花の下にて(吉野・大阪・姫路・彦根) 2003年4月11日・12日 搭乗車種:ヴィッツ |
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春は間近だと言うのに、仕事が妙に忙しくなった3月の頭のこと。年度末だから忙しいのはある意味で当たり前なのだが、何とはなしに日常をかなぐり捨てて走り出したくなった。私の中の獣の部分(笑)が騒ぎ出したのかもしれない。虎は一日に千里を走るという。あのときの私はまさに虎であった。それもまさに手負いの虎。虎は、傷ついてからが本物である。地下鉄で肘をくれた相手にガンをつけるなど、暗黒面が強く表出しかけていたあの頃、このままではいけないと思った私は、心の平穏を保つために旅に出ることにした。 季節はまさに春。ちょうど花見の時期だ。桜でも見に行こうか。それも華やかなだけの桜ではなく、怪しい奴を見に行こう。そう、死体でも埋まってそうな奴を。そのときに思いついてしまった桜の名所が、東京は上野あたりと、奈良県の吉野山であった。どちらもかつて戦場となり、幾千の血が流された、非常に縁起でもない場所である。 しかし今回は、吉野山に向かうことにした。東京も悪くはないのだが、車を使いたい。そうなると都市部は避けたい。それだけの理由である。 さて、吉野山だが、今さら説明の必要もないほど、桜の名所で鳴らしている土地である。下千本、中千本、上千本、奥千本と、山の下のほうから順番に桜の花が咲いていくのだという。なかなか時間がとれず、やっとの思いで作った時間にピンポイントで花見をしたい人には非常にお奨めの立地である。下のほうから順繰りに桜が開花していくと言うのなら、中千本あたりの開花予想時期に合わせて時間を作れば、その前後に多少の猶予期間が出来ることになる。せっかく行ったのに、花が咲いていない、という事態は避けられるわけだ。社会人になると、ワンチャンスを生かして旅に出なければならないのだなぁ。 ワンチャンスと言えば、せっかく関西方面に行くのだから、姫路城にも行ってみたくなった。なんだか高校の修学旅行で行った記憶はあるが、そこはそれ、修学旅行である。旅と言うのは、あくまで自分のペースで、行きたい時に行くが良かろうと思っている私にはどうもなじめない物である。今回、今一度自分の足で、世界遺産にも登録されたこの城を見に行こうと思った。吉野に行くだけであれば、電車で十分であろう。しかし、姫路まで行くとなれば日帰りは難しい。それに、車の方が都合が良い。そこで、レンタカーを借りての道行、と言う方向で計画を立て始めた。実のところ、例の如く大した計画などないのだが。吉野から姫路までの所要時間を下道で約6時間、姫路城は翌朝一番で訪れることにして、3時くらいまでは奈良県内をうろうろしようと、その程度の物である。 そして迎えた当日の朝、普段の出勤時刻よりも三十分早く家を出る。もろにラッシュに捕まりそうな時間帯だが、それより早く出てもレンタカー屋が開いていないので仕方がない。駅に着くと間もなくホームに入ってきた、通勤通学のサラリーマンや学生でごった返す電車の中に乗り込む。それ自体はいつもと同じだが、今日の私は物見遊山。若干勝ち誇り気味の気分であったが、いつもの手提げ鞄ではなく、リュックサックを背中に背負ったまま乗ってしまったのが不覚であった。ぐいぐい押され、あばらが行くかと思うほどあった。ふた駅で降りたが、それ以上乗っていれば危なかったであろう。電車を降り、地上に上がったところで8時ちょうど。その足でそのままレンタカー屋に向かい、代金を払い、車に乗り込んだ。久々の運転である。タイヤの地を噛む感触が心地よい。 今回搭乗した車はヴィッツ。件のレンタカー屋(トヨタレンタリース愛知)で借りられる車の中では、一番安いランクの車である。排気量は公称1100cc。とは言え、私自身スペックを数字で言われて、「はん。そんなもんね。」と納得できるほど車の機構に精通しているわけではない。普段の走行には支障がない程度の(支障がある車が売り出されるとも思えないが)能力を持ってはいる。難があるとすれば、ここ一番の決定力を欠くぐらいか。高速道路走行中、それなりに時間をかけてスピードをあげていけば、130くらいまで出るが、ワンチャンスに120くらいまで爆発させてごぼう抜き、というわけには行かない。そんな感じの車だ。ただし、極端な高出力を必要としないせいか、かつての我が愛車エクシブに比べて燃費はかなり良い。ちなみに車体カラーは白。なぜか豊橋ナンバー。