても、父は本当にのこのこやってくるのだろうか。来たところで、こいつらの言うとおりにするだろうか。
 それはない。
 むざむざ脅迫に屈する父ではない。狙いが学園ならなおさらだ。だからといって、父が敵の言うとおりにはせず、なおかつ自分を無事に救い出してくれるなどと楽観はできない。いざとなったらたとえ一人息子でも伝蔵は見捨てるはずだ。
 伝蔵はそれができる一流の忍者だと、利吉は信じてヽヽヽいた。
 同時に、最後まで諦めないのも一流の忍びの証であり、伝蔵が最初から利吉を見捨てるはずのないことも、利吉にはわかっていた。
 それならば、ただ諾々と救出されるままにされていてはいけない。その後に落ちるであろう雷のほうが、当面の危険より利吉にはよほど怖かった。何しろこの男を拾ってしまったのはほかならぬ自分なのだから。
 ただ、今はこの状態ではどうしようもない。下手に動いても、外の様子がわからないのだから、無駄に体力を使うわけにもいかない。むしろ利吉は、頭の中でシミュレーションを試みた。
 伝蔵がどう出るか。自分にどんな合図を送ってくる可能性があるか。それはもしかしたら敵とのやり取りの言葉の中に隠されているかもしれないし、姿を現す以前に矢羽音が使われるかもしれない。
 そう考えて利吉が神経を研ぎ澄ませたとき、小屋の外で何か物音がした。もしかしたら物音ではなく、何かの気配だけだったのかもしれない。
 それが利吉の錯覚ではない証拠に、富三郎も何かに気づいたように正面にある戸口に視線を投じた。その右手には苦無が握られ、利吉の背中に突きつけられていた。
 しかし、しばらくその体勢で待ったが、それきり何の音もせず、戸が開けられることもなかった。
 見張りが何かの拍子に物音を立てただけだったか。
 利吉も富三郎もそう判断して、浮かしかけた腰を下ろしたその直後だった。
 バンッ!と派手な音を立てて、小屋の入り口が開かれた。どうやら蹴破られたようだった。
 正面から堂々と乗り込んできたのは、伝蔵ではなく、半助だった。
 富三郎は利吉を縛ってある縄をぐいと引き、再び苦無を利吉に突きつけた。今度は相手からよく見えるように、利吉の首筋に。
 利吉はそのひやりとした感触よりも、半助の登場のほうに動揺していた。
 いずれ半助か翠庵が利吉たちの不在に不審を抱くだろうとは思ったが、だからといってすぐにここを探り当てられるかどうかは疑問だった。
 もしかしたら、伝蔵が先に翠庵に立ち寄って、何事か作戦を組んできたのかもしれない。
 それならば伝蔵が来てくれれば良かったのに。
 相手が伝蔵ならば、なんとか暗黙の了解のうちに富三郎の隙を突くことは可能に思えた。だが、半助が相手ではなんともならない。下手をしたら、利吉がその作戦をぶち壊してしまうかもしれない。
 もしこれが、半助の単独行動ならばさらに絶望的だ。半助との間で意思疎通など不可能だ。
 なんであんたなんだ。
 差し迫った命の危険より、助けが来たという安堵感より、腹立たしさのほうが勝ってしまう。
 そんな利吉の葛藤などお構いなしに、半助はゆっくりと歩を進める。
「それ以上近づくとこいつを殺すぞ!」
 富三郎がお決まりの脅し文句を口にする。

   それを聞いて半助は、にこりと微笑わらった。

   利吉は、全身が総毛立つのを感じた。

   別人だ。
 富三郎が農民の振りをしていたときと今がまるで別人のような顔をしているのと同じように、半助もまた利吉が知っている人間ではなかった。
 背後にいる富三郎がわずかにたじろぐのを、利吉ははっきりと感じた。  




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