海老沢さんのページ
えびちゃんの‘風向計’
みなさんこんにちは。私が気が向いたときに自由きままなテーマで書きなぐる、まさに風向計のようなページです。どうぞヨロピク。
2月14日- ブーメランとの出会い
第一回目はやっぱりブーメランとの出会いを書きます。95’ころ、私はキャンプに熱中していました。キャンプ場でないところにテントを張るのが好きでした。山の上や川原で自然を楽しんでいたのですが、ある時ふと思ったのです。「ヒマだ!」。もともとのんびりすることが好きなわりには、またそうかと思うとのんびりしていられない性格もあるので、そう思ってしまったのです。それからは、キャンプの時には自由気ままに一人でも遊べるものを探すようになりました。キャッチボール、バドミントン、フリビー、おままごと、鬼ごっこ、こっくりさん(これは危ない)、どれもちょっとさびしいものでした。そんなある日、いつものアウトドアーショップでブーメランに出会ったのです。そこには何種類ものブーメランが置かれてあり、私は上級者用と書かれてあったオレンジ色の二枚翼のブーメランを手にしました。そのブーメランは、プロフライという名前でした。それから、ブーメランとの格闘の日々が始まりました。初めは自分の近くに戻すのも大変でしたし、さらにキャッチとなると100回投げて1回程度のキャッチでしたが、すごい楽しかったのを覚えています。そして、いつものアウトドアーショップで、水戸ブーメランクラブの会員募集のチラシに出会ったのです。ちょっとドキドキしながら参加した初練習の日、関根さんに出会い「いい!カタチができてる!」の言葉にますますチョーシに乗る私でありました。このサイトを見ているあなた、一緒にスローしませんか?今ならクラブ員からの「ナイスキャッチ」の歓声や「なにしてんだっぺー」の罵声があびせられるという特典がついていますよ。
2月22日- スキー
先ごろスキーに行った。1シーズン2回行くのは何年ぶりだろうか。
私はスキーが大好きで、高校を卒業後10年間は1シーズン30日間は滑っていた。スキーはお金がかかるので夏は金のかからないテニスをやった。ずいぶんむかしの話になるが”私をスキーに連れてって”という映画があった。そのときの監督がこんなことを言っていた。「世界中のどの国に行くよりもスキーは異国に来た感じがして日常を完全に忘れさせてくれる。」と、納得できる話だ。そこには面白いたくさんのエピソードが生まれる。あれは福島県高杖スキー場近くの民宿に泊まったときだった。獣のようにおなかをすかしていた私と私の友人たちは出された鍋にむさぼりついていた。三度目のおかわりをした時「おばちゃんこの鍋うまいねぇ、何の肉」と聞いたところ、おばちゃん、福島なまりで「ウサギだぁ」一瞬、皆箸が止まってしまった。また、群馬県のとあるスキー場へ8人で行ったときの宿のこと。だれかが湯舟の上に大きく立ち上がると女湯がのぞけることを発見。私たちは緊急作戦会議を開いた。全員では目立つので2〜3人の班を編成してこのミッションに望んだのである。いよいよ自分たちの番となりみんなに見送られて戦場へ向った。最初は私で、戦友の「早く代われ!」の言葉に早々に交代したのだが、こんどはそいつがなかなか代わってくれないのでわたしはそいつの”おいなりさん”を下から見続ける羽目になった。とうとうその晩はその”おいなりさん”と一戦交合う夢を見てしまったのである。アフタースキー、夜の団欒タイムといえばトランプで勝負。負け組みは次の日一日中”侍言葉”を使わなければならない罰ゲーム。自分のことは「拙者」と言い、リフト券を買うときは「1日券を所望じゃ」、「かたじけない」などと負け組みにはまる1日どっぷり時代劇に漬かってもらう。ところでスキー場は一時ボーダーが幅を利かせていたが近頃はスキーヤーとボーダーは半々ぐらいである。今年は雪が多いのでまだまだスキーシーズンは続きます。むかしならしたスキーヤーのあなた、久しぶりにゲレンデにおもむいてみてはいかが。スキーはいてブーメリャン・・・・、そりぁやっぱ無理だっぺ。