今日日の車には当然の装備だが、カーナビとCDが搭載されている。 店を出た直後は、嫌でも都心方向に向かわなければならない。道はぎちぎちである。すでにして渋滞気味だが、かろうじて流れている。だが、車線変更にはかなりの神経を使う。仕方がないのでそのまま最初の信号で左折し、細めの生活道路を走っていく。それにしても、幹線道路に出るたびに道が込んでいる。昭和区から瑞穂区、熱田区と都心部の南端を抜け、六番町の交差点で国道一号に入る。ここまで来れば、あとは都心からは遠ざかるばかり。とは言え、市街地なので信号が多く、いちいちそれにひっかかってしまうためになかなか前に進んでいる気がしない。名古屋市を出て、お隣の海部郡蟹江町に入るのに、出発から小1時間かかってしまった。それにしても、名古屋市自体大都会と言うわけではないが、西側に行くと急激に田舎になるようだ。我がホームもそれほど開けている感じではないが、中川運河以西は、それとはまた違った趣がある。気がつけば、道も片側一車線。そしてまたしばらく行くと海部郡十四山村。このあたりまで来ると、随分と水田が目に付くようになる。そして、海部郡弥富町。金魚の生産地として有名だそうな。日本でも一、二を争う産地だという。ちなみに、これから向かう吉野町・・・・・・のある奈良県の大和郡山市も日本有数の金魚の産地だそうな。吉野に絡めた話題にしようとしたが、絡みきれていないなあ。それはともかく、弥富町の境界表示板を越えると同時に、金魚屋があったのには参った。あまりにも露骨。しかも2、3件密集している。ちなみに、この弥富町には伊勢湾台風の犠牲者のために建てられた、慰霊碑か何かのモニュメントがある。伊勢湾台風は地元では有名な災害ではあるが、戦後の自然災害では阪神淡路大震災に次ぐ四千人超の被害者を出した台風である。海近くの材木置き場においてあった丸太が、高波と共に市街地に流入し、それによって家屋にかなりの被害が出たりしたそうだ。ドキュメント番組で診た記憶があるのだが、それによって被害がさらに拡大したらしい。今回の行程では、神戸も通る予定なので、伊勢湾台風の事も思い出してしまった。 弥富を過ぎると、三重県桑名郡長島町。長島温泉、長島スパーランド、そして一向一揆でおなじみの町である。今回の旅においてはさして重要な場所ではないので素通り。そして、その手は桑名の焼きハマグリの桑名市もスルー。ちなみに、今回旧東海道に沿った国道一号を走っているが、本来の東海道は、桑名までは海路である。そのうちに名古屋市の港区あたりから伊勢湾岸自動車道ができる予定らしいが、雰囲気的にはこちらのほうがより東海道かもしれない。続く三重郡川越町も素通り。名古屋脱出に思いのほか時間がかかった関係で、今回はてきぱきと進む。四日市の市街地に入ったあたりではじめて小休止。ampmでトイレを使わせてもらう代わりにガムを買った。四日市は比較的大きな町である。が、ここを過ぎてしまうと、わりかし片田舎を走る時間が長くなると言う情報を事前に聞いていたので、少し体勢を立て直した。そう言えば、ここに来るまでの道沿い、思いのほかコンビニが少ない。待ちに待ったコンビニが、ampmだったわけである。事ほど左様に、このあたりの中核都市然としている四日市市だが、かつてはそれゆえにか、四日市ぜんそくと言う公害病問題が発生したりもした。当時のニュース映像などを見ると、確かに空全体が煙っているように見える。もちろん、今では別に空気が特別汚れているという事はない。記念に写真でも撮っておこうかと思ったが、この日はあいにく、今にも雨が降り出しそうな曇り。当然空は鈍色で、かえって空気が綺麗になってなさそうな誤解を与える恐れがあったので、撮影は止めておいた。 さて、車は四日市市内を抜け、サーキットのある鈴鹿市をかすめるようにして西進する。そして、結構有名な亀山城のある亀山市に入る。繰り返しになるが、今回時間がない。城も諦めひたすら前進する。亀山市の西の外れあたりで、東名阪自動車道が終り、その先の、奈良県天理市から始まる西名阪自動車道まで、国道二十五号線によって結ばれている。名阪国道と呼ばれているこの道は自動車専用国道のようで、実質高速道路と言ってよい。走っている車は軽く80km/hほど出している。ところが今回、急いでいると言うわりに、関ジャンクションから名阪国道には入らなかった。鈴鹿郡関町にある、歴史国道とやらを走ってみようと思ったのだ。しかし、結局道を間違えてしまい、期待の歴史国道を走ることは出来なかった。