日本の少年合唱

 第1章 日本の少年合唱の歴史

   本章では、明治以来の日本の少年合唱(児童合唱)の歴史について述べます。日本の学校は、戦前(戦中)と戦後では大きな違いがあり、戦前(戦中)では、小学校(国民学校)においても、男女別学が基本であり、『二十四の瞳』のような少人数の学級や人数の関係で男子組と女子組だけを作れない場合のみ、男女組を作っていました。また、唱歌の教材は斉唱・独唱することを基本としていました。従って、戦前に男子組が唱歌の時間に行っていたのは、少年合唱ではなく、少年斉唱でした。合唱教材があるのは、上級学校である中学校や高等女学校に限られていました。大正時代の終わりごろになると,学校の音楽補助教材として合唱のピース楽譜が売られるようになりましたが、主として女学校向けの女声合唱曲で、少なくとも少年合唱は意識していません。

1 日本の児童歌唱の歴史

 明治5(1872)年に学制が制定され、学校教育が始まった明治初期、教科として「唱歌」が制定されても、当初は教えるべき教材もなく指導者もいなかったと言ってもよいでしょう。次第に教材が整備されてきた明治中期になっても、歌唱法については、ごく一部の有識者をのぞいては皆無といってもよく、日本音楽独特の地声がほとんどであったと推察されます。日清・日露の戦争を背景にして、学校でも軍歌がよく歌われるようになると、大声で元気よく歌うことのみが強調されたとも考えられます。

 その後大正時代になって、「頭声発声」を唱える草川宣雄や「中声発声」を唱える福井直秋の指導法が一部の音楽教育者の間で注目を集めましたが、それは弱く歌えばよいというふうに見られるところもありました。
 昭和になると、昭和7(1932)年から「児童唱歌コンクール」(「NHK全国学校音楽コンクール」の前身)が始まり、美しさだけでなく声量的な面にも目が向けられるようになってきました。また、そのころ童謡歌手というのが登場し、レコード化されるようになったのも、日本の児童歌唱の特色といえましょう。ところが、これも、頭声を使わない地声歌唱でした。第2次世界大戦の開始に伴い、再び音楽は戦意高揚の手段と化し、大声で元気よく歌うに逆戻りしたともいえます。いや、ほとんどの小学校では、明治以後ほとんど変わっていなかったというのが現実かもしれません。そのころの少年の歌唱がどのようなものであったかは、篠田正浩監督の映画『少年時代』の中で歌われる歌を聴くとだいたいわかります。
映画『少年時代』より「ツーレロ節」    https://www.youtube.com/watch?v=NEmn8hLo0_Q

 戦後になって、昭和22(1947)年の学習指導要領では、「自然な発声を重んじ、のどを詰めないようにする」とか、斉唱中心から合唱を取り入れるようにという大きな変化が見られましたが、末端までは行き届きませんでした。昭和26年の学習指導要領の改訂では、頭声発声が強調されましたが、それを理解できる教師は少なかったと考えられます。この時期、文部省は仙台市立南材木町小学校を実験校に指定し、児童発声の研究を行いました。この研究は音楽教育関係者だけでなく医学者までが参画するという大がかりなもので、その成果は、以後の音楽教育に多大の影響を与えました。「頭声発声」が一躍注目を浴びるようになってきました。
 また、同時期、大阪の品川三郎は箕面小学校を中心に児童発声の研究を進めましたが、ここでも「頭声発声」が強調されました。これは、男子の発声を中心にしており、その研究成果は著書「児童発声」に詳しく述べられています。昭和33(1958)年、これらの研究成果を受けて文部省は子どもらしいのびのびした声,また,美しく柔らかい自然な発声を目指して,この用語を学習指導要領に採り入れました。
「高音の発声の要領を活用し,中音域,低音域(胸声区)の美しい発声を指導する。頭声が完成するまで音量が小さく、弱々しいという欠点があるので、共鳴を工夫することによって補う。硬口蓋と軟口蓋の中央部に焦点を作り、鼻腔の共鳴も加えた軟らかな発声」(昭和35年小学校指導書) しかし、その当時の小学校の教師でこれらのことを理解して指導していた者が、以前と比べてどれほど増えたでしょうか。まだ、音楽教育の盛んな地域や児童発声に関心のある一部教師に限られていたようです。いずれにせよ、頭声発声は「弱声発声~美しいが線が弱く、ひ弱な声」と誤解される面があったため、明るい響きのある共鳴を伴うということで「的」をつけて示されました。

 昭和30~50年頃はウィーン少年合唱団をはじめとする外来の少年(少女)合唱団の来日もあいまって、日本においても児童合唱が盛んとなり、NHKの全国学校音楽コンクールには3000校もの参加校があった時期もあります。また、 「みんなのうた」「歌のメリーゴーラウンド」「歌はともだち」といった児童合唱をメインにした番組が毎日あるいは毎週全国放送されることによって、児童合唱への関心は急速に高まっていきました。
 その後、外来のいろいろな少年(少女)合唱団の影響を受けながらも、発声法は「頭声的発声」という言葉に代表されるように少しずつ変化してきました。とりわけ、昭和50年代にポップス系の音楽が入ってくると、従来の発声法だけではこれに対応できなくなり、楽曲によってはその曲想にあった発声を取り入れることが望ましいとされるように変化してきています。頭声ばかりでなく胸声も使っていくことが子どもの歌唱表現を生き生きとさせることにつながるという面もあるため、平成元年に発行された小学校学習指導要領指導書には、
「発声指導については,頭声的発声を中心とするが,楽曲によっては,曲想に応じた発声の仕方を工夫するようにすること。」
と変化してきました。これは、平成10年の学習指導要領の改訂でいよいよはっきりしてきました。
   平成29(2017)年に告示された学習指導要領解説では、
「自然で無理のない,響きのある歌い方で歌うとは,児童一人一人の声の特徴を生かしつつも,力んで声帯を締め付けることなく,音楽的には曲想に合った自然な歌い方で,歌声を響かせて歌うことである。
 指導に当たっては,児童が歌い方を試す過程を大切にしながら,自分の歌声の持ち味を生かすとともに,曲想に合った歌い方を主体的に探っていけるようにすることが求められる。例えば,合唱の響きをより豊かにするために呼吸や声の響きに留意した歌い方を試したり,民謡を歌う際には,範唱の歌い方に近づけるように歌い方を試したりするなど,声の使い方や言葉の発音を意識しながら歌うように働きかけることが考えられる。
と、記述され、「頭声的発声」から「自然で無理のない声」の方向性がさらに明らかにされました。

   さて、小学校でも音楽については高学年を中心に専科教員が指導することが多くなり、極端な地声発声は減りましたが、合唱音楽そのものへの関心が全国的に低下し、児童の関心はマスコミに採り上げられるアイドルやアイドルグループが歌うJ-POPをはじめとする流行歌に移り、学校音楽が校門を出て歌われることが少なくなったことの方が大きな問題ではないでしょうか。

2 ウィーン少年合唱団が日本に与えた影響

   ウィーン少年合唱団といえば、世界を代表する少年合唱団として日本でも広く知られる存在ですが、彼らの初来日は、昭和30(1955)年でした。日本もまだ、いろいろなところに戦災の傷跡が残っていましたが、ウィーン少年合唱団は、当時は南回り(ウィーンから中東地域の上空を通過し、アジア各地を経由して日本に到着する)ルートで3日間もかけて日本まで来ていたそうです。1960年代ごろから、ヨーロッパ線の飛行ルートの主力はアンカレッジ経由でおなじみ「北回りルート」へと移り変わることになります。

 「ウィーン・ショック」という言葉は、ウィーン少年合唱団が、初来日公演したときの日本人の衝撃の大きさを示しています。このことは、いろいろな意味で、当時の音楽教育関係者に影響を与えました。それまでの児童発声は、男女を問わず、童謡歌唱に代表されるように、可愛らしさを強調した地声的なもので、そこに一種の不自然さを感じた人もいることでしょう。昭和26(1951)年の学習指導要領の改訂では、頭声発声が強調されましたが、当時それを理解できる教師は少なかったと考えられます。というよりも、学習指導要領を意識して指導した教師がどれほどいたかということも問われます。当時の小学校は、学級担任が全教科を指導していたことがほとんどであったことから、各教師の関心の高い教科以外の指導は、それなりのものでしかなかったと思われます。ウィーン少年合唱団の公演が各地で盛況であったのと同時に、当時の日本を代表する声楽家の木下保(1903-1982)や、耳鼻咽喉科学者で音声学者でもある颯田琴次(1886~1975)は、それぞれの立場から、ウィーン少年合唱団の歌声を研究しています。

 木下保は、『映画と演芸』(1956)に、東京・駿河台のホテルに宿泊中のウィーン少年合唱団の練習を聴いて、
「高度に訓練られた声の共鳴のさせ方に感銘を受け、日本では無理に大きく口を開く子供の声は扁平でうるおいのないものになってしまう。ウィーンの少年は一人一人に合った口の開き方を教えられている。」
と述べています。また、颯田琴次は、
「詳細に観察すると、この合唱団の大部分が小さいながら声帯の全幅全長運動で、胸声を出しているのは確かだが、一部の比較的年長者はすでに変声中であるせいか、部分振動による裏声を用いているのも直ちにわかる事実である。」と述べています。
写真家 山本善之助(ぜんのすけ1931~2001年)は、この年と、2度目の来日の1959年に、写真集「ウィーン少年合唱団」を出版しています。
https://www.youtube.com/watch?v=-ZCDG6SRMkA&t=113s

 その後、少年合唱団(隊)や、少年少女合唱団(隊)が日本の全国各地に雨後のたけのこのように生まれました。しかし、少年少女合唱団(隊)はともかく、少年合唱団(隊)は、必ずしも順調に発展しませんでした。その理由は、本コーナーの 2 日本の少年合唱団に記載しています。また、ウィーン少年合唱団の来日によって、変声前の少年の合唱が少年合唱団(隊)の在り方であるというイメージが広がり、ヨーロッパの多くの国の聖歌隊にみられるような変声後は男声として、混声合唱団に育成していくという発想は少なかったようです。従って、当時、団(隊)員は、その多くが小学3・4年生から6年生で、小学校卒業をもって卒団(隊)という組織づくりをしていたところが多かったのではないでしょうか。また、当時、小学生で変声期を迎える男子児童は、少なかったと言えます。

  ウィーン少年合唱団は、それ以後も3年ぐらいの周期で訪日していますが、ウィーン少年合唱団の初来日がむしろ音楽関係者に大きな影響を与え、それが児童発声の研究や少年(少女)合唱団の設立にもつながって、子どもたちにも影響を与えました。映画としては、昭和32(1957)年に『野ばら』が、昭和34(1959)年には、『ほがらかに鐘は鳴る』が公開されていますが、ウィーン少年合唱団の2回目の来日に合わせて創られた日本映画『いつか来た道』昭和34(1959)年制作・公開では、山梨県を舞台として、全盲の少年ヴァイオリニストとウィーン少年合唱団の交流を描いた作品も撮影・公開されています。しかし、映画として日本の子ども、特に女子児童・生徒に大きな影響を与えたのは、1962年に制作され、昭和38(1963)年7月20日の夏休みの開始に合わせて日本公開された『青きドナウ』でしょう。この映画の大ヒットは、翌年(昭和39 1964年)のウィーン少年合唱団の来日につながって、爆発的な人気を博しました。この年は、戦後復興の象徴ともなった東京オリンピックの年でもあったのですが、一般的に少年たちは、学年誌や少年雑誌で東京オリンピック関連の記事を読み、少女たちは、ウィーン少年合唱団のトランプやウィーン少年合唱団のノートが付録のついた少女雑誌(少女フレンド・マーガレット・なかよし等)を購入して読むことが多かったようです。

 この年に来日したブルックナーコア(カぺルマイスター〈合唱団の指導者〉の名前をとってフロシャウワー隊 現在では「○○コア」と呼ぶことが多くなってきましたが・・・) 特に、エーリッヒ・シャーリングとヴァルター・ピューリンガーは、歌の実力もさることながら美形だったため、アイドル的な人気が高かったようです。このようなアイドル的な扱いの可否は別として、この時のファンは、今70代ぐらいになっていますが、来日公演には、今でも客席を埋めているようです。その後、来日は、3年ごとから2年ごと、毎年と変わってきましたが、観客の中心は、家族連れから、老夫婦・若い女性連れ中心へと全体的に高齢化を感じることもあります。

  1960年代後半から70年代になると、夏休みの期間を中心に、世界の少年合唱団が次々と来日するようになり、公演先の地域の少年(少女)合唱団と、1.2曲合同演奏することもありました。それだけ、その当時、日本では、少年(少女)合唱の人気が高かったということができます。しかし、パリ木の十字架少年合唱団をはじめ、西ヨーロッパの教会に所属する聖歌隊のほとんどは、変声後は低音部を担当する混声合唱団であったのですが、どういうわけか、日本では、最初に来日したウィーン少年合唱団のような変声前の少年合唱団の影響が大きかったようです。来日したウィーン少年合唱団員で、後年声楽家になった人もいますが、一番有名なのは、1989年に来日したマックス・エマヌエル・ツェンチッチではないでしょうか。

 近年(コロナ前)は、ほぼ毎年のように来日するようになったため、3年に1度の頃と比べて、希少価値が低くなっていましたが、令和5(2023)年の来日は、4年ぶりでもあることから、新たな少年合唱ファンを生み、それが、日本における少年合唱の魅力の再発見につながることが期待されます。

3  日本の少年合唱団

 「ウィーン・ショック」という言葉が今でも語り伝えられているそうです。この言葉は、昭和30(1955)年に、ウィーン少年合唱団が、初来日公演したときの日本人の衝撃の大きさを示しています。このことは、いろいろな意味で、当時の音楽教育関係者に影響を与えました。
 第1は、児童発声に関するもので、それ以来、頭声、あるいは、頭声的発声の大切さが盛んに言われるようになりました。文部省発行の指導書にも「頭声的発声」という用語が使われるようになり、現在まで続いています。これは、子どもの喉に過度な負担をかけず、美しい声で歌わせるという意味で大きな意義があります。それまでの児童発声は、いわゆる童謡歌手のような地声的なものが主流でした。まして、発声に無関心な教師に指導された、ほとんどの教室から流れてきた歌声は、元気がよければよいというようなものでした。

 第2は、少年合唱団や、少年少女合唱団が全国各地に雨後のたけのこのように生まれたことです。ところが、後者はともかく少年合唱団の方は、いくつかの理由で順調に発展しませんでした。まず、キリスト教の基盤のない日本では、ヨーロッパと同じような聖歌隊としての少年合唱団の運営をすることは難しいということが挙げられます。次に、腕白時代とも言える年齢の少年に、厳格な歌唱訓練が好まれないことも挙げられましょう。また、頭声発声がまだ珍しかった時代だけでなく、未だに、ボーイ・ソプラノを女みたいな声だとしてからかうような風潮が日本には残っています。同年代の少年から認められることは、少年にとって重大なことです。多くの小学校でも、コーラス部に男子が集まりにくい理由の一つがそこにあります。さらには、変声期が早くなって、実質的に歌える期間が短くなったことも挙げられましょう。また、男の子はいわゆる「照れ」が強く、人前で歌うことを恥ずかしがる傾向もあります。そのようなこともあって、たくさん誕生した少年合唱団も、解散したり、少年少女合唱団に移行していくことが多かったのです。しかし、厳密にいうと、少年と少女の声は、高さは同じであっても質も違い、同じような訓練を施すのは、適切でないと言われています。

 この少年合唱団減少の問題については、桃太郎少年合唱団の棚田国雄団長(当時)が中心となって全国調査した研究(「日本の少年合唱団の現状と課題」(平成10(1998)年6月刊)が注目されます。そこでは、さらに、最近著しい少子化の問題、学習塾隆盛の問題、少年のスポーツ志向の問題、設立理念の問題、経済的問題、事務処理の問題など、諸要因が詳述されています。
 私は、それよりもテレビを中心とするマスコミがこの分野を全くといってもよいほど取り上げないことの影響が大きいと考えています。1960~70年代はNHKに『歌のメリーゴーラウンド』や『歌はともだち』といった番組があり、そこには少年(少女)合唱団が交替でレギュラー出場していました。番組を見た少年たちがあこがれてそれぞれの地域にある少年合唱団に入団するというケースが多かったのではないでしょうか。今ではそれは期待できない状態です。現在サッカーが盛んになってきたのは、Jリーグをはじめ、ワールドカップ等国際試合をテレビが盛んに放送することの影響が大きいのと同じです。
  そのような困難の中で比較的長く少年合唱団としての命を保っている団体としては、ビクター少年合唱隊(現在はTOKYO-FM少年合唱団)、フレーベル少年合唱団,、グロリア少年合唱団、広島少年合唱隊などが挙げられます。現在、東京少年合唱隊や、西六郷少年合唱団は、少年少女合唱団になって存続し、活躍しています。とりわけ、西六郷少年少女合唱団は平成11(1999)年に指導者の鎌田典三郎が逝去され、一時は解散がささやかれましたが、新・西六郷少年少女合唱団として再出発し、さらに元の名前に戻って活動するようになりました。

 また、令和5(20233)年時点で現存し、活動している少年合唱団は私の知る限り全国に8団体しかありません。その中でも、ボーイ・ソプラノを基本としているのは、フレーベル少年合唱団(最近変声後もユースクラスとしてOB会と共に混声合唱をしていますが)とTOKYO FM少年合唱団(小学1~6年で構成)の2団体です。あとの6団体は、変声後男声で歌わせるところ(グロリア少年合唱団・新潟少年合唱団・広島少年合唱隊・北九州少年合唱隊・呉少年合唱団〈明確には、令和5 2023年度から〉)と変声後はファルセットをもとにして同声合唱にしているところ(桃太郎少年合唱団)とに分かれます。創立当初は、小学生だけのボーイ・ソプラノ合唱団であっても、諸般の事情から中学生・高校生を入れるようになってきたというのが現状です。また、京都市少年合唱団は、「みやこ光」と名付けられた男子部がありますが、定期演奏会は混声で、終了演奏会は変声前のボーイ・ソプラノと、分けています。(コロナ禍の間は、組替えを行い、「みやこ光」として演奏していません。)立教小学校聖歌隊と、暁星小学校聖歌隊は、学校の特別活動の一環として行われていますが、ボーイ・ソプラノを基本としています。なお、ヨーロッパの聖歌隊は、伝統的に混声合唱が主流で、ウィーン少年合唱団のようなボーイ・ソプラノを基本としている団体は少数です。

・フレーベル少年合唱団(東京都文京区)

TOKYO FM少年合唱団(東京都千代田区
・新潟少年合唱団(新潟県新潟市)
グロリア少年合唱団(神奈川県鎌倉市)
桃太郎少年合唱団(岡山県岡山市)
広島少年合唱隊(広島県広島市)
呉少年合唱団(広島県呉市)
・北九州少年合唱隊(福岡県北九州市)

 また、少年少女合唱団でありながら、「少年の部」を独立させているところとしては、
・京都市少年合唱団 輝(ひかり)(京都府京都市)

 あとは学校の聖歌隊で
立教小学校聖歌隊(東京都豊島区英国国教会系のエピスコパリアンの学校)
・暁星小学校聖歌隊(東京都千代田区カトリック系のマリア会の学校)
があります。

 さらに、平成30(2018)年には、ソプラノ♪7(セヴン)ボーイズが誕生しましたが、これは、ミュージカル劇団あるいは児童劇団所属の少年を中心に(個人的に歌を習っていても、芸能事務所に所属しない歌の得意な少年もいます。)日本の後世に残すべき童謡・唱歌をミュージカル仕立てに演じる新しい理念のユニットです。

4 少年合唱をめぐる社会的背景

   日本における少年合唱団の成立
 日本の少年合唱を考えるときに、どうしてもこの問題に突き当たります。キリスト教という宗教的な背景の薄い日本においては、鎌倉カトリック雪ノ下教会と不可分の関係にあるグロリア少年合唱団のような少年合唱団はむしろ例外的少数派と言えます。上高田少年合唱団や西六郷少年(少女)合唱団のような学校のクラブ活動が発展したものや、桃太郎少年合唱団や広島少年合唱隊のような県や市の教育委員会が所管・後援する社会教育事業の一つとして設立されたものが多数派と言えましょう。その他にはビクター少年合唱隊やキング少年合唱団のようなレコード会社関係の少年合唱団もあります。前述しましたように、昭和30(1955)年のウィーン少年合唱団の来日をきっかけとして、児童発声が見直され、全国各地の音楽教育関係者やレコード会社等の情熱によって雨後のたけのこのように少年合唱団が設立されました。当時ウィーン少年合唱団のコンサートの人気はすさまじく、全国どこでも満員札止めであったといいます。また、その後、パリ木の十字架少年合唱団をはじめヨーロッパを中心とする少年(少女)合唱団が来日するたびに、マスコミもこれを積極的にバックアップしました。

   名プロデューサーの存在

  昭和36(1961)年に開始した「みんなのうた」昭和39(1964)年に開始した「歌のメリーゴーラウンド」といった少年(少女)合唱をメインにした番組が毎日あるいは毎週全国放送されることによって、全国の歌の好きな少年たちは各地にある少年(少女)合唱団に入団していきました。毎週交替出演する東京放送児童合唱団や西六郷少年(少女)合唱団などの在京の合唱団は、一躍子どもたちのアイドルとなりました。さて、優れた番組には必ず優れた監督や製作者がいます。これらの番組の場合、プロデューサーであったNHKの後藤田純生こそがその人です。後藤田純生こそは、日本の少年(少女)合唱隆盛の恩人と呼ぶべき人でしょう。後藤田純生の功績は他にもあります。それは、いわゆるジュニアソングといわれるジャンルの子どもの歌を切り拓いたことです。その多くは外国曲に日本語の歌詞をつけるものでしたが、それまでの日本の子どもの歌は、童謡・唱歌か、テレビ・ラジオ番組の主題歌しかなく、非常に新鮮に感じたものです。
 同時期には、大人の合唱グループもこの時期に多く誕生し、男声ではダークダックス、ボニ-ジャックス、デュークエイセス、女声ではスリーグレイセスなどが活躍し、これらの男声合唱グループは紅白歌合戦にも連続出場していました。また、歌声喫茶が全国各地に開店し、若者が集まってロシア民謡等を歌うという姿もみられました。

   高度成長を支えた価値観

 さて、このように少年合唱が盛んになった時期は、ちょうど日本が戦後の復興期から高度成長期に入った頃です。この時期は政治的には冷戦構造の中、安全保障問題に関して国内では大きな思想的対立もありました。経済的にはまだ厳しい状況が続きましたが、子育てについては、正義や努力という価値が尊ばれ、また、食べ物を大切にする躾や子どもにはきちんとした服装をさせたいという親の願いなどはコンセンサスの得られた時期と言えましょう。全員がそれぞれの役割を果たしながら同じ方向に向かって努力するという高度成長を支えた価値観は、各パートが協力して1つの曲を創り上げていくという合唱を支える価値観とも合致していました。公害等の矛盾をはらみながらも高度成長がピークに達した1970年代の調査では、日本の子どもの社会的規範意識は世界の最高水準にありました。また、この1970年という年は日本の思想史にとって分水嶺ともなる年です。安保反対を叫ぶ左翼運動が挫折し始め、また反対に憲法改正を唱える三島由紀夫の割腹事件という衝撃的な事件が起きましたが、それまで有形無形に日本の教育や子育てを支えてきた儒学的倫理観が崩れ始めてきました。経済至上の考えが広がり、そのような日本人の姿をエコノミック・アニマルとさげすむ声も聞こえるようになってきました。
 さて、昭和40年代頃、ヨーロッパから来日した少年合唱団の半ズボンにハイソックスという制服は、そのまま日本の少年合唱団の制服にも取り入れられ、たちまち主流となりました。同時に、こういう服装は当時最もかっこいいよそ行き着(男の子の晴れ着)でもあったのです。子どもにはきちんとした服装をさせたいという親の願いは、このような形で実現していきました。

