北國街道一人旅
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 久しぶりにこのコンテンツを読み返してみて気がついたのだが、自分は相当繰り返し国道8号を走っていたらしい。そのわりにR8に関するまともな記述は少ないことに気づいてしまった。というわけで、今回はR8をいやというほど利用した実家との往復話を書いてみようと思う。なお、今回はどういうわけか戦国ネタが多いです。

 石川県金沢市と、実家愛知県豊橋市付近を結ぶルートとしてまず妥当な線は、一気に富山まで北上しそこから西に向うルートと、滋賀県・福井県を回っていくルートの2パターンであろう。私は気分で使い分けていたが、実家から金沢まで向う場合、圧倒的に福井周りルートの方が多かった。理由は簡単で、それなりの早出でない限り、富山周りルートを使うと、とっぷり日も暮れた頃に峠越えしなければならなくなるためだ。何しろこの往復は回数が多かったので高速はほとんど使わなかった。約340kmほどの道のりを下道で7時間から9時間ほどかけて走っていた。時間はかかるがこれなら交通費は往復でガソリン代5000円弱(セルフスタンド利用)のみで済む。高速を使えばこれが三倍以上に跳ね上がる。ちなみにこの総走行時間二時間の誤差は、名古屋圏内に入った場合の道路状況のみに左右されているといってよい。このあたりが混んでいると愛知県内の移動に4、5時間かかってしまう。実は意外に適当な抜け道がないせいだ。特に尾張地区は裏道を使えるほど土地鑑がないので、無難に国道を使っていくとそうなる。

 ま、何はともあれ豊橋からのルートをなぞって見ましょう。名古屋市内までは国道1号をひた走っていくことになる。国道は、その重要度に応じて番号がつけられている。で、その中で一番重要度が高いのは番号が最も若い国道1号である。これは東京から京都まで旧東海道に沿って走っており、その先の大阪まで続いている。日本の二大都市を結び、名古屋を始めとするいわゆる太平洋ベルト地帯の都市をいくつも結んでいるので、妥当といえば妥当なランキングであろう。東海道の名を冠しながら、名古屋から京都付近までは中山道沿いに走って行く東海道新幹線や東海道本線とは違い、ほぼ忠実に東海道に沿って走っていく律儀な道路である。

 そんな旧東海道を豊橋から少し下っていくと、R1の近くに御油の松並木やら藤川宿なんてのがある。松並木は、かつて街道沿いに植えられていた松がそのまま残っているもので、旧東海道全線でも意外にこういう箇所は珍しいらしい。藤川宿はかつての宿場で、今はこれといって目立つ史跡が残っているわけではないと思うが、なにやら紫の麦というものが植わっているそうな。これも旧東海道ゆかりのものらしい。この辺はあんまり詳しくないので、ものすごく漠然とした話だが、まあそういうものもあるということで。

 そこからしばらく行くと岡崎の街に入る。徳川家康出生の地・岡崎城は国道のすぐ近くだし、八丁味噌なんかも有名らしい。聞くところによるとこの八丁味噌、ただの赤い味噌ではなく健康にいい効果があるようだ。これも詳しくは知らない。そのまま市街地を抜けた矢作川にかかる矢作橋には、(多分)日吉丸と蜂須賀小六出会いの像がある。いや、像自体は確かにあるんですが、そういうタイトルがついているかどうかはわからないんです。幼少の頃の豊臣秀吉が矢作川にかかる橋の上で寝ていたところ、たまたまそこを通りかかった蜂須賀小六(正勝)に気に入られて家来になる、というエピソードはよく知られているが、これはどうやら創作ということである。この話も今ではずいぶん広まった感はあるが。当時は矢作川に橋はかかっていなかったというし、蜂須賀小六が活動していたのは現在の愛知と岐阜の県境付近で、岡崎くんだりまで出張ってくる理由がないのだ。二人が接点を持つようになるのは、織田信長の美濃侵攻が本格化してくる頃である。墨俣一夜城の前ぐらいの段階である。
 矢作川を渡ってしばらく行くと、安城知立と続いていく。このあたりで有名なのは藤田屋の大あんまきや「かきつばた」といったところ。大あんまきは今川焼き様の皮に餡が包まれたお菓子。強引に例えるなら和風スフレ。それがでかい。口ン中が甘ったるくなるほどのボリュームである。「かきつばた」は古典の授業なんかに出てくる「らころもつつなれにしましあればるばるきぬるびをしぞおもう」のあれである。在原業平の昔男が出てくるあの話、伊勢物語。それが読まれたというのが知立の八橋というところらしい。でも私は行ったことがない。