仕方なく、すごすごと道の駅に入ったが、あまり賑わっている雰囲気ではない、小さな道の駅であった。道の駅を出て間もなく、新所西の交差点で左折して国道一号に別れを告げ、国道二十五号線(伊賀街道)に入る。ちなみに、名阪国道も、その脇に沿うようにして走っている伊賀街道も、共に国道二十五号線のようである。紛らわしい。国道とは思えない細く頼りない道を走っていると、加太と言う集落に出た。かつて、本能寺の変に際し、堺見物をしていた徳川家康は、明智光秀の追っ手を避けるために、伊賀国(奈良県)から伊勢に抜ける厳しい逃避行を強いられたと言うが、そのとき最大の難所が加太越えだった。このあたりがその加太なのであろう。そんな土地を走っていると、板屋ICの看板を見かけた。あまりに細い道を指し示していたので、一度は通り過ぎてしまったが、引き返して、板屋ICから名阪国道に入る。ちょうどこのあたりから雨が振り出した。関町を抜けると阿山郡伊賀町、そして上野市である。このへんが忍者でおなじみの伊賀である。すぐ北の滋賀県には、甲賀郡甲賀町があり、このあたりが忍者の里であることが良く分かる。しかし、どうやらより派手に忍者を売り出しているのは伊賀らしい。甲賀は、渋めの通好みな売り出し方のようだ。 上野市を抜けるとすでにそこは奈良県。山辺郡山添村、都祁村と抜けていく。天理市に入ったあたりで道は急激に下り始め、奈良盆地に入り込む。大きなカーブを描く坂道を下り天理東ICで名阪国道を抜ける。天理ICより先は、有料自動車道(西名阪)である。さて、天理市だが天理教の本拠地として知られる。いわゆる宗教都市といって差し支えないだろうが、車で走っているぶんには、特別宗教色の強い町ではなかった。当然と言えば当然のことだが、道場等も見ることはなかった。天理教の道場というのは、始めて見る人にはなかなか壮観なのだそうだが、私も見たことはない。天理東ICで降りながら、高架の直下の道を天理IC付近まで走り、そこからは国道169号を一路南へ。このあたりで、これまでは単なるデジタル地図でしかなかったナビに案内を開始させる。私はナビがあまり好きではないが、どうもこのあたりの地理には自信がなかったためである。が、結局ナビが指示する道は、R169を南下するルート。案内に従い桜井市に入る。このあたりでなんとなくミスチルのCDを聞く。桜井市だから。 桜井の駅を少し越えたあたりで、ナビが左折を指示した。私はあまり深くは考えずそれに従ったが、思えばこれが失敗だった。右に曲がった場合吉野に向かうには明日香村を抜けることになる。明日香を抜けていった方が、それは面白かっただろう。ナビの地図上にあった、慈恩寺というちょっと気になる名前に目をとめたものの、それ以上にまでは気が回らなかった。次回以降の車旅では、やはり自分でルーティングする醍醐味を思い出さねばなるまい。何はともあれ、進路を左に取った私の運命は散々であった。ナビが推奨するルートは、普通なら絶対通らないような細い道ばかり。二度三度曲がり角を見落とし、そのたびに引き換えしたりした。そもそも今回の旅、GPSの精度があまりよろしくないのか、地図を見誤ることが多々あった。イラク戦争の影響だろうか。ガソリン代はレギュラーでも100円を切ることが稀になっているし、本当にいやな話だ。いったいこの戦争で誰が得をするのか。ちなみにこのとき走った道は、桜井吉野線。山の中を走る細〜い道である。かつての私の運転技術なら相当きつかったであろう、プチ深山幽谷道路である。天気も愚図ついていて今ひとつはっきりしないだけに、運転には相当神経を使う。車体が小さくて、逆に助かった、といったところか。 ようやくの思いで山を抜けると、左手に川を見ながら走る道に出る。この川が吉野川(和歌山県に入って紀ノ川)、今走っているのはすでに吉野町内で、目的地の吉野山はすぐそこである。吉野町の東側から町域に入り込んだため、吉野山に向かうにはさらに西進しなければならない。吉野山は、ここからだと川の左岸側になる。時間はすでに1時。今日、今後の旅程を考えると、あまりのんびりと観光をしている時間はないかもしれない。さすがに桜の名所だけあって、この時期となると、臨時の道路案内看板が設置されるようだ。町内のあちこちに立てられている、吉野山までの道順を書いた看板に従って先に進む。が、行き着いた先に待っていたのは、誘導役の警官であった。この時期の吉野山は、土日にはマイカーの乗り入れが規制される事は知っていた。しかし平日でも、乗り入れだけは出来ても、交通規制が敷かれるようだ。