     「失われた30年」の中で

 それから時は経ち、日本は経済大国といわれた時から、バブル期を経て「失われた30年」と呼ばれる混迷の中であえいでいました。失われたのは経済的な面だけではありません。価値観の多様化という美名の下、何でもありの風潮が広がり、「悪いことは悪い。」という教育や躾を怠ってきた結果、日本の子どもの社会的規範意識は平成10年ごろの調査では世界の最低ランクにまで落ち込んでしまいました。正義を疎み、努力をあざ笑い、すぐに手に入るものを求め、今楽しかったらよいという社会的風潮が子どもの精神を汚染するようになってきました。「人に迷惑をかけなければ何をやってもかまわない。」という意識と行動は、人に迷惑をかけていても、そのことにさえ全く気付いていないという道徳的退廃をもたらしました。それは、いじめや学級崩壊ともつながっています。規範意識の低い子どもが、規範意識の高い子どもをいじめの標的にしている姿もあります。少年合唱の全盛期であった1970年代初頭、日本の子どもの規範意識は世界最高レベルであったというのに。この問題こそ教育改革の最優先課題にすべきでありましょう。
 服装についても崩壊現象が見られます。きちんとしたものを嫌ってわざと膝を破ったり、ズボンをずらしてわざとパンツを見せるようなだらしない着こなしをする若者文化が子どもにまで降りてきました。ストリートファッションと称し、スケートボードやバスケットボールに起源をもつダボダボのシャツ出し、ハーフパンツという下品極まりない服装が子供服の定番になってしまいました。これは、当時の欧米で流行っていた「キッズファッション」の直輸入だとも言われていますが、だらしない着こなしをかっこいいと思うゆがんだ美意識さえ生まれました。これらは、経済的豊かさが生んだ貧困ではないかと思います。「シャツ出し、ハーフパンツ」は少年服の劣化の象徴であるとさえ思います。
 このような社会的風潮は、規律と気品を重んじ協力的態度をもつ少年を育てようとする少年合唱がめざしてきた世界とは根本的に相容れません。しかしながら、そのような社会の大きな流れの中で、少年合唱人口が減ってきたことは否めません。これらは、少年合唱人口減少の直接的な原因ではありませんが、間接的な原因になっていると考えられます。少年合唱を応援することは、ただ個人の音楽趣味にとどまらず、健全な少年文化を育成することにつながっています。

   時代に媚びない強さを
 こんな時代だからこそ、時代の風潮に媚びてはなりません。美しいものを美しいと感じ、実践する子どもを育てていかなければならないと考えます。近年NHKの『プロジェクトX』という番組が脚光を浴びていました。夜の9時台の番組としては異例の高視聴率をあげていました。これは、日本が戦後立ち直っていく頃、1つの目的のためにみんなが協力してそれを成し遂げるという姿を描いた番組です。混迷の今こそ、こういう価値の尊さを再認識する必要がありましょう。祖国日本再生のためにも。

 5 後藤田純生の業績

   後藤田純生(1928~2004)は、NHKの「みんなのうた」においてプロデューサー(二代目のディレクター)として、重要な役割を果たしました。この音楽番組は、日本の子どもたちに楽しい歌を届けるために放送されており、それまでのいわゆる幼児や小学校低学年の子どもを主たる対象とした「童謡」だけでなく、主として外国の原曲に日本語の歌詞をつけた作品を公開して、「ジュニアソング」と呼ばれる新しいジャンルを開拓しました。それは、当時日本各地で盛んとなった児童合唱団・少年合唱団によって歌われることによって、10代前半の子どもたちをターゲットとした作品が多かったと言えます、彼のおかげで、多くの素晴らしい歌が日本中に広まり、人々の心に残っています。また、「佐木敏」名義のペンネームで、「線路は続くよどこまでも」の作詞などもしています。
 また、後藤田は、NHKのさまざまな番組制作に携わっており、特に子ども向けや教育番組の制作で高い評価を受けています。彼のディレクションのもとで制作された番組は、その質の高さと創造性で知られています。例えば、アニメーションや音楽など、多様なメディア形式を融合させたクリエイティブな作品を生み出してきました。また、新しいアイディアやストーリーテリングの手法を取り入れることで、多くの視聴者を引き付けてきました。特に、彼の制作した番組は、教育現場でも広く活用されており、その教育的価値が認められています。後藤田の作品は国内外において高く評価されており、さまざまな国際的なメディアフェスティバルやコンテストで賞を受賞しています。これによって、彼の業績は日本国内だけでなく、国際的にも認知されています。
 最近では、令和3(2021)年には「みんなのうた」が60周年を迎え、新しいオープニングや記念ソングが制作されました。後藤田純生の研究としては、佐藤慶治のものが代表的です。

 6 NHK全国学校音楽コンクールの成果と課題

 NHK全国学校音楽コンクールの歴史の年表なら、当該ホームページの「Nコンの歩み」をお読みいただければ、回数、年度、概要、放送日、参加校数、テーマ、課題曲、が年表のような形で掲載されています。これを読めば、それだけでいつ、どのような曲が課題曲として採り上げられたとか、参加校数の推移、歴代受賞校などはわかります。
https://www.nhk.or.jp/ncon/archives/

 ここでは、NHK全国学校音楽コンクールの成果と課題について、述べていきたいと思います。ただし、これは、NHK全国学校音楽コンクールだけでなく、他の合唱やブラスバンド等のコンクールにも共通して言えることもあります。

(成果) あらゆる合唱コンクールは、児童・生徒の歌唱技術の向上に資するだけでなく、出場者の団結心を高め、大きなステージに立てるという緊張感を伴った喜びを参加者に与えます。出場することが明確な目標となることも、その目標に向かって努力することにつながります。また、出場する他の団体の演奏を聴くことも、いろいろな意味で学習になります。

(課題) 勝負を伴うことによる様々な喜びと悲しみは、参加する以上覚悟の上とはいえ、指導者の練習のやり方が合わない場合には、児童・生徒の反発を招きかねないことや、指導者が負けた場合の児童・生徒の失意を回復するためのノーハウを持っていること、自由曲の選択をある程度先取りする必要があるため、子どもが歌いたい歌よりも教師が歌わせたい歌を選曲すること、舞台に上がれる人数に制限のある場合、出場できない児童・生徒が出てくることなどが挙げられます。また、学校名はあえて挙げませんが、口の開け方まで厳しく統制している学校を見ると、不自然な「歌わされ感」を感じ、好きになりません。

 ただ、少子化とはいえ、特に小学校では参加校が長期的に漸減しており、特にコロナ以後は、激減しています。また、参加校数の地域にも大きな偏りがあります。また、地区大会・全国大会出演する小学校の男女比は、平均9:1で、全員女子の小学校もあり、男子率2割以上というところは、ほとんど見られないということも大きな課題といえます。 

7 「児童のための合唱組曲」

  合唱曲の中でも、「合唱組曲」というジャンルは、外国にその起源や前例があるのかどうかは私が調べた限り不明です。しかし、曲想の違う5つの曲が組み合わさってできている「ミサ曲」のような合唱曲はありますし、合唱曲ではありませんが、独唱曲には、シューベルトの「美しき水車小屋の娘」や「冬の旅」、シューマンの「詩人の恋」のような歌曲集がありますが、これらは、いろいろな曲想の曲が作曲者の意図のもとにつながっており、順序を逆やバラバラに演奏することは、通常ありえないことです。

 日本において、「合唱組曲」は、第二次世界大戦後の合唱ブームの中で、急速に発祥・発展してきたという歴史的な経緯があり、日本にその作品が多いというのは事実です。堀口大學作詞 清水脩作曲の男声合唱組曲「月光とピエロ」(昭和24 1949年)によってこの形態が普及したというのが定説です。組曲の最も厳密な定義は「作曲者が組曲と名付けたもの」という説さえあります。合唱組曲は、無伴奏、もしくはピアノ伴奏によるものが大多数であり、「くるみ割り人形」「ペール・ギュント」「惑星」「動物の謝肉祭」のような主としてオーケストラのような器楽による演奏形態の組曲と同じく、個々の曲を単独で演奏することも多く見られます。ところで、合唱組曲は、いわゆる「合唱ファン」には親しまれながらも、それ以外の人にはあまり親しまれていないという傾向があります。特に、日本において、少年合唱ファンの多くは、海外の少年合唱団(聖歌隊)のファンですから、海外の少年合唱団(聖歌隊)は、来日するときに、プログラムに日本の歌曲や童謡や民謡等を入れて、それを披露することはありますが、合唱組曲をレパートリーとしていないこともあって、関心があまり高くないと言えます。

 児童のための合唱組曲が登場し始めたのは、日本で児童合唱団が誕生した後のことですので、戦後最も早く昭和26(1951)年に誕生した東京少年合唱隊の年表を見ると、昭和42(1967)年の第16回定期演奏会に、合唱組曲「心の花園」(小林純一作詞 中田喜直作曲)が最初で、昭和30(1955)年に誕生した西六郷少年合唱団は、昭和33(1958)年より合同発表会(のちに定期演奏会)を開いていますが、昭和37(1962)には、鎌田典三郎編曲の「四季の歌めぐり」を発表し、それ以来、合唱組曲的な作品を採り入れることも多く、昭和44(1969)年には、蓬莱泰三作詞 南安雄作曲の「チコタン ぼくのおよめさん」を発表し、それ以後も、「緑のキップ」「ハーモニーの輪」「西部の歌」「遠足」「ダボハゼの歌」「富士山」等、合唱組曲に積極的に取り組んでいます。少年合唱団としては、ビクター少年合唱隊が、昭和43(1968)年に子どもの詩に湯山昭が作曲した合唱組曲「小さな目」をLP「世界も歌を歌ってる」にレコーディングするなど、合唱組曲は、1960年代後半になって採り入れられることが多くなってきました。なお、児童のために作られた合唱組曲でも、「ダボハゼの歌」の中の「僕らの町は川っぷち」のように、後からこの合唱組曲の第1曲として加えられた曲もありますが、この歌は、NHK『みんなのうた』でも先(昭和39 1964年)に採り上げられたこともあって、合唱組曲に加えられても、この1曲だけが飛び抜けて有名で単独でよく演奏され、親しまれていますが、それ以外の曲はほとんど演奏されないというケースもあります。

 その後、日本の少年合唱団の委嘱作品として作詞・作曲された合唱組曲を列挙してみますと、広島少年合唱隊は、早くよりこの合唱組曲に取り組み始め、委嘱作品の演奏を始めました。その最初の作品は、昭和40(1965)年11月第6回定期演奏会で初演した組曲「ひろしま」(作詞/持田勝穂・作曲/森脇憲三 Ⅰ 清純 Ⅱ 希望 Ⅲ 平和)が挙げられます。この合唱組曲は、翌年レコーディングされています。また、創立20周年の昭和54(1979)年には、組曲「三つの広島の民謡」と「三つのこどもの歌」を初演し、これらの作品は、後年(昭和54(1979)年11月3日)にレコーディング化されています。続いて、広島少年合唱隊の合唱組曲「春のしらせ」(まず、昭和54(1979)年の20周年委嘱作品の「三つの子どものうた」(「春のしらせ」以外の3曲)として書かれ、翌 昭和55(1980)年に、作詞者の意向で「春のしらせ」が加わり現在の形になりました。)、TOKYO FM 少年合唱団の合唱組曲「ぼくだけの歌」(平成7 1995年)、フレーベル少年合唱団の合唱組曲「新世紀・地球の情景~子どもたちのための5つのオマージュ~」(平成12 2000年)、桃太郎少年合唱団の混声合唱の合唱組曲「あしたの灯」(平成14 2002年)、暁星小学校聖歌隊の合唱組曲「うたをうたうとき」(平成16 2004年)、京都市少年合唱団の組曲「もうひとつの京都」(平成28 2016年)、児童合唱とピアノのための組曲「銀河鉄道の夜」(平成29 2017年)、フレーベル少年合唱団の合唱組曲「ドラゴンソング」(令和4 2022年)等がありますが、合唱組曲「ぼくだけの歌」は、その後、広島少年合唱隊によっても歌われています。なお、広島少年合唱隊によって創唱された少年のための5つのソング「君がいるから」(平成11 1999年)は、名前の通り、合唱曲集ではありますが、合唱組曲ではありません。

 なお、委嘱作品ではありませんが、TOKYO FM 少年合唱団が、「こころのてんきよほう」、広島少年合唱団が「あしたのうた」、桃太郎少年合唱団が「空にかいた12の童話」、呉少年合唱団が「あめつちのうた」を、採り上げたりするなど、合唱組曲に取り組む少年合唱団もありますが、その創立の理念と団員の実態から合唱組曲というジャンルに取り組まなかった少年合唱団もあります。これは、どちらがよいと言うものではありません。
 さらに、合唱組曲は、多様な曲が組み合わさって一連のドラマやある地域の自然や人の営みの多様な姿を描いているために、ドラマ性をもった「チコタン ぼくのおよめさん」や、ある地域の四季や特色ある自然とそこに生きる人の営みを歌った風土記ともいえる「駿河のうた」「富士山」「佐渡の四季」「城下町の子ども」、地域に根差した郷土玩具を歌った「東北のおもちゃうた」のようなものがあります。一方、人間・歴史・愛・平和といった大きなテーマを採り上げた「わたしが呼吸するとき」や思春期の子どもの揺れる気持ち心を歌った「リフレイン」などのような新傾向の作品も登場しています。「不易と流行」という言葉がありますが、時代と共に合唱組曲も変わっているということができます。

 なお、合唱組曲が好きかどうか、ある合唱組曲の中の1曲が好きであるということは、あくまでも個人の好みの問題でありますが、「合唱組曲」がどのような音楽であるかを知った上で鑑賞することは、鑑賞を深める上で役立つのではないかと思います。


8 日本の少年合唱復興のために
      カラオケの発達と合唱の衰退
   最近、カラオケの発達と合唱(少年合唱に限らず)の衰退・高齢化は、密接な関係があるのではないかと考えるようになってきました。それは、少年合唱団の衰退並びに観客の高齢化とも関連しています。日本において、合唱が盛んだった戦後から1960年代にかけて、少年少女や若者がみんなで歌って楽しむためには、通学している学校や地域の合唱部(団)に入るか、思想的に偏りはあっても、歌声喫茶に通うのが一番身近な方法でした。ところが、1970年代以降カラオケが発達して、自分が好きな歌を一人で歌い、あるいは気の合った数人の仲間とカラオケに行くことでそれは満たされるようになってきました。このような社会的変化が合唱という文化の衰退にも大きな影響をもたらすようになったのではないかと考えています。合唱の楽しさをよく知っている現在「高齢者」と呼ばれるようになってきた世代が、親世代になった頃は、自分の子どもにその楽しさを伝えるために、自分の子どもが地域の児童(少年)合唱団に入ることを勧めてきました。ところが、核家族化の進行で、三世代同居が少なくなり、孫の教育にまで口出ししにくくなってきた祖父母が孫に地域の児童(少年)合唱団に入ることを勧めることは、次第に「越権行為」のようになってきました。テレビを中心としたマスコミも、視聴率を稼げないそのような児童合唱番組を放映しなくなりました。少年合唱の衰退は、喜ばしくないのですが、そのような社会学的な見地からも考察する必要がありそうです。一方、楽器も手に入れやすくなったことで、各種軽音楽のバンドを組む若者も増えてきました。
 また、テレビの音楽番組で合唱(コーラスグループ)を観る機会も少なくなってきました。合唱が盛んだった時期には、男声合唱団では、大学のグリークラブ出身のダーク・ダックスやボニー・ジャックス、ジャズ系も加わっていたデューク・エイセスが大活躍していました。また、女声合唱団でもスリー・グレイセスがあり、これらの団体は、紅白歌合戦にも出演するほどの人気がありました。これらのグループも、主たるメンバーが80代となり、ボニー・ジャックスのように亡くなったメンバーの代わりに新たなメンバーを入れて活動しているところもありますが、デューク・エイセスのように解散したところもあります。ダーク・ダックスは、4名のメンバーが令和5(2023)年すべて亡くなられました。現在では、FORESTA(フォレスタ)のような混声合唱団(男声だけで活動することもあり)や、ザ・レジェンド(THE LEGEND) のような男声合唱団があり、このような団体は、大学で本格的に声楽を学んだメンバーによるグループなのですが、コンサート活動はしていますが、マスコミへの登場は、BS番組など限られています。

      合唱コンクールから見た日本の児童合唱
 
それでは日本の合唱、とりわけ児童合唱のレベルは、どのようでしょうか。はっきり言って、現在の日本の児童合唱のレベルは決して低いわけではありません。むしろ、一部の学校の合唱部は非常に高い水準にあります。それは、毎年10月に行われているNHK全国学校音楽コンクールの全国代表校の演奏を視聴してみればわかることです。しかし、全国の出場校数を見ても、少子化の影響だけでなく、多くの地域において児童(特に男子)が合唱に興味を示すことが少なく、いわゆる児童の合唱人口そのものが次第に減っていることを感じます。また、コンクールの出場校は、地域差はあるものの、最近では日本全体からすれば、わずか5%未満の小学校です。また、指導力のある音楽専科の先生がある一つの小学校にいる間は出場しても、その先生が転勤したり退職したりすれば、その学校名を全く聞かなくなることはよくあることです。
 
さて、私立の小学校には生涯をその一校に捧げるケースもあるかもしれません。暁星小学校の蓮沼勇一先生は、40年間にわたって同校に勤務され、暁星小学校聖歌隊を育て上げられました。しかし、公立小学校において、大田区立西六郷小学校の鎌田典三郎先生のように、一校に勤め続けることは、現代においては、まずありえないことです。また、NHK全国学校音楽コンクールの近畿地区代表を見ると、よく出場する神戸市立○○小学校という学校名は変わっても、指導者は、常に室屋尚子先生であることを知ったとき、合唱の優秀校は指導者によって決まるのではないかと思えます。最近、小学校の部においては、東京都日野市立七生緑小学校が中止となった令和2(2020)年度を除き、現在8回連続金賞を受賞していますが、これは、同校の後藤朋子先生が非常に高い意識と指導力をもって指導されているからであって、異動された後同じ水準を保つことは難しかったようです。結局、指導力のある先生の異動と共に、その学校の合唱部は盛衰するのが現状です。七生緑小学校の前は、目黒区立大岡山小学校が5年連続金賞でしたが、その指導者は、丸山久代先生でした。当時の大岡山小学校は、男子率が2割以上と高く、響きも金属的な輝きがありすばらしかったです。丸山先生はその後、目黒区立油面小学校、今は港区立白金小学校で全国大会に出場しましたが、2年連続惜しくも銀賞でした。一方、極端な例ですが、学級経営がうまく機能しないような学級では、日々の音楽授業さえ成り立ちにくいところもあるというのが実態です。このような学級においては、他の教科・領域においても同じです。
 
なお、今後、教員の働き方改革が進めば、朝練習や放課後練習や長期休業中の練習も削られていく方向に進むことでしょう。

   「合唱衰退」の原因を探る
  
合唱、とりわけ少年合唱の魅力については、これまでにいろいろな角度から書き続けてきました。しかし、この節ではあえて、日本において合唱という文化が衰退してきた原因とその対応について述べていきたいと思います。私のかつての職場の同僚で、定年退職後の現在も合唱を続けている人もいますが、合唱文化がが衰退していることや、合唱人口が高齢化していることを憂いていました。そこで、その原因を探るため、「合唱 衰退」というキーワードで、インターネットを検索すると、いろいろな意見が書かれており、その中には共通しているものや、なるほどその通りだと思う意見も多くあります。それらをまとめてみると次のようになります。
① 音楽を表現する媒体として、合唱以外のものが増えたこと(バンドがやりやすくなった。簡単にカラオケに行ける。一緒に音楽をやるよりも、一人で出て目立ったほうが嬉しいという子どもが多いのではないか。)
② 合唱は、指揮者が立つ位置だと、そのグルーブの響きや成長がダイレクトに伝わるが、歌っている本人には、そのバランスもニュアンスもわかりにくいし、少しぐらいサボっていても、全力で頑張っても、個人で評価してもらえることはめったにない。
③ 合唱として周囲と声を合わせたり、良い声を獲得するまでには時間がかかるうえに、その成長を自分で実感しにくい。
④ 合唱は、それが好きな一部の人だけのものと思われていて、それ以外の一般の人たちにはハードルが高い。(この背景には、クラシック音楽そのものが、日本において絶滅危惧種化していることがある。)
⑤ 外国語の曲はもちろん、日本語の合唱曲であっても、日本語が聞き取れないことがよくあり、何を歌っているのかわからない。
 これらの意見は、主として高校生・大学生のクラブや大人の合唱団について述べられていますが、児童合唱、少年合唱についても当てはまることもあるでしょう。日本においては、伝統的に教会による聖歌隊の文化がありません。児童合唱団は、生涯教育の一環として放課後あるい休日の有効活用や、いわゆる“ ならいごと”の一つとして行われているケースがほとんどです。また、日本の児童合唱団の場合、名前は少年少女合唱団であっても、男子率は1割が平均的な数値で、2割以上いるところはむしろ少数派です。それどころか、男子ゼロのところもあるのが実態です。かつて男子がいたことのある少年少女合唱団でも、いったん男子ゼロになると、男子が一人だけでは入団しにくい雰囲気も出てくるでしょう。ところで、少年合唱団の場合は、どうでしょうか。ウィーン少年合唱団の来日を契機に昭和35~45(1960~1970)年前後に誕生した少年合唱団は、選抜試験をしなければならないほど入団希望者が多かったところもあったそうですが、男子は変声期を迎えると卒団・退団するため、在団期間が短いことや、一過性の「少年合唱ブーム」が去った後は、解散したり、少女を入れて、少年少女合唱団になったところが多くあります。従って、昭和の終わり頃以後に誕生した少年合唱団は、そのほとんどが、人数的には誕生以来苦しいことの連続であったことでしょう。また、日本において、ウィーン少年合唱団が青少年にクラシック音楽への門戸を開いたのは、約半世紀前あるいはそれ以前のことで、最近では、そのコンサートの観客の高齢化が気になるところです。
 これは、小学生の好きな教科・嫌いな教科の研究から類推することができます。古くは、神戸大学の富本佳郎(1970)の「興味態度における性差」(津留宏編 性差心理学)において、音楽科の好き嫌いに男女差(女子の方が好意度が高い)があることが述べられていますが、大阪大学人間科学部の柏原惠龍が、昭和60(1985)に調査した「小学生の各教科への好意度とその性差」では、大阪市近郊都市部における公立小学校6校から、各々2年から6年までの各1学級(約200人台前半)を対象に教科の好き嫌い調査したところ、もっとも顕著な性差がみられたのは音楽であり、2年生から6年生まで一貫して女子の好意度が男子の好意度に比べて高い傾向が見られました。柏原は、この男女差の拡大の原因として、本調査の対象児が地域的にみて近郊都市部の児童であったこと、この10年間の経済文化的な水準の上昇等によって音楽的環境が豊かになったことなどを考察しています。しかし、これも女子に特異的に働いていること、男子と比べて女子の優位な傾向は2年生から他の学年と同じ水準でみられていることから、音楽に対する好意度の男女差の起源は就学前にさかのぼるものと考えられます。楽器等音楽に関する“ ならいごと”の機会は幼児期から女子に多く,音楽への関心は女子の方が高まりやすい文化的な背景がありますが、それを受け入れやすい行動的,感覚的特性の分析も必要ではないかと思われる。と述べています。最近では、学研が令和元(2019)年8月に全国の小学1~6年生の各学年で男子100人と女子100人の計200人、6学年の総合計1200人に好きな教科を尋ねたところ、学年差はあるもの平均すれば男子2.7%(0%~5.0%)女子14.0%(9.0%~19.0%)、嫌いな教科では男子3.5%(0%~7.0%)女子1.3%(0%~2.0%)と大きな性差が見られます。この調査は毎年行われていますが、この傾向は、継続的に見られます。この小学校における教科における好き嫌いの性差が、児童合唱団・少年合唱団の男女比の大きな差にも反映していると考えられます。