 知立を抜けると中京競馬場のある豊明市。そしてその先は名古屋市である。このルートをとった場合、名古屋市に入ると真っ先にかの有名な桶狭間を抜けることになる。といってももはや往時の面影はなく(まるで見てきたように書いてるな・・・・・・)、すっかり宅地造成が進んでいる。仮にも名古屋市の南縁地区なのだから仕方ないのかもしれない。しかし、このあたりは車線が片側一車線ずつになる。したがってびろ〜んと長い渋滞が発生しやすい。四百年経っても、人の流れが集中すると詰まってしまうとは・・・・・・。多分今川義元も同じようなことをやって討たれたのだろう。合掌。この近くには義元の胴塚がある。ちなみに一軍の総大将、しかも名のある大名で首を討たれたのは、私の知る限りでは今川義元と、九州沖田畷で島津軍の十字砲火を受け、蜂の巣にされて死んだ竜造寺隆信くらいである。他は何だかんだ言っても自害は出来てるはずだ。次点として小来栖で土民に討たれたとされる明智光秀か。

 そこから先は泣いても笑っても名古屋市街。道は片側三車線計六車線と広くなる。名古屋の道は東京や大阪の人がびっくりするほど広い。一番広いところで片側五車線づつの計十車線になる。これは終戦後の復興計画時に車社会を見越してそうしたということもあるのだが、防火帯の意味合いも強い。ぶっちゃけた話し、五車線もあると多少走りづらい。しかも、それだけあってもつまる時はつまると来ている。名古屋市内を走る時は慎重なコース取りが必要であろう。私は都市高速の高架の下の道で鶴舞公園の横を通り過ぎ、東新町出口の交差点で桜通りに入っていくか、国道1号を熱田神宮近くの交差点まで走っていきそこでR19に入るかすることが多かった。

 一応熱田神宮について書いておくと、ここは三種の神器の一つである「草薙の剣」を御神体とする神社である。この草薙の剣であるが、基本的には見ることが出来ないものの、過去に覗き見した人がいるという話。その人の証言によると、どうやら銅でできた矛のような剣らしい。銅剣は鍛錬して作る鉄剣とは違い、鋳型に溶けた銅を流し込んで作ったものだ。そのため強度は鉄剣よりも格段に劣り、また斬るというよりたたくための武器である。したがって草薙の剣は切れ味鋭い利剣というよりも鈍器ということになってしまう。名前の由来となった、草を切り払い云々の話の値打ちが微妙なものになってくるし、ちょっとロマンがなくなる話のような気がする。

 熱田からわずかばかり来たに行くと古渡町の交差点がある。ここは織田信長生誕後に父である織田信秀が城を築いて移ったあの古渡なのだろうか。実はよくわからないしあまりにマニアックな戦国話なので割愛。さらに行くと大須観音がある。実際に大須観音に行ったことはない。むしろ愛知県民(ならびに岐阜県や三重県の皆さん)にとって大須とは大須ういろのイメージも結構強いのではないかと思う。♪ぼんぼんぼーんと時計が三つ〜、である。大須ういろ以外のういろうといえば、桜抹茶白ニッキの一口ういろう四季づくしではないか。

