この道 : 国道152号線
【地蔵峠〜天竜市】





 国道152号線は、起点を長野県上田市、終点を静岡県浜松市とする道路である。ごく普通の国道であれば、他国道のレポートでもそうしている通り、「上田市と浜松市を結ぶ」などと書きたいところだが、実を言うと152号線には二箇所の未通(不通)区間があり、経路が途絶している。起点から律儀にこの道だけを走りつづけていたのでは、いつまでたっても終点にはたどり着けないのである。
 不通区間の一つは、長野県下伊那郡大滝村と同上村堺の地蔵峠。
 もう一箇所が、同じく長野県下伊那郡の南信濃村と、静岡県磐田郡郡水窪町の間に位置する青崩峠だ。
 あちこちで寸断されていると言う表現がぴったりな路線だけに、総延長について触れるのもあまり意味が無いのだが、152号線と呼ばれる3区間の道全体の長さは248.5km。むしろこの道にとって意味を持つのは各区間の長さの方だろう。上田市-大滝村間が134.9km、上村-南信濃村間が31.6km、水窪町-浜松市間82kmとなっている。
 この道は、諏訪市以南の区間ではフォッサマグナ(中央構造線)の上を延びているため、山中の道にしては不自然なほどまっすぐに伸びているのが特徴と言える。反面で素人考えでは、この地質学的特性が青崩峠などの不通につながっているようにも思える。
 なお南信と遠州地方を結ぶあたりでは、古くから秋葉神社(静岡県周智郡春野町)に詣でる信仰の道、「秋葉街道」と呼ばれていた。



 国道とは、制定理念においては、地上に敷設されたいわゆる「道路」のみを指すのではない。車の走れる道はなくとも、港と港をフェリーなどでつないでいる場合には、船の航路を指して「海上区間」としている。また、歩行者しか通れない「階段国道」なども存在している以上、経路が途絶・消滅していると言うのはひとかたならぬ事態なのかもしれない。
地蔵峠〜青崩峠区間

 前述の通り、152号線は地蔵峠で途絶している。ロードマップを見る限り北面から南面へは、迷路のように入り組んだ林道を経由して通り抜けることが可能だと思うが、確かなことはわからない。
 ここまで中央構造線フォッサマグナ沿いに伸びて来て一時中断となった152号線は、下伊那郡上村から再開される。主だった住人の住む集落から見るとどん詰まりのような場所だが、通行止めになる直前のあたりにはキャンプ場が開設されている。これは比較的近年になって造られたもののようで、規模はさほど大きくはないが見た感じではかなり小奇麗に整えられている。
 そのキャンプ場開設のおこぼれに預かるように、道はこの付近に限ってかなりの高規格道路として整備されている。しかし、地蔵峠南面のこの場所からもう一つの不通区間である青崩峠の北側まで、152号線は対向車との離合も困難な狭路を基調とした酷道区間が続く。




 キャンプ場の近くには、山に生きる工人・木地師の墓が集められている。
 現地の解説によると、かつてのこのあたりは木地師たちの奥津城(おくつき。墓の意)だったというから、その山深さが偲ばれよう。
 その152号線の国道ぶりであるが、極端に見通しの悪くなる区間はそれほど多くないものの、車が2台すれ違うだけのスペースが存在しない場所も珍しくはない。これだけでもこの道を「酷道」と呼ぶには十分すぎるほどだろう。ところどころで周辺の山深さに対して不釣合いなほど、そして152のシリアルナンバーに見合うほどに整備された箇所も出てくるのだが、整備状況がそれだけの水準に達しているのはもともと土地が平坦で工事が容易だったらしい場所ばかりである。今後も、車の通行に難渋しそうな場所ほど整備が後回しにされて行きそうな気配だ。
 冒頭で触れたとおり、南信地区の152号線の前身は秋葉街道だったと言って良い。歴史と伝統のある道で、南信濃村の中心部に当る和田地区付近の町並みは、旧街道沿いの街特有の雰囲気を持っている。狭い範囲に民家や商店が密集していて、道幅が狭いのは相変わらず。なお、左上写真は青崩峠側を背に、北側の地蔵峠方向を撮影したもの。進行方向とは逆を撮影したものなので注意されたし。
 南信濃村の中心部を抜けたあたりに、最凶クラス酷道・418号線との交点(418号線終点)がある。ここまでの152号線も相当酷い道のりだったが、418号線はそれに輪をかけた酷道になっている。418号線の様子については別項にて。ただ、和田地区以降の進路は152号線か418号線の二つに一つしかなく、青崩北面に突っ込むばかりの152号線の道のりもひたすら険しさを増して行くばかり。152号の早期整備を望む地元の声も、むべなるかなと言ったところなのである。



