五月雨のころ・ 八
半助はまた一歩、前へ出る。 どちらかというと童顔で、人当たりの良い笑顔で相手に警戒心を与えない。利吉が知っている半助とはまるで違う顔で。 その口元は笑んだままだというのに。 背筋が凍る……。 富三郎がじり、と後退する。利吉も足を縛られたまま縄を引っ張られて、後ろに倒れそうになる。 「その子はわたしの大切な生徒だ。返してもらうよ」 ――え? あくまでも穏やかに。しかし有無を言わせぬ冷たい声音で。 「返してもらう」と言い切った。 半助の手が刀の鞘にかかった。利吉の首筋に突き付けられた苦無が、ぐいと押し当てられる。 半助がどうするつもりなのか皆目見当もつかず、利吉は身動きがとれない。 ごくりと唾を飲み込んだ次の瞬間、地響きを感じて利吉は思わず足元を見た。いや、足元ではない。この小屋全体が振動しているようだ。 富三郎も思わず視線をさまよわせ、そこに一瞬の隙ができた。 利吉は目の端で、半助の忍刀の刀身が一閃するのを見た。ほとんどそれと同時に、今度はぐいと前に引っ張られた。足は自由になっていた。 背後からの攻撃など考える余地すらなく、引っ張られるままに数歩前に出る。そのときにはどこかで爆発音がし、小屋の半分は崩れ始めていた。 上体は縛られたままの利吉がバランスを崩し、前につんのめる形で転倒した。その上に木片がばらばらと落ちかかり、埃と火薬臭が立ちこめた。 もうもうとした煙がおさまりかけた頃顔を上げると、小屋は半壊し、梅雨の晴れ間の青空が頭の上に広がっていた。 顔を後ろにねじ曲げると、富三郎はどうやら壁と天井と柱の下に埋まったようだった。 半助が利吉の横にすっと膝を着いて、今度は小刀で丁寧に利吉の上半身と手首を縛っていた縄を切った。 「ここは危険だから、とりあえず一旦外に出よう」 そう言って半助は利吉に手を貸して立ち上がらせると、小屋から離れるように背を押した。 ほとんど外にいるようなものだったが、小屋の残っている部分もかろうじて建っているだけという様子で、いつ崩れてくるかわからない。 小屋の前面に回ってみると、忍者が1人、昏倒していた。きっちり猿轡をかませられ、芋虫のような格好で転がされていた。先ほどの物音はこれのせいだったのか。 それにしてもあの程度の気配で、中に気取られずにこれだけの仕掛けをやってのけるとは。 利吉がいささか茫然と、この破壊工作の結果を眺めていると、半助の両手ががしっと利吉の肩にかかった。半助の顔に、先ほどまでの怜悧な笑みはどこにもなく、ひどく真剣な顔で、少し青ざめてさえいる。 「ケガ! ケガはなかったかい? どこか痛いところは?」 そう言ってチェックするようにぱんぱんと利吉の腕を数回叩くようにしながら、その手を肩から下げていった。 「大丈夫です。どこも何ともありません。それより……」 父は今どこに――と言おうとして利吉はその質問を呑み込んだ。そんなことより先に言うべきことがあるだろう。 謝らなければ。自分が迂闊だったせいで、迷惑をかけた。助けにきてくれたことを、感謝しなければ。 そう思って言葉を選ぶためにほんのわずか噤んだ口を開こうとしたとき、 「すまなかった」 謝ったのは半助のほうだった。 利吉の腕を掴んだまま、頭を下げている。 「わたしの判断が甘かったんだ。一歩間違えば山田殿にも顔向けができないところだった。もっとあいつを疑っておくべきだったんだ」 半助の声は悲痛なほどだった。 「いえ、その……」 半助の責任などではない。自分は年端の行かない幼児ではないのだから。ひとえに自分が未熟者だったせいなのだから。そう言おうとして、また利吉は途中で言葉を切る羽目になった。今度は、めきめきっ! と妙な音がしたのだ。半助も利吉も半壊した小屋を振り返った。 崩れた木材の下敷きになっていた富三郎が、どうやってか上半身だけ姿を現した。憤怒の形相でこちらを睨んでいる。なんとかこちらへ這い出そうとしているようだが、下半身はまだ埋もれたままで身動きがままならないと見える。 半助は利吉から手を放すと、つかつかと富三郎のほうへ歩み寄った。 利吉もあわてて後を追う。 どうするのかと思ったら、半助はそこらにあった角材を拾って、富三郎に振り下ろした。めこ! と嫌な音がして、富三郎は声もなくがくりと首を垂れた。 「じきに援軍が来るから、それまで埋めておこう」 そう言って半助は富三郎の上にせっせと板きれやら折れた梁やらを積み上げた。 なんだか大人げない。 それは利吉がよく知っているいつもの半助の姿だった。さっきの、背筋も凍るほどの冴え冴えとした“気”は錯覚だったのか、幻影でも見せられていたかと思うほどだ。 だが断じて幻覚でも勘違いでもない。自分は確かに見たのだ。垣間見てしまったのだ。この土井半助という忍の本質を。 利吉は黙って、一抱えもある柱の破片を富三郎の上に積み上げた。 |