侵掠すること火の如く(木曽路〜佐久平)
2003年9月13日 搭乗車 ヴィッツ
つかみの部分の新機軸
出発の朝
馬籠宿
寝覚の床
奈良井宿
おざなり松本城
そして時は動き出す
勇躍、佐久へ
血闘・北中込





 2003年9月13日午後6時37分、長野市内西尾張部交差点。ついにこの日一日の目標、すなわち「国道19号線全線走破」を達成した。頭の中のBGMは『ファイナル・ベル』。ロッキーのテーマと言った方が通りが良いかもしれない。事前にこの曲を収めたCDを作成しなかった事を軽く後悔しつつ、激動の今日一日を思い返していた。この十時間あまりの旅路が、走馬灯のように瞼の裏を駆け抜けていく・・・・・・。などと気取ったはじめ方はしてみたものの、まぁ要は今回の旅・初日の出来事の大部分は、先行UPした国道19号線レポートの内容と重複するので、それとなくまとめようというだけのことである。

 今回の旅は、昨今の極私的旅行の例にならってトヨタレンタリース愛知・杁中店で、やはり例の如くヴィッツを借りての道行きであった。目的地は、甲信地方。二日ほどかけて長野県内を巡り、三日目に八ヶ岳東麓経由で山梨に入り、富士山麓を抜けて静岡に入り、東名高速道路に乗って帰還と言う経路を予定していた。言わずもがなだが、山道を走る機会が多くなることが想定された。そこで、件の店で予約をする時、できるだけ馬力のある車が良いという旨を伝えた。ただし、高スペックの機体は高コストになるのが連ジ以来の伝統(底の浅い伝統ではあるが)である。そこで、価格帯が下から2つまでのクラスの中で、という条件もつけた。その結果提示された車種が・・・・・・ヴィッツである。結局いつもと同じだ。何でも、下から二つのクラスでは排気量に差が無いらしい。その中で一番配備数が多く、用意しやすいのがヴィッツと言うことらしかった。まぁ、公国系で言うなら、ニアリーイコール『ザク』であろう。同じザクでもエースカスタムくらいを期待していたのだが。とにかく、結局そういうことになった。これからも同店を利用し続ける限り、搭乗する機会は多くなりそうである。

 そうこうしつつ迎えた当日の朝。関西編でも軽く触れたが、件の店は8時から営業ということになっている。ただ、フライング気味に店を訪れても問題はないだろう。別に大型店ではないのでそのあたりの融通は利くはずだ。思ったとおり、8時少し前でも店は開いていた。しかし、先客がいた。この先客が厄介だった。見た感じ営業車を借りようとしていたようだったが、どうも客側の段取りが良くない。彼らの出発を待っていたら、あれよあれよと30分近くが経過してしまった。これまでの旅の経験からして、20分30分の遅れは、計画に意外と大きな影響を及ぼす。この遅れが後々の旅程に触らねば良いが・・・・・・。

 前述の通り、今日の目的はR19の全線走破である。トヨタレンタリース愛知・杁中店は国道153号線に面した店だ。道なりに走っていけば国道19号線に合流する。が、しかし、それでは全線走破とは言えない。なんと言っても起点から走らねば。そこで、【関西編】とほぼ同じ経路で19号線の起点、熱田神宮付近へ向かった。前回と違い、今日は土曜日、休日である。比較的早い時間帯なので交通量も少ない。前回は小1時間かかった距離だが、ものの20分ほどで熱田神宮南までたどり着くことが出来た。しかし、ようやく文字通りの起点に立ったに過ぎない。1号線と19号線の交点を右折し、今日の行程が本格的に始まった。

 今日向かうのは、見どころも多く、ドライブコースには最適の、名うての行楽地のはずだ。渋滞を予想していたのだが、道は思いのほか快適に流れた。最初の見どころであると考えていた馬籠宿には2時間ほどで到達できた。木曽路でも屈指の観光名所である馬籠、および妻籠ではあるが、国道19号線沿いにはない。そのくせ、中央自動車道の神坂パーキングエリアからは徒歩でも移動できそうな距離と言う、微妙な立地だ。落合宿界隈の交差点で、馬籠宿を示す案内看板を見つけ、それに従い右折する。

 馬籠宿は長野県木曽郡山口村にある。最近、平成の大合併にまつわる議論が喧しいが、この山口村は当初、その中でも試金石的な位置付けから注目されていたように思う。何がそれほど注目されていたかと言えば、岐阜県中津川市との越境合併議論だ。確かに、現地を走ってみると、このような議論がなされた背景が分かるような気がする。馬籠宿は峠の宿場だが、その峠に立ってみると、中津川市街が眼下に見える。対する長野県方向は、山壁が見えるばかり。実際に住民の生活圏も中津川市で、テレビ電波も中京圏のテレビ局のもののほうが良好に受信できるようだ。越境合併とは言え、中津川と合併したほうが直感的だったかもしれない。山口村は山村だが、木曽路の宿場町として観光資源には恵まれている。しかし、長野県から岐阜県に鞍替えした場合、果たして木曽路を名乗れるかどうか、という議論もあったと思う。

 ここではまず、今日の行程の第一チェックポイントである『是より北 木曽路』の碑を探さなければならない。が、件の石碑は宿場の中心から外れた場所にあるらしい。もちろん観光もしたいので、馬籠宿のなかをそぞろ歩いてみる。写真などではよく見た風景だが、やはり実物を目の当りにすると感動する。視覚的情報と実体験では比べるべくも無いのかも知れない。この宿場町を歩いた記憶は、脚部への疲労という形でも現れた。写真を見た感じでもかなり伝わるとは思うが、この宿場の中の道は結構勾配がきつい。少し前まで雨が降っていた関係もあって、石畳は濡れている。濡れた石畳は滑りやく、ますます脚に負担がかかる。そもそも「馬籠」の名の由来も、馬が越えられないほど険しい峠なので麓に馬を置いて(馬小屋に籠めて)来なければならない、という所からきているらしい。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ馬籠宿」か。

 左の写真が「枡形」というものらしい。馬籠宿の入り口(出口?)にある。枡形とは、宿場内に意図的に曲がり角を作り、宿場全体を見通せないようにしたものだ。これは城下町などに見られるのと同じく、有事の際の防御機構である。そういう深い意味を持った町割りなのだが、見た感じただの曲がり角である。全く、こういう書き方をすると身も蓋もない。日程の都合で、馬籠宿をあまりじっくり見てはいられない。このあたりには島崎藤村ゆかりの資料館や峠の茶屋などがあるが、それらには寄っていられない。枡形はじめ、表面的に分かる旧宿場時代の名残だけをなぞり、「・・・木曽路」の碑を見つけて再び出発した。

 次なる経由地は寝覚の床。竜宮城から帰った浦島太郎は、どうやらその場ですぐに玉手箱を開けたわけではないらしい。日本各地を旅した後、最後にたどりついたこの地で、ついに玉手箱の蓋を開き、老人となったそうだ。つまり、竜宮城で過ごした夢のような日々から目覚めたのが、ここ寝覚の床というわけである。確か浦島太郎は、丹後半島あたりの昔話だったように記憶している。徒歩の場合、直線距離でも木曽の山奥までは結構な距離だ。もちろん、そこに日本各地を渡り歩いた道のりも上乗せされる訳だから、太郎の旅と言うのも随分遠い道のりだったことだろう。そんな太郎の偉