国道153号線は、愛知県名古屋市と長野県塩尻市を結ぶ道路である。総延長は213.3kmで、比較的長距離を結ぶ広域道路と言ったところか。ただし、山間部を走る区間が長く、経由地は町村が中心、大都市はほとんどない。
この道はかつて中馬街道、あるいは善光寺街道などと呼ばれたコースをなぞりながら延びていく。もともとは戦国時代に、武田信玄が信濃と三河を結ぶ軍事上の必要性から整備し、以降発展した道だ。江戸時代には、中山道の脇往還としても利用された。中山道は大名行列や日光例幣使、朝鮮信使などの「御通行」があり、庶民はそれを避けて中馬街道を利用する事が多かった。今風に言えば、要人の通行が日常的で検問や規制が多い幹線道路を嫌って、脇道に逃げたと言ったところだろう。なお、この道は「塩の道」とも言われ、海に面した名古屋のあたりから三河、そして信濃の山間部まで塩が運ばれていったことに由来する。終点塩尻の名前の由来も、塩の道の終わりというところから来ていると言う説もある。ちなみに、「中馬」とは馬による輸送機関のことで、賃馬・中継馬が転じて中馬になったと言われる。ただ「中継馬」とは言っても、荷物が各駅ごとに馬の背から馬の背へとリレーされていく伝馬制とは違い、中馬の場合はスタートからゴールまで、一頭の馬が同じ荷物を運んでいくのである。さすがに幾度も同じコースを行き来するだけあって、中馬の馬たちは自分の歩くべきコースを知っており、馬子が道中で道草を食っていても馬だけが先行し、特定地点で後からやってくる馬子を待っていたなどと言う話も伝えられている。
明治時代になると、愛知県側では県道飯田街道、長野県側では三州街道と呼ばれるようになった。昭和28年には2級国道名古屋塩尻線に変わり、昭和40年に現在の一般国道153号線となる。
153号線の起点は、同じく名古屋市発で塩尻市を経由し、長野市に至る19号線との交点・小川交差点。スタート直後は19号線の続きの広い道だが、スタートから2つ目の交差点で左方向に曲がり、いくぶんか狭めの道に入っていく。
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中馬街道の始点、名古屋市中村区にある伝馬(てんま)橋。名前が少し、紛らわしい。153号線の始点はここから東に3kmほどの地点。
「中馬」の起源は一説に八王子。農民が農閑期などに自分の馬で農作物を都市部まで運び、帰りに塩や海産物などを持ち帰っていたのが、中部山岳地帯に広まったのだと言う。
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大通りから左にそれた道筋は、広めに作られてるとは言っても対面通行の片側一斜線道路だ。沿道には個人経営の商店が目立つ。この辺りには割と古くから人が住んでいて、それら住宅地とともに発展してきた商店街なのだろう。高架線だった名古屋高速が地下へと潜る吹上の辺りで、道は若宮大通の東端と交差し、再び2〜3斜線の幅員となる。
名古屋市内の国道153号線を走っていると、道すがらのあちこちで「飯田街道」と書かれた看板が目に付くが、実際の旧飯田街道筋は、現在の国道153号線よりも一本南側の筋を走っている。「新・飯田街道」=153号線と、旧飯田街道が分岐するのが吹上の辺りなのである。上の写真は旧飯田街道に設置されたゲート(?)。旧道コースには、ちらほらと街道時代にゆかりがあると思われる物が見受けられる。これに対する153号線のほうは、道幅こそ広いが大型店舗は少なく、付近住民の生活の場と言う感じだ。
少し進んだ山中交差点あたりで、旧と新の飯田街道は再び合流する。この辺りから先、八事の山を越えるあたりまでは名古屋の文教地区となっており、沿道には学生をはじめとする若者向けの店が目立つようになる。
さて、八事山をはじめ名古屋市の東部は起伏に富んだ地形となっている。地下鉄塩釜口の駅を過ぎて少し行った辺り、植田川を越えた直後、153号線はわずかに北側へと進路を変え、アップダウンの激しい丘陵地帯の道となる。名古屋市内を脱出する辺りまで、丘の上に建つ新興住宅地に見下ろされるような谷間の道行が続く。