青崩峠以南

 152号線に青崩峠越え区間が存在しないのは、つまるところはこの峠にトンネルを掘れなかった事による。軟弱地盤のため、穴を掘る先から崩落が起こるようなありさまなのである。ただ、この近辺に水窪町から長野県側に抜ける自動車道がない訳ではない。古くからは、ヒョー越え(兵越え)林道が存在していた。兵越えはあくまでも林道なので、それなりの道であると言わざるを得ないが、近年ではこの兵越えに接続する、152号線本道をも超える高規格トンネルが、青崩峠の近くに完成した。国道472号線草木トンネルである。トンネル周辺の地質が青崩峠とはまた違うのか、あるいはトンネル掘削技術の向上がこの付近の軟弱地盤にトンネルを通すことを可能にしたのかはわからない。
 この草木トンネルは、日本の高速道路網の一翼を担う三遠南信道路の一区間として竣工した物のようであるが、三遠南信道路の計画そのものが近年の道路行政見直しの流れを受けて宙に浮いた形になっている。そのため、高速道路張りの高規格ぶりもトンネル前後の数百mだけで、特に長野県側に入ると、対向車とのすれ違いも苦しい狭路に化けてしまう。三遠南信道路計画が保留状態になっているためか、152号専用に流用と言うことも行なわれていない。草木トンネルを抜けた後の道を進んでいくと、152号線との合流ポイントは随分先に進んだ位置になる。
 上写真、高架道路が472号線、画面奥へと通じている道が152号線である(通じているとは言っても、正確には152号線の末端部分)。




 標高1082mの青崩峠。遊歩道である。車でここまで進むことはできない。
 水窪市街地の写真。この区間のレポートは青崩峠から浜松市方向へと下っていく構成となっているが、写真の中には上り方向を撮影したものが多く含まれる。この写真も、平野側を背に青崩峠方向を撮影したもの。
 水窪の町はかなり山深いところに位置している。西側に隣接する愛知県北設楽郡富山村などは、島嶼部を除いた中では日本一小さい村で、秘境の趣だ。このように言えば、すぐ近くにある水窪がどのような場所にあるかおおよその見当はつくと思う。しかし、実際のところ水窪の街は、かなり開けている。市街地の間近にまで山の斜面が迫り、決して広い平地があるわけではないので平野部の街とは雰囲気が違うが、国道沿いには普通の商店の他に三遠南信の特産物を売るお土産屋もあり、これがなかなか賑わっている。
 三遠南信とは、愛知県三河地方(特に奥三河と呼ばれる山間部)、静岡県遠州地方、そして信州南部・伊那地方を一まとめに指示する時に使われる表現である。これら地域を文化、経済、交通その他諸々で密接に結びついた一つの交流圏と見なしているわけである。




 水窪の隣、佐久間町相月集落あたりから水窪市街の反対側まで、駅にして4駅の間、JR飯田線が152号線と進路をともにする。こちらも、三遠南信を結ぶ大切な足だ。
 磐田郡佐久間町に入ると、愛知県東栄町からの国道473号線とともに、152号線のすぐ脇に天竜川が合流してくる。ここから先天竜市までは、473号線との重複区間。
 しばらくは渓谷地帯の道となるが、同じく磐田郡の龍山村のあたりまでは、ところどころで狭路区間に出くわしたりと、あまり走りやすい道のりではない。センターラインが消滅したりすることは、わりとよくある。152番と番号が若い国道であるため油断が生じるかもしれないが、青崩から下ってきた場合、それなりの道が続いているのは、佐久間町の途中あたりまでと心しておいた方がよいだろう。
 佐久間・龍山境界付近では、天竜川に面した断崖を削り取るようにして道を造っている区間も少なくないため、道路沿いにはあまり集落が発達していない。民家などはむしろ、山の斜面の上のほうに点在している。こちらが古くからの集落なのだろうか。
 なお、ここで使っている写真も青崩峠方向を向いて撮影したもの。



 同じ龍山村でも、天竜市寄りの地区まで来るとかなり様子が変わってくる。写真は、天竜川をせき止めて作った秋葉ダム。例の如く、青崩方向を向いて撮影。
 このあたりまで来ると、それまで崖のかなり下のほうを流れていた川面が視線に近づいてくるし、道路事情もかなりよくなってくる。秋葉ダムよりもさらに下流の天竜市域にももう一つダムがあり(船明ダム)、川はたゆたうような緩やかさで流れている印象だ。カヌーやボートが水面を走っていることもあり、なかなかのどかな風景である。
 天竜市に入ってもあいかわらず道の両側は斜面と川で、しばらくの間は市街地に入ることは無い。道の駅「天竜相津花桃の里」を見てから少し進むと、ようやく天竜市街といった感じだろうか。




 道の駅「花桃の里」。施設の規模自体はさほどでもないが、土産物は意外に充実している。
船明ダムから少し先に進んだあたりで、ようやく天竜市の市街に入る。このあたりまで来ると、道沿いには商店や民家が林立していて、久しぶりに人口密集地を走っている実感がわいてくる。
 天竜の中心部は、ちょっとした河岸丘陵によって天竜川から隔てられている。この丘陵地帯の上にあった二俣城は、徳川家康と武田信玄・勝頼の戦いの舞台となった場所である。そして、その戦いの最中に家康の嫡男・信康がこの地で自刃したというエピソードもあり、今日ではこの悲劇が売りにもなっているようだ。
 写真は、二俣城址のあたりとは尾根続きになっている鳥羽山公園から天竜川にかかる国道152号線鹿島橋を見下ろしたもの。


 二俣城については、お城スコープ参照のこと。




ロケ地:未定
今回使用した車
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国道152号線総括


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