 何にせよ、19号をしばらく走っていくと、先ほど話が出た桜通りと交差する。さらに行くと「尾張名古屋は城で持つ」の名古屋城である。名古屋城は、太平洋戦争の空襲で焼けていて、現在内部は博物館風になっている。コンクリート製で風情がないのが残念だが、空襲前に城内の詳細なデータが取れているというので、それに基づいて忠実に再現すれば、かつての城も復元できるのではないかと思う。いつかそういう話が持ち上がることに期待したい。なお、空襲で焼ける名古屋城の写真というものもある。ネットで検索すれば見つかるかもしれない。確か金鯱は下ろしていたので難を免れたとかそう言う話だったと思う。それとも献納したんだっけ?鯱。

 その先は道路案内看板にしたがって国道22号に入っていく。特に見所は知らないが、片側三車線の広い道路である。その割りに結構詰まるのでご用心といったところか。しばらく走ると名神高速道路の一宮インターなんかがある。高速に乗る場合はここからどうぞ。さらに22号に沿って走っていくと東海北陸自動車道の一宮木曽川インターもあるが、そこを越えてしばらく行くと木曽川を渡り、岐阜県である。目の前に岐阜城のある金華山が見える。新緑の頃には山の緑がきれいだし、岐阜城のてっぺんまで登れば景色も良い。夜景もいいらしい。とにかく現存する山城の中では抜群に高いところにある城である。上れば景色がきれいなのは間違いない。

 岐阜県に入ったら高架のある(多分)岐南の交差点で左折し、R21に入る。道なりに直進するとR156で、こちらは岐阜を縦断し、富山県に入るルートである。今回は21号を西に向う。まだまだこのへんは交通集中で流れが悪くなりがちだが、大垣くらいまでの辛抱。そこからは道も狭くなるが、流れはスムーズになる。

 そして垂井町、関ケ原町へ。垂井は確か「今孔明」と呼ばれた竹中半兵衛の出身地である。看板もある。半兵衛は頭の切れる人で、たった数人で斎藤氏の稲葉山城(後の岐阜城)を乗っ取ったりした人で、まだ木下籐吉郎、羽柴筑前と呼ばれてたころの秀吉に軍師として仕えた。最後は備中高松城の水攻めを秀吉に進言して陣没したというが、そういう人の出身地である。

 そこを過ぎれば関ケ原であるが、実は関ケ原古戦場をちゃんと見たことはない。理由はといえば主にルーティングの関係だが、北陸方面へのショートカットを狙うならば名神高速関ケ原インター近くの交差点で右折し、R365に入った方が良い。私は大抵このルートで行っていたため、古戦場のツボから微妙に外れてしまうらしい。どっちかと言えば21号からの方が古戦場は近いらしいのに。もう一つは関ケ原の戦いに関してはさほど興味がないこともある。関ケ原近くにはレジャーランドとして関ケ原メナードランドや、関ケ原ウォーランド、鍾乳洞などもある。

 なお、21号をまっすぐ走った場合、北陸自動車道の米原インターを少し過ぎたあたりで国道8号に突き当たる。右折すれば北上して北陸路、左折すれば琵琶湖の南岸を回って国道1号と合流して京都大阪方面に向うことになる。8号を走っていけば、長浜市街の近くを通るので、市内観光ができる。長浜は魅力ある街づくりに力を入れているらしく、観光でも十分楽しめるということである。また、長浜といえば秀吉が始めて城持ち大名になった記念碑的な城、長浜城がある。琵琶湖のほとりに復元された城だが、中には色々な史料があり、肖像画の人相骨格を元に再現されたという秀吉の声も聞ける。ちなみにかなりきつい名古屋弁で話すので、何を言ってるのかはさっぱりだった。