よくわからないまま走っていると、帰路のほうに案内されてしまったらしく、むなしく吉野川の右岸に戻っただけであった。時間がないというのにこんなことをしている場合ではない。再び、川を渡り、今度はきちんと吉野山までの道のりを聞き、正規ルートに向かった。吉野山は、あいにくの天気で、平日であるにもかかわらず多くの人が出ていた。道が山を登り始めた矢先にある近鉄の吉野駅は、桜シーズンにあわせて飾り立てられているようだったが、その界隈から随分たくさんの人が歩いていた。私よりも先行している車の数も、結構な数のようだ。駐車場はちゃんと用意されているのだろうか。いやな予感がしたが、その予感は最悪の形で的中してしまった。 この日、マイカーは吉野山に入ることが出来たが、駐車場がないのと、交通規制が敷かれている関係で、道が渋滞していた。左がそのときの様子だが、百台は下らないであろう車が、あまり広くもない、いかにも生活道路といった趣の道で数珠繋ぎになっている。そして、なかなか進む気配がない。抜け道がなく、転回も出来ないため、仕方なくそれに従う。渋滞で車が進まなくても、景観の良いところでとまったのであれば、一応花見として成立し、今回の吉野行の目的を八割方果たしたような物で、まだ救いはあるのだが、そうは問屋がおろさなかった。いつもいつも見通しの良くないところで止まらされる。そんなこんなでどんどん時間が押し、もはや吉野観光は絶望的な状態だが、脱出すらままならない。ゆっくりと走っているとなかなか魅力的な町なのだが、とにかく今は渋滞を抜けることが最優先である。そう言えばこのとき、風の噂に聞いていた旅館・櫻花壇を見つけた。想像していたのとは違い、意外と小ぢんまりとしていた宿である。もっとも、このあたり一帯の建物は、すべからく傾斜地に建っており、あまり大きな建物はないのだが。さて、櫻花壇だが、後に知ったところによると大正の頃の創業のようである。別にここに宿泊したわけではないので写真は撮影しなかったが、玄関先の看板は、いかにも大正期と言う雰囲気を出している「サクラ花壇」。なんと言うか、「プッロド式マクサ」に通じる、ノスタルジックな感じである。もしかしたら、桜の時期ではないオフシーズンに来るのも良いかもしれない。大人の隠れ家といったところか。考えてみれば、ここに雌伏していた後醍醐天皇もそうであるが、吉野には全般に隠れ家的な雰囲気が満ちている。春の桜の時期も良いが、冬枯れの頃の方が、吉野の静謐な陰の魅力を感じられるかもしれない。このへんは、下手に大々的にアピールすると失われてしまう魅力であり、商売をする上ではジレンマになるのだろうが。ちなみに櫻花壇だが、結構高い宿である。桜の時期はその立地のよさからさらに宿泊料が高くなるようなので、そういう意味でも季節外れに一度は泊まってみたい。結局吉野山は1時間あまりかけてトロトロ走っただけであった。ああ、柿の葉寿司を食べることもお土産を買うことも出来なかったなあ。吉野で気にになったのは、役小角が作ったという胃腸薬・だらにすけと、地酒やたがらすである。消化器系が弱く、けっこうおづぬらーな私は、陀羅尼助を常備薬にしておきたかったのだがなあ。 後ろ髪を引かれる思いで吉野を後にし、大阪方面に向かう。国道169号線を北上し、大淀町、高取町、御所市とは走る。一言主神社のある葛城山を超えると、大阪府千早赤阪村である。大阪府と言うと都会のイメージだが、このあたりはまだまだ山奥なので、実感がわかない。この近くの河南町には西行法師の墓があるようだ。富田林市、美原町、松原市も抜け、いよいよ大阪市へ。目的地は大阪城である。ここで市内の渋滞を避けるために都市高速に乗ったのだが、ここで大失態を演じてしまった。ナビの表示を見誤り、高速に乗ってすぐ、平野ICで降りてしまった。大阪城の閉館時間は5時だが、入城できるのは4時半までらしい。この時点で時計は4時少し前。順調に行けば間に合う時間だが、都市部ではわずかの距離を進むのに、思いの外時間がかかる。特に、大阪は音に聞く迷惑駐車の本場である。渋滞は覚悟しておかねば・・・・・・と思ったら予想通り、車の列は遅々として進まない。一番外側の車線に路上駐車する車が多く、走行車線が狭くなり、左折の時などは非常に厄介である。もっとも、よくよく考えれば、名古屋の実態も似たような物ではあった。やだ、名古屋の方が道が広いため、荒が目立たないだけ、ということもあるだろう。ただ、俗に言われる、西へ行くほど運転マナーが悪くなると言うのは、どうやらさほど間違っていないらしい。大阪の車の運転は、愛知県内ほど荒っぽくはない。