漁港哀史・あゝ下之一色

 中川区下之一色町は、名古屋の漁師町だった。
 「漁港哀史」というタイトルは、単なる駄洒落に過ぎない。下之一色は漁港と言うよりも漁師町だし、時代の移ろいと共にこの町から姿を消していったものに対する一抹の寂寥感を感じる事こそあれ、悲哀と苦渋に満ちた歴史を刻んできたわけでは決して無い。
 この町は、新川と庄内川に挟まれた、一見すると川の中州のような場所に開かれた町だ。この場所が今のような地形になったのは、明和4年(1767)の庄内川瀬違え、そして天明3年(1783)年の新川開削の時からである。瀬違えとは、川の流路を変える工事のこと。もともと水害を起こしやすい暴れ川だった庄内川の蛇行した川道をまっすぐにし、その流量の一部を新たに開削した新川の方へと逃がすようにしたのだった。この工事により下之一色の住人たちは、自分たちの家からすぐ近くの川から、船に乗って直接伊勢湾にまで漕ぎ出せるようになり、この時からこの町は漁師町として発達した。もともと海に近かった下之一色あたりでは、田畑を作っても塩害に遭いやすかったらしい。生業が漁業へと移り変わっていったのも、自然の成り行きだったのだろう。昔の伊勢湾は、豊饒の海だったと言う。一色と言う地名も、一説には「磯域」「江色」などと言った海にゆかりの地名に由来していると言われている。
 地名の話になったので、もう少し「下之一色」という地名について突っ込んでおこう。実は現在の名古屋市の地図を眺めてみても、下之一色に対応して然るべき「上之一色」と言う地名が見当たらない。何に対しての「下」なのかと首を傾げたくなってしまうが、これは現在の近鉄名古屋線黄金駅付近にあった北一色村に対応するものだと言う説がある。地図に書けば北が上で、南が下と言うわけだ。

伊勢湾台風殉難之碑(海部郡飛島村)
 漁師町・下之一色の歴史は、昭和34年(1959)の伊勢湾台風襲来後に終焉を迎えた。死者行方不明者を合わせて5000名超、負傷者は4万人に届こうかと言うほどの激甚被害を出したこの台風は、名古屋市にもその深い被害の爪あとを残した。行政はこの台風災害の後、脆くも決壊した各地の河川の堤防や、海岸部の防潮堤の改修工事に取り掛かっている。二本の川に挟まれて海にも面した下之一色周辺の堤防も、その時の整備計画の対象に含まれていた。工事が完成すると、下之一色の漁師たちは高い堤防に阻まれて、これまでと同じように気軽に船で海へと出る事ができなくなった。彼らの多くは、漁業補償を得て陸に揚がった。
 しかし、今日の下之一色の町にも、漁師町だった頃の面影は確実に残っている。往来の激しい国道1号線・一色大橋のたもとにある交差点を南に向かい、古く雑然とした街並みの中に足を踏み入れると、そこには仄かにノスタルジックな空気が流れているようだった。
  
▼国道1号線・下之一色町交差点付近より

 
 下之一色町の北側の縁をかすめるようにして、国道1号線が通っている。この近辺に限ってこの道は、片側一斜線ずつの狭い道になっている。沿道の街並みには見るからに古そうな民家もあり、整備計画も難航していたのかもしれない。最近では、拡張工事が行われているようだ。
 そんな下之一色町交差点付近から、この町の目抜き通りを撮影。入り口には「ようこそ」と言わんばかりにアーチが設置されているが、残念ながら文字の記されたプレートが脱落欠損している。
 
▼どこか懐かしい、商店街の光景

 
 
 下之一色の町域に潜入。道沿いに建ち並んでいるのは、年季の入った個人商店が中心だ。どこからどう見ても、昔なつかし商店街の光景である。この通りに入ると、スピーカーからなにやら音楽が流れている。クリアな音ではなく、ちょうど古い蓄音機の音のように聞こえるので、はじめてここに来た時は何ともいえないノスタルジーを感じた。
 国道からの距離はそれほどではないのだが、その騒音は独特の放送にかき消されてしまうらしい。いよいよ不思議の町の風情である。
 
▼小さなお社

 
 
 町内にある小さなお社。何社かを控えてこなかったのは不覚。
 「船底一枚下は地獄」などと言うが、海で仕事をしていて、いつ災難に遭うかもしれない漁師は、押しなべて信仰心が厚く迷信深い人種だった。かつての漁師町・下之一色には、ちょっとした社や稲荷社、本町通の「屋根神様」など、漁師が中心となったと思しき信仰の名残が残されている。
 なお、名古屋あたりの「屋根神様」は熱田神宮、津島神社、秋葉神社の神様を祭るのが普通だが、下之一色の場合は専ら一柱の神様を祭るものらしい。確か津島社だったと思うが、記憶が曖昧。不覚。
 
▼氏神・浅間社

 
 
 漁民信仰に関して言えばその中心は青峯堂だったようだが、氏神はと言えばここ浅間社だった。青峯堂は、海で遭難しかかった漁師が仏の加護で九死に一生を得、その返礼として建立されたものだという。
 漁師町時代にはこの浅間社あたりが町の中心となっていたらしい。その頃の名残なのか、現在でも浅間社前の道は周辺道路に比べてかなり広く作られている。この道沿いには、年季の入った結構味わい深い建物も多い。
 浅間神社そのものは意外に小さい。
 
▼お風呂屋さん

 
 
 漁から帰って来た漁師たちがまず第一にすることとは?どうやらそれは、「風呂に入ること」らしい。下之一色には、最盛期で7軒もの銭湯があったそうだ。
 陸に上がった漁師たちは、風呂に入って汗や海水を洗い流しながら、その日その日の水揚げについての情報交換をする。周囲の情況を見ながら、その日取引する魚の値段を決定するためである。従って銭湯は、社交の中心であると同時に、ちょっとした情報戦の場でもあったようだ。
 この銭湯(栄湯)の建物がまたいい味を出している。
 
▼下之一色・魚市場

 
 
 新川に面した魚市場。やはり漁師町の名残をたどる上で、こういう施設の情報がないのは物足りないと言うものだろう。
 下之一色の漁師たちは、自分たちの水揚げを仲買人は介さずに、直接消費者に販売していたようだ。その一方で、他の漁港に出向いてそこで魚を買い付けて下之一色に戻るなど、自分たち自身が仲買人のようなことをしてもいた。
 現在の事はまだよく分からないのだが、一昔前、このような市場には一仕事終えた漁師たちが、その日の漁果を商いに来ていたのだろう。
 
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