 8号を走っていけばそんな感じだが、365号を行くと、しばらくは田園地帯を走ることになる。道幅は狭いが、順調に流れる快走路だ。別に8号も特別混むわけではないのだけど。古戦場として有名な姉川は長浜市と浅井町の境界になっている。近くには国友鉄砲の里資料館なんかもあり、戦国ネタには事欠かないが、さらに、浅井町から湖北町に入るあたりで右手に見える山が小谷山でここに小谷城である。織田信長の妹・市を妻としながら結局裏切って攻め滅ぼされた浅井長政の居城があったところだ。遠目にはただの山にしか見えない。小谷城落城後は前出の長浜城に政治の舞台が移ってしまったため、どうにも影が薄いのである。なお、地元の観光協会の狙いとしては長政よりも市を押したいようである(憶測)。完全に余談になるが信長一門は美男美女の家系で市は戦国一の美人といわれたそうだ。

 やがて木之本町付近で、進路を365号から8号に変更する。ここで乗り換えとかないと次に合流するチャンスはもう福井県鯖江市までない。実はこの365号沿いのコースこそがいわゆる北國街道なのだが、はっきり言って険しい山道である。一度だけ走ったことがあるが、峠越えは対向車とすれ違うのも困難そうな狭い道であった。幸いそこで対向車と出くわすことはなかったが、どういうわけかすれ違うのはトラックばかりであった。タイミングが悪ければ非常に厳しいことになっていたであろう。このルートで行くと、今庄町や南条町を通り抜けていくことになる。JR北陸本線の車窓から今庄そば道場と言う看板をよく見かけたのが印象に残っているが、実はこれがあるのは365号沿い(と言うか近く)であるらしい。電車でのアクセスは結構面倒くさそうである。駄目じゃん。

 ところで8号ルートで福井に向う場合だが、木之本の市街を抜けて間もなく、賤ヶ岳古戦場がある。羽柴秀吉と柴田勝家が激突した古戦場である。柴田勝家は歴戦の猛将で、数的に圧倒的に勝る羽柴軍を前にして老獪に出方をうかがおうとしたのだが、血気にはやる配下の将(佐久間盛政)が先走ったため、そこから鉄壁の布陣にほころびが生じ、雪崩式に敗北してしまったと言う経緯がある。勝家の無念はいかばかりだっただろうかと思うのだが、福井には柴田勝家の滅亡にまつわる怪談がある。居城北ノ庄城があった福井市の方の話らしいのでそちらで。

 敦賀市内に入って以降は小浜編にでも少し触れたが、結構風光明媚なところを走ることになる。さほど広くはない市街地のはずれに気比神宮や金ヶ崎城がある。気比神宮はいわれなどについてよく知らないのでここでは触れないでおくが、金ヶ崎と言えば籐吉郎の金ヶ崎退き口であろう。

 越前(福井県北部)の朝倉氏を攻めに向っていた信長以下織田軍は、ここで浅井長政の裏切りを知り、挟み撃ちになる前に電撃退却をする羽目になるのだが、退却戦と言うのは非常に困難を極めるものであった。戦国時代、戦は完全に集団体集団の戦闘になっていたのだが、退却しながら集団を維持すると言うのは途方もなく難しいものなのである。皆一目散に逃げていくのだから、全力で走るのに精一杯で、他の者に気を使う余裕などあるはずがない。自然に隊列は乱れるし、そうなれば後は、足の遅い者から順に敵軍に飲み込まれていくばかりである。戦闘は大集団対小集団、有態に言えば集団リンチの繰り返しになる。ある程度まとまった数をそろえた軍勢でも、少人数の集団を数回に分けて時間差で各個撃破されて終わってしまう危険性が高いのだ。秀吉はそんな退却戦の殿軍を引き受けた。要するに退却する仲間の最後尾で敵の襲撃を一身に受ける役割なのだが、これを見事成し遂げて名を売るのに成功した。これが金ヶ崎退き口というものである。長々語ったが、金ヶ崎城と直接的に関係があるかどうかは知らない。なんじゃ、そりゃ。

 ま、それはさておき、そこからさきは敦賀湾(若狭湾)沿いの道を走っていく。小浜編でも書いたように途中何度か断崖の上を走ることになるので、景色が良いからと言ってわき見はあまりお勧めできない。油断すればドボン、である(少し大袈裟かも)。でも、本当に景色は良い。今は金沢から撤退し、愛知県民に復帰したが、意外に周りの人(愛知県民)で若狭の海にいくと言う人は多い。きれいな海だからだ。ただ、最近少しづつ汚れてきていると言う話を聞くのが気になる。観光客が多くなったせいだろうか。ちなみにこのあたり、崩落危険箇所で、その上結構霧も出るようだ。ご用心。