総じてスピード勝負に関してはこちらに分がある(?)のだが、非常に押しが強く、あまりこちらに気を使ってくれないようで、時として傍若無人で、予想困難な動きをするところだけが恐怖であった。さて、そんな大阪の道路事情に戦々恐々としながらたどり着いた大阪城であったが、残念ながらたどり着いた時はすでに天守閣内部に入り込むことは出来なかった。非常にむなしい気分で外観の写真のみ撮影していると、いきなり声をかけられた。始めは自分が声をかけられているとは思わなかったのだが、その「兄ちゃん、兄ちゃん」という言葉は、私に向けられていたようだった。見ず知らずの人に声をかけられる場合、この「兄ちゃん」という言葉には恐怖すら感じる。大阪の人は別にそんなことは考えもしないだろうが、私の日常では、同じようなシチュエーションで声をかけられる場合は、「お兄さん」と呼ばれることが多いだろう。「兄ちゃん」はどうしても、因縁をつけられるときの言葉と言う印象が強い。これは金をふんだくられてあとはそのまま淀川に流されるのか、と見当違いな覚悟を決めたが、結局写真撮影を頼まれただけであった。う〜ん、どうも大阪に対して妙なコンプレックスを持っているようだ。 そんなこんなで、なんとも間の抜けた大阪城観光を終えて車に戻ったのが6時近く。とりあえず、大阪で為すことはすでになくなってしまった。食い倒れの町で食事を取るか、それともさっさと次の目的地に向かうか、ナビに姫路城までのルートを検索させ、所要時間を見ながら考えることにした。さすがに移動距離が長いので、結果の表示まで随分と時間がかかった。そして表示された到着予想時間は、七時少し過ぎ。もっとも、これは高速利用の場合である。あらためてした道ルートを検索させると、姫路着はすでに9時過ぎの予想となっていた。道中何があるかは分からないし、はやめに行動を開始したほうが無難であろう。食事は予定ルートである国道二号沿いの店で食べることにした。それは良いのだが、土地鑑のない都市部の道は右折専用車線、左折専用車線の指定がうるさいし、迂闊に曲がろうものなら一方通行の細い道に入り込み、同じところをグルグルまわる羽目になることも多い。この時がまさにそうだった。市街地でうろうろと迷い、大阪市内を抜けたのが六時過ぎ。10分ほどもあれば抜けられる道を、30分あまり行ったりきたりしていた計算になる。兵庫県に入り、尼崎、芦屋と抜ける頃には、あたりにはすっかり夜の帳が下りてしまっていた。かなり嫌なシチュエーション、雨の夜がやってきてしまった。 視界は至極悪い。少しでも走りやすい道を求めて、2号線のそばを走っている43号に退避する。片側三車線の広い道で、高架の下を走れるので、もろに雨の直撃を受けずにすむのは助かる。が、こちらは意外なほど、道沿いに食べ物屋がない。コンビニもあまりなかったような気がする。別段田舎道と言うわけではないのだが。そう言えば、あまりに車の流れがスムーズすぎたから、ここを走る車はなかなか沿道の店には寄ろうとしないのかもしれない。そのせいだろうか。2号線に戻ってみると、そこは正真正銘神戸の中心市街地であった。震災からはもう8年になるのだろうか。あたりが暗く、視界が余り良くないせいか、震災の爪あとを感じさせるような物は見えなかったが、一歩裏通りにはいれば、まだそこかしこに空き地が残っているのかもしれない。それにしても、あれからもうすぐ10年になるのだなあ。 神戸市は思っていたより東西に長い町なのか、随分進んでもなかなかとなり町に入らない。2号線が海沿いの道になり、しばらく走った頃、左手上方に光の線が見えた。雨が振っていなければ、もう少し見られたのかもしれないが、これが明石海峡大橋である。思っていたより地味である。写真も一応撮影したのだが、真っ暗闇に白っぽい点々が映っているだけのわけのわからない物になってしまった。少なくともきらびやかに飾ったイメージはなく、レインボーブリッジやベイブリッジのような雰囲気ではない。そのときは、『漢字名前だし無骨な橋だなあ』と思ったのだが、どうやらこの橋にもパールブリッジと言う別名があるそうだ。明石海峡大橋を過ぎると程なくして明石市だが、暗くてあたりの様子が良くわからない。明石から姫路に向かう場合、途中からは国道250号線を使うのが一般的なようだが、このときは2号線に固執したのがいけなかった。近くを走るバイパスならまた違ったのかもしれないが、暗い夜道がひたすら続くばかり。加古川市に入っても特に目立った変化はなく、自分が走っているところもよくわからないまま姫路バイパスに入る。