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名古屋を出ると、道は日進市、愛知郡東郷町、西加茂郡三好町と走り抜けていく。この辺りの道は、沿道を線でつなぐと言うよりは、ある地点とある地点を点で結ぶような、高速道路的な設計思想の下に建設されているのだろう。アップダウンはそこそこあるが、かなりまっすぐに伸びる道で、沿道の店舗に入るためには一旦側道に入ってそこを走っていかなければならず、道行く車の多くが側道にはわき目も振らず、かなりのスピードで先を急いでいく。
この道は豊田西バイパスと呼ばれている。愛知の県庁所在地・名古屋市と、工業県愛知の中核にして、県内では名古屋に次ぐほどの規模を誇る豊田市を結ぶ、ほぼそれだけのために建設された道路と言っても過言ではないだろう。豊田市内に入り、ちょうどトヨタ自動車の工場が目に付くようになるあたりで、道路の構造上スピードダウンを余儀なくされるようになる。暗に「この先は急ぐに足る理由はないだろう」と言い含められているようである。これが世界屈指の大企業の影響力か。
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豊田の中心市街地は、四十万弱という人口規模の割りに広くない。153号線は、わりあい背の高いビルが建ち並ぶこの街の中心を走りぬけ、少し進んだところで左折するとともに国道248号線と合流する。そこから北方向に進路を変える。
写真は陣中町2丁目北交差点。この先は矢作川に沿って奥三河、そして伊那谷を目指して道が伸びていく。それにしても、豊田市郊外地区の始まりであるこの界隈から急に心細くなる道と、ほんの10数分前まで走っていたおそるべき高規格道との落差は、圧巻ですらある。尾張地区での153号線が、何をおいても名古屋市と豊田市を結ぶ産業道路であることを如実に物語るものだろう。しかし豊田市から長野県内に入る辺りまで、153号線はまた、それまでとはがらりと変わった表情を見せる。その表情とは、ズバリ観光道路としての顔である。
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豊田市郊外の堪八峡。153号線沿いからでは圧倒的景観は望めないが、このあたりはハイキングコースになっているようだ。
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豊田市の隣、東加茂郡足助町は、かつての中馬街道時代に足助宿として発展した町である。塩の道である中馬街道を通って運ばれる塩は、信濃では足助塩と呼ばれた。現在の153号線も旧街道を伸びているため、足助の中心地辺りでは、両側を古い日本家屋に囲まれた中を走ることになる。大型トラックなども少なからずここを通るようだが、実に窮屈そうだ。足助町には、春には桜・秋には紅葉が楽しめる香嵐渓、旧家の佇まいを今に伝える三州足助屋敷、街道時代の古い町並み、そして近年2月から3月に催されるようになった「中馬のひな祭り」など、観光資源も豊富で、西三河地区屈指の一大観光地にもなっている。遊びに出かければ一日いても飽きないが、読みを誤ると渋滞に巻き込まれるので、走り抜けるときには注意が必要。
旧宿場を抜けると、道沿いにはのどかな山村風景が展開される。どことなく郷愁を誘われるような雰囲気の場所である。この山村地帯の中、少しずつ高度を稼ぎ、やがて伊勢神峠にある伊勢神トンネルを抜けて北設楽郡稲武町に入る。伊勢神とは、この峠の上に伊勢神宮の遥拝所があったことに由来する名前だそうである。
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旧伊勢神トンネルは明治時代に造られたトンネル。もとは煉瓦造りになる予定だったが、湧水と軟弱地盤のため石造りトンネルになった。現存としては珍しい構造のトンネルで、愛知県の文化財にも指定されている。