 やがて道は海沿いから山越えになっていき、そこをぬけると武生市である。武生で有名なものは菊人形だろうか。個人的には縁起でもないが、「犬神家の一族」で斧(よき)琴(こと)菊(きく)の菊の見立てで殺された死体を思い出す。被害者の名前は忘れた。確実なのは諏訪湖(原作小説版の話。映画では岡山の話と言うことになってたんだっけ?)にさかさまに突っ込まれたのが佐清(すけきよ)だということだけだ。映画ではシンクロナイズドスイミングのようなビジュアル面ばかりが印象的で、意外に知らない人が多いらしいが、あれは「すけきよ」をひっくり返して「よきけす」にし、上半身を隠しているから「けす」の部分を隠して「よき」にしているという見立てである。さらに本当に余談だが、助六(寿司)を時々佐清と呼ぶ癖がついてしまい困っている。

 その先は鯖江市。めがねのフレームの国内生産のほとんどは鯖江で行われているそうだ。これは意外に有名な話なのではないだろうか。残念ながら鯖江に関するほかのネタは知らない。

 そして車は福井市へ。福井市は何度か行ったことがある。柴田勝家を祭った柴田神社や、福井城跡などしか見たことはないが。お土産はベタだが羽二重もち。すごくやわっこい。むやみに買い込んで始末に困るようなことさえなければ結構いいお土産なのではないかと思う。あとは冬場なら北陸の定番海産物だろう。特に蟹。ちなみに、その他の名所旧跡だが、福井市の北部には新田義貞の墓(新田塚)なんてものもあるらしい。まだまだ戦国ではないので守備範囲外。高校時代の社会は地理を選択していたので戦国時代以外の日本史はまあ、通り一遍のことしか知らないのです。近郊にはいろいろ見どころもあるが、それは永平寺行きの回に譲ろう。なお、先に触れた怪談だが、柴田勝家の命日と伝えられる旧暦4月24日になると、足羽川にかかる九十九橋あたりから、福井市近くの街道沿いに首のない武者行列が現れるのだそうだ。それだけでも不気味だが、それを見たことを人に告げると祟り殺されるのだと言う。また、江戸時代にその様子を絵に書いた人がいたのだが、その後その絵の持ち主には不幸が相次ぎ、最後の持ち主は火事で家もろともその絵を失ったということだ。話が前後するが、賤ヶ岳あたりには時間帯的に夕方、俗に言う逢魔が刻に通ることが多かったので、この話が何気にいやだった。BGMは常にモーニング娘。やPUFFYなどテンション高めの曲にしていたのだが、いっぺん中島みゆきの『世情』(加藤の逮捕シーンで流れてた曲)を聞く羽目になり、非常にへこんだ記憶がある。悪いことに、この先敦賀市街までしばらくは峠の道である。一人で夕方や夜道を走るのはほんとに嫌だった。

 福井市を抜け、城と一筆啓上で有名な丸岡町を抜け、さらに金津町も越えると、ようやく石川県加賀市である。加賀市は温泉だろうか。大学時代の友人に山代温泉出身の友人がいたので、彼に敬意を表して山代温泉から紹介すると、千年余りの歴史を持つ古い温泉だそうだ。猿や鹿など動物が見つけた温泉というのは全国に結構あるが、ここはカラスが見つけたアニマル系温泉である。娘娘(にゃあにゃあ)饅頭が特産(?)。あとは加賀福(笑い)。もちをあんこで包んだ和菓子だそうだ。