雨の夜に、展開の早い自動車専用道路に入るのは少し気が引けたが、道が余りに心もとなかったので背に腹はかえられない。暗い中、訳のわからない場所を走るのは少し恐怖を感じる。20分ほど走った頃、姫路東ICでおり、姫路市街の方向を目指す。今夜の宿は、姫路健康ランドホテルの予定である。ところが、このとき姫路市街方向に向かったのが失敗であった。ICを降りた直後、312号を北方向に向かうと再び2号に合流するのだが、その合流点御着で右に曲がらなければ健康ランドにはたどり着けない。姫路市街は左方向。こうして再び流転が始まる。そもそも、地図を確認しておかなかったのが良くなかったのだけれど。1時間余り姫路市内をさまよった挙句、どうにか目的地にたどり着くことが出来た。姫路健康ランドホテルは市内の随分外れに位置しているようだ。健康ランドだからいろいろな風呂があり、宿泊施設としてカプセルホテルが併設されている。これで一泊食事なし2000円あまり。かなり安い。下手なサービスを望まないのであればコストパフォーマンスは良いだろう。塩サウナ、漢方薬湯風呂などに浸かった後、さっさと自室(?)に戻る。結局この日は一度も食事をとらなかった。市場相場より若干高いミッフィーの野菜ジュースを飲みながらぼんやりとテレビを見ていた。そう言えばこのとき、初めて私が若干開発に携わった会計ソフトのCMを見た。噂には聞いていたが、実際にあの人がCM出演しているのを見ると、やはり不思議な気がする。ていうか、CM中商品名が表示されても全く現実感がなかった。結構貴重な体験であった。具体的なCM内容をズバッと書くと、お郷が知れる恐れがあるので、ここではあえて自粛。そんなこんなで激動の(というかほとんど動き回っただけの)一日目は終わった。 翌朝。朝っぱらから私の地元より汁だくの牛丼を食べ、姫路城を目指す。別に汁だくで頼んだつもりはないのだが、関西ではこれが標準なのだろうか。図らずも前夜のうちに姫路市内をグルグル回ってしまったために、姫路城には簡単にたどり着くことが出来た。雨の影響もあってか散りはじめの様子だったが、姫路城のあちこちで、吉野では縁のなかった桜が咲いていた。9時開場なので、正面登閣口で二十分ほど待つ。何でも、今は天守閣四階にある開かずの間が一般公開されているらしい。大河ドラマにちなんで、宮本武蔵が入れられた(少なくとも吉川英治の小説ではそうなっているらしい)この部屋が解放されているそうな。それはおいおい紹介するとして、姫路城はかなりの大城郭である。順路に従っていくとまずは、西の丸の長局(百間廊下)を通ることになる。言ってしまえば廊下なのだが、400年近い歴史がある上にかなり長い廊下なので、結構迫ってくる物はある。ここは豊臣秀頼の未亡人で、後に姫路城主となった本田忠刻のもとに嫁いできた千姫ゆかりの建物である。現場にある説明によると、無骨な姫路城の中にあって、唯一優美に飾った建物であったそうな。長局を抜け、しばらく歩いていくと天守閣である。繰り返しになるが、姫路城は城郭そのものの規模が大きいため、天守閣内部も結構拾い。広いが内部には物が置かれていないので、がらんとしている。入り口は地階となっているためかなり暗い。建物そのものが古いため、ここも何やら幽玄な空気に支配されている。ちなみにこの日も雨であったが、そのためか城内の湿度は異様に高かった。階段の手すりなどははっきりと濡れているほどであったが、これも古い建物の故であろう。上階に登ると刀剣やら甲冑などが展示されているが、今回出色だったのが左の武蔵君の部屋であった。写真は一応許可を得て撮影しています。ていうか、基本的に写真撮影は禁止されていないので撮り放題のはずなのだが、誰も写真撮影をしている気配がなかったので、若干撮影はしづらかった。ちなみにこの開かずの間、階段の下あたりにある部屋で、光の入り込むところのなさそうな真っ暗な部屋である。開かずの間というと因縁がありそうだが、別にそういう場所ではなさそうだ。 むしろ、姫路城のミステリースポットと言えば、宮本武蔵の妖怪退治伝説がある天守閣最上階の長壁神社のようである。この神社はもともと、天守の建っている丘に祀られていたのだが、築城の時に城の外へ移されたのだそうな。ところが、そうしたところ変事が相次いだので、城内、しかも天守閣の最上階と言う城郭建築のもっとも象徴的な部分に移されたものである。確か、宮本武蔵が退治したと言う妖怪は、長壁神社の祭神が零落したものだったと思うがそのへんの記憶は定かではない。