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北設楽郡稲武町に入る。ここは行政区分においてこそ「町」となっているが、山村と表現するのがふさわしい雰囲気の町だ。しかし、集落が広がるのは盆地の底の平地部分で、153号線は山腹の斜面にへばりつくようにして延びているため、町の真ん中を突っ切っていくようなことはない。眼下に広がる稲武の町を見ながら、ひたすら速やかに先へと進んでいく感じである。名古屋側から来た場合、町内最大規模と思われる集落をやり過ごした辺りで、道の駅「どんぐりの里 いなぶ」に到着する。規模としてはそこそこ大きめの道の駅で、山村の特産品をはじめ、御土産には素朴な品が多い。ここまでの所要時間を考えると、このあたりで「ひとやすみ、ひとやすみ」だろう。道の駅近くには、立ち寄り湯も設置されている。経験上、ドライブ中の入浴はかえって先行しようという意欲をそぐもののようにも思えてしまうが、好きな人には便利な施設だろう。
北設楽郡の名前が示すとおり、この辺りは愛知県の北端だ。道の駅を越え、トンネルを越え、さらにいくつかの集落を越えると、その先は長野県である。
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長野県で最初の町(?)は、下伊那郡根羽村である。稲武町と比べてもかなり民家が少なくなってどこかうら寂しくもあり、これまで走ってきた区間の中でも、もっとも山村らしい山村と言える。道沿いには信号がなく、車も少ない。実際に走ってみると、短時間のうちにぐんぐんと距離を稼いでいる実感があるだろう。
村の中ほど、横旗集落の辺りには信玄橋という名の橋がかけられており、この橋を渡った直後には、風林火山の軍旗と武田騎馬軍団の壁画がある。傍らには、「道神翔来 疾如風徐如林侵掠如火不動如山」と書かれたプレートが埋め込まれており、大河ドラマ「武田信玄」の原作者である新田次郎氏も一枚かんだ壁画のようだ。この壁画の裏手側に「信玄塚」と呼ばれる塚があり、武田信玄の供養塔と伝えられる宝筺印塔(ほうきょういんとう)が残されている。根羽村には武田信玄終焉の地の伝説が残されており、この辺りの地名「横旗」も、信玄の死に際し武田の将兵が軍旗を倒して甲斐へと帰国していったことに由来すると言われている。根羽村をはじめ、伊那街道沿いには信玄の死にまつわる伝説の地も多い。それらについては後でふれる。
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御旗楯無もご照覧あれ、伝武田信玄公供養塔。
上洛の志半ば、斯様に山深きところでみまかられた御屋方様におかれては、如何ばかりご無念であったか。
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根羽村の隣、平谷村に入っても、沿道に民家は少ない。酷道の誉れ高い418号線との交点付近がこの村の中心地になるのだろうか。この近くには建物が多く、道の駅「信州平谷」がある。ここも割合大きな道の駅だが、おそらくスキーシーズン向けに整備されたものだろう。オフシーズンだからか、閑散としていた。平谷村とその隣・浪合村の境界付近が治部坂高原で、153号線からもスキー場を見ることができる。
治部坂峠にある、異次元トンネルを思わせるスノーシェルターを抜けるとそこから先が浪合村なのであるが、相変わらず沿道に建物が無く車も少ない。快適には流れるが、車窓から眺める景色が自然物中心で単調になりがちなため、ドライブコースにふさわしいかどうかは微妙なところである。結局、走る人の好み次第だろう。好事家にとっては、走行中おもむろに車を停めて、そのまま写真撮影できるのは都合が良い。
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冶部坂峠のスノーシェルター。小規模雪崩よけの設備だが、スキーとあまり縁の無い人間には興味津々の構造物である。
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浪合村の次の村、下伊那郡阿智村は伊那谷の入り口だ。阿智村に入って少し進むと、木曽谷筋から8km以上の長さを誇る恵那山トンネルを抜けてやってきた中央自動車道の高架が視界に飛び込んでくる。この高架道路に沿う形で阿智の町は発達しているが、同じ下伊那郡の根羽、平谷、浪合の各村に比べるとかなり開けたイメージである。