3月8日- 公園で
ブーメランの練習も終わったので、午後、家から車で10分ぐらいのところにある笠松運動公園へ子どもと一緒にテニスをやりに行った。午後だったせいか人が混んでいてコートは空いていなかった.。しかたなく園内の遊具施設のあるスペースで子どもを遊ばせ私はベンチに腰をかけそれを見ていた。まもなくすると、年は50代ぐらいであろう男性が孫ぐらいの年の女の子3人を連れてやってきて、やがて遊び始まった。そんな光景を何気なく見ていた私はその中の子どもの一人に目が止まった。その手にはブーメランが握られていたのである。驚き、感動、珍しさ、いろんな気持ちで見つめていた私の前でとうとうその子がブーメランを投げた。見事な横投げで・・・。当然、そのブーメランは2〜3メートル水平に飛行したあと急上昇して急落下するというお決まりのコースをたどった。こんどは別の女の子の番になり、その女の子はブーメランを持ってセオリーどおり縦投げの体制に入ったので、期待して見ているとブーメランは投げた方向に直進して落下してしまった。「投げ方もチューニングもできてないぞ!」私の魂の叫びなどは聞こえないのであろうか。おもわず貧乏ゆすりをする私の前で、その後もその行為は繰り返されるのであった。私はなんとかして教えてあげたい衝動に駆られたのだが、私のようなおじさんが突然声をかけたりしたら怪しまれるかもしれない。新たな拉致事件か、はたまた新興宗教の勧誘か、イヤもしかしたらウィキーさんのワンポイント英会話だと思われたらどうしよう。私は英語が話せないのだ。「ここは、めったなことでは話しかけられないぞ。」そう思った私は、「ブーメランがこっちに転がってこないかなあ。」それを拾いあげ、子どもに返しながら、その時ブーメランの正しいチューニングや投げ方を教えてあげよう。そう想像しながら声をかけるチャンスをひたすら待った。だが、それはむなしく時間が過ぎゆくばかりであった。そして私は気がついたのである。「待っていてはだめだ、事態は一向に解決しない。」と。私はおもむろに立ち上がり子どもたちの方でなく自分の車を止めてある駐車場へ向った。そして、車から何枚か作ってあった0.5mm塩ビブーメラン(自作)を取り出しながら考えた。、なにげなく子どもたちの近くでブーメランを回して見せて興味を引かせ、子どもたちが寄ってきたところでブーメランの正しい投げ方を教えてあげようという陽動作戦である。5分後に車から戻ったら私は自分の目を疑った。もうそこにはあの人たちの姿はなく幻のように消えてなくなっていた。たそがれ時、そこには自分の子どもが楽しげに遊んでいるだけであった。おもわず苦笑いを浮かべた自分がおかしかった。
3月27日- 新しいブーメラン
新しいブーメランを作った。"カルボール"という名前をつけた。
ここ1、2年そうなのであるが、新しいブーメランを切るときには頭の中で♪風の中のすーばる♪なんて曲が流れていて、削り終わったときは「彼はとうとう作った!」などと田口トモロヲのせりふをしゃべっているようなことがある。今回のデキは70点というところか。自作ブーメランを作り始めて6年あまり、作った数は100あたりから数えていない。なかにはひどのもあった。風に強いブーメランが欲しくて5mmの塩ビ板を買ってきては2枚翼を作ってみたこともあった。ちょっと横投げするとそれは楕円軌道であったが強風の中でみごとに戻った。しかしそのブーメランは大会では使えなかった。なぜなら、その重さのため怖くてキャッチができなかったのだ。考えてみるとブーメランはおくの深いスポーツである。