      
日本の少年合唱復興のために今すぐ取り組めること
 それならば、現代において、日本の少年合唱の復興をさせるために試みるべきことは何でしょうか。それは、団(隊)員(以後「団員」と表記)獲得と観客獲得の両面から考える必要があります。先ず、団員確保のためは、その団の練習会場に通うことができる地域の子どもを集める必要がありますので、指導者がその地域の小学校の教員とよい人間関係をつくることや、団員の保護者の人間関係による口コミの力が大きいと考えられます。かつてある少年合唱団員になるために新幹線に乗って練習会場に通う団員もいましたが、それは結局長続きしませんでした。また、団員獲得と観客獲得には、重なりもあって、企業においてマーケット・リサーチをするのと同様に、主として、小・中学生が歌いたい曲、あるいは視聴したい歌は何かを探るところから始めるべきではないでしょうか。よくコンサート会場でもプログラムの中にアンケート用紙と簡易鉛筆を入れて、アンケートをとっていますが、回答する時間も特に設けられているわけではないので、回答する人は観客のうち限られた少数者でありましょう。演奏終了後、
「これは、団員の励みにもなり、次回のコンサートをよりよいものにするためのヒントにもなりますので、どうぞ、アンケートにご協力ください。」
というアナウンスぐらいあってもよいと思います。また、質問項目は、その日の演奏の感想を問うだけでなく、その合唱団に「歌ってほしい曲」を問う必要もありそうです。それを通して、観客のニーズを吸収することが大切です。また、団員にも、参考的に「歌いたい歌」を尋ねる必要もあるかもしれません。(たとえ尋ねても、今流行している歌しか出てこない可能性もありますが)また、指導者は、常にボーイ・ソプラノの声質を生かす曲を探すことはもちろんですが、少なくとも、音楽のレベルが高いからという理由で、観客はもちろん、団員にとっても耳慣れない難解な音楽を実験的に演奏させることや、指導者の好みだけによってプログラムの選曲をしたのでは、団員には、歌わされ感だけが残り、いわゆる関係者以外の幅広い観客を獲得できないと思います。(ただし、グロリア少年合唱団のように創立以来長年にわたって宗教音楽をメインにして積み上げてきた合唱団においては、固定した観客もそれを期待していますから、それは必ず残すべきだと思います。)また、演奏時間が長く、声の重なりのために何を歌っているのかよくわからない合唱組曲のように、一部の合唱ファンにしか評価されない曲を演奏することは、観客を飽きさせる一因になっています。児童合唱の場合、演奏時間が20分程度の合唱組曲が適切な長さで、30分を超えるような曲は、抜粋のほうがよいかもしれません。(なお、合唱組曲の中の有名な最終曲「ぼくらの町は川っぷち」や「一千億の夢」や「ひろい世界へ」を単独で歌うことには賛成します。)むしろ、プログラムに観客にも耳慣れた誰もが知っている曲(愛唱歌)、あるいは初めて聴いても親しめる曲、言い換えれば「予習のいらない曲」の比率を高め、それらを清純な響きで美しく、あるいは楽しそうに歌うことで少年合唱の魅力を再認識させることこそが基本だと思います。一例を挙げれば、昨年の紅白歌合戦で創唱者の竹内まりあによって歌われ、再ヒットした「いのちの歌」のような歌も、少年の清純な声によって歌われることによって、音楽の素養があるなしにかかわらず、あらゆる世代の人に共感的に受け止められるのではないでしょうか。そのような意味で選曲は大きな要素です。以前、ある少年合唱団のコンサートレポートに書いたことを再度繰り返します。私は、少年合唱団だからこそできる愛唱歌のステージがほしいのです。例えば、「赤いやねの家」「小さな木の実」「グリーングリーン」「遥かな友に」「海のマーチ」「わんぱくマーチ」「ストドラ・パンパ」「北風小僧の寒太郎」といわゆる少年が主人公の歌ばかりを並べて1ステージやってみたらどうでしょう。前半の4曲は抒情的な歌、後半の4曲は活力のある歌です。そこには少年らしい清冽さと元気さが共存するのではないでしょうか。
  日本には、現在活動している少年合唱団は8団体(学校の聖歌隊は、学校の教育活動の一環としておこなっているので、あえて少年合唱団としては数えない)しかないので、その地域に住んでいない人にとっては、なかなか鑑賞する機会もないというのが実態です。たとえ一部であっても定期演奏会等のYouTube公開という広報活動は、その地域だけでなく、広く日本中あるいは世界にも知らせ、次回の観客につなげるという意味では、意義のあることです。さらに、ピアノの位置については、練習においては真ん中において団員がそれを囲む方が、音を採りやすいでしょうが、コンサートでは、団員をメインにして、観客目線に立って鑑賞できるようにし、ピアノはステージ下手に置くべきです。
 さらに、2パート以上に分かれてハーモニーをつくることが「合唱団」の基礎・基本ではありますが、ソリストを育てることや、ステージにある程度の動きを入れることも必要です。日本の少年合唱団において、ソリストの育成に真剣に取り組んだのは、かつてのビクター少年合唱隊のように極めて少数です。ソリストを育てることは、頂点を高くすることで裾野を広げることにもつながりますし、むしろ、数人のソリストだけのステージがあってもよいと思います。とりわけ、ソロ曲では、歌詞を明確に歌うことが求められます。また、いつもステージの同じ位置に同じ団員が立っていて、直立不動で歌っているのでは、何よりも観る側が飽きてくるでしょう。いくつかのステージによって構成される90~120分の定期演奏会と、限られた数分~10分程度の間で課題曲と自由曲を歌う各種の合唱コンクールに出演するのでは違います。動きについては、もともと、エンターテインメントの本場であるアメリカの少年合唱団のコンサートにはそのような要素がありましたが、ウィーン少年合唱団はじめ、海外に演奏旅行するような海外の少年合唱団も、最近では時代の変化を読んで、エンターテインメントの要素を取り入れたステージを展開するようになってきています。なお、聖歌隊の場合は、本来宗教曲を歌うための団体なのですし、観客もその意識をもって来場しますから、歌に変化をもたせる工夫は必要でしょうが、特に動きを入れる必要はないでしょう。
 日本においてもミュージカルに取り組んだ団体はもとより、動きを大事にしてきた団体はありますが、さらに、ダイナミックにその先取りをしたのが、かつては、ビッグ・マンモスであり、現代ではソプラノ♪7ボーイズでありましょう。さらに、歌う時の表情は、基本的には「楽しそうに」歌うことが大切です。せめて愛唱歌は、楽譜を持たないで歌ってほしいものです。楽譜を見ると視線が下がり、無表情あるいはつまらなそうな表情になり、声が前に出ません。もちろん、人の死を悼む「レクイエム」を楽しそうに歌ってはいけませんが。
   以上のように、日本の少年合唱の復興をさせるため、その方法も含めたことをあえて提言いたします。

 9 児童合唱を主とした番組が果たした役割

   
『みんなのうた』誕生の社会的背景
  『みんなのうた』はNHKがテレビとラジオで昭和36(1961)年4月3日に放送開始放送している5分間の長寿音楽番組です。まず、この番組誕生の背景からお話ししましょう。この番組が誕生する昭和30年代は、高度経済成長期でテレビが普及し、流行歌が次々に誕生し、「歌謡曲の黄金時代」といわれています。ところが、それは、当然のことながら子どもにも影響を与え、子どものために作られた「童謡・唱歌」よりも、ラジオやテレビより流れてくる流行歌に関心を持ち歌う子どもが増えてきました。当時のNHKのプロデューサーであった関山幹人は、「子どもたちが口にするのは、美しく健康的な歌詞とメロディーのうたであってほしいという思いから、『みんなのうた』は誕生しました」と、語っています。基本的に5分の放送枠で2分強の曲(オリジナル曲、または『みんなのうた』用に編集された既存の曲)を2曲放送するというパターンでしたが、「おお牧場はみどり」「歌声ひびけば」といった曲は、2か月にわたって児童合唱団の二部や三部の合唱、オーケストラの伴奏で、毎日流れてきました。これらの曲の多くは小学校高学年や中学生を対象とする歌が中心で、その特徴は、①独唱よりも児童合唱が多いこと。②外国の民謡のような歌が多いこと。③いわゆる「名曲」ではなく、キャンプソングのような、野外で歩きながら、あるいは集って歌うと似合うような歌がその特徴でした。
  ちょうどその時代は、日本の児童合唱団が、生まれ育ち始めた頃とも一致します。それまでにも童謡歌手と一緒に、童謡を斉唱する合唱団(斉唱団)はありましたが、この時期に誕生した合唱団は、何よりも、それまでの童謡とは発声も違うし、合唱が主体です。オブリガートの入った歌(「山こそわが家」「歌声ひびけば」「ゆかいに歩けば」)など、当時の子どもはもちろん大人もおそらくそのような歌を初めて聴いたのではないでしょうか。また、曜日ごとの変わる曲は、子ども向きの歌を、少年(児童)合唱団だけでなく、大人の歌手やコーラスグループが歌うことが多かったですが、当時としては珍しいアニメの背景とあいまって、子どもの人気を集めました。学校でも、ここで放映された番組は、校内放送で流されたり、学校行事や、学級の愛唱歌として歌われてきました。
  なお、『みんなのうた』は、半世紀を超える長寿番組であるため、10年ごとぐらいに、特集番組が組まれることがありますが、ゲストの人が心に残る曲は、ことごとくといってよいほど、自分が子どもであった時の曲です。ところが、次第にこの番組もターゲットとする年齢層を高めたため、必ずしも、同じ年齢層をターゲットとした子ども番組とは言えなくなってきました。

      
『歌のメリーゴーラウンド』から『歌はともだち』へ   
 「みんなのうた」の第1曲目のメイン曲は、風景をバックにして歌われていましたので、歌を歌う児童(少年)合唱団の姿を見ることはできませんでしたが、それを前面に立てた番組が、『歌のメリーゴーラウンド』や、その後継番組と位置付けられる『歌はともだち』です。『歌のメリーゴーラウンド』は、昭和39(1964)年4月11日 - 昭和43(1968)年3月29日にNHK総合で放送されたこども向けの音楽ショー的な要素をもった音楽番組で、司会は、宍倉正信(東京マイスタージンガーメンバー)、鈴木弘子、伊藤アイコ(のような大人でありながら、歌は、東京放送児童合唱団、西六郷少年合唱団、ビクター少年合唱隊、杉並児童合唱団等在京の有力児童合唱団が交代で出演していました。児童合唱団員の子どもたちだけで番組のすべて進めることは難しいので、それをリードあるいは補佐する形で、司会・進行を含め、大人の男声合唱団の東京マイスタージンガーが登場していました。この番組では、これまで、『みんなのうた』では、見ることのできなかった児童合唱団の歌う姿を見ることができました。また、時には、東京を中心としながらも、それ以外の地域の少年(児童)合唱団がゲスト出演することもありました。この番組への出演を通して、児童合唱団が質的に高まったことは確実です。どうしても、子どもの目で見ると、同年代の児童合唱団の歌に目が向きがちでしたが、時が経って、東京マイスタージンガーのメンバーが、若手の男声声楽家で、その後日本の声楽界をリードするような活躍したことを知ると、この番組の中で重要な役割を果たしていたことがわかります。また、歌を聴かせるだけでなく、会場の観客を巻き込んでゲームソングを採り入れて、視聴者参加番組にしていたことも、当時としては画期的なことでありました。
 『歌はともだち』は、その後継番組として、昭和43(1968)年4月5日 - 昭和58(1978)年3月26日の間、牟田悌三、晴乃チック・タック、ボニー・ジャックス、芹洋子、斉藤浩子、 今陽子、南安雄(指揮兼任)、ペギー葉山、南安雄(指揮兼任)、 ペギー葉山(単独司会)、 田中星児(単独司会)というふうに、大人の司会者を変えながらも、児童(少年)合唱団が登場する番組でした。ゲストとして、大人の声楽家が登場し、児童と一緒に歌うこともよくありました。また、『みんなのうた』で人気のある歌がよく歌われていました。そのような意味で、歌う児童(少年)合唱団の姿を全国に放映することで、各地の児童(少年)合唱団に入団を希望する子どもが増えたということは間違いありません。また、ゲームソングを採り入れて、視聴者参加番組にするという路線は変わりません。ところが、この番組が放映された約10年間に、児童(少年)合唱団は、次第に全盛期を過ぎてきたという事実も押さえておかなければなりません。当時この番組を視ていた視聴者は現在50代以上になっていると思われますが、どんな歌が歌われていたかということについての記憶はほとんど残っていません。その理由は、『みんなのうた』のように繰り返し放映されず、1回限りの放送であったからです。テレビドラマ(かつてはラジオドラマ)のテーマソングが長年にわたって歌い継がれるのは、その歌が繰り返して放映(放送)されるからです。なお、『歌はともだち』の後継番組は、それ以後まだ生まれていません。
懐かしのテレビラジオ録音コレクション「うたのメリーゴーラウンド」資料集  
http://takizawa.gr.jp/uk9o-tkzw/tv/utamerry/

   
これらの番組を、今そのまま放映すれば
 1960~70年代に放映されたといった『みんなのうた』『歌のメリーゴーラウンド』『歌はともだち』といった児童合唱を主とした番組を、その当時のままの形で再演しても、現代の子どもたちが関心をもって観るとは思っていませんし、児童合唱の人気が高まるとは考えていません。例えば、NHKアーカイブで昭和39(1964)年に放映された「歌のメリーゴーラウンド」の映像の一部分を視聴することができます。当時としては、テーマソング」とピーチパラソルの骨の先の部分のテープを持って回る児童合唱団員の動きは斬新なものでしたし、「みんなのうた」で歌われるような歌は、当時の子どもにとっては、従来の童謡・唱歌にないいわゆるジュニアソングで魅力的でした。しかし、映像の中で歌われている「五木の子守唄」に関心をもつ現代の子どもがどれほどいるでしょうか。演奏としてはなかなかよい演奏だと思うのですが、直立不動で動きがないゆっくりした歌を、幼い時から動きのあるリズム重視の音楽を聴いて成長している現代の子どもにこれを視聴させてみて、魅力的な音楽と感じる比率はかなり低いのではないかと思います。現在の特に小学校高学年から中学生の世代は、J-POPSにしか関心がない比率がかなり高いのではないでしょうか。そのようなことを考えると、残念ながら「温故知新」という言葉は、通用するものと通用しないものがあると思います。
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010111_00000
 
 なお、BS朝日に、『子供たちに残したい 美しい日本のうた』という番組があり、この番組に東京少年少女合唱隊やえびな少年少女合唱団といった児童合唱団も登場しますが、主は大人の合唱団で、子ども対象の番組にはなっていません。はっきり言って、この番組は、かなり年配の大人が幼いころ歌った歌の背景を知って懐かしむ番組であって、「子供たちに残したい」という高邁な理念を掲げるならば、今を生きる子どもたちがもっと興味を持って視聴したくなるような番組に改変する必要があると思います。
      


 10 ゼッキーノ・ドーロと日本の児童合唱

   ゼッキーノ・ドーロ(Lo Zecchino d'Oro)は、1959年より毎年1回開催されている子どもの歌のための国際歌唱コンクールのことです。1959年(第1回)と1960年(第2回)は、イタリアのミラノ市で開催されましたが、第3回目以後は、ボローニャ市で年1回開催されています。コンクールの模様は、テレビ番組およびラジオ番組で中継されるほか、ユーロビジョンを通じてヨーロッパ諸国でもテレビ放映されています。
 このコンクールの出場者は3歳から10歳までの児童に限定されているところが大きな特色ですが、2007年(第50回)までは、審査員も12歳以下の児童のみに限定されていました。(第51回からは大人も審査に加わるようになりました。) 日本人の子どもも何人か出場していますが、「第18回ゼッキーノ・ドーロ」に、アグニ・ジュン(粟国淳)が、「てるてる坊主」を歌って出場し、「ゼッキーノ銀貨賞」を受賞しています。
 ゼッキーノ・ドーロの出場曲のいくつかは日本でも日本語詞をつけて紹介されています。日本でよく知られた歌曲に、「ピノキオへの手紙」「44ひきのねこ」「ママごめんなさい」「ピエロのトランペット」「トレロ・カモミロ」「ちびっこカウボーイ」「マヌエロ」「黒ネコのタンゴ」「ニッキ・ニャッキ」などがあります。これらの歌は、単独で、あるいは、「みんなのうた」で紹介されて日本中で広まってきました。

11 日本の児童合唱(少年合唱)の指導者たち

       ① 品川 三郎

   日本の児童合唱、とりわけ、少年の発声に関する指導の先駆者としては、品川三郎(1905~1971)を挙げることができます。従来、歌は女の子の方が男の子よりうまいと考えられてきましたし、今でもそう思われている傾向がありますが、品川三郎は、池田師範学校で教鞭を取った後、姫路市立高丘中学校を経て、昭和26(1951)年から昭和34(1959)年まで箕面町(市)立箕面小学校で音楽教師をしていました。同校において、男子合唱クラブ「みのお少年合唱隊」を指導する中で、正しい発声法を指導すれば、、男の子の歌声(ボーイ・ソプラノ)は、女の子の歌声をしのぎ、芸術的にも高いものになることを証明していきました。その後、豊中市立豊島小学校に転勤したという記録が残っています。
 それでは、品川三郎の少年の発声に関する基本理念とはどのようなものでしょうか。品川三郎の著書「児童発声」(1955)によると、次のようなものが大きな特色です。

 ・児童の発声は「頭声発声」でなければならない。
 ・量よりも質の美を第一義に考えて指導しなければならない。

 「みのお少年合唱隊」は現在は解散してありませんし、録音もほとんど残っていませんが、その指導の理念と方法は、品川三郎のもとでピアノ伴奏をしていた高弟の中安保美に伝えられ、中安保美が指導する「ボーイズ・エコー・宝塚」の歌声の中に聴くことができました。

      ② 石本 一雄

 石本一雄は、金沢大学教授であると同時に、金沢少年合唱団の創設者で、金沢大学フィルハ-モニー管弦楽団を創設したり、石川県各地の校歌の作曲などをし、石川県の音楽教育のリーダーとして活躍しましたが、同氏による 「児童発声についての一考察」は、音楽の論文あるいは変声期の研究というよりも、むしろ、児童歌唱における① 呼吸、② 発声、③ 共鳴、④ 発音に関する論文というのがふさわしいと思います。発声法とは、どうすれば無理なく、自然の形で美しい声を出すことができるかということを考えることであり、そのためには前述した①~④のそれぞれをどのように訓練していくかを、諸外国の研究を参照しながらも、ご自身が当時約10年にわたって指導された金沢少年合唱団における指導実践を通して実証しています。呼吸においては、腹式呼吸(横隔膜呼吸)を重視し、発声においては、子どもの声を美しくするためには、やわらかく歌うことや声区融合の重要性を説き、母音と子音等の発音の留意点について述べています。
 また、変声期についても、少年時代にソプラノであったものが、必ずしもテノール(高音)になるとは限らす、その逆のケースもあり、女子においても同様であることを述べていますが、サンプル数が12名と少数であるため、この結果だけでは、決定的なことは言えないでしょう。また、変声期の児童には無理に歌わせないことを述べていますが、その代わりにレコード鑑賞、器楽練習、音楽理論・音楽史の取扱い、聴音書取りなど周辺の学習をすることを勧めています。

        ③ 長谷川 新一

 日本大学卒業後中学校の音楽教員であった長谷川新一(1915~2010)、は、札幌市の教会の堂守の家庭に生まれ育ったこともあり、声楽をノタル・ジャコモ、合唱と指揮法を津川主一に師事しており、勤務していた紅葉川中学校を、NHKコンクールで同校を1位に導きました。そして、戦後間もない昭和26(1951)年、当時の音楽教育の硬直性からの脱却をめざし、ヨーロッパの音楽的伝統に基づく理想的音楽教育の実践のために、少年少女合唱団の創立を企図しました。ヨーロッパ古典宗教曲に造詣が深く、都内でグレゴリオ聖歌の講習会を行なっていたポーロ・アヌイ神父や鷹司平通氏の協力も得て、東京都内の小学校から募集した少年たち30名によって、 東京少年合唱隊を結成しました。これは、ウィーン少年合唱団の初来日より以前のことであります。その後、昭和29(1954)年には東京少女合唱隊を結成し、それぞれ活動していきましたが、昭和30(1955)年、プエリ・カントレス(カトリック系世界児童合唱連盟)に日本支部として加盟しました。国際的な団体への加盟によって得られた、世界各国の歴史と伝統をもつ実力ある児童合唱団との交流を通じて、当時最新の指導理論や技術を吸収し、その実力を伸ばしていきました。その一方で、国内の各地へ赴いて活発な演奏活動を行う他、ラジオ、テレビへの出演、様々なレコードの出版を通じて、ヨーロッパ音楽の伝統にのっとった本格的な歌唱法や楽曲、そして合唱音楽そのものの普及と啓発に力を注ぎ続けました。1964年、第1回北米親善演奏旅行を機に東京少年合唱隊と東京少女合唱隊が合併し、東京少年少女合唱隊~the Little Singers of Tokyo~として活動するようになりました。当時完成したリンカーンセンターでのこけら落し公演のために栄えある招聘をうけ、エド・サリバンショーに出演するなど小さな親善大使として好意的に迎えられ、日本の児童合唱団としてはじめてアメリカで行なった公演は大変な好評を得て、大きな成果をおさめる事ができました。現在は、娘の長谷川冴子と長谷川久恵に引き継がれ、グレゴリオ聖歌から現代作品まで幅広いレパートリーを持ち、主催の定期演奏会と海外公演、その他国内外の交響楽団、オペラ劇場との共演等が主な活動です。邦人作曲家への委嘱や編曲作品も数多く、近年では松平頼暁、一柳慧、細川俊夫の委嘱作品を国内外で発表しています。長谷川新一の信条は、「ラテン語で演奏する古典こそ、合唱音楽の世界の共通語である。」「宗教音楽を知らずに合唱音楽はない。」です。

        
④ 磯部 俶(とし)

  磯部 俶(1917~1998)は、日本の合唱指揮者、作曲家で、卒業した早稲田大学文学部芸術学科在学中から平尾貴四男に作曲を学び、15年間にわたって早稲田大学グリークラブの専任指揮者を務め、共立女子大合唱団・いそべとし男声合唱団・フレーベル少年合唱団など、多くの合唱団の指導に当たりました。また、昭和30(1955)年、新しい子供の歌の創作活動「ろばの会」を大中恩、中田喜直らと結成し、数々の賞を受賞しました。さらに、「湘南コールグリューン」を指導し、福永陽一郎に協力して藤沢市民オペラを発足させるなど、地域文化の向上に努めたり、美しい日本語の歌を創り広める活動に参加し、「新なみの会」会長を10年務めました。晩年まで創作意欲は衰えることなく、1998年には室内オペラ『夕立』を作曲しました。 とりわけ、フレーベル少年合唱団は、昭和34(1959)年に磯部俶を初代指揮者として創立されました。平成29(2017)は、生誕100年にあたることから、その作品を、OBとともに歌いました。このように、少年合唱指導者としての志は、フレーベル少年合唱団に引き継がれています。とりわけ、直接その指導を受けたOB会は、定期演奏会において単独で、あるいは現役の団員と共に、「遥かな友に」「びわ」「風になりたい」などの作品の演奏を行っています。磯部俶の理想は、プロの音楽家を育てるというよりも、音楽に親しむ家庭を育むことであったようです。
   また、夏休みの合宿を通して、人間的なふれあいを大切にしてきました。OB会は、ファミリーコンサートを積み重ねています。

   ⑤ 鎌田 典三郎

 
鎌田典三郎(1928~1999)は、「みんなのうた」や「歌のメリーゴーラウンド」「歌はともだち」等のテレビ番組で「西六郷少年少女合唱団」を全国的に有名にした指導者ですが、何よりも東京都大田区立西六郷小学校に昭和26(1951)年以来26年間奉職し、その小学校を母体として日本有数の合唱団を育て上げたところにその偉業を感じます。鎌田典三郎が奉職した頃の西六郷小学校は、戦災の焼け跡が残る東京の町工場が多い下町で、音楽的文化がある地域とは言えないところでした。鎌田典三郎は、ウィーン少年合唱団の演奏に接して、独学で発声や指揮を研究し、少年たちに伝授するという今から考えれば驚くべき指導法でこの合唱団を育てていきました。最初にめざしていたのはボーイ・ソプラノによる少年合唱で、昭和30年に西六郷少年合唱団が誕生しています。その後、昭和33年からTBS全国子ども音楽コンクール合唱の部で6年連続日本一に輝くなど、常に日本の児童合唱の先頭を走ってきました。昭和36年には女子も加え、西六郷少年少女合唱団となりましたが、男子と女子の比率は常にほぼ1対1ということも特筆されます。平成11年鎌田典三郎の逝去後、西六郷少年少女合唱団は解散しましたが、すぐに後継者によって再結成され、今日に至っています。
 
鎌田 典三郎の人と教育は、尾見敦子著の「西六郷に歌声ひびけ 鎌田典三郎の合唱教育」(1987)に詳しく述べられています。ところで、鎌田典三郎の「子どもたちに求めたい声」は、次のようです。

  ・澄んでいて明るい声
  ・素直で柔らかい声
  ・生き生きとしてつやのある声
  ・ひびきのある声
  ・低音域を,どならない声
  ・高音域が楽に出せる声
  ・曲の感じを,充分に表現できる声


 また、鎌田典三郎の逝去後二つの映像作品が公開されました。一つは「ぼくらの町は川っぷち 鎌田典三郎先生と西六郷少年少女合唱団」というビデオ記録映画で、文化映画を制作している東京シネ・ビデオから発売されています。もう一つは、NHKで放映されたドキュメントにっぽん「最後の演奏会」末期がんの恩師に贈る日本一の歌声 西六郷少年少女合唱団」。児童合唱ファンはかなり見られたのではないかと思います。この作品は、病床の鎌田先生と教え子達の心の交流を中心に、最後の演奏会までの記録が克明に記録されていました。鎌田先生がウィーン少年合唱団に憧れて独学で音楽を学ばれ、決して音楽環境に恵まれているとは言えない一つの小学校を母体にした合唱団をここまでの水準に引き上げた功績もさることながら、厳しいスパルタ教育をしたにもかかわらず、子ども達の心に永久に消えない美しいものを残した精神的遺産はさらに大きいと思います。
追悼演奏会になった最後の定期演奏会での「ぼくらの町は川っぷち」は感動的でした。
 さて、番組の中で、高野政次さんという名前を聞いたとき、「白馬童子」の主題歌を歌った人だという記憶がよみがえりました。高野さんも西六郷少年少女合唱団で鎌田先生に育てられた人です。その後20年間クラブなどで歌う歌手をしていたとか、人の出会いの大きさを感じます。お見舞いに行った高野さんと鎌田先生の会話を聞いて、義務教育の先生と教え子の関係は、信頼で結ばれている限り、いくつになっても変わらないのではないかなどと思いました。高野さん、泣きながら「ぼくらの町は川っぷち」を歌っていました。

 鎌田典三郎の追悼としては、指導ビデオも発売されています。そのビデオを入手したときのことを私は、某ホームページの掲示板に次のように書き込んでいます。そのときの熱気を再現するために、やや異質ですが原文を掲載します。

 ついに、手に入れました。ビデオ「鎌田典三郎と西六郷の歌声」ー永遠に美しい響きを求めてー 鎌田先生追悼のビデオで限定1200本ということだそうです。
 1988年第3回小学校合唱指導セミナーにおける演奏からと言うことで、鎌田先生がお元気だった頃の姿に会えます。子ども達もおなじみの上品な制服姿で・・・
 曲目は「赤とんぼ」「夕やけこやけ」「森の夜明け」「魔法の笛」「ほたるこい」「谷茶前ぬ浜」「森の冬」「祭りと花と娘」「清らに星澄む今宵」「美しく青きドナウ」「モルゲンレーテ」「ジプシーがチーズを食べる」となかなかいい選曲です。これで「僕らの町は川っぷち」があれば、なんて贅沢ですね。「赤とんぼ」「夕やけこやけ」はVBCと「ほたるこい」「清らに星澄む今宵」はTFBCと聴き比べできます。こういう楽しみも発見しました。VBCやTFBCなら、ソロも楽しめそうだとか・・・
 でも、西六郷は「みんなのうた」「歌のメリーゴーラウンド」以来の長いお付き合いですからね。鎌田先生に教えていただいたら、もっと歌がうまくなったんじゃないかと言う想いは今でもあります。全国の少年達の憧れを育てた鎌田先生は素晴らしい方です。
 今、合唱そのものが以前と比べて低調なのは、はっきり言ってテレビをはじめとするマスコミが取り上げないからです。せめて公共放送であるNHKは、もっといいものを子どもに与えてください。また過激な発言になってきたので、今日はここまで。

      ⑥ 渡辺 陸雄

  渡辺陸雄は、品川区立第三日野小学校・大田区立田園調布小学校・豊島区立目白小学校・豊島区立仰高小学校で、音楽教師として、日々の音楽授業を充実させるだけでなく、合唱部を育成し、昭和30年代は各種の合唱コンクールで何度も優勝をもたらしたという成果をあげました。その後は、「授業にすぐ使えるやさしい指揮法「『声権』を尊重した歌唱指導」「CDブック 低学年からの歌唱指導等の著書あるいは指導した録画・録音を通して、児童合唱のメソッドの普及させたという点で大きな功績があります。自伝「型破りの履歴書―山猿が賭けたコーラス人生」は、その人生遍歴が描かれています。その指導方法を一言で述べると、「子供それぞれの音域に合った、もっとも出しやすい声を共鳴点に当てて、美しい声を発見して歌う。」ことに尽きるでしょう。

      
 ⑦ 小川 俊彦

 小川俊彦は、長年愛媛大学教育学部附属小学校で教鞭を執っていましたが、その間何度もNHK全国学校音楽コンクール小学校の部で同校合唱部を全国優勝(金賞)に導いています。また、最近まで松山少年少女合唱団の指導者として活躍していました。小川俊彦の指導理念は、「いい顔、いい声、いい心」  という言葉によって現されるように、歌声を通しての人づくりにまで高められています。愛媛大学教育学部附属小学校の合唱部が全盛期を迎えた昭和の終わりから平成の初め頃、この言葉は、かなり全国的に広がりました。      

       
⑧ 川上 彌榮子

  川上彌榮子は、東京都の各地の小学校で優れた音楽教育の指導を行ってきましたが、昭和52~56年江東区立八名川小学校において、NHK・民放の合唱コンクールで最優秀賞、文部科学大臣奨励賞受賞。、NHK全国学校音楽コンクール小学校の部で台東区立金竜小学校を昭和58・59年度の2年連続金賞に導いたことで、全国的に名を知られるようになりました。自然で伸びやかであると同時に、ドラマを感じさせる表情のある歌声が特色です。また、歌う児童の表情が大変美しいので、鑑賞して幸せな気持ちになってきます。現在は、上野の森ジュニア合唱団指揮者、江東少年少女合唱団指揮者、上野学園大学音楽学部講師として活躍中です。その理想の歌声は、次の12項目にまとめることができます。

1 歌いやすい声 話し声もいい声にして
2 高い音も低い音も出しやすい声 響きを変えないで
3 共鳴した声 からだに響く声
4 ハーモニーする声
5 曲にふさわしい声 遊び歌とは異なる
6 子供らしく明るい声,軽い声
7 からだで歌う声 正しい姿勢からでる声 全身を使った声
8 声帯や胸などが疲れない歌い方の声
9 歌って満足感を覚える声 わめいてでなく
10 聴く人を疲れさせない声
11 聴く人に心地よい響き,心や耳に残る歌声 音楽性を求めて
12 みんなの声に溶け合う声 伴奏と合っている声

        ⑨ 蓮沼 勇一

  平成29(2017)年3月まで40年の長きにわたって暁星小学校の音楽教師として、また、暁星小学校聖歌隊の指導者として、活躍された蓮沼勇一(1952~    )の業績は、NHK全国音楽コンクールにおいて全国大会に出場した5年間で金賞4回銀賞1回という輝かしい成績にも表れていますが、実際の指導法としては、ビデオやDVDを通して、全国の音楽教育、とりわけ合唱指導者に多くの指導上の示唆を与えてきました。その歌声は、イギリスの聖歌隊の音色に近い透明度の高いものです。また、音楽教師としての集大成としての著書「白ひげ先生の心に響く歌唱指導の言葉がけ」は、蓮沼の歌唱指導の在り方を文章化しただけにとどまらず、一冊全体が人間形成・人間教育のための本に感じられました。この著は、大きく、気持ちづくりの章、声づくりの章、曲づくりの章からなっていますが、どの章でも日頃の児童への言葉掛けや、その指導を支える理念のようなものが、強く感じられ、何によって人は育つのかということを考えさせます。また、終章は合唱や音楽を通して学べることや教師の在り方にまでふれられています。   


12 コロナ後の日本の少年合唱が進む道

  新型コロナウイルスの世界的な流行は、長期にわたったため被害が大きく、人のあらゆる営みに大きな悪影響が及びました。日本の合唱界においても、成人、あるいは児童合唱団で新型コロナウイルスのクラスターが発生するといった直接的な被害から、合唱はクラスターの温床になりうるといった悪いイメージで見られるようになりました。風評も広がって、団員が減り、歌える場が激減したため、解散に追い込まれた団体も出てきました。また、たとえ演奏してもマスク着用しなければならないため、表情が見えにくいという厳しい状況に陥りました。「歌えるマスク」を開発したという事例も見られましたが、これは、本質的な合唱の復活につながったとは言えないと思っています。

 これは、成人の合唱団の事例ではありますが、東京混声合唱団が、令和4(2022)年5月にマスクなしの公演に挑戦した合唱団の取り組みがニュースが報じられました。同年8月31日、フレーベル少年合唱団や10月10日の北九州少年合唱隊が、定期演奏会等で舞台上ではマスクなしの公演に挑む事例もありましたが、ほとんどの合唱団は、マスク着用で公演していました。観客も、これは理想とは言えなくても、現状では仕方がないと思って鑑賞していたことでしょう。最大の問題は、「合唱」というジャンルの音楽が、現代の日本において、次第に人気のある音楽のジャンルでなくなってきつつあるという問題です。ある少年合唱からスタートして、その変声後も合唱を続け、社会人としても合唱団にも所属しておられた合唱経験者のご意見では、「合唱はかつてはお金のかからない活動でしたが、指導者への謝礼、楽譜の著作権、練習場の確保など、人数が減れば減るほど一人あたりの負担が増してきます。募集すれば人が集まる時代とは違い、気軽にはできなくなっています。」という実態を述べられています。

 ところが、令和5(2023)年5月8日に、新型コロナウイルスの感染症法上の位置づけが5類に移行してから、文部科学省も学校でのコロナ対応を定めた「衛生管理マニュアル」を改定。「感染リスクが比較的高い学習活動」として、「児童生徒が行う合唱及びリコーダーや鍵盤ハーモニカ等の演奏」【音楽】を挙げながらも、少しずつではありますが、合唱にも以前の姿が戻ってきつつあります。5月8日時点では、まだ外出時はマスク着用の人が多かったようですが、夏、酷暑になるにつれ、マスク着用率も低くなってきたように思います。この8月に行われたソプラノ♪7ボーイズやフレーベル少年合唱団の定期演奏会では、マスクを外した演奏を楽しんで鑑賞することができました。一方、春だけでなく秋の新学期になって、この数年大きな流行がなかったインフルエンザや新型コロナオミクロン派生型を原因とする学級閉鎖や休校の話を聞くこともあります。

  そのような中、令和5(2023)年7月9日に、山陽新聞に「桃太郎少年合唱団 存続の危機 団員減少 練習公開し入団呼びかけ」という記事が掲載されました。これまで、地域を代表する少年合唱団として、桃太郎少年合唱団を好意的に採り上げてきた同新聞であるだけに、「見出し」が、こんな書き方でよいのかとも思いますが、練習風景の写真を見ると、その実態の一端が伝えられ、心配されることです。しかし、これは、日本の地方の少年合唱団に共通してみられることで、どの団体も何の努力もしていないのではなく、その努力が効果を表していないないということではないかと思います。日本においてクラシック音楽、あるいは合唱という文化がマスコミに取り上げられることが少ないないこともあって、若い世代を中心に次第に衰退してきており、テレビは、ダンスを伴う音楽しか放映しないことが、少年合唱の厳しさの社会的な背景としてあります。むしろ、指導者陣が、自らの指導の在り方・選曲が、本当に団員あるいは、入団してほしい年頃の観客のニーズに応えているか(指導者が歌わせたい歌を最優先していないか)を見直すべきではないかと思っております。数年前、本ホームページの「日本の少年合唱復興のために」の「日本の少年合唱復興のために今すぐ取り組めること」に記載したことは、現在もそのまま通用すると考えております。


 第2章 少年合唱と制服

 本章では、少年合唱団(隊)にとって、制服はなぜ重要なのか?という問いに答え、世界のあるいは日本の聖歌隊や少年合唱団の制服やその変遷について述べます。

 1 少年合唱団(隊)にとって、制服はなぜ重要なのか?

 少年合唱団の制服といえば、海外においても、日本においても時代と共に変遷を重ねたことは事実ですが、時代や国によって大きく異なります。ヨーロッパにおいては、歴史的に古くから生まれた団体はキリスト教の聖歌隊として出発しているので、祭服の名称は教派によって違いますが、ミサのための「典礼衣装」が普及していましたが、制服にテルツ少年合唱団やモスクワ・アカデミー合唱団のように民族衣装を採り入れていることろもあり、ウィーン少年合唱団のように、かつては幼年学校の制服(軍服)を制服にしていたものが、第1次世界大戦後セーラー服を制服にしているところもあります。宗教を背景にしない合唱団では、学校スタイルが取り入れられていることが多く見られます。ステージによって制服を変える合唱団もあります。

 ここで、大きな問いが出てきます。「合唱団の制服はなぜ重要なのですか、大切なのは音楽ではないのでしょうか。」という問いです。なぜ、合唱団は何世紀にもわたって制服を重視してきたのでしょうか? ごく最近まで子どもの学校における制服が重要視されていなかったアメリカでも、学習への集中力による学力向上や愛校心を高める効果があることから、学校に採り入れようとするクリントン大統領のような政治家が出てきました。その当時アメリカの一部の学校の規律が乱れて、荒れていたこともあったのでしょうが。なお、アメリカの少年合唱団にも制服はあります。多くの合唱団の指導者は、衣装が重要であると確信しています。なお、2024年1月、フランスのマクロン大統領、「制服は、家庭間の格差を解消するとともに、各自が尊重される環境をつくり出す。今年から任意の約100校で試験的に導入する」という方針を発表し、良好な結果が出れば、2026年から全国で導入すると述べました。

 「人は、その制服のときの人間になる。」と、ナポレオン・ボナパルトは、喝破しました。人は、身だしなみを整えると、それだけでなんだか心が変わり、自信が湧いてきます。仕事着に着替えると、気持ちが引き締まるような経験は、多くの人がもっているのではないでしょうか。医師や看護師、警察官や消防士が制服を着ることで、人は「求められている自分」に変身するのではないでしょうか。そして周囲の人もきちんとした見た目の人には好感を持ち、信頼さえしてくれます。

 警官の制服を着ている人を見るだけで、なんだか少し緊張します。人が集団に対して受ける第一印象は、本質的にその外見、態度、行動によって決まるという側面があります。やや内容的には浅いのですが、人の第一印象の9割は、見た目で決まると主張する人(竹内一郎 著『人は見た目が9割 』)もいます。そこには、「周りから求められる姿」があります。人は「求められている自分」になろうとする傾向もあります。合唱団の少年たちは、何よりも、整然として混乱がないほうが好感を持たれ、注目を集めます、人は、初対面の人に会うとき、外見によってその人の内面を推測します。これは集団においても本質的に当てはまるのではないかと感じます。ただ、登下校を含む学校生活の間着用して、場合によっては生徒指導の一環として着用させる制服と、宗教活動や舞台衣装として着用する制服を同次元で語ることは、少し違うのではないかと思います。

 例えば、NHK学校音楽コンクールに出場する小学校は、私立はもちろん、西日本を中心に制服(標準服・奨励服)のある学校もありますが、私服で学校に通う学校も多くあります。さて、昭和の後年、普段通りの私服で出場した合唱は、その外見だけで不揃いという印象を受けたことがあります。その時代でもほとんどの出場校は、普段は私服の小学校でも合唱の場面では、ステージ衣装としての「制服」を着て歌っていました。最近では、日野市立七生緑小学校が全国学校音楽コンクール(小学校の部)では、中止となった令和2(2020)年を除き8回連続の金賞(史上初)の8年連続金賞という快挙を達成しましたが、この学校には制服がなく、合唱部だけがステージ衣装として、校名にあやかった黄緑色のポロシャツ、男子は黒の膝上のハーフパンツ、女子は黒の膝上のスカート、白い短い靴下、黒い靴を履いています。

2 少年合唱団(隊)と制服

 このようなところで、個人的な経験や想いを語るのは少しはばかられるのですが、かつて、私は制服が嫌いでした。私服の小学校から詰め襟制服の中学校に入って、そのきゅうくつさがいやでした。入学当時、身長も低く首が短かったから、詰め襟の制服の白いプラスチックのカラーが痛かったというのが最大の理由です。それは辛抱するとしても、制服が学校への誇りを持たせるものならよかったのですが、そうではなくはっきり言って生徒の「非行防止」の取り締まりの手段になっていたから嫌だったのです。戦後すぐの開校以来、生徒指導上の問題を頻繁に起こす経済的に貧しい地域の中学校の生活指導としてはしかたがなかったのかもしれませんが、やがてそのような生徒の不満は、昭和40年代の高校における左翼学生運動の私服化を求める動きとして爆発していきました。思想的に共鳴しない者でさえ、部分的に共感する部分はありました。

 ところが、一方、同じ時期に放映されたテレビの「歌のメリーゴーウランド」に登場する少年(少女)合唱団の制服には、あこがれを感じていました。そのセンスのよさは、清純な歌声や団員の気品のある態度と結びついて違った制服に対するイメージを形成しました。この矛盾した制服に対する心理は、昭和30~40年代に少年時代を迎えた人には程度の違いはあっても、見られるのではないでしょうか。
 少年合唱団の制服といえば、ウィーン少年合唱団のセーラー服が有名です。もともと海軍の水兵の服であったのが、19世紀後半から20世紀初頭にかっけてヨーロッパの上流階層の間で子供服として流行し、採り入れられたそうです。日本ではセーラー服は女子の制服というイメージが強いため、少年(少女)合唱団の制服になっているところは、北九州少年合唱隊やNHK熊本児童合唱団など限られています。また、半ズボンに白いハイソックスという衣装は、パリ木の十字架少年合唱団やシェーネンベルグ少年合唱団はじめヨーロッパの少年合唱団の制服としてかなり広く採り入れられていましたが、日本では少年合唱団の制服としてだけではなく、小学校の制服やよそ行きの私服として昭和45(1970)年頃から、平成の初めまで日本を席捲します。それは、高度経済成長の日本が経済的に豊かになる象徴のようでした。ところが、バブルが弾けた後の平成5(1993)年頃から、ストリートファッションと称し、スケートボードやバスケットボールに起源をもつダボダボのシャツ出し、ハーフパンツという服装が流行し、それが今では子供服の定番のようになってしまいました。また、それしか選択肢がないといった状況があります。ところが、これは、日本だけの問題ではなく、世界的な流れのようです。実は、このころから日本の子どもの規範意識は地に墜ちはじめました。この二つの現象の間には相関関係があるのではないかと推測しています。

 しかし、それによって、少年合唱団の制服がよけいに輝きを増すという逆説的な状況が生まれてきました。かつては制服が嫌いだった私も、今では制服賛成に転向しました。だらしない今の少年服の流行が一日も早く衰退することを心より願っています。

 そこで、日本の少年合唱団の制服について調べてみましょう。なお、最近では平成16年11月の定期演奏会よりフレーベル少年合唱団の制服がリニューアルされました。また、平成19年10月の定期演奏会からは、広島少年合唱隊、平成24年には、TOKYO FM少年合唱団と呉少年合唱団の制服がリニューアルされました。全体的に見ると、1960年代後半から1970年代の世界的な流れを受けて、半ズボンが衰退していることを感じます。この分野はさらに調べていくと、制服リニューアルの歴史に発展するかもしれません。
(なお、解散したり休団しているところも参考までに掲載しています。間違っているところもあるかもしれません。ご指摘ください。)

      学年 帽子 上着 ネクタイ ズボン ソックス 聖衣
侍者服
栃木少年合唱団 小・中 赤ベレー帽 オレンジベスト 黒蝶ネクタイ 黒半ズボン
黒長ズボン(中)
白ハイソックス

  
TOKYO FM少年合唱団 なし 緑トレーナー(予科生)
灰色ベスト
(本科生)
なし
臙脂ネクタイ
紺半ズボン
黒半ズボン
白ハイソックス
黒ハイソックス
あり
暁星小学校聖歌隊 小3~
小6
なし 黒詰襟
グレー半袖
なし
黒半ズボン
グレー半ズボン
黒ソックス
あり
フレーベル少年合唱団(旧) 幼・小・中 紺ベレー帽 青ブレザー なし グレー半ズボン 白ハイソックス    
フレーベル少年合唱団(新) 幼・小・中
(ユースクラス)
紺ベレー帽
なし
紺ダブル

赤ブレザー

赤蝶ネクタイ
紺半ズボン(幼小)
紺長ズボン(中)

黒長ズボン
黒ハイソックス      
立教小学校聖歌隊         グレー・ダブルの上着
白カッターシャツ
赤ネクタイ グレー半ズボン 紺ハイソックス あり
グロリア少年合唱団 幼・小・中・高 紺ベレー帽
(BCクラス)
白カッターシャツ
団Tシャツ(夏期)
グレーセーター(夏期以外)
臙脂ネクタイ 紺半ズボン
紺長ズボン(小4以上可)

各学校の制服ズボン(中・高)
白ハイソックス



あり
新潟少年合唱団 小・中・高      白カッターシャツ
白Vネックベスト
水色ネクタイ 黒長ズボン          
京都市少年合唱団  輝(ひかり) 小4~中 なし 水色半袖
紺セーター(冬)
臙脂・白ストライプネクタイ 黒長ズボン 黒ソックス
   
和歌山児童合唱団  少年の部 小1~
小4
なし 白カッターシャツ 紺蝶ネクタイ 紺半ズボン 白ソックス    
ボーイズ・エコー・宝塚 なし 赤ブレザー
Tシャツ
なし 白半ズボン 白ハイソックス    
桃太郎少年合唱団 小・中・高 なし 青ブレザー
白カッターシャツ
赤蝶ネクタイ 青半ズボン
黒長ズボン(中以上)
グレーハイソックス

   
広島少年合唱隊(旧) 小・中 白ベレー帽 グレーベスト
白カッターシャツ
紺ブレザー
(中以上)
緑ネクタイ
ループタイ

臙脂ネクタイ
(中以上)
グレー半ズボン
紺半ズボン

グレー長ズボン(中以上)
白ハイソックス
白ソックス


あり
広島少年合唱隊(新) 幼・小・中・高 なし 水色カッターシャツ 緑ネクタイ 黒半ズボン(~小3)
黒長ズボン
(小4以上)
黒ハイソックス(~小3) あり
呉少年合唱団 幼・小・中・高 白ベレー帽
(~小3)

なし
(小4~)
空色ベスト 白ブレザー

水色ブレザー
紺蝶ネクタイ

ストライブタイ
グレー半ズボン
(~小3)
黒長ズボン
(小4~)
白ハイソックス

黒ソックス


   
北九州少年合唱隊 小・中・高 セーラー帽
(ジュニア)
セーラー服(ジュニア)
白カッターシャツ・黒ベスト(シニア)
リボンネクタイ
(ジュニア)
臙脂ネクタイ

(シニア)
紺長ズボン(ジュニア)
黒長ズボン(シニア)



黒ソックス?
          