この阿智村の中心市街地付近に駒場という名前の交差点がある。信濃の駒場と言えば、わかる人にはわかるだろう。このあたりにある役場の近く、長岳寺は武田信玄火葬の地伝説が残されており、ここにも供養等がある。
人口が一部に密集している関係か、阿智村は面積に関してはさほど大きくなく、少し進むと飯田市に入る。
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長岳寺。信玄最期の地、そして墓などの存在は各地に伝えられているが、ここはかなり有名だろう。
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飯田市は、2、3時間前に通過してきた豊田市以来の市部である。ここまでの道中153号線には、コンビニの存在すらまばらであったが、飯田まで来れば、レストランでもコンビニでも、御望みなら大型ショッピングセンターでも、買い物等の選択肢が圧倒的に広がる。もちろん、それだけ大きな街であるので、交通量も相応に多くなる。りんごの産地として知られる飯田市だが、153号線沿線は完全に市街地化されていて、あまり実感はわかないが、ここまでの道のりを思えば、むしろ雑然とした街並みが新鮮でもある。
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飯田市も北の外れあたりまで来ると、かなり起伏の多い地形となってくる。道沿いに郊外型の大型店舗を何軒か見ながら行くと、間もなく川を渡り、そこから先は下伊那郡高森町だ。このあたりから高森町、松川町と進んでいく間は、牧歌的な田園風景と住宅地地帯を繰り返しながら行く感じである。人里離れたところを行くわけではないが、やはり飯田の市街地に比べればのどかなイメージが強い。
行く手には、標高2956mの木曽駒ケ岳が見える。日本の高山ベスト10にこそ入っていないものの、見た目にもかなり高い山である事が実感でき、まさしく天を衝いてそそり立っているようだ。木曽駒をはじめとする中央アルプスの山々は、雲が出ていれば当然その稜線付近を覆い隠されてしまう。
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飯島町を出て、駒ヶ根市に入る。駒ヶ根は名前のとおり、駒ヶ岳の裾野付近に広がる街だ。駒ヶ根市内の153号線は、飯田の時とは違って街の中心部を貫くように延びている。古い商店街のような場所だ。朝夕のラッシュ時には結構な渋滞が発生しそうな雰囲気ではある。そのためだろうか、駒ヶ根付近に関しては、市街地を迂回して走るバイパスルートも存在している。
駒ヶ根の街の西側には前述の木曽駒ケ岳が見える。市内の観光スポットはこの地区に多く存在しており、153号線から外れて駒ヶ根ICをさらに抜けて進んで行くと、宝積山光前寺、駒ヶ根高原、さらに駒ケ岳ロープウェイの乗り場にまで進める。車とロープウェイを乗り継いで、簡単に2000m近い高地にまで行けるようだ。
駒ヶ根市の北には上伊那郡宮田村があり、153号線もここを通り抜けるのだが、あまり広くはないため宮田村区間はすぐに終わってしまう。間もなく、伊那市へ。
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古刹・光前寺は、伊那七福神で知られる。1号線レポートで少しふれた早太郎(しっぺい太郎)伝説の残る寺でもある。
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伊那市内の多くの区間、153号線は天竜川の堤防上を走る道となっている。一段高いところから、右手に天竜川の河原、左手に伊那の街を見ながら進むわけだが、道自体はそれほど広くは無い。路側帯も無いという、典型的な堤防道路である。どうしても伊那の街からは隔絶されているようだし、道の狭さもあいまって頼りない印象がある。伊那市内のメインストリートは、153号よりも一本西側を走る県道146号線なのだろうか。153号線を外れない限り、伊那の街は何事も無く通り過ぎていくだけの場所になりそうだ。
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