このスポーツを極めたい人はまずブーメランの形を考えることから始まる。どのような飛び方をさせたいのか、距離はどのぐらいにするのか、ホバーリングをさせたほうがよいのか、どのぐらいの風に対して耐えうるものにするか、飛行スピードはどのぐらい出るものにするかなど、いろいろ考えて形を決める。どんな材質で作るかも重要だ。航空ベニヤ、PP(ポリプロピレン)、ベークライト、ABS樹脂、塩化ビニール、ガラスエポキシあたりが代表的なところか。形と材質が決まったらその板にブーメランの形を描いてジグソーや電動糸鋸で切り出す。次に電動サンダーやヤスリで削る。この削りがブーメランの飛行の影響に大なので何度も試験飛行しながら調整してゆく。最後に色塗りをして仕上げる。飛行に影響してしまうこともあるので色を塗らない場合もある。こうして完成するブーメランであるがすべてが競技会で使えるわけではない。自分のイメージとわずかに違うブーメランは残念ながらお蔵入りとなってしまうか、誰かにあげてしまう。そして、今日も新しいブーメランを模索して悩み続けるのである。♪風の中のすーばる♪・・・
5月14日- バイクツーリング
このゴールデンウィークにバイクツーリングに行った。
バイクは、高校生のころから乗り回し、今までにMB50→VF400F7→VFR750F→NSR250Rと乗り継いで、現在はGPZ1000RXを愛用している。今回は職場の仲間の野村さんと桐原君との3人でのツーリングだ。目的地は福島県の白河。うまい白河ラーメンを食ってやろうと思い「白河ラーメン、いったいどーなんだツアー」と名づけた。巷で評判のとら食堂のラーメンが本命だったが、インターネットで白河ラーメンランキングではとら食堂は2位で、1位のラーメン屋(朝日屋)があることがわかり、緊急会議の結果、せっかく行くのだからどちらのラーメンも食ってやろうということになった。その朝、遅刻常習犯のK君は、やはり遅れてきて、罰として先に寄る朝日屋のラーメンを我々にご馳走するはめになった。バイクなら車より早く目的地に着くだろうとバイクを知らない人はそう思うかもしれないが、それは大きな間違いで、全身を使って乗るバイクは非常に疲れる(年のせい?)。そこで1時間に1回ぐらいは休息が必要になってくる。だから、長距離になればなるほどバイクよりは車のほうが速いのである。ということで、2時間半かけて朝日屋に着いた。この店はワンタンメンが売りのようで、客の8割ぐらいがワンタンメンを食している。私たちもワンタンメンを注文して食べてみた。めんは手打ちでシコシコ腰があってうまい。だが、スープとワンタンは期待はずれだ。これが白河で1番のラーメンか?ちょっとがっかりしたが、気を取り直して2時間ほど近くを観光をして時間をつぶし、PM1時半に目当てのとら食堂に着いた。店の前には20人ほど並んでいた。にわかに期待がたかまるなか40分も待ってテーブルに着くことができた。目玉であるワンタンチャーシューメンをいただく。ムムムムム・・・これはうまーい!麺は朝日屋のほうが腰があってうまかったがスープ、チャーシュー、ワンタンともにこちらのほうが上品な味でうまかった。よって、とら食堂の勝ち!と勝手に決めさせてもらった。食堂の駐車場には、それにしても県外ナンバーが多かった。以外にも大騒ぎしているのはよそ者で、地元の人はあまり来ないということか。そういえば、自分も地元の店にはあまり行かねーや、と思いつつバイクを走らせるのだった。
7月17日- テニス再開