また、姫路城内には腹切丸と言うなにやら穏やかではない名前の一角がある。もっとも、ここは名前こそ物騒だが実際にここで切腹したり斬首刑に処せられたりした者はいないらしい。この場所の構造が処刑場のように見えるため、そう呼ばれているだけのようである。そして、極めつけはお菊井戸である。これは、井戸から出てきて一枚二枚と皿を数える幽霊、お菊の伝説で有名な井戸である。番町皿屋敷といえば江戸時代の怪談だと思っていたのだが、元になった事件は戦国時代、1500年ごろのことのようだ。有名な怪談は、うろ覚えの記憶だが、お菊が主人が大切にしていた十枚一そろいの皿をついうっかりなくしてしまい、その責めを負って井戸に投げ込まれ、殺された話であった。実際には微妙に違うらしい。お菊は家中に謀反人がいることを許婚に告げ、許婚はそのことを主に伝えたのだが、最終的にはこの謀反が成就してしまい、お菊たちが粛清にあったという物のようだ。いずれにしても、殺されてしまったお菊さんは気の毒である。一応写真を撮影しておいたが、このとき通りかかったおばさんたちは、心霊写真になるといけないからと言って撮影を避けていたようだった。何か映っているだろうか。 ひと通り城内を見終わって車に戻ると、10:30分頃。今回レンタカーは2日間借りることになっていたが、二日目は早めは早めの行動を心がけ、予定時間内に車を返さなければ延長料金をとられてしまう。姫路の観光はすでに果たしたわけだから、迅速に次の目的地彦根に向かう。姫路に引き続きまたしてもお城が目当てである。帰路は高速利用、姫路彦根間は2時間ほどの予定である。かつての我が愛機の機体性能であれば、二、三十分の短縮は可能だったであろうが、ヴィッツにそこまで望むのは酷であろう。山陽自動車道・山陽姫路東ICから速やかに高速に乗り、先行する車の後塵を拝しながらも安全運転で東を目指す。それにしても山陽道は、景色の変化に乏しいような気がする。あまり景観を楽しむことも出来なかったので、もっぱら音楽鑑賞にいそしむ。柳井嬢の甘ったるい歌声が耳に心地よかったが、さすがに聞き飽きてきたので、ガンダムCDで無理やり気分を高揚させる。相も変らぬ哀・戦士や逆シャアのあれを聞いたりしていると、なんだか自分が実力以上の運転を出来そうな気になって非常に危なっかしい。キュピーンと変なエフェクトが入り、ヴィッツは伊達じゃないとか口走りながら、神がかった走りがしたくなる。そう、追い越し車線に一瞬だけ開いたオープンスペースを縫って、一気に前方の車をごぼう抜きにするような。もっとも、それはヴィッツには到底無理な芸当である。エクシブには可能で(ちなみにエクシブのいい加減なスペックは、佐久編に書いてあります)。いずれにしても、危険運転には違いないんだけどね。そんな空虚な1時間を過ごすうちに、車はいつしか中国自動車道に合流し、その後吹田JCTで名神高速道路に入る。前日数時間かけて走った道のりも、高速を使えば一時間強で移動できてしまう。まさに、高速道路は伊達じゃない、である。その後も車は快適に走り続け、京都府を抜け、滋賀県に入る。大津SAあたりでちょうど昼となったので、ここで食事とした。吉野で食べられなかった柿の葉寿司だが、ここ大津でありつくことが出来た。愛知県内で売られているうなぎパイなど、微妙に場違いなお土産品に噛み付くことの多い私だが、こういうときにはありがたい存在である。さて、柿の葉寿司であるが江戸前の寿司とは違う、いわゆる押し寿司の仲間であろう。駅弁の中でも評価の高い富山のますずしと似たような物で、私は相当好きである。柿の葉寿司は、塩鯖の押し寿司を柿の葉でくるんだ物だけに、若干ますずしより香りが強いかもしれない。 大津での食事を終え、三十分ほど走り、彦根ICで高速道路を降りる。目的地は彦根城。かつて京都行きの回の時にお出かけを諦めた彦根城はICから非常に分かりやすいところに立地しているので、簡単にたどり着けた。それでなくてもこのあたりは過去に一度走っている。ケンシロウや星矢ではないが、私には一度見た道は通用しない?そんなこんなで彦根城だが、同じ日に姫路城を見てしまったのがいけなかった。どうも感動が薄くなってしまったので、詳しい話はお城スコープに譲ろうと思う。姫路城さえ見ていなければ、それなりの見ものではあると思う。今回はあまり時間がなかったし、そもそもそれほど興味もないので割愛してしまったが、彦根城内には結構綺麗な日本庭園もあるので、のんびり散策するにはちょうど良いであろう。そう言えばここでも桜が咲いていたなあ。