 山代温泉のライバル温泉として、市内には片山津温泉がある。こちらは加賀温泉駅から看板が見えるので近そうな印象を受けるが、実際は山代とそんなには違わない。R8、北陸線から見て山代とは反対側の巨大な観音像が見える側にある温泉地である。他には山代温泉の南隣の江沼郡山中町にある山中温泉も有名。ここは昔「はるちゃん」シリーズの舞台になった温泉地である。このドラマ、気がつけば土肥温泉に舞台を移していたが。前二者に比べれば断然ひなびた温泉のイメージが強い山あいの湯である。

 もう一つ、隣の小松市に粟津温泉なんてのもあるが、こちらは本格的によく知らない。ただ(多分)ローカルCMで流れてた「法師」という宿の雰囲気がよさげだったのは憶えている。テレビCMをどこまで信じてよいものやらというところか。ついでに小松について触れておくと、勧進帳で有名な安宅関のあとがある。弁慶が義経を打ち据えるあれ。

 さて、加賀市と小松市の境付近に「加賀ガラス館」なんてのがある。以前物の本で読んだところによると、先がない温泉地が断末魔的に建てる三種の施設として、「テディベア館」、「ハーブ館」、そして「ガラス館」が挙げられるらしい。いささか加賀温泉郷の行く末が心配である。なお、加賀市内には「御菓子城加賀藩」というのもある。メルヒェンのお菓子の城のイメージではなく、あくまでもシヴイ和菓子の城である。

 粟津温泉の小松市を抜けると、能美郡の町が四つほどある。根上町、寺井町、川北町、美川町であるが、ここであえて美川町に注目したい。何しろ県一の町である。ふぐの卵巣(基本的に猛毒。テトロドトキシン満載である。)をぬか付けにした物が特産だそうだ。すごく塩辛い珍味だそうである。美川、県一の町。美しき石川の川。訳のわからんキャプションですみません。写真は北陸自動車道からのものです。右が拡大図。撮影は陰介さん(仮)。この看板があるのは、汚水処理施設か何かの敷地内だという話を聞いたことがある。念のために断っておくと、美川町は美川憲一と何の縁もゆかりもない。それにしても今は亡き愛車の姿(?)が映っている写真がこれだけとは悲しい限りである。しかも映っているとは言っても、ダッシュボードとバックミラーだけという体たらく。

 なお、寺井・根上と川北・美川を真ん中を縫うようにして流れているのが手取川である。今回は本当に戦国ネタが多いが、ここは上杉謙信公が柴田勝家率いる織田家北陸軍をけちょんけちょんに打ち破った古戦場だ。軍神と恐れられる謙信公の猛攻を受けて、松任付近まで出張っていた織田軍は越前側に押し戻されたわけだが、そのときたまたま増水していた手取川に総崩れの織田軍将兵が殺到して、さらに被害が拡大したのだという。ちなみに、謙信公と織田軍の直接対決は、これが最初で最後である。この戦いを終え、本国越後に帰ってから間もなく謙信公は脳卒中と思われる病気で没している。これ以降の織田家対上杉家の対決は養子の上杉景勝に引き継がれていくが、最終的に景勝は加賀能登越中を失っている。謙信公が強すぎたのだろうか。私の知る限り、謙信公が指揮をとった戦の中に負けらしい負けは一つもない。謙信公の向こうを張った信玄公でさえ、村上義清には三度敗れ、そのうち二回はひどい惨敗であったことを思えば、まさしく戦の天才だったのだろう。ちなみに、信玄公の歴然とした負けは、村上義清相手に喫した三敗だけである。

 あとは松任市、野々市町と抜けて金沢市に入るわけである。松任は特にこれというものが思い出せない。野々市はチャンカレことチャンピオンカレーだろうか。タイムサービスでLカツカレーが安くなる店だが、タイムサービスやってない時間の方が短い上に、タイムサービス中には通常サイズのカツカレーのほうが高くなるという不思議なシステムである。ここまできてカツカレーの話題もなんだし、事情を知る人からの突っ込みが入りそうだが、まあ、私の大学時代の思い出の1ページとして記してみました。良くも悪くも。

 シメがこれかよ。