この6月に久々にテニスを再開した。久々といっても妻が妊娠したのを機にきっかりやらなくなってしまっていたので9年ぶりである。その間、ブーメランと出会いテニスはとんど忘れていたのである。テニスというと「アハハハ、まりっぺいくぞー」、「やったねーケンイチ、ウフフフ」などというレリーフを想像してしまうひともいるかもしれないが、テニスはけっこうハードなスポーツである。何年も前にテレビコマーシャルで「テニスの一試合は1000回のダッシュだ!」などとやっていたのを覚えている。しかし、9年間のブランクは当然1ヶ月く゛らいでは埋まらない。サーブは入らないし、相手の打つドロップショットには追いつかないしでさんざんな始末である。頭の中では「おかしいなぁ、こんなはずでは」と思いつつプレーを続けるのだがどうもうまくゆかないのである。そのうち相手も私に対し明らかに手心を加え始め、容易に打ち返せるようなゆるいサーブを打ってきたりして、気にいらねーことをするのである。チクショウ、相手に何とか本気のショットを打たせたいものだとひとりよがり。・・・それで、そのときには、体力も20代に戻っているという寸法なのさワッハハハハハ!。と、いきたいところなのだが、妻は言う「年寄りの冷や水」と。そもそも私がテニスを始めたきっかけというか原因はスキーにある。当時、安月給の私は冬の間スキーでお金を使い果たし、オフシーズンには車のガソリンもままならず"こち亀"の両津勘吉のような生活をしていた。しかし、私の周りには中川も麗子もいなかったのだ。やがて、スキー仲間=テニス仲間となり、定時制高校のテニスコートに忍び込んでは"越前リョーマ"をめざして
? いたのて゛ある。その頃はそれなりにテニスに入れ込んでいて、しょっちゅう筋トレや朝錬もやったもんだ。ん
? それじゃ、いまのブーメラン生活と一緒じゃねーか!しばらくたって、私がブーメランスローヤーとして一回り大きくなったら(体じゃないよ)どうぞ一声かけてください・・・「まだまだだね」と。
7月28日- 怖ーいお話し
時期もちょうどよいので、ちょっと怖いお話しです。このお話しは私の実体験にもとづくものです。
それは中学生の時、ちょうど8月に入った頃であった。母が毎朝いやな夢を見ると言うのだ。その夢とは、たくさんの犬が母の体にまとわりついてくるらしい。毎日毎日、母が同じことを言うので私は「いい加減にしろよー」と、怒ってやった。そうしているうちにお盆になり家族みんなで近くにある墓地へお参りに行くことになった。やがて、お墓に着き煙を立てる前に墓の掃除をしていたとき、母がわけのわからないことを突然言い出したのです。「兄さん、それで夢を見させていたのか。いまどけてやるから待っててね。」なにを言っているのだろうと私は母の視線の先へ目をやると、そこは子どもの小さな墓石です。母には、幼い頃、海で亡くなった兄(私のおじさん)がいたのです。そのおじさんの墓石の裏側に、なんと少し腐乱していた犬の生首が置いてあったのです。一瞬、凍りつくぐらい背筋がゾ、ゾォーとしたのを覚えています。誰かがいたずらをしたのだと思いますが、私はそれ以降霊の存在を否定できなくなってしまいました。勿論、その犬の生首をかたづけてから母は例の夢を見なくなったそうです。
12月3日- ブーメラン教室は楽しい
一年を通して、毎年11月は、ブーメラン教室やイベントが重なり、一番忙しい時期である。私が担当したものだけでも2件、他のメンバーが対応したのもいくつかあって、毎週県内のどこかいでブーランのイベントが催される。これがけっこう楽しくて、子どもたちと一緒に一日遊んでしまう感じだ。子どもたちが紙ブーメランを作り色を染めるのだが、その色使いの斬新さに驚かされたりもする。また、ブーメランを飛ばすときの子どもたちの楽しくも真剣な表情や、よく飛ばないブーメランをチョイとチューニングをしてやって、ブーメランが戻ってきた時の驚きの様子はとてもかわいいものだ。そして、その影で、大人が思ったより興味を示して興奮しているのを私は見逃さない。もっと、素直な気持ちでブーメランにはまってくれればブーメラン人口も増えてゆくと思うのだが、なかなかそうはいかないようだ。そこで、もう一歩踏み込んで、「最後のとどめ」とばかりに、たくさんの人に囲まれてやるのがデモンストレーションなのだ。最初にファーストキャッチ、次にMTA、オージーラウンド、最後にトリックキャッチ、時間があればスーパーキャッチをやったりもする。いろいろな種目を披露していくたびに大きな歓声があがる。見ている人も、この感動がきっかけとなって、ブーメランにのめり込んでいって欲しいものだ。昔はデモをやるのがイヤだった。なぜって、大勢の観ている前で失敗は許せないし、失敗するとちょっと格好も悪いし。のどが渇いたり、ドキドキしたりで、結構プレッシャーがかかったものだ。でも、最近では、そんな感じもなくなって、冷静に周りがよく見えるようになって、逆に、歓声があがったほうが、ちょっと気分もよく、デモが楽しくなった。「俺の技を見せてやるぜ!」なんてチョーシに乗って思ったりもする。そーいえばこんな気持ち、過去にもあった。20年前、当時、合格率2〜3%の自動二輪の限定解除(大型試験)やスキー検定試験の受験の時もこんな気持ちだった。そういうときにはだいたい合格した。ということは、、自分のブーメランの腕も上がった、ということか
? ? 物事は、いいように捉えて、明日からも精進することにします。私たちの教室に出てくれたたくさんの子ども達、あと数年したら本物のブーメランやろうね。それから、後ろで見ていた大人の皆さんは、今すぐクラブのホームページに問い合わせください。私たちと一緒にスローしましょう。
12月11日- 茨城放送出演!
12月9日に茨城放送の「阿部重典の@(アットマーク)・阿部事典」という番組に出演した。普通では、私のようなものがラジオに出演することなどあるわけもなく、もちろん、ブーメランでの出演である。12月2日に関根さんからこの話しを頂き、事前に大まかな質問事項も示されていたのだが、MBCを代表してラジオに出演するわけだから、そそうがあってはいけないと思い、KBNや村田さんのHP、もちろんMBCのホームページからいろいろと資料を取り出し、ブーメランの起源や歴史・競技種目・ブーメランが戻る原理・日本代表の過去の成績などを改めて箇条書きにして、あらゆる質問にすばやく答えられるように準備した。そして、井戸の水で身を清め、お百度を踏み、昇る朝日に手を合わせて臨むこととなった。思い起こせば、中学の時、私は放送委員だった。お昼休みにラジオから収録した歌謡曲のベストテンを勝手に編集して「さて、今週の第一位は!」などと放送していたのだ。「ウオオオ・・・!放送委員の血が騒ぐぜい!」などと、ちょいとだけ思った。当日は仕事を4時に切り上げ、いざ茨城放送へ。受付で名前を告げると、すぐスタジオに案内された。安部重典アナや放送センターの高木さんと名詞交換。「ムムムム・・・おいらは、元放送委員だかんね。」というようなことは言えるはずもなく、放送開始15前。それから、高木さんからいろいろな説明をうけ、また、こちらからはブーメランの説明をしているうちに、いよいよスタジオの中へ。やがて放送が始まり、阿部アナのリードで、話しがどんどん進んでゆく。その途中でなんとかアドリブでクラブのPRやホームページの話しも入れたかったのだが、敵も去るもの、付け入る隙がない。「もっと、しゃべらしてーや!?」などという魂の叫びは届くわけもなく、10分間の放送はあっという間に終わってしまった。帰り際、その放送のテープをいただいて、局員に「またお願いしますね」の社交辞令を言われ、元放送委員の海老沢は放送局を後にするのであった。さぁー、これから、あちこちで放送を聞いた知り合いからどんどん携帯に電話がかかってくるぞ、と待ち構えていたが、いっこうに携帯は鳴らない。スターというのは案外、孤独なものなんだなぁ、と思い知らされるのであった。