吉野では肩透かしを食らったが、何だかんだで結構桜は見ている今回の旅である。 こうして彦根城を後にして、今回の旅の最終目的地・大垣市にある御首神社を目指す。ここはあの平将門公の首が射落とされた地という伝説のある結構すごい神社である。姫路の夜に、ここへ行くことを思いついたが、肝心の場所が分からなかった。そこで、彦根城の駐車場で、乾坤一擲、全てを賭ける思いでカーナビを使い、御首神社を目的地検索すると、なんと表示されてしまった。ナビの画面上にはほの青く、御首神社までのロードが表示されている。そしてそのナビの示す道こそが、かつてくり返し走った国道8号から21号へと侵入するルートであった。もう、あの頃から2年近くが経とうとしている。懐かしい。BGMもあの頃よく聞いたB'z The Bestにして思い出の道を走る。思えば私もすっかり年をとり、共に走る車も、すでにあの時とは違う車になっている。時は全てを連れて行く物らしい。なのにどうして、寂しさを置き忘れていくのか。などと感傷に浸りつつ、パクリつつ、岐阜県に入る。今回の旅は、愛知からスタートし、三重、奈良、大阪、兵庫、再び大阪、京都、滋賀と、2府6県を駆け抜けてきたが、ついに7県目である。今となっては懐かしい関ケ原、垂井町を抜け、大垣市へ。そう言えば大垣市は確か、奥の細道結びの地である。このコンテンツのタイトルも、(不遜にも)奥の細道だし、最後の目的地としては最適であろう。漂泊の歌詠み松尾芭蕉にあやかり、漂泊の唄歌いを目指して戯言でつけたタイトルではあるが、今回の旅の表題は同じ漂泊の歌人でも西行法師にちなんでしまった。なんと節操のないことか。 御首神社は、ナビの案内がなければ見つけられそうもない場所にあった。幹線道路沿いに水田が広がり、少し離れたところに集落があるような、そういう立地の場所である。東側からやってくれば21号沿いに大きな看板が立っているが、西側から来ると非常に分かりづらい、あぜ道のような側道に入っていかなければならない。21号自体は相当くり返し走っており、御首神社の大きな看板も何度も見ていて気にはなっていたのだが、それでもほとんど意識していなかったほど地味な道である。幅員も狭い。こんなところで脱輪というオチがつかないよう、ゆっくりゆっくりと前方に見える集落に向かう。ナビによると、すぐ近くまで来ているはずだが、なかなかそれらしい建物も案内看板も見えてこない。本当にこちらだろうか、と思い始めた頃、目的地・御首神社に着いた。将門を祀る神社、ということで神田明神のような場所を想像していたのだが、雰囲気的にはむしろ「村社」と呼んだ方がしっくりきそうな場所であった。境内は小奇麗に保たれているが、広大な広さ、というわけではない。ごく平均的な、神社といったところだろうか。社務所があって自動車用の祈祷なども行っているようだし、おみくじや絵馬などもある。境内の一角には首から上の守り神にふさわしく、参拝者が納めたと思しき帽子が奉納されていた。さて、今回の御首神社行きは、都市伝説のほうでたまたま将門コラムを書いていたので、同コーナー初の取材、という位置付けになる。そこで、境内の写真を何枚かとろうと思ったのだが、今回の旅では、いつになく多くの写真を撮影したため、ここでデジカメのメモリが尽きてしまった。この神社で撮影できたのは、入り口部分と、神社の由来を書いた看板だけであった。マイカメラの装填数が24枚だとは、初めて知った。写真の撮影は諦め、境内をぶらぶらした後、お賽銭をおさめて帰路についた。 随分あちこち走り回った今回の旅であったが、痛切に感じたのは、やはり自分用の車というのは得がたい宝である、ということである。一度失ってしまった愛車は、二度とは手に入らないであろう。いつも失ってから初めて大切さに気付く、ポルナレフのような心境である。いつの日かまた、ニューエクシブを買おうと思う。93年で生産が終了している型であるため、ニューといっても中古になるのだが、カーセンサーなどで調べたところ、その古さゆえに30万円ほどあれば変えるようである。ねがはくば、再びエクシブで走り回れる日の来たらんことを。まぁ、大目標はソアラ様なんだが。 さて、ヴィッツを返却した翌日、同レンタカー屋の前を通りかかったところ、たまたま白いヴィッツが、今まさに旅立とうとしているところであった。あの車、昨日の今日でまた仕事か、と思い、感慨にふけりそうだったが、ナンバーが違っていた。どうやら車違いのようである。しかし、今回の旅で、私は奴とある種の友情を交したのかもしれない。 |