   

日本の少年合唱団の制服(代表的なもの) 夏服・冬服・聖衣・中学生以上の服などは以後追加して充実させます。


 
栃木少年合唱団(解散)  
       TOKYO FM少年合唱団
 
  暁星小学校聖歌隊        フレーベル少年合唱団 立教小学校聖歌隊 
 
グロリア少年合唱団 新潟少年合唱団 京都市少年合唱団  輝(ひかり) 和歌山児童合唱団  少年の部  (現在活動していない) ボーイズ・エコー・宝塚(休団) 
 
桃太郎少年合唱団 広島少年合唱隊 呉少年合唱団 北九州少年合唱隊  

世界の少年服の動向と、制服のリニューアル
 令和3(2021)年の正月に、朝日テレビ系列で『おしょうバズTV』という番組が放映されましたが、「10代が驚いた昭和から平成常識ランキング」の第6位は、ほとんどの男の子が1年中太もも丸見えの半ズボンを履いていたということが紹介されました。そこで、世界の少年服の歴史的な推移と、それが、世界と日本の少年合唱団の制服にどのような影響をを与えたのかを述べていきたいと思います。



      ① 半ズボン

   子供服が、大人の服と分化を始めたのは17世紀と言われていますが、ヨーロッパでは、19世紀後半に、英国の王室とその側近の中で、男の子に長ズボンではなく短いズボンを着せるようになりましたが、第1次世界大戦後、主要なヨーロッパの国の子供服として半ズボンは広まり、学校の制服や少年合唱団の制服としても採り入れられました。1950~60年代のパリを舞台にした漫画の絵本をもとにしたフランス映画『プチ・二コラ』(写真上左)や1960年当時のパリ木の十字架少年合唱団の制服(写真上中)を見れば、そのことがおわかりになるでしょう。)
   映画『プチ・二コラ』予告編 
https://youtu.be/pwIF8dKE9VA
 パリ木の十字架少年合唱団「キャプテン・トロイ」  
https://www.youtube.com/watch?v=Pc5PoWzvqjQ

   日本では、昭和20年代(1940年代後半~1950年代前半)までの少年服は、保護者の手作りの現在とほぼ同じようなヒザ丈の文字通り「半」ズボンでした。昭和30年代(1955年頃)に入って、脚の長い西洋人の体形へのあこがれもあって、短い腿の露出したいわゆる『半ズボン』(半ズボンの定義は、膝より丈の短いズボン<裾が5分丈未満>の総称)が、当時ファッション界で権威のあった百貨店の宣伝もあって急速に流行しはじめました。従って、昭和30年代(1955年頃)~平成初頭(1990年代前半)まで男の子は、特に都市部において私服の普段着において股下数センチの短い半ズボンが男の子供服のの象徴で、冬の寒冷地を除いては、通学服や遊び着として定番でした。そこには、下着は保護者の手作りの猿股から、アメリカから入ってきた白いブリーフへ変化したことも影響しています。ただ、昭和30年代頃は、半ズボンは制服を除けば、春から秋の服で、冬は長ズボンというのが普通で、1年中半ズボンというのは、おしゃれな服装とみられていました。ところが、当時の教育界には、子どもは薄着の方が丈夫になるという健康教育上の考えが広がり、「代謝が上がって健康に良い」「体が鍛えられて、風邪をひきにくくなる」といったことから、半ズボンが推奨され、保護者には、「子供は風の子」という子育を支える考えが一般的で、子どもの間でも1年中半ズボンがかっこいいという考えが広まりました。また、その期間は、東京オリンピック以後、昭和45(1970)年から、昭和の終わりから平成の初めごろまででした。(写真上右)昭和44(1969)年に『ケンちゃんシリーズ』の放映、『ドラえもん』連載が始まりましたが、主人公(ケンちゃんやのび太)は、どちらも半ズボン着用であったことも、無言の規範になったのではないでしょうか。しかし、この当時でも、半ズボンは小学生の服と限定されており、中学生になると長ズボンという不文律がありましたが、これは通学服(制服)に限定されており、中学生も体操服は半ズボンと同じ丈の短パンであり、夏では空調も行き届いていなかったこともあって、中学生も家に帰ると半ズボン(短パンの体操服)にはき替えて生活することが、よく見られました。当時の実写版のテレビ番組やドラマのに出演する子役は、実際には中学生でも小学生の役を演じるときは、半ズボンをはいて登場していることが多くありました。ところが、「最近の子どもはは大きくなった。」という声が聞こえるほど栄養状況が改善して、成長の前傾化が進んだ昭和50年代後半(1985年)以後には、早熟で体格の大きい小学校高学年の子供が、夏の暑い時期でも半ズボンを嫌がって長ズボンをはく傾向も出てきました。小学6年生までは半ズボンを着用し、中学生になったら長ズボンをはくということは、その当時のにおける「通過儀礼」のような意味をもつとも言えましたが、今では服装が世代を問わないものになってきました。現在、日本では制服を除けば、私服の短い半ズボンは見かけません。このように急激に広がり、急激に姿を消した服も珍しいのではないでしょうか。

   さて、少年合唱団については、1960年代後半から約20年ぐらいは、毎年のようにヨーロッパを中心とする海外の少年合唱団や児童(少年少女)合唱団が来日し、その地域にある少年合唱団や児童(少年少女)合唱団と合同演奏することもあったため、少年合唱団(児童合唱団)の制服もその影響を受けています。ところが、その後1960年代後半~1970年代には、半ズボンは発祥の地であるフランスやイタリアをはじめ世界的に衰退期に入りました。なお、東ヨーロッパでは、比較的長く半ズボンが維持されていました。なお、ビッグ・マンモスが活躍していた時期(1975~1982)は、日本における少年服の半ズボンの全盛期であったと言えます。それまで半ズボン制服を採用していた日本においては、半ズボンは1990年代半ばに入ると、急速に衰退しはじめ、その代わりに、バスケットボールやサッカーJリーグの開始などによるスポーツウェアの影響を受けて、ハーフパンツという丈長でひざ下まであるようなステテコのようなズボンの子ども服が台頭してきました。それは、下着がブリーフからトランクスやボクサーブリーフへと移行したこととも関連します。この傾向は、ヨーロッパではもっと早くから現れ(アメリカでは、スポーツウェアとしてのジョギングパンツはあっても半ズボンが流布したことは、上流階層を除いてほぼなかったと言えます。)例えば、パリ木の十字架少年合唱団の制服においては、1980年代に半ズボン制服の丈長化の傾向が現れます。日本においてはヨーロッパの諸国よりも少し時代は遅れますが、21世紀になって、少年合唱団の制服にもその影響が現れ、小学校高学年の制服を半ズボンから長ズボンにしたり、あるいは中学生の制服を長ズボンにリニューアルしたりする団体が現れました。

       ② ソックス

 本来は、日本語の「靴下」という言葉を使うべきかもしれませんが、少年合唱団(隊)の制服を語る関係で、あえて英語のソックス(sockの複数形)を使います。ソックスの本来の働きは、足(脚)の保護や保温です。日本では、足袋がそれにあたります。ソックスの働きは、本題から外れるので略しますが、アメリカの少年合唱団のように半ズボンの文化がほとんどなく長ズボン制服の少年合唱団では、ソックスの色や長さは、ズボンの色や靴の色に合わせていますが、来日したヨーロッパの少年合唱団が、パリ木の十字架少年合唱団のような半ズボン制服の場合、膝下いっぱいまでの長さのハイソックスをはいていたことから、トータルルックとしての制服の一部として日本の少年合唱団でもそれを採り入れることが多かったと考えられます。

 白いハイソックスは、日本では、半ズボンの丈が短くなった1970年代から1980年代にかけて、白地にワンポイントやいろいろな色の横ラインの入ったスポーツハイソックスも含め、私服としても少年の間で爆発的に流行しましたが、半ズボンの衰退とともに衰退していきました。そのような意味では、少年服にとって、半ズボンとハイソックスは運命共同体的なところがあります。(少女については、スカートをはく場合、現在でも紺や黒のハイソックスは健在です。制服では、白いハイソックスの学校もあります。)また、近年では、その時期に盛んになったスポーツのスポーツウェアが少年服に影響を与えていることは間違いありません。しかし、少年合唱団(隊)の制服にスポーツウェアが影響を与えているとは考えにくいです。

 日本では、栃木少年合唱団、フレーベル少年合唱団、TOKYO FM少年合唱団、グロリア少年合唱団、広島少年合唱隊、呉少年合唱団、ボーイズ・エコー・宝塚等が白いハイソックスを採用していましたが、21世紀になって、色を白から黒に変えたところもあります。桃太郎少年合唱団は、制服が紺系であったことから、イギリスの学校制服にも採り入れられていた灰色のハイソックスを採用していました。また、ハイソックスは防寒用という意味もあったので、夏期は短い白いスクールソックスにしていた団(隊)もあります。なお、ビッグマンモスは、その服装を見てもわかるように半ズボンとハイソックスの全盛期(昭和50 1975~昭和57 1982)に存在したユニットと言うことができます。ファッショントレンドは移り変わります。そのようなことを押さえて、少年合唱団の制服を考えることが大切だと思います。

      
③ セーラー服

 セーラー服が制服の少年合唱団と言えば、ウィーン少年合唱団のことを真っ先に思い出す人が多いことでしょう。日本では、セーラー服は女学生の学校制服という印象が強いですが、もともとは、世界中で海軍の軍服として使用され続けています。また、その頃日本でも導入され、現在の海上自衛隊においても使用され続けています。子供服としては、19世紀後半から20世紀初頭にかけて上流階級のファッションとして世界的に流行しました。

 ウィーン少年合唱団の前身である王宮礼拝堂付属少年聖歌隊は、宮廷のためのミサや非公開のコンサート、国家行事のために活動していましたが、1918年に第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗北するまでは、幼年学校の制服である詰襟の軍服のスタイルでした。しかし、最後の宮廷楽長であったヨーゼフ・シュニット神父は、王宮礼拝堂付属少年聖歌隊がなくなることを惜しみ、私財をなげうって民営の少年合唱団を創設しますが、制服も幼年学校のものから、当時の上流階級のファッションであったセーラー服へと変えました。ウィーン少年合唱団の古い写真を見ると、時代と共に少しずつ制服であるセーラ服のデザインは変わっているようです。しかし、セーラー服はある意味では完成形の服なので、多少のバリエーションはあっても、大きな変革はないと考えられます。

 日本の少年合唱団で、セーラー服の制服を採り入れているのは、現在では、北九州少年合唱隊だけですが、かつて、佐渡裕(1961~  )が京都市少年合唱団で歌い始めた小学5年生のころの制服は、写真を見ると、セーラー服です。ただし、当時の女子の制服がセーラー服であったかどうかは不明です。また、テレビにもよく出演していた森の木児童合唱団(現在は解散し、現在は、ことのみ児童合唱団として活動中)は、少年少女合唱団ですが、制服は緑色のセーラー服でした。

      ④ 帽子

 ベレー帽は、軟らかく丸くて平らな、鍔や縁のない帽子で、軍服の帽子という面もありますが、日本では、美術系の芸術家の帽子としてのイメージがあります。もともと、日本においてベレー帽が子ども服の定番になったことはありませんでしたが、芸術家風のスタイルとして一部の少年合唱団のステージ衣装として採り入れられましたが、現在は、少なくなっています。なお、鼓笛隊の制服においては、むしろベレー帽が見られます。セーラー服にはセーラー帽が対応していますが、日本では、北九州少年合唱隊(~中学1年生)の制帽となっています。(なお、日本においては、普段着として少年が自分が応援しているチームの野球帽をかぶることが広がった時期(昭和30年代から20年あまり)がありましたが、これも今は見かけません。)ちなみに、呉少年合唱団は、約60年の歴史がありますが、その間、下図のように7回(イラストは、それまでの6回のもの)制服のリニューアルを行っています。なお、イラスト左下は、第50回定期演奏会のプログラムに掲載されていたものです。現在でも、小学3年生までは、この帽子をかぶってステージに上がっています。また、セーラー服の帽子であるセーラー帽は、ウィーン少年合唱団のように外でかぶっても、部屋に入り、あるいは舞台の上では脱帽するところと、トータルルックとして着帽してステージで歌う北九州少年合唱隊のような団体があります。

      ⑤ ネクタイ

 ネクタイは、洋装で、首の周りに装飾として巻く布のことで、ワイシャツ(カッターシャツ)の襟の下を通し、喉の前で結び目を作って体の前に下げます。首に巻く細い方を小剣(スモールチップ)、前方に下げる太い方を大剣(ブレード)と言います。これは、ダービー・タイと呼ばれる一般的なものですが、ボウタイ(蝶ネクタイ)やリボンのような形態のものなどもあります。少年合唱団の制服としては、その両方が使われることがあります。詳細は、各少年合唱団の制服の絵をご覧ください。

          

   このように、少年合唱団の制服も時代と共に変遷しています。そのリニューアルの歴史もまたその時代を反映しています。これは、流行の問題であって、善悪の問題ではないので、それを、簡単に「よい」「悪い」と決めつけることはあえてしません。時代によって半ズボンの制服がかっこいいと感じることで入団したいと思う少年もいるでしょうし、その逆もあるでしょう。日本においては、昭和の高度成長期に半ズボンは少年服の主流となり、その丈も次第に短くなり、バブルがはじけて不況の波が押し寄せてきたいわゆる「失われた〇十年」の時期に急速に衰退しました。このホームページは、なによりも日本の少年合唱の振興を目的としています。そこで、ここでは好き嫌いや価値観を抜きにして、最近十数年間の間で制服をリニューアルした少年合唱団の制服の変遷を客観的に紹介しました。どちらが美しいと感じるかは、訪問者の美意識にお任せましょう。

合唱団
 フレーベル少年合唱団
  広島少年合唱隊
   呉少年合唱団
 TOKYO FM 少年合唱団
      (予科・本科) 
   
   京都市少年合唱団
      輝(小学生)
   

 第3章 少年合唱に関するエッセイ

  本章では、私の少年合唱に関するエッセイを中心に、日本の少年合唱あるいは児童合唱について考えていることを述べました。

1 私は、なぜ、少年合唱が好きなんだろう

 私は、なぜ、少年合唱が好きなんだろう・・・。そんなことを自問自答することがあります。日本の少年合唱団に初めて接したのは、忘れもしません、平成10年12月23日のTOKYO-FM少年合唱団のクリスマスコンサートでした。「アマールと夜の訪問者」とクリスマスキャロルの演奏も素晴らしかったのですが、さらに感動したのは、舞台が終わった後、解散を前に集合した団員の少年たちの整然とした態度でした。山口先生の言葉が続きます。
「表舞台だけでなく、裏方があって成り立っていることを忘れないように。」
ここでは、こういう教育が行われているのか。

 その感動の冷めない翌年の1月、初詣がきっかけでボーイズ・エコー・宝塚に出会いました。そこには、いわゆる「月謝」もとらず、歌によって社会に奉仕することを理念とした中安先生・辻先生の姿がありました。宝塚から1歩も出ることがなかったため、対外的にはあまり知られることのなかった少年合唱団ですが、その理念には尊いものを感じました。また、団員の減少で苦しい運営をしている現状があることを知りました。
 今、日本の少年合唱団はどうなっているんだろう。そんな思いからウィーン少年合唱団と合同合宿・合同公演をしたという桃太郎少年合唱団の定期演奏会に行きました。そこでは、自分の合唱団の発展だけではなく数少なくなった日本の少年合唱団全体の発展を願う棚田団長先生との出会いがありました。さらに、その理念に共感して、熱い想いで指導に打ち込まれる広島少年合唱隊の登副隊長先生の姿が・・・広島少年合唱隊創立40周年を記念して委嘱されたと言う作品「君がいるから」を聴いたとき、身体が震えました。ほんものの歌を聴いた感動がそこにはありました。もう、こうなったら、音楽の素人である恥ずかしさなんか通り越して、ファンサイドから、危機的状況にある日本の少年合唱団を応援しよう。このまま放置したら、日本から少年合唱団が消滅してしまうかもしれない。そこには、今では忘れ去られたようなすばらしい教育が存在します。その活動を紹介することもまた、日本の教育再生にもつながるかもしれないと、想いは広がって行きました。その後、試行錯誤はありましたが、自分のホームページを作ることで、それは可能であるという結論に到達しました。

 さて、最近少年合唱の定番曲になっている歌に「ビリーブ」があります。この歌では、君がくじけそうになったり、誰かが泣き出しそうになったときは僕が支え、一緒に歩こうと歌われます。友情や共生のすばらしさを歌った名曲です。「このように生きたい」という憧れが清純なボーイ・ソプラノで歌われるとき、そこに美しい世界が現れます。この歌が美しく歌われるとき、歌とそれを歌う少年の人柄は重なって、その少年はそのような生き方をしている、あるいは、そのような生き方に憧れていると思わせます。それは、もしかしたら美しい錯覚なのかもしれませんが、ボーイ・ソプラノを聴く喜びがそこにあります。しかし、もし、舞台で美しい声で歌っている少年の生き方が、歌とは逆に舞台裏やふだんの生活でちゃらんぽらんだったとしたら、これほど興ざめのことはありません。これからも、舞台裏、ふだんの練習で輝く少年を応援していきたいと思います。

 ちょっと辛口発言になってしまいましたが、私のような少年合唱のファンは、ただ美しい声やうまい歌だけを求めているのではないのです。現在の日本では希少価値となってしまった時代に媚びない、だらしなさを毅然と拒否するような凛とした少年を求めているのです。それは、夢物語かもしれませんが、その夢をこれからも少年合唱の中に求め続けたいと思います。

2 芸術として・教育としての少年合唱

 少年合唱を聴く楽しみには、二通りあります。一つは、少年のわずかな時期だけに与えられたボーイ・ソプラノによって表現されるものを楽しむというもので、これを深く追求していくと芸術としての少年合唱を愛でることにつながります。もう一つは、合唱を通して人間として成長していく少年たちの姿を楽しむもので、これを深く追求していくと人間教育につながります。もしも、その両者が満たされた場合は最高の喜びです。

 海外から来日してその歌声を披露してくれる少年合唱団を楽しむ場合は、前者を期待しています。少年たちとの出会いは、文字通り一期一会ですから、素晴らしい歌声やハーモニーを聴くことができれば至福の時を過ごすことができます。しかし、そこでは、彼らの成長は問題にされません。ただ、出会ったそのとき、よい歌を聴かせてくれたかどうかだけが問題にされます。

 しかし、日本の少年合唱団を聴く楽しみは、それとは少し違っています。音楽的に優れているかどうかというだけでなく、少年の成長に寄り添ってその歌を楽しむことができます。ある少年合唱団の定期演奏会に毎年足を運ぶと、低学年の頃元気よさが持ち味だった少年が、高学年になって抒情的な歌を聴かせてくれたりしたときは、その少年の内面的な成長を伺うことができて本当に嬉しくなります。前年の定期演奏会(のどじまん大会)などで失敗した少年が、それをばねにして飛躍したりする場面に出会ったり、変声期という身体の変化と真剣に向き合いながら歌っている姿には感動を覚えます。そういう意味では、少年合唱団の定期演奏会は、芸術と教育が一体となった場なのです。

 ところが、芸術としてのコンサートにおいて、少年合唱やソリストが登場するときは、聴く耳はずっと厳しくなります。そこでは、「子どもだから」「かわいいから」という甘えは許されません。大人の演奏家と同じレベルで評価されます。そういう機会を与えられる少年は希でしょうが、その僥倖を生かして成長してほしいと願っています。

 ただ、日本における少年合唱ファンには、一部ではありますがいびつな側面があります。それは、純粋に芸術として少年合唱を愛好するのでもなく、また、少年の成長を見守るのでもなく、ヨーロッパから来た少年合唱団員を見た目がかわいいといって追いかけるアイドル志向のファンがいることです。こういうファンは概ね熱し易く冷め易いものです。スタートは「かわいい」でもよいと思いますが、そこでとどまらず鑑賞の質を高めてほしいと思います。
 少年合唱は品位を重んじる芸術であることを再認識したいものです。

3 メルカンティーニの魂を受け継いで

 ときどきメールで、
「館長さんは、日本のボーイ・ソプラノと少年合唱団だけに関心があって、海外の優れたボーイ・ソプラノや少年合唱団には、関心がないのですか?」
というお便りをいただきます。実は、この分野でもっとも信頼しているお一人のKiyoshiさんからも、常々外国の本格的なものを聴かないと耳が肥えないと助言を受けております。私は、外国の少年合唱団に関心がないのではなく、CDやビデオ・DVDも日本ものの十数倍は持っており、日頃より愛聴しております。ただ、外国のソリストや少年合唱団のファンページは、私がやらなくても他にもありますし、今、祖国日本の少年合唱団の危機を知って何もやらないのでは、日本人として「義を見てせざるは、勇なきなり。」であると思って、あえて「日本」にこだわっているのです。「祖国」という美しい言葉さえも、今では死語になりつつあります。こんなことでよいのでしょうか。また、私は、ボーイ・ソプラノや少年合唱団を聞く喜びは、音楽性がすべてとは思っていません。合唱団の教育理念や団員の人間としての育ちを大切にしています。たとえ声がきれいで、歌がうまくても、歌う少年の態度が悪いのでは、真の感動を聴く人に与えることなどできないと思って、むしろ警告を発しています。ですから、私はこのホームページを「趣味」のホームページを超えて、「志」のホームページにしようと思っています。

 私のこのような想いは、少年時代に読んだイタリア統一にかかわる逸話が大きな感化を与えています。私は音楽の素人に過ぎず、合唱の指導はできませんが、メルカンティーニの気高い魂を受け継いで、これからもこのホームページを通して、日本の少年合唱団を支えていきます。

 「メルカンティーニ?」
ガリバルディは小首をかしげた。
「知らぬ。聞いたこともない名だ。」
「は、何でも詩人とかで、ぜひ閣下にお会いしたいと申して。」
「会ってみよう。とにかくこんな隠れ小屋までやって来てくれたのだから。」
ガリバルディは、オーストリア、フランスに敗れて、一日として安き日のないイタリアのために奮起したが利あらず、転々流浪の旅を続けて、カブリラの島にしのんでいた時のことである。召使いに導かれて、やがて一人のたくましい青年が現われた。メルカンティーニである。
「閣下、会っていただけなかったら、私はドアを破って入るつもりでした。」
この言葉は、さすがのガリバルディを驚かせたほど、烈々たる魂に燃えていた。
「用件を言いなさい。」
「私は祖国の堕落が、残念でならないのです。長い歴史に輝くバラタインの丘を、ダイバーの流れを、ふみにじられ、奴隷のように辱しめられても、だれ一人として祖国を救おうとする者はないではありませんか。」
彼は頬を伝わる涙を、ゴシゴシと腕でこすった。
「泣いても泣ききれない気持がしました。そこで、私は閣下のことを開きました。イタリアはよみがえる!はっきりと、そういう気がしました。私はだれよりも先に、閣下のもとにはせ参じようかと思いました。しかし・・・」
メルカンティーニはカなく、目を自分の右足に落としました。
「私は、脚が不自由で、走ることができないのです。」
 この時、ガリバルディは、胸をつらぬくようなものを、青年に感じました。
「それで、閣下、私の血と生命をかけて、一つの詩を書きました。閣下にそれをささげて、それが許されたら、進軍の歌として、すべての人に歌ってもらい、私の心も、ともに従軍させていただきたいのです!」
「聞こう! 読んでくれ給え!」
メルカンティーニは、胸を張り、声も高々と読みあげた。

 進め! 進め!
 墓はゆるぎ、死者は生きぬ
 古き勇者は立ち上がりぬ.
 腕に剣、胸に楯
 イタリアの誉をかがやかせ。
 いそげ! いそげ!
 若き男の児よ!
 征旗を風になびかせつつ
 起てよ起てよいざ進め!
 まもれイタリア、まもれ敵に
 まもれイタリア外敵に・・・

 詩は決して優れているとはいえない。しかし、何とはげしく魂をむちうつ言葉であろう。
「メルカンティーニ君!」
ガリバルディは立ち上がって、痛いほどメルカンティーニの手を握った。
「ありがとう!イタリアのすべての人が、今に歌ってくれるぞ。」
 ガリバルディのこの火のような言葉は、間もなく真実となった。やがて、クロルトの漁村を、ガリバルディを先頭に有名な「千人の志士」たちが船出した。行くことの出来ないメルカンティーニは、ただひとりさびしくなぎさに立って、このイタリアの新しい希望を見送った。その時、沖合の彼らの船から、強く、はげしく、はっきりと、海をひびきわたってくるものは、彼の国土にささげたあの愛国歌ではないか。感激が胸一ばいにせまって、ただ涙の出るにまかせる彼は、いつまでもいつまでも船の去った沖のかなたを見つめて、立ちつくしていた。

                                            (出典 「例話大全集」 玉川大学出版部 より) 

4 「ろばの会」の功績と現状

 CD「いぬのおまわりさん ろばの会童謡名曲集」を聴くと、ああ、この歌も「ろばの会」のメンバーによって作られた歌だったのかと、少年時代に聴いたり歌ったりした歌のルーツを知ることができます。
 さて、平成30(2018)年は、鈴木三重吉の児童雑誌『赤い鳥』発刊から百年ということで、そこから誕生した「童謡」百年記念の演奏会等の行事や出版が全国各地で行われました。ところが、鈴木三重吉の理念には、当時の現実の子どもの実態を見ていない「おごり」を感じることがあります。それは、自分の視点でしか文学や音楽を語っていないからです。例えば、同時期に発行されていた『少年倶楽部』や『日本少年』は決して低俗な雑誌ではありません。例えば、『少年倶楽部』は「おもしろくてためになる」という理念のもと、当時の少年たち、とりわけ経済的に貧しい家庭の子どもたちに、努力すれば道は拓けるという価値観を植え付けることで、夢や希望を与えました。また、「唱歌」には、また違った価値があります。従って、私は、文学や音楽において芸術性は大事ではあるが、それがすべてではないと思っています。

 よく、童謡は大正時代と昭和20~30年代に名作が生まれたと言われていますが、現代に生きる子どもはもとより、若い世代に歌い継がれていない傾向もみられます。「ろばの会」は、昭和30(1955)年に、後日、フレーベル少年合唱団の指導者になる磯部俶による提案を受けた中田喜直を中心に、宇賀神光利、中田一次、大中恩の5人の作曲家たちが、「童謡」というよりも「こどものうた」の創作を目指して結成したグループです。結成当時、メンバーはいずれも30代の新進気鋭の作曲家であり、彼らは、「子供たちのために、いい詩と、いい音楽を」「頼まれて作曲するのではなく、自分たちで納得のいく音楽を」をモットーに掲げていました。 昭和20年代の頃は、童謡歌手と呼ばれる子どもたちによって歌われた童謡が、レコード化されてそれを通して日本中に広がっていましたが、「ろばの会」のメンバーは、そのような「レコード童謡」のイメージから脱皮しようとしました。このような「ろばの会」の呼びかけに、サトウハチロー、小林純一、薮田義雄らの詩人たちが創作に協力することになり、九月に「こどものうた」第一集が刊行され、第一回の「ろばの会発表会」も開かれました。また、「ろばの会」の歌を広めた歌手(グループ)には、真理ヨシコ、友竹正則、ボニージャックス、フレーベル少年合唱団等があります。

 このように、「ろばの会」は、童謡の新しい呼び名「こどものうた」を提唱しましたが、この理念は、必ずしもすぐに浸透したとは言えません、しかし、昭和61(1986)年に始まった「全国童謡歌唱コンクール」が、その名称を平成27(2015)年「童謡こどもの歌コンクール」と変えたことによってある程度実現したのではないでしょうか。

 この会の活動を通して生まれた代表的な曲は、「サッちゃん」(阪田寛夫 作詞、大中恩 作曲)、「犬のおまわりさん」(佐藤義美 作詞、大中恩 作曲)、「ちいさい秋みつけた」(サトウハチロー 作詞、中田喜直 作曲)、「おなかのへるうた」(阪田寛夫 作詞、大中恩 作曲)、「ドロップスのうた」(まど・みちお 作詞、大中恩 作曲)などですが、創設のメンバーも次々と他界し、平成12(2000)年3月に解散コンサートを行いました。また、これらの歌が、現在よく歌われているかどうかと問えば、少なくとも多くの子どもによく歌われているとは言い難い状況です。「歌は世につれ、世は歌につれ」と申しますが、中には、描かれた歌詞の時代背景が変わったという歌もありますが、今にも通じる歌もあります。

5 少年子役の演技と童謡歌唱

 「子役は大成しない。」
 かつて、子役と大人の俳優の間には、なかなか超えられない高い壁がありました。子役として人気者であっても、いつの間にかメディアから姿を消すことが多くありました。歌舞伎俳優の場合は、先ず家があり、伝統的な芸を身に着けているので、年齢相応の役が与えられますが、やはり、相応の苦労はあります。「風姿花伝」にそのあたりのことは描かれています。

 ところが、最近、神木隆之介をはじめ、子役出身の青年俳優が活躍するケースが多く見られるようになってきました。濱田岳、本郷奏多、須賀健太、加藤清史郎、鈴木福等と子役出身の人気俳優が次々と出てきています。加藤清史郎については、子役時代の活躍が大きすぎて、青年俳優としての評価はまだこれからと言えるでしょうが。

 それは、従来は、大手の児童劇団が、子役に対して、子どもらしさを強調するような話し方の芝居を求めてきたこともあったでしょうが、それは、大人の芝居では通用しないことも多く、次第に、大人になったときのことを想定しながら仕事を受け、指導してきたこともあるのではないでしょうか。子役が年齢によって所属事務所を変えるのも、その一つの表れと言えるかもしれません。
   変声期は様子を見るのではなく、その時期にあった役を端役であっても出演し続けることで、忘れられないようにするという例も増えてきました。

 一方、歌の世界でも、同じようなことが言えます。かつて、日本には童謡歌手という、他の国には例のない歌手が存在しました。時代的には、大正時代から昭和20~30年代が中心になります。(大正時代と昭和20~30年代は、また童謡の名曲が多く誕生しました。)それ以後は、児童合唱団で童謡も歌ってきたというケースが多くなります。(「音羽ゆりかご会」や「ことのみ児童合唱団」や「DOYO組」のように童謡をメインにした合唱団も少数ありますが)童謡の歌唱法も、子役の話し方の芝居に共通した可愛らしさを強調したところがあります。ところが、このような歌唱は、他の分野の歌唱では通用しないことがほとんどです。
  このホームページは、ボーイ・ソプラノをメインにしていますので、少年童謡歌手をもとにして話しますが、クラシックに進むにせよ、ミュージカルに進むにせよ、シャンソンや歌謡曲に進むにせよ、歌唱法を学びなおして再出発しています。

  藤山一郎のように、クラシックを歌う時は本名の増永丈夫で歌い、歌謡曲の時は藤山一郎というふうに使い分けている人もいます。日本の童謡歌手で、その後どのジャンルに進んだかを挙げると次のようです。ただ、このジャンルの分類もあいまいになってきています。また、今、学習中という若手の少年歌手はあえて書いていません。当然のことながら、少年時代歌がうまかったことで、歌手になった人は少なく、他職を選択した人の方が圧倒的に数多くいるとは思いますが、(趣味として歌うことはあったでしょうが)それは、あえて書いていません。

クラシック:金子一雄 斎藤達雄 佐々木行綱 岡田孝 石井健三 坂本秀明
ミュージカル:石井健三  未来和樹
ジャズ:河野ヨシユキ
シャンソン:庄司淳
児童合唱団指導者:皆川おさむ


6 「チャットGPTに聞いてみた。」

 令和5(2023)年2月21日に「チャットGPT」をインストゥールしてから、「日本の少年合唱を盛んにするにはどうしたらよいでしょうか。」という問いを、2~3週間ごとにしてみました。「チャットGPT」は、人工知能ですから、学習したことを加えながら少しずつ違ったことを答えていますが、根本的な点で違うのではないかと思うこともあります。

   
(問)日本の少年合唱を盛んにするにはどうしたらよいでしょうか。

   (答)日本の少年合唱を盛んにするためには、以下のような方法が考えられます。
1.教育現場での取り組み強化:日本の学校教育において、少年合唱団の設立や運営が強化されるよう取り組むことが必要です。例えば、音楽科目の時間を増やす、合唱の授業を必修科目にする、合唱祭を開催するなど、学校での環境整備が必要です。

2.合唱団体の普及:学校外での合唱団体の設立や運営も、少年合唱の普及につながります。自治体が支援する合唱団体や、地域の合唱団体が少年合唱団を立ち上げることで、多くの子どもたちが合唱に親しめるようになるでしょう。

3.コンクールの開催:少年合唱のコンクールを開催することで、競技意識を持って合唱に取り組むことができます。また、優秀な合唱団体が出ることで、少年合唱の普及につながる効果も期待できます。

4.海外での発信:日本の少年合唱を海外に発信することで、国際的にも注目されるようになります。例えば、海外でのコンサートや音楽祭への参加、海外の合唱団体との交流などが考えられます。

以上のような方法を取り入れることで、日本の少年合唱を盛んにすることができるでしょう。ただし、少年たちが音楽に親しめる環境を整備することが最も重要であると考えられます。

   (私見)
1.音楽科の時間だけでなく、あらゆる教科の時間数は、学習指導要領で規定されているので、学校や教師の裁量で変えることはできません。学校行事の「音楽会」とその練習を特別活動の「学芸的行事」としても、数時間の増加にしかならないでしょう。また、クラブ活動は、これから働き方改革との関係で、朝練習や放課後練習をこれまで以上に増やすことが難しいのではないでしょうか。

2.地方自治体が、所管する教育委員会の事業として少年合唱団を生涯教育(社会教育)の一環としたり、補助金団体としているところは、実際にあると思いますが、これから新たに設立する合唱団は、男女共同参画の考えから「少年」合唱団ではなく、「少年少女」合唱団でなければ、設立することが難しいのではないでしょうか。私塾的に行う場合は、そのような制約を受けませんが、事務的・財政的な問題をクリアーしなければなりません。

3.コンクールに参加するための旅費・宿泊費を含む経済的問題は無視できません。これは、スポンサーがつけば別ですが、スポンサーも「社会貢献」という大義名分があるならともかく、ブランディングもないことにかかわるとは考えにくいでしょう。通常の場合、保護者負担になります。また、教育的競争の意義は否定しませんが、課外活動や趣味の世界に、順位が伴うことの功罪は考えなければなりません。

4.来日した海外の少年合唱団に日本の少年合唱団が賛助出演することは、これまでもなされてきました。共演した少年にとっては、よい思い出にはなると思いますが、その効果がどこまで永続するかはわかりません。スポーツでも、個人でも団体でも強くなるほど、国内外の遠征が伴うため、経済的に厳しくなってやめてしまうということを耳にします。YouTubeを使って発信する場合は、英語で説明を入れないと海外発信は限定的なものになります。また、たとえ海外で人気が出ても、それだけでは、ある地域の少年がその少年合唱団に入団することには必ずしもつながるとは言えないと考えられます。

 ということで、一見合理的・効果的と思われるチャットGPTが提唱する方策にも、違った課題があります。


7 日本昔話とそれをもとにした唱歌

 半世紀以上前の子どもたちは父母や祖父母から日本昔話を聞かされることが多くありました。また、そのころは、学校でも昔話や童話を語ることが得意な先生がいて、学級の中でもそのような話を聞いて育ってきました。また、昭和の終わりごろに幼児期や少年少女期を過ごした人は、テレビで「まんが日本むかし話」を見て育った人もかなりいるでしょう。しかし、だんだん、そのような体験を持つ子どもが少なくなってきました。その影響は、言葉や国語の問題だけでなく、子どもの心にも表れてきたように感じます。

 日本昔話の多くには、よいことをすればよい結果が生まれ、悪いことをすれば悪い結果が生まれるといった勧善懲悪の倫理観が含まれています。例えば、「花さかじじい」には、「正直じいさん」と「よくばりじいさん」という善と悪の代表が出てきます。正直じいさんは、山で拾ってきた犬をかわいがることからよいことが起こり、犬の死後も次々とよいことが起こるけれども、よくばりなねたみ心からその犬を虐待して殺してしまうよくばりじいさんには、悪いことが続くという筋書きです。そこには、人はどう生きるべきかという教訓が含まれています。このような話を幼い頃に繰り返し聞くことによって、その子どもの心の中に正義感が育ち、成長してからも無意識のうちによい考えをもとにして行動できるようになるというのは、子育てする上での知恵や伝承文化と言ってもよいでしょう。これは、日本だけでなく、世界各国の昔話や童話の中にも見られます。

 人は、成長するにつれて、いろいろな人を知り、いろいろな体験を通して、よいことをしても必ずよい結果が生まれるとは限らないことも知っていくのですが、幼い時によいことをよいと感じ、悪いことを悪いと感じる善悪の心情を育み、判断力をつけていくことは、その子どもの心の成長にとって大切なことです。もしも、悪いことをよいと感じ、今楽しければそれでよいと考えて行動する子どもが増えてきたら、社会はだんだん崩れていきます。

 また、それらの昔話をもとにした唱歌も数多く作られ、そのレコードも作られました。それらが、子どもの人間形成に果たした役割も大きいと考えます。

(参考資料)
 これまでにも、「月寒の少年」を共同研究したノースエンド氏より「日本昔話」をもとにした唱歌には、2通りあるものがあるという参考資料を送っていただきましたので、関連資料として、記載します。

「牛若丸」
①石原和三郎/田村虎蔵(1901年) 「幼年唱歌(ニノ下)」 父は尾張の露ときえ、母は平家に捕らえられ、兄は伊豆に流されて…
②文部省唱歌(1911年) 「尋常小學唱歌(一)」 京の五条の橋の上、大の男の弁慶は、長い薙刀ふりあげて…

「桃太郎」
①田辺友三郎/納所弁次郎(1900年)「幼年唱歌(初ノ上)」 桃から生まれた桃太郎、気は優しくて力持ち、鬼ケ島をば討たんとて…
②滝廉太郎作詞、作曲(1901年)「幼稚園唱歌」 桃太郎さんのおともには、犬さるきじの三びきよ、おとものほうびは何やろう、日本一のきびだんご
③文部省唱歌(岡野貞一)(1911年)「尋常小學唱歌(一)」 桃太郎さん桃太郎さん、お腰につけた黍団子、一つ私に下さいな

「浦島太郎」
①石原和三郎/田村虎蔵(1900年)「幼年唱歌(初ノ中)」 昔昔浦島は、子供のなぶる亀を見て、あわれと思い、買い取りて…
②文部省唱歌(1911年)「尋常小學唱歌(ニ)」 昔昔浦島は、助けた亀に連れられて、竜宮城に来てみれば…

「花咲爺」
①石原和三郎/田村虎蔵(1901年)「幼年唱歌(初ノ下)」 裏の畑でポチがなく、正直爺さん掘ったれば、大判小判がザクザク、ザクザク
②文部省唱歌(1911年) 「尋常小學唱歌(一)」 正直爺が灰まけば野原も山も花盛り、殿様大層よろこんで、爺に褒美を下される
 ①は幼年唱歌に、②は尋常小學唱歌に載ったもので、新しいものが歌い継がれていますが、興味深いのは、「花咲爺」は、古いものが歌い継がれてます。

以下の曲は、作り直されることなく、歌い継がれています。
・「金太郎」石原和三郎/田村虎蔵(1900年) 「幼年唱歌(初ノ上)」 まさかりかついで金太郎、熊にまたがりお馬のけいこ、ハイ、シイ、ドウドウ…
・「一寸法師」巖谷小波/田村虎蔵(1905年)「尋常小學唱歌(一ノ中)」 指に足りない一寸法師、小さい体に大きな望み、お椀の船に箸の櫂…
・「うさぎとかめ」石原和三郎/納所弁次郎(1901年)「幼年唱歌(ニノ上)」 もしもし亀よ亀さんよ、世界のうちにお前ほど、歩みののろいものはない…
*田村虎蔵編「検定唱歌集尋常課用」で、「世界のうちに」は「世界のうちで」に改めた方が宜しい。   (資料提供 ノースエンド氏)


 8 ウィーン少年合唱団のコンサートとミュージカル『ビリー・エリオット』の観客層から考えること

   令和6(2024)年6月1日・2日の2日間、ウィーン少年合唱団のコンサートに行ってきました。コンサートそのものは、伝統を踏まえながらも新たな取り組みがあってたいへんよかったです。ただ、その観客層から、日本の少年合唱の未来を考える上で気がかりなことがあります。

 さて、どちらの会場も、約2000人収容できる会場で、座席は9割ぐらい埋まっていたのですが、土日なのに、観客の約6割が高齢女性、約2割が高齢男性(ご夫妻というケースも)。一方、子どもは男女合わせて5%未満という感じでした。ウィーン少年合唱団は、以前は、3年に1度の来日でしたが、20世紀末からコロナ禍の3年を除いて毎年来日公演をしていますが、このような観客の年齢構成では、10年後どうなるのかということを心配しています。また、プログラムを見ると、かつては北海道から沖縄までほとんどの都道府県で公演が行われましたが、今年は、東北地方以北や少年合唱団が3団体ある中国地方での公演がなかったことも気になります。

 かつてのプログラムを紐解いてみました。約半世紀前の昭和50(1975)年、私が初めてウィーン少年合唱団の来日公演を大阪のフェスティバルホールで鑑賞したときは、会場は親子連れの観客であふれていましたが、音楽の力と親のしつけもあって、子どもの鑑賞態度がたいへんよかったことが心に残っています。その子どもたちも、今では50~60代です。

 さて、ミュージカル『ビリー・エリオット』は、少年が主役を演じるミュージカルですが、その観客は、私が観劇した平成28(2016)年も令和2(2020)年も、平日なので子どもの姿は見かけませんでしたが、ほぼ満席で、若い女性が6割、若い男性2割、その他2割という感じでした。このようなことから、日本の少年合唱を再び隆盛に導き、少年合唱ファンを増やすためには、外国の実力のある少年合唱団を招聘すればよいといった単純なものではないことがわかります。もちろん、少年合唱団がダンスを踊ればよいというものでもありません。また、ミュージカル『ビリー・エリオット』は、全国公演ではなく、東京と大阪でしか公演していないので単純に比較はできません。リベラの公演が全国3か所ぐらいでどこも満席になっていることと単純比較しても仕方がないのと同じです。

 日本におけるミュージカルの隆盛の背景には、例えば、劇団四季が教育委員会とも連携して大阪府の小学6年生を学校単位で2年に1回無料で梅田芸術劇場において午前中にまだ無名の若手のメンバーによる公演に無料招待し続けてていたことが、今、花開いているということも考えられます。(この事業がコロナ禍以後も継続しているかどうかは不明です。)なお、ミュージカル『ビリー・エリオット』にも、「エレクトリシティ」というナンバーがあり、日本のビリー役経験者では、未来和樹や川口 調、中村海琉の歌唱力は確かなものですが、あくまでもダンスが中心のミュージカルです。今年も、夏から秋にかけて東京と大阪で4年ぶり3回目のミュージカル『ビリー・エリオット』が公開されます。

 9 海外の少年合唱団の来日 

 日本の小・中学校は、全国的に夏休みの季節となりました。(この期間は、公立学校では教育委員会の学校管理規則によって決まります。北海道は、冬休みが長く夏休みが短いとか、授業時数の確保のため8月23日から2学期という地域もあると聞いています。私立は、週5日制ではなく、土曜日に授業がある学校が多くあります。) 
 さて、昭和の終わりごろは、夏休みの季節になると、海外の少年・少年少女合唱団が来日して、公演先の児童合唱団(少年合唱団)と数曲共演したり、場合によっては、ステイホームするということもよく見られました。ところが、平成になるころからそのようなことは少なくなり、今年(令和6 2024年)も、文化庁の主催で、7月25~28日まで東京国際合唱コンクールが開催されます。主催国の日本だけでなくインドネシア、チェコ、ポーランド、中国、台湾、フィリピン、ラトビア、ジョージア、シンガポール、スペイン、ベトナムから計53団体が出場するそうです。しかし、そのうち13歳以下の団体、18以下の団体、学校合唱は計13団体で、多くは成人の団体です。
 ところが、お隣の韓国や中国には、欧米の少年合唱団が次々と来日するようですが、日本はパスしています。どうしてこのような現象が起きたのでしょうか。一言でいえば、日本では、少年合唱の人気がかつてほどないということです。その原因は、少子化、音楽の好みの多様化、合唱音楽への関心の低下、コロナの負の遺産など複合的な要因があります。
 これは、海外の少年合唱団を招聘さえすれば解決するという問題ではありません。招聘はしたものの観客が入らないというのでは、開催するほど赤字ということになってしまいます。会場の借り上げだけでなく、移動の旅費や宿泊費が賄えるかということも大きな問題です。かつては、マスコミがよく取材して、テレビ放映していましたが、今は、ほとんど採り上げられていません。ウィーン少年合唱団の公演が東京・横浜をはじめとする関東(学校の貸し切り公演)中心で、東北地方以北や日本に少年合唱団が3団体ある中国地方ではなかったことの理由を分析する必要があります。同時に、国内で少年合唱の魅力を伝える活動を盛んにすることこそが根本です。

 10 少年合唱における動き

 少年合唱だけでなく、合唱音楽そのものは、「宗教的合唱曲」にそのルーツを持っており、そのような敬虔さを求める音楽が、落ち着きのないない印象をもたれてはよくないと思います。特にクラシック音楽の場合、宗教音楽に限らず、ベートーベンの交響曲第9番「合唱」や、マーラーの交響曲第3番、シューマンの「流浪の民」など、独唱者は起立したり、前に一歩出て歌いますが、合唱は直立不動で行うものという「伝統」を作り、守ってきたように思います。一方、ポップス系の音楽の場合、直立不動であることに堅苦しさやリズム感の欠如を感じることもあるのではないでしょうか。

 日本の少年合唱団の演奏する曲は、団体によってもその傾向は違いますが、「宗教的合唱曲」と「ポップス系の合唱曲」は、分けて考えたほうがよいと思います。最近は、NHKの学校音楽コンクールの課題曲にも、あえて部分的に動きを入れた曲が登場しています。ましてや、北九州少年合唱隊や広島少年合唱隊のようにミュージカルに取り組んでいる団体は、そこに、動きがあって当然です。ミュージカルは、オペレッタから発展したものですが、20世紀は、ウィーン少年合唱団のプログラムは、3部構成で第1部と第3部は、「静」の要素が強い合唱で、第2部に「動」の要素が強いオペレッタを入れていました。TOKYO FM少年合唱団は、クリスマスコンサートに歌劇『アマールと夜の訪問者』を入れたりしています。かつて、暁星小学校聖歌隊のコンサートで、「うめぼしリモコン」という歌がありましたが、前奏の部分に動きを採り入れており、大変新鮮に感じたものです。広島少年合唱隊がアメリカに演奏旅行した時に交流した少年合唱団のレバートリーから採り入れた「カンタール」など、まさに混声合唱と動きが一体化した合唱曲で、隊員がやりたがっている曲だそうです。京都市少年合唱団も最近振付専門の先生を指導陣に加え、不自然な動きもなく、舞台が動的であるだけでなく立体化してきたように感じます。現代の子どもは、生まれたときから、テレビのチャンネルを入れれば、歌のある音楽番組では、ほぼ動きのある音楽が流れてきて、それを聞いて成長しています。むしろ、動きのない直立不動の音楽に接することの方が圧倒的に少ないのではないでしょうか。日本において、少年合唱団の黎明期と言われる昭和30年代頃は、東海林太郎のように直立不動で歌う歌手は、ほとんど出てこないにしても、歌謡番組は、せいぜいマイクを持って歩きながら歌う程度でしたが、今では、全く動きのない歌を探すのが難しいぐらいです。合唱においても、ダークダックスやボニー・ジャックスは基本的に動きのない男声合唱でしたが、デューク・エイセスの「筑波山麓男声合唱団」は、動きを大胆に取り入れた合唱音楽ということができます。

 これは、日本だけの問題ではなく、世界的な広がりを持っています。例えば、パリ木の十字架少年合唱団の最近の動向を見ると、曲にもよりますが、「静」から「動」へと動いているように感じます。それを嫌う人もいるようですが、時代にあった変化ではないかと思います。現在、少年合唱に関心を示す日本の子どもは、男女を問わず現在決して多いとは言えません。それならば、少年合唱に関心を持たせるためにも、曲によっては、動きを採り入れる、あるいは、リズムを体得するために、身体を動かして歌うことを採り入れてもよいように思います。やはり、必然性のある動きが観客にとって快く感じるものです。「現在、音楽がどのような傾向にあるのか」ということは、指導者は特に注目しておく必要があります。ただし、歌が「従」になってしまってダンス合戦のようになっている今の日本の歌謡界は、これでよいのか疑問に思っています。

 第4章 日本の少年合唱とその周辺

   この章では、上記のテーマに属さない、少年合唱や児童合唱に関するエッセイのような文を掲載します。

1 上高田少年合唱団の歌が残したもの

 平成23(2011)年の大津市中学生いじめ自殺事件をきっかけとして、いじめ防止対策推進法が成立しましたが、相変わらず日本の大きな教育問題・社会問題であることは変わりません。ところで、平成6(1994)年にも、愛知県西尾市の中学生がいじめや恐喝を苦に自殺したという事件が大きく報道されました。これらの事件は、いじめを通り越して犯罪だと思いますが、そのいじめの中に、被害生徒の顔を川に突っ込むというものがありました。私はそれを知ったとき、実はテレビが子どもたちにいじめのヒントを与えているのではないかと感じました。その番組「スーパーJOCKEY」は、ビート・たけし主演のバラエティ番組で、ダチョウ倶楽部などのタレントを熱湯に入れて沈め、息をしようとするとまた沈めて、苦しんでいるのを見て楽しむという極めて悪趣味なものでした。こういう悪いモデルを日本中に放映していることこそが、犯罪的だと感じました。これは、決して視聴者が適切に判断すればよいといったものではありません。関係者は、この番組を多くの子どもが見ているということを考えていたでしょうか。

 そんなことを思うとき、上高田少年合唱団が昭和30年代から40年代にかけて歌ってきた子ども向けのテレビドラマやアニメの主題歌は、その対岸にあると感じます。いろんな主題歌の一節を思い出すままに列記してみましょう。

 僕等の知ってるあの人は みんなが苦しいときに来る (「アラーの使者」より)
 つらいときにも勇気を出して 正しいことをやり通す (「赤銅鈴之助」より)
 親に心配かけまいと あっという間の早変わり (「まぼろし探偵」より)
 まわれ矢車 僕等の上に 闇を断ち切る 光のごとく 悪を滅ぼす 正義の翼 (「矢車剣之助」より)
 ぼくらは進むぞ 宇宙の果てまで 強く正しい ぼくらの仲間 (「宇宙パトロール ホッパ」より」

 歌が、よきにつけ悪しきにつけ人の精神に感化を与えるということは、音楽にかかわる人が常に意識していなければならないことです。上高田少年合唱団は、硬質な声と詩を縁取るような力強い歌い方で、その番組を視聴する子どもたちの精神に正義感を育んでいきました。戦後、日本の教育音楽の世界では、歌詞よりも曲が優先される傾向があります。私は、それを否定しません。しかし、昭和30年代から40年代にかけては、テレビやラジオの子ども番組の主題歌が、学校における教育音楽を補完していたと言うこともできるのではないでしょうか。
 上高田少年合唱団の歌が聞こえていたのと同じ頃、もう一つ子どもたちの正義感を育てるものがありました。それは、力道山のプロレスでした。力道山はプロレスを通して「卑怯なことをしてはいけない」ということを子どもたちの心に植え付けてくれました。「卑怯」という言葉が、今の日本では死語になってしまいました。それがけんかやいじめを苛烈なものにしてしてしまったのではないでしょうか。かつてベストセラーになった藤原正彦の「国家の品格」でも、そのことが述べられています。「今、楽しかったらよい」という風潮が、著しく大人だけでなく子どもの精神を犯しています。

  さて、 「少年探偵団」(「怪人二十面相」)は、何度かラジオや映画・テレビでドラマ化されていますが、昭和30年代においてはその主題歌「少年探偵団の歌」や「少年探偵団」を上高田少年合唱団が歌っていました。(なお、後者はひばり児童合唱団も歌っています。)これらをYouTubeで聴き比べてください。上高田少年合唱団の歌には、ヨーロッパの聖歌的な響きはありませんが、戦前より引き継がれた日本の少年らしい凛としたものを感じます。ある意味では、その歌声は戦時歌謡にもつながるものかもしれません。なお、昭和50~51年に放映された「BD7(Boy Detectives Seven)」となってくると、歌も「少年探偵団のうた 行くぞ!BD7 」(水木一郎、コロムビアゆりかご会、BD7)となり、ドラマも古い洋館づくりの建物の地下牢に閉じ込められる小林団長にドキドキしたオールドファンには、なんだか違うなあという感じがしました。
「少年探偵団の歌」 志村 透 作詞 鏑木 創 作曲 歌い出し  とどろくとどろく、あの足音は 
https://www.youtube.com/watch?v=WfNOTYMRNMQ
少年探偵団」 檀上 文雄作詞  白木 義信作曲  歌い出し  ぼ・ぼ・ぼくらは少年探偵団
https://www.youtube.com/watch?v=PeEkNM06nvw
「行くぞ!BD7 」上原 正三 作詞 菊池 俊輔 作・編曲  歌い出し  みんなで みんなで みんなで進めば こわくはないさ
https://www.youtube.com/watch?v=OAeQMi7BS6w

  さて、上高田少年合唱団は、「芸名」でもあり、奥田政夫先生が転勤されてからも、その名前は継続されました。また、その母体となった中野区立上高田小学校は新井小学校と統合して、令和2(2020)年4月より令和小学校として新たに開校しました。上高田少年合唱団が復活することはないでしょうが、その歌が残したものについて、もう一度光を当ててみる必要があるのではないでしょうか。

 2 子ども向きテレビドラマ・アニメの主題歌と少年合唱

 上高田少年合唱団の歌については、前述したように、項を設けて述べていますが、昭和25(1950)年から昭和の終わり(1989)ごろまでは、少年を主人公としたドラマが多く最初はラジオで、後にはテレビで放送されました。やがて、そこにはアニメが加わりましたが、その主題歌は、上高田少年合唱団や西六郷少年(少女)合唱団、ビクター少年合唱隊等の少年合唱によって歌われることが多く、これらの番組は全国放送されたため当時の子どもにとっては身近なもので、とりわけ海外の少年合唱団にふれることのなかった日本の少年にとって、これらの主題歌は、少年合唱を身近なものにしてくれました。

 日本の少年合唱あるいは、児童合唱(少年少女合唱)を支えていたのは、実は、海外から来日して宗教曲を中心とした歌を歌う少年合唱団だけでなく、子ども向きドラマの主題歌を歌う日本の少年合唱団ではなかったかと思うのです。ウィーン少年合唱団はじめとする海外の優れた少年合唱団によって触発されたのは、むしろ当時の日本の小・中学校教師や合唱に関心の高い子どもだったのではないでしょうか。今、日本の少年合唱を振興するためには、海外の優れた合唱団を日本に招聘することよりも先にすることがあるのではないかと思うこともあります。

 そのような意味で、子ども向きテレビ(ラジオ)ドラマの主題歌にもう一度光を当ててみる必要があるのではないかと思います。また、そこには、日本の少年だけが持っている歌声の特質と表現力があります。また、これらの番組は、テレビの場合、昭和38(1963)年に始まった『鉄腕アトム』を境にして、実写からアニメへと次第に推移していきましたが、子ども番組として、子どもがよく視聴している夕方の午後5時30分から午後8時ぐらいのいわゆるゴールデンタイムに放送されていましたが、残念ながら、現在地デジでこの時間帯に「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」「ドラえもん」等のアニメとEテレの諸番組を除けば、子どもを対象とした番組らしいものはなく、ニュースを除けば、いわゆるお笑い芸人を中心としたバラエティ番組ばかりが目につきます。少子化とも関係しているかもしれませんが、『ケンちゃんシリーズ』や『あばれはっちゃくシリーズ』など子どもが主役の番組はもう生まれないかもしれません。

 また、上高田少年合唱団の指導者 奥田政夫や西六郷少年(少女)合唱団の指導者 鎌田典三郎は、戦後昭和20年代(1940年代後半)から教職に就き、少年(児童)合唱という新分野に取り組みましたが、子ども向きドラマやアニメの主題歌を歌っていたのは、昭和50(1975)年頃までがほとんどであり、奥田政夫は、後年は器楽や編曲の方にその力点が移ったこともあって、その指導を受けた子どもたちは、現在60歳以上になっています。また、実写版のドラマやアニメの発信地は東京であり、テーマ曲の録音に参画したのは、在京の少年(児童)合唱団が担いました。それでは、地方の少年合唱団は、それらの歌を歌ったでしょうか。20世紀のことは調査していないのでわかりませんが、21世紀ににおいては、ボーイズ・エコー・宝塚は、手塚治虫が5歳から24歳までの約20年を宝塚で過ごしたこともあって、手塚治虫のアニメの主題歌をレパートリーとしていました。また、京都市少年合唱団「みやこ光」が、定期演奏会で手塚治虫の作品のテーマソングを採り上げたことはあります。むしろ、特筆すべきは、ドラえもん50周年として、20世紀最後の年の平成12(2000)年に映画『ドラえもん のび太の太陽王伝説』の「ドラえもんのうた」をウィーン少年合唱団が歌ったということです。確かに合唱曲としてよくアレンジされており、ウィーン少年合唱団の日本語もうまくなっていますが、ドラえもんも国際化したものだと思うと同時に、なぜ日本の少年合唱団に歌わせなかったのかという想いもあります。

 また、アニメは、その後盛んになって1980年代にかけてテレビアニメの黄金時代を迎えます。特に1960年代には「鉄腕アトム」や「魔法使いサリー」などが放送され、アニメ文化が定着しました。また、1970年代には「機動戦士ガンダム」などの巨大ロボットアニメが人気を博し、新たなジャンルが生まれました。1989年に「AKIRA」が北米公開され、日本のアニメは国際的に注目されるようになりました。その後、世界市場での評価と進出が急速に拡大しています。現在では、ファンタジー、SF、恋愛、スポーツ、ホラーなどさまざまなジャンルのアニメが制作されており、多様性が豊かです。このように、日本のアニメーションは、技術の進歩や社会の変化に合わせて成長してきました。今後も新たな作品が生まれ、世界中で愛され続けることでしょう。しかし、アニメの主題歌を日本の少年合唱団が歌うということはほとんどなくなりました。『巨人の星』のテーマソング「ゆけゆけ飛雄馬」は、軍歌調の歌でしたが、男声合唱でした。アニメソング歌手というジャンルもできましたが、そのほとんどは女声です。少年が主人公であった『ケンちゃんシリーズ』や『あばれはっちゃくシリーズ』も、主題歌を歌っているのは、主人公の少年俳優であることは少なく、ほとんど女性歌手でした。

 日本において、ウィーン少年合唱団の来日が、当時の音楽教育関係者を動かして、児童発声の研究を進め、全国に少年合唱団が誕生しました。しかし、欧米の少年合唱団の多くがキリスト教の聖歌隊をそのルーツとしているのに対して、日本の少年合唱団のほとんどは、地域の音楽教育関係者が指導者であり、一時的なブームが過ぎると、その多くが長続きせず解散したり、少女を入れて少年少女合唱団となりました。今、海外の優れた少年合唱団を日本に招聘することだけが少年合唱を盛んにすることではないと思っています。今ある日本の少年合唱団を育てていくことが求められています。
 昭和30~40年代は、日本の少年合唱が盛んだった時期でありますが、それは、発声において海外の少年合唱団を模倣するだけではなく、日本の少年だからこそ表現できるドラマやアニメの主題歌をレパートリーとして歌っていったことが大きいのではないでしょうか。そこで、歴史を追って、毎月5作品ずつ、少年合唱(ボーイ・ソプラノ独唱)で歌われたドラマ・アニメの主題歌を年代を追ってご紹介していきましょう。

   昭和32(1957)年
「快傑黒頭巾の歌」(伊藤 久男・上高田少年合唱団)  
https://www.youtube.com/watch?v=qHz798aMyoU
「少年探偵団」宮下 匡司・上高田少年合唱団  
https://www.youtube.com/watch?v=T4RLTPJTyA8
   昭和33(1958)年
「遊星王子の歌」(大江洋一 上高田少年合唱団)  https://youtu.be/VfIheqmFMX
   昭和34(1959)年
「まぼろし探偵の歌」(岩瀬寛・上高田少年合唱団)  
https://www.youtube.com/watch?v=qdTN7yN9O3o&list=RDEM38aGMDEaoGcveKlz8tj-jQ&index=8
「赤胴鈴之助の歌」(岩瀬寛・上高田少年合唱団)   https://www.youtube.com/watch?v=h4z66RZvWg8

  昭和34(1959)年は、皇太子殿下(現上皇陛下)のご成婚やプロレス人気もあって、テレビの普及率が爆発的に高まった年でもあります。テレビは日本の戦後復興の象徴のひとつとして普及していった昭和28(1953)年にはじめて日本国産のテレビが販売され、同年にNHKと日本テレビが日本で初めてテレビ放送を開始しました。当時のテレビは非常に高価だったため、テレビを持つのは一部の富裕層だけであり、そこに近所の人が集まる形になっていました。(それは、地域のコミュニティがまだ健在であったということにもつながっています。)また、繁華街や主要駅などに設置された街頭テレビには、プロ野球やプロレスを観る人で賑わいを見せました。
 昭和32(1957)年当時のテレビの普及率は8%弱でしたが、昭和33(1958)年には10%を超え、翌昭和34(1959)年には24%近くとなったそうです。これは、昭和34(1959)年4月10日の当時の皇太子殿下と美智子妃殿下のご成婚パレードの放送を機に、テレビの普及が全国的に一気に広まったものと言われています。そして、昭和40(1965)年には全世帯の9割がテレビを持つに至りました。これは、昭和39(1964)年の東京オリンピック開催が大きかったのでしょう。

   昭和34(1959)年
『鉄腕アトム (実写版)』 (上高田少年合唱団) 
https://www.youtube.com/watch?v=EKB5agIOUTI
『矢車剣之助』 (上高田少年合唱団) 
https://www.youtube.com/watch?v=hs49LoiAN0Y
『鉄人28号』(ラジオドラマ)(上高田少年合唱団) 
https://www.youtube.com/watch?v=ko6acYDyTX8
『少年猿飛佐助』(アニメ映画、主題歌「猿飛佐助」)(上高田少年合唱団)
https://www.youtube.com/watch?v=YFQvvbXZj9k
『少年ジェット』(藤沼一美 大道寺重雄 ヒ゛クター児童合唱団) https://www.youtube.com/watch?v=kQkxGDHHEQU

   昭和35(1960)年は、子ども向けのテレビドラマがさらに量産されましたが、その基調は、現代劇も時代劇も正義の味方が悪をやっつけるというものが主流でした。それは、単純であっても、子どもの正義感を育んでいたという側面もあります。「ポンポン大将」は、東京の下町のポンポン船の船長の桂小金治を主人公にした人情劇でしたが、東京に住んでいない子どもにも、何となく東京にも山の手(少年探偵団が活躍する洋館造りの家があるまち)と、ポンポン船がある庶民的な下町があることを感じさせました。そこに住む子どもの服装もちょっと違うような・・・
しかし、何よりも大きかったことは、そのような子ども向けのドラマの主題歌(子どもにも理解できる歌詞)を日本の少年合唱団が歌うことによって、当時の子どもたちにとっては、少年合唱団の歌声が、日常生活に結び付いた身近なものであったということです。その傾向は、昭和50(1975)年ぐらいまで続きました。令和の今は、Eテレ等に子どもが歌う番組はあるものの、テレビを通して日本の少年合唱団の歌声を聴くことが難しくなってきました。

昭和35(1960)年
「ポンポン大将」 (キング少年合唱団)
http://www.youtube.com/watch?v=_ZmA3wJJfpQ
「白馬童子」(高野政次/コロムビア児童合唱団)https://www.youtube.com/watch?v=PPgeUg2Pusw&list=RDEM38aGMDEaoGcveKlz8tj-jQ&index=27
「アラーの使者」(上高田少年合唱団)  
https://www.youtube.com/watch?v=7dpLf2PYYyc&list=RDEM38aGMDEaoGcveKlz8tj-jQ&index=1

   なお、「鉄腕アトム」は、歴史的にも日本初のテレビアニメで、フジテレビ系列にて、昭和38(1963)年1月1日から昭和41(1966)年12月31日まで放送されました。日本で最初の本格的な1話30分の連続TVアニメで、日本初の国産ロボットアニメです。それまで日本のテレビ放映していたディズニーのアニメはもとより、「ヘッケルジャッケル」「バックスバニー」「ウッドペッカー」「トムとジェリー」等は、すべてアメリカから輸入していたものです。なお、アニメという用語は、現在は一般化していますが、当時は、特撮も含めテレビ漫画と呼ばれていました。「鉄腕アトム」の主題歌には、上記した実写版のものとアニメのものがあり、曲想も全く違います。なお、現在では、ほぼ後者しか歌われていません。「鉄腕アトム」の主題歌「鉄腕アトム(アトムマーチ)」が、アニメソングの元祖とされています。この楽曲は、当時の子どもたちの心に大いに響きました。

昭和38(1963)年 
「鉄腕アトム主題歌」「ロボット・マーチ」「鉄腕アトムのマーチ」 (上高田少年合唱団)  
https://www.youtube.com/watch?v=1-NPq0vsbO8
「狼少年ケン」(ビクター少年合唱隊) 
https://www.youtube.com/watch?v=oLUJ0OgrpQI&t=4s

   「鉄腕アトム」が日本のアニメ第1号とすれば、初期のアニメは国内向けに制作され、日本国内で人気を博しました。1960年代には「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」、「マッハGoGoGo」などがアメリカのTVネットワークに載り、海外の映像クリエイターたちにも影響を与えました。
 一方、アニメの主題歌は、初期こそ、少年合唱団によって歌われることが多く、親しみやすい曲調が主流でした。また、1960年代には「まんがソノシート」や「鉄腕アトム」などのヒットにより、「漫画」ではなく、「アニメ」という呼称が定着しました。
   同じころ、中学校ではブラスバンド、小学校ではトランペット鼓隊等のクラブ活動も盛んとなり、「鉄腕アトム」の主題歌などが、「黄色いリボン」「錨を上げて」「聖者の行進」などの定番曲と共に演奏されることがよくありました。現在は、ブラスバンド部は、ほとんどの共学校で女子が多い傾向がありますが、当時は、男子率がもっと高かったようです。

昭和38(1963)年
「鉄人28号」(西六郷少年合唱団)    
https://www.youtube.com/watch?v=CSSy-5AWAB0
「鉄人28号」から「進め正太郎」(西六郷少年合唱団)   
https://www.youtube.com/watch?v=SCo8_IGK3HU
「銀河少年隊」主題歌 (上高田少年合唱団)  
https://www.youtube.com/watch?v=Y2dNpDEUOe8
昭和39(1964)年
「ビッグX」(上高田少年合唱団、太田淑子) 
https://www.youtube.com/watch?v=bGFu-RHgcCI
「少年忍者風のフジ丸・たたかう少年忍者」(鹿内孝、西六郷少年合唱団)  
https://www.youtube.com/watch?v=BQb18DXlxF8

   昭和39(1964)年は、東京オリンピックが、敗戦後大都市は焼け野原となって、50年経っても昭和5(1930)年のレベルに回復するかどうかと言われた日本が20年足らずで、初めてアジアで開催されるということで、日本選手の大活躍で国全体が沸いていました。また、それに合わせて東京ー新大阪間を新幹線が3時間10分でつながれ、戦後復興が本格化しました。そんな奇跡的なことを行ったのは、明治・大正の戦前生まれの普通の日本人です。
 なお、日本で、少年合唱が盛んとなったのはこの時期(1960年代)です。
 アニメは、ますます盛んになりましたが、「宇宙」という名がつく作品も多く、「空(宇宙)を飛ぶ少年」というコンセプトで、アニメが創られていることが多かったようです。一方、「おそ松くん」のようなギャグマンガも出てきましたが、絵が緻密さを欠いて、歩くときの脚の動きがおかしかったことが心に残っています。
 ただ、当時の日本では、アニメというよりも「漫画」に対する偏見は強く、本は悪書扱いで、「頭を使わないから、子どもの教育に悪い」といった論がPTA等でも盛んでした。この辺り現在は隔世の感があります。

昭和39(1964)年
「ビッグX」(上高田少年合唱団、太田淑子) 
https://www.youtube.com/watch?v=bGFu-RHgcCI
「少年忍者風のフジ丸・たたかう少年忍者」」(鹿内孝、西六郷少年合唱団)  
https://www.youtube.com/watch?v=BQb18DXlxF8
昭和40(1965)年
「宇宙少年ソラン」「いざ行けソラン」(上高田少年合唱団) 
 https://www.youtube.com/watch?v=_TZY9IhuHoo
「宇宙パトロールホッパ」(上高田少年合唱団)  
https://www.youtube.com/watch?v=PyP-jAJlIdM
「スーパージェッター」(上高田少年合唱団、台詞:市川治)   
https://www.youtube.com/watch?v=mFFQGjo5j78 

  昭和41(1966)年から昭和42(1967)年の子ども向きのアニメや実写ドラマの傾向は、基本的にそれまでを引き継いでいます。なお、「丸出だめ夫」は、森田拳次による日本の漫画作品ですが、先にテレビドラマ化され、後にアニメ化されています。なお、その主人公 丸出だめ夫は、勉強はまるでダメな小学4年生で、科学者で父親のはげ照が発明したポンコツロボットのボロットが繰り広げるドタバタコメディですが、このキャラクターは、「ドラえもん」におけるのび太とドラえもんとも似ていると言えるかもしれません。また、これらの主題歌を歌う少年合唱団は、作品の制作が東京であることから、主題歌を歌う合唱団も上高田少年合唱団や西六郷少年合唱団のような東京の少年合唱団でした。(他の少年合唱団も、これらの主題歌を定期演奏会のプログラムに入れていたと考えられます。21世紀になっても、ボーイズ・エコー宝塚や京都市少年合唱団(みやこ光)は、プログラムに、これらのアニメソングを入れていました。
 ところが、それ以降になると、少年合唱団が実写ドラマやアニメの歌うという傾向が衰退していきます。また、これらの主題歌も当初は、童謡と行進曲をミックスしたような親しみやすい曲調が主流でしたが、1970年代以降、アニメソングは多様なジャンルに広がり、アーティストや声優による歌唱も増えました。現在では、アニメソング(略称:アニソン)はライブイベントや音楽番組でも注目され、若手からベテランまで幅広いアーティストが活躍しています。必要性はあって放送しても見てもらえなければ意味がありませんが、アニメソングはアニメ作品においてなくてはならない存在として確立されています。
 
昭和41(1966)年
「レインボー戦隊ロビン」(上高田少年合唱団)  
https://www.youtube.com/watch?v=WpTCcNI8qNU
「丸出だめ夫」 (ボーカル・ショップ、上高田少年合唱団) 
https://www.youtube.com/watch?v=SJggmZrPJTM
「マグマ大使」(上高田少年合唱団) 
 https://www.youtube.com/watch?v=OD7RImoymlY
昭和42(1967)年
「キャプテンウルトラ」 (上高田少年合唱団 ボーカルショップ) 
https://www.youtube.com/watch?v=G4HiwmVTGe8
「キャプテン・スカーレット」(西六郷少年合唱団) 
https://www.youtube.com/watch?v=fmafmnr7mmI

 1970年代になると、アニメは、少年少女より少し大人びた年の主人公が登場する作品や、幅広い世代にウケるギャグアニメが増えました。例えば、『巨人の星』の主題歌「ゆけゆけ飛雄馬」は、アトムに影響を受けた作品の一つで、視聴者の心に響いた名曲となりましたが、歌っているのは男声合唱で、曲想は、どういうわけか軍歌調です。それは、他のスポーツ根性ものの作品にも、影響しています。そのような関係もあって、アニメソングは、次第に少年合唱で歌われることが少なくなります。
 新世代のアニソン歌手(アニメソング歌手の略称)たちも昭和後期から平成以降に登場しており、ささきいさお、子門真人、水木一郎、堀江美都子、大杉久美子 などと並んで、彼らもアニソンの歴史を刻んでいます。なお、少年少女合唱団ですが、杉並児童合唱団や少年少女合唱団みずうみは、アニメの主題歌も多く歌っています。このように、アニメソングは時代とともに進化し、今も私たちの心に楽しみや感動を届けています。

昭和43(1968)年
「わんぱく探偵団のうた」(「少年探偵団」の節 上高田少年合唱団) 
https://www.youtube.com/watch?v=wLp9cw2DikU
「進めマイティ.ジャック・MJの歌」(上高田少年合唱団・フールサンズ合唱団)  
https://www.youtube.com/watch?v=_jMGGAOdkoo

(参考)
昭和43(1968)年
巨人の星 OP 「行け行け飛雄馬」(アンサンブルボッカ) 
https://www.youtube.com/watch?v=-10trdg06YI
海のトリトン 「GO!GO! トリトン」 (ヒデ・夕木)  
https://www.youtube.com/watch?v=6-zyPrujqcg
タイガーマスク「エンディングテーマ」 (新田洋=森本英世) 
https://www.youtube.com/watch?v=N13qzkWERCo

『ケンちゃんシリーズ』と『ドラえもん』は始まったが

 昭和44(1969)年という年は、藤子・F・不二雄(当時は「藤子不二雄」名義)の『ドラえもん』が主に児童向け雑誌でで連載が開始されました。やがて、昭和48(1973)年に最初のテレビアニメ化が行われ、昭和54(1979)年に再びテレビアニメ化、その翌年には映画もヒットを記録し、社会現象となりました。また、昭和44(1969)年から昭和57(1982)年にかけてケンちゃんシリーズが放映されました。この2つのアニメやドラマは、当時の児童文化にも大きな影響をもたらしています。その一つは、主人公のケンちゃんや『ドラえもん』の副主人公のび太の服装が、一年中短い半ズボンであるということで、当時は、このような服装が少年服として、可愛くかっこいいと思われていました。

   さて、昭和45(1970)年以後になると、少年合唱団が実写ドラマやアニメの主題歌を歌うことは、ほとんどなくなりましたが、そのオープニングテーマを主演の少年や、少年合唱団に所属する少年、あるいは少年歌手が歌うこともありました。西六郷少年少女合唱団は、最初の数年間は少年合唱団でしたが、その後少年少女合唱団として活動しました。アニメのテーマソングのレコード等に「西六郷少年合唱団」と書かれているのは、男子だけの選抜だったのかもしれません。昭和50(1975)年、上高田少年合唱団の指導者の奥田政夫が退職し、その歴史も幕を閉じたことは、時期的にも一致します。ところで、平成12(2000)年には、ウィーン少年合唱団に映画『ドラえもん のび太の太陽王伝説』のテーマ曲を歌わせることもありました。これは、「ドラえもん」も国際化したとも言えますが、日本にも少年合唱団があるのに、いかがなものかと思うこともあります。
   一方、少年少女合唱団である杉並児童合唱団などは、その後も単独で、あるいはコーラスとしてテレビアニメの主題歌に参加しています。

 このシリーズを通して一番言いたかったことは、特に、昭和30年代後半から40年代(主として1960年代)は、ウィーン少年合唱団の初来日がきっかけとなって、全国的に少年合唱団が誕生し、テレビを通して日本の少年合唱団の歌声が子どもの身近なところにあって親しまれていたという土壌があったということです。しかし、このような人気は歴史に支えられたものではない一過性のもので、そのような土壌がなくなってしまった現在の日本においては、海外の実力のある少年合唱団を日本に招聘してコンサートを行えば、少年合唱が盛んになるといった単純なものではないということです。
 ということで、この連載は、ここまでとします。

昭和47(1972)年
「へんし〜ん体操」(北美奈々、団進也、上高田少年合唱団) 
https://www.youtube.com/watch?v=R286bFL63qY
昭和47(1972)~昭和48(1973)年
「ケーキ屋ケンちゃん」OP (宮脇康之) 
https://www.youtube.com/watch?v=wxTrzcu49tE
昭和48(1973)年~昭和49(1974)年
「おもちゃ屋ケンちゃん」OP (宮脇康之) 
https://www.youtube.com/watch?v=Ya6_LMBpqBw
ケンちゃんシリーズ(5作品 宮脇康之・岡浩也) 
https://www.youtube.com/watch?v=RS7ufMuDl8k
昭和53(1978)年
「星の王子さま」 OP (鈴木賢三郎:フレーベル少年合唱団) 
https://www.youtube.com/watch?v=LijHlR2auLY

3 少年少女合唱団における男子団員の減少

  日本に聖歌隊や合唱ユニットを入れても10ぐらいしか少年合唱団がない現状では、たとえ歌が好きでも少年合唱団に入団できる子どもは、地域的に限られています。例えば、北関東以北や横浜・名古屋・大阪・神戸・福岡のような大都市にも、現在少年合唱団はありません。それでは、少年少女合唱団はどうかというと、桃太郎少年合唱団の調査によると20世紀末の平成10(1998)年現在約1000団体あったそうです。その後、布袋厚(2019)は、合唱団や役所・新聞社・テレビ局・合唱連盟などの公式サイトからの情報をもとに、現在日本に872団体あることを確認し、それをもとに、現在日本の少年少女合唱団は、約850~900団体あると推定しました。それならば、一つの市に一団体ぐらい、大都市では数団体はあると考えてもよいでしょう。しかし、その実態は、少年少女合唱団とは名ばかりで、少年少女合唱団や少女合唱団がほとんどです。実際、全日本少年少女合唱連盟○○大会などを鑑賞すると、男子率は0~2割です。例外的に、男子率が4割ほどなのは、鹿児島市立少年合唱隊ぐらいです【令和2(2020)年現在】。どうして、こんなことになってしまったのでしょうか。あるいは、いつ頃からこのようになってしまったのでしょうか。1994年、朝日新聞に次のような記事が掲載されていました。原因については、これまでに述べてきたこととほぼ一致します。取材は大阪が中心ですが、同じような傾向が全国的にあったのではないでしょうか。また、それは、多くの少年合唱団が人数的に苦しくなってきた時期とも重なります。従って、これは、合唱界全体の問題でもあるのです。そして、この問題は解決されないまま今日に至っています。しかし、それから20数年の月日が経ち、名前が掲載された団体の現状はどうでしょうか。それらは、人数が公表されているものもありますが、たいていの場合、記載されていても男女の合計人数であり、男女比は、コンサートの写真から推定するしかないものもあります。しかし、追跡調査は価値あることです。(    )青字の人数は調査した令和3(2021)年時点で最新のものです。

    男の子の声消え合唱団がピンチ・・・あれから四半世紀が過ぎて

   「男の子や-い!」・・・各地の少年少女合唱団で、ボーイソプラノを受け持つ男の子の団員がここ数年で激減、団の存続もピンチとなって指導者たちが悲鳴を上げている。「少年」抜きの「少女合唱団」となってしまった所もあり、各合唱団とも市の広報紙やチラシを配って男の子集めに懸命だ。「塾通いなどで余裕がなくなったため」「合唱はサッカーや野球に比べてかっこよくない」などが原因らしいが、指導者らは「ボーイソプラノの美しさは女声では表現できない」と嘆いている。
 大坂府和泉市の「和泉市少年少女合唱団」はこのほど、結成10周年の記念コンサートを開いたが、ステージには女の子43人だけで男子はゼロ。結成当初は男子が10人いたが、数年前から徐々に減り、2年前ゼロに。「一度ゼロになると、やろうという子はもう出て来ない」と団長の佐藤幸代さん。(男子4名,女子10名 計14名 2016年)
 北摂の千里ニュータウン地区で83年に結成した「千里少年少女合唱団」も男子ゼロ。最後までいた2人が昨年、小学4年生で辞めた。(「千里少年少女合唱団」から30年経って、そのまま大人になり、「千里うたとも合唱団」に改称)
 高槻市少年少女合唱団では95人中、男子1人。国久昌弘団長は「できるだけ話相手になるようにしています」と気を使う。(写真から約50人中男子は5名ぐらい 2019年)小学校1年生から高校3年生127人中、男の子14人もいる堺市少年少女合唱団では、入団テストの男子の評価基準はどうしても甘くなる、という。(堺市少年少女合唱団(小学1年~6年)・堺リーブズハーモニー(中学1年~高校3年)合わせて30名中男子は5名ぐらい。2020年)
 塾通いなどのほか、「欧州には少年による聖歌隊の伝統があるが、日本では少年合唱は根付かなかったのか」と分析は様々。音楽家によると、ボーイソプラノは音域の広さや透明感、よく通る声の質など、女子とは「異なる楽器にたとえられる」という。しかも声変わりするまでのわずかの期間だけだ。  (朝日新聞 1994年記事より)

   この比較調査から、どの合唱団も全体的に団員数が少なくなっていることや、そのまま大人の合唱団になっていることがわかります。合唱が児童文化として衰退していることを危惧します。ところが、ここで大切なポイントは、工夫と努力によって男子団員を確保しているという合唱団もあるということです。鎌田典三郎先生が指導されていた頃の西六郷少年少女合唱団では、男女比がほぼ1対1でしたし、京都市少年合唱団では現在も約3分の1から4分の1の50~70人前後の男子団員を確保しています。その原因を探ることも大切だと思います。

      呉少年合唱団の団員数の変化をもとにして

   それでは、少年合唱団の団員数はどう変化しているでしょうか。プログラムに毎年創立以来の団員数を記載している呉少年合唱団の例を挙げてみましょう。なお、呉市は軍港として、第二次世界大戦直前の昭和15(1940)年は人口が35万人を超え、日本の10大都市であった時期もありますが、最近は周辺の町を合併しても、約23万人に減っています。
  呉少年合唱団の団員数は、昭和36(1961)年の創立時には、30人でしたが、創立期には毎年のように倍増し、昭和の終わりごろは15年間にわたり200人を超えていますが、その後漸減して、現在は20人台です。

 (朝日新聞は、国益を損なう誤報をはじめ政治的にはかなり偏っておりすが、少年合唱に関しては、好意的な傾向が見られます。これまで参照・引用した新聞記事のかなりの部分は朝日新聞です。)


4 常滑少年合唱団・名古屋少年合唱団の推移

 最近は、日本の少年合唱団解散や休団のニュースばかりで、それがこのホームページの更新意欲の低下にもつながっていたところ、愛知県常滑市で平成27(2015)年のクリスマスコンサート開催に向けた期間限定の少年合唱団員募集のニュースが入ってきました。募集人数は小学3~6年生の30人で、最低開講人数は9人となっております。どれだけの希望者があるかはわかりませんが、多くの参加者があってして、クリスマスコンサートが成功すれば、将来、常滑に新たな少年合唱団が誕生する契機になるかもしれません。
 日本の少年合唱団の誕生は、このホームページ開設以来のことです。その後、団員は5名から10名へと増え、名称もボーイソプラノ合唱団となりましたが、指導者の転勤等により、令和元年女子も入れた児童合唱団となりました。

 キンゴジュさんより、「愛知に新たな少年合唱団が誕生!」として、日進市の日進キリスト教会を練習会場に平成28(2016)年に誕生した「名古屋少年合唱団(Nagoya Boys Choir)」を紹介されました。。キンゴジュさんは、指導者のウィルソン先生に連絡をとり、練習を参加するだけでなく、平成29(2017)年7月2日に行われた、サマーコンサートに行って来られたようです。詳細は、キンゴジュさんのブログをご覧ください。ところが、ウィルソン先生の帰国により、現在は休団中です。
http://ameblo.jp/gojurasu50/entry-12289557606.html

 5 ソプラノ♪7ボーイズの誕生に想う

  ソプラノ♪7(セヴン)ボーイズは、平成30(2018)年 10 月に結成。ミュージカル劇団あるいは児童劇団所属の少年を中心に、すずかけ児童合唱団や(無所属の歌の得意な少年もいるかもしれません)「ボーイソプラノ男子たちが発信する、美しく元気な日本。」という国民的な理念を前面に立てているところがかえって斬新です。平成31(2019)年4月より本格的に活動を開始しましたが、これまでの少年合唱団にはない要素をもっています。
 ステージの同じ位置に同じ児童がいて、直立不動の姿勢で声をそろえて歌うのは、『みんなのうた』が始まった頃は、それ自体が新鮮であり、それでよかったでしょうが、物心ついたころからテレビ等を通して多くのエンターテインメントに接してきた現代の子どもがそのような姿に魅力を感じるでしょうか。
 どのような分野にも言えることですが、音楽においても不易なものを大切にすると同時に、時代が求めるものをアレンジしていくことこともまた大切です。ソプラノ♪7ボーイズは、まだマスコミにはあまり採り上げられてはいないようですが、動きのある童謡・唱歌は、独唱と共に、日本の少年合唱の新しい道を拓く可能性は大いにあると思っています。なお、ソプラノ♪7ボーイズは、いったんステージに上がれば、きちんとしたステージマナーで演奏しています。



 追悼

  この章では、本ホームページにもかかわり、日本の少年合唱の発展に貢献された方への追悼文を掲載します。

追悼 浦池和彦先生 平成19(2007)年

  高野敦先生からいただいた浦池和彦先生のご逝去を知らせるメールに私は言葉を失いました。まさか、そんなことがあってよいのか。私は、ホームページのトップに浦池先生がステージに復帰されることを書くことで、励まそうとしていたのに。そのとき、私の脳裏には、数年前NHKテレビで放映された西六郷少年少女合唱団の指導者 鎌田典三郎先生の闘病の姿が重ね合わせるように浮かんできました。5月3日の定期演奏会の指揮をすることを夢見ながら、その日を迎えることなく逝去された鎌田先生。平成19(2007年)年12月2日(今日)の定期演奏会の指揮をすることを夢見ながら、その日を迎えることなく11月26日にご逝去された浦池先生。
 私は、11月15日に浦池先生からメールを受け取っていました。そのメールの最後は、次のような言葉で締めくくられていました。

・・・ほんとうにもうめげてしまいそうですが、こんなことで負けてはいられない、またステージに立つんだという思いそれだけが支えになっています。あきらめず、1日でも長くいきていたいと思っています。定期でお会いしたいですね。

 それに対して、私のお返事ときたら、

・・・行きたいのですが、雨天でない限り、公務とバッティングしますので、行ける可能性はかなり低いと思います。でも、きっと、浦池先生の舞台姿を拝見したいと思っています。どうか、治療に専念されて、舞台に復帰されることを祈念しております。

 その後、21日消印の招待状まで届きました。
 こんなことになるのなら、嘘でもいいから、「行って浦池先生の舞台姿を応援します。」と、書いておけばよかった。きっと、私のメールを読んで元気をなくされたんじゃないかなあ。
 
 高野敦先生のメールによると、浦池先生はご病状が悪いことを知ってせめて最後に,と今週末の桃太郎少年合唱団第45回定期演奏会の愛唱曲ステージで「歌よありがとう」を指揮されたいと熱望され、棚田先生ともその方向で打ち合わせをされ、そのためのスーツも新調されていたということでした。ゲルハルト・ヒュッシュが、引退のステージで「楽に寄す」を歌ったように、浦池先生は、「歌よありがとう」を指揮したかったのですね。浦池先生は、今年私家盤のCDを作られました。「BEST SELECTION」と題された24曲の桃太郎少年合唱団を指揮された曲集です。私は、この文を書き終わったら、CDの浦池先生の指揮に合わせて、「歌よありがとう」を歌います。それが、せめてもの私ができる浦池先生への追悼。

 追悼 中安保美先生 平成27(2015)年

 平成27(2015)年2月28日、私にとって大きな大きな支えとなって頂いていたボーイズ・エコー・宝塚の指導者 中安保美先生が89歳でお亡くなりになられました。最近体調がすぐれないことは存じておりましたが、再び指導されることを期して療養されておられました。

 音楽の素人にすぎない私が、このホームページを立ち上げたのも、厳しい状況の中で頑張るボーイズ・エコー・宝塚のような日本の少年合唱団を応援しようという志があったからです。ボーイズ・エコー・宝塚は、中安保美先生と辻潤子先生の奉仕によって成り立っていた少年合唱団です。ボーイズ・エコー・宝塚が創立された昭和59(1984)年は、既に日本においては、少年合唱団だけでなく児童合唱そのものが厳しい状況におかれていました。ボーイズ・エコー・宝塚も、人数的には創立数年後の45人をピークに人数的には厳しい時期もありましたが、そのたびにそれを乗り越え、宝塚の地からその歌声が絶えることはありませんでした。ステージで採り上げられる曲も、予習がなければわからないような難解な曲や前衛的な曲ではなく、誰もがすぐに親しめるような曲でステージを構成されていました。また、曲名は団員が紹介し、6年生には卒業独唱の機会を与えるなど、一人ひとりを活かすことを大切にしてこられました。常に客席の声を大切にし、次回のステージにその声を反映するという努力も続けてこられました。そういう意味で、ステージと客席の距離が日本で一番近い少年合唱団と言うこともできたでしょう。ボーイズ・エコー・宝塚においては、団の最高学年の児童が団長であり、中安先生と辻先生は一指導者という位置づけであったことも特筆できます。

 中安保美先生は、教職に就かれた頃は、日本における「児童発声」研究と実践の先駆者 品川三郎先生のもとで研鑽を積まれました。また、教職をご退職後、ボーイズ・エコー・宝塚の指導者としてその成果を発揮されただけではなく、宝塚ニューイヤーコンサートの代表として、あるいは、郷土芸能である千吉音頭子供会の指導者としても活躍されました。平成25年の第30回宝塚ニューイヤーコンサートでは、永年にわたり市民に対して音楽に親しむ機会を提供し、宝塚市の芸術文化の振興に大きく貢献されたことに対して宝塚市長より感謝状が贈られましたが、奉仕を通り越してそれこそ持ち出しで、ボーイズ・エコー・宝塚をここまで育て上げてこられ、千吉音頭を復興され、「音楽のまち 宝塚」の名を高められました。

 日本の少年合唱が盛んになる兆しが見えない中で、中安先生の想いを、しっかりと引き継ぎ、これからもホームページを続けていきたいと思います。
 安らかにお眠りくださいませ。本当にありがとうございました。


 19 追悼 増山法恵先生 令和3(2021)年

 日本に、音楽評論家という職業(肩書)の人はかなりおいでですが、「児童(少年)合唱評論家」という人は、おそらく増山法恵先生おひとりでしょう。それだけ、内外の児童(少年)合唱団やボーイ・ソプラノ(トレブル)について、深い造詣をおもちでした。

 ごく最近(令和3 2021年)になって、増山法恵先生の名前が、ウィキペティアに掲載されるようになりました。掲載されるのが遅すぎると思いながらも、断片的ならともかく、長年にわたる増山法恵先生の人と業績を俯瞰的に知っている人は、極めて親しい人を除いては、ほとんどいなかったためではないかと思います。私も、知っているのは、増山先生の業績のうち、少年合唱等ボーイ・ソプラノに関係するごく一部分にすぎません。

 それまで、増山先生のお名前は、長年にわたって漫画家 竹宮惠子先生のブレインをされていたことや音楽雑誌『ショパン』の"THE TREBLE"に、世界と日本の優れたトレブルを紹介されたことで知っていた程度でした。昭和から平成に移るころは、海外のトレブルのレコードやCDを入手することは困難でしたが、「日本のトレブル」と呼ばれている村上友一の歌との出会いも、増山先生の記事があったからこそです。平成12(2000)年、TOKYO FM 少年合唱団 第16回定期演奏会の前に、この分野の先輩で恩人のKiyoshiさんのご紹介で初めてお目にかかり、それ以来、メールを中心に交流してきました。

 お互いがホームページを立ち上げてからは、相互リンクをしていたのですが、やがて、増山先生のホームページが閉鎖され、メールが届かなくなったり、出した年賀状が戻ってきたりしたので、連絡がつかなくなり、体調が悪くなられたのではないかと心配していました。

 増山先生が遺されたご功績については、どなたかもっとよくその全体像をご存じの方がお書きになられたほうが、適切であると思います。しかし、増山先生の想い出で一番心に残っていることは、ホームページを開設してしばらくした夜12時ごろ、私が誤って送られてきた怪しいウィルスメールを開いてしまったときに、
「すぐにメールのやり取りをしている人に連絡して、開封しないように伝えてください。」
というお電話をわざわざ東京の自宅からかけてきてくださったことです。このように、私の失敗に対しても親身になって対応してくださったこと、心より感謝しております。ホームぺージを相互リンクをすることの本当の意味を教えていただいたと思っております。ご冥福をお祈りいたします。

 増山法恵先生のご逝去を伝える竹宮惠子先生のブログ  
https://blog.k-takemiya.jp/cn1/2021-10-03-42.html

 追悼 道楽さん 令和5(2023)年

 親しみを込めて、あえてペンネームの「道楽さん」のお名前で、追悼の言葉を述べます。令和5年1月、本ホームページの客員レポーターとして、長年にわたって少年合唱を中心とするコンサートレポートを送り続けてくださった道楽さんがお亡くなりになられました。昨年の大みそかまでメールで交信し続け、年賀状もいただいたのに、それ以後いろんな手段を使っても交信できず、案じておりました。

 道楽さんは、若い頃より、お住まいになっていた東京を中心とした少年合唱のコンサートに通い、その後は、さらに行動半径を広げて、鉄道や航空機を使って日本各地に残っている数少なくなった少年合唱団の定期演奏会を中心に、それ以外の卒業演奏会や練習会場に、あるいは少年が登場するオペラやミュージカル等のコンサートや舞台に通って、そのレポートを本ホームページに送ってくださいました。それは、ただの批評ではなく、自らの分身でもある4人のお人形さんたちと共に、複眼的な視点から一つのコンサートを鑑賞するというユニークなものでした。その超人的な記憶力には感嘆しております。私のコンサートレポートと比較して読むことで、同じコンサートでも違った角度からの考察が可能であったと思います。少年合唱ファンと言われる人は日本に一定数おいででしょうが、当時日本にあるほぼすべての少年合唱団(隊)のコンサートに行って、それを文章化した人は、他にはおいでにならないでしょう。

 私に道楽さんをご紹介されたのは、ボーイズ・エコー・宝塚の定期演奏会で、中安保美先生より東京からおいでになった方がおられるということで、本名を知らされたときでした。もちろん、そのとき、そんな奇特な方がおいでになるとは知るわけがありませんでした。ペンネーム(ハンドルネーム)として使われた「道楽」は、いわゆる「遊興」にふけるという意味ではなく、文字通り「道を楽しむ」という精神に貫かれていました。道楽さんは、自らも歌う「合唱人」であり、気に入った曲の合唱メンバーの募集があれば、進んで応募され、テノールのパートを担当して歌っておられました。また、少年合唱の鑑賞においては、とりわけボーイ・アルトの音色が好きで、いつも少年合唱団のコンサートでは、いつもアルト側のかなり後ろの全体の歌声が把握できる席で鑑賞されておられ、私とは20年近いのお付き合いの中で、「ぜひ、来賓席でご鑑賞を。」と言われたボーイズ・エコー・宝塚の定期演奏会の1回を除いて、同じ会場であっても指定席でない限り、自分が鑑賞したい席で鑑賞するという姿勢を貫かれました。そのようなこだわりもまた、独自の鑑賞レポートを生むもとになったと考えております。その一方、少年合唱に対する愛情は純粋で、個々の少年合唱団に対して自分の好みや理想を押し付けるようなことは決してされない方であったと思っております。

 海外の優れた少年合唱団や、今旬のボーイ・ソプラノのソリストを招聘することや、それを鑑賞することに熱心な方はおられても、残念ながらその影響はごく限られた範囲にとどまり、現在、日本において少年合唱やボーイ・ソプラノの魅力を理解できる人は限られております。全国的に日本の少年合唱が盛んになる兆しが見えない中で、道楽さんが生きて示してこられた想いをしっかりと引き継ぎ、「道楽さんの少年合唱行脚」のコーナーは、本ホームページがある限り記憶遺産として後世に伝えます。安らかにお眠りくださいませ。本当にありがとうございました。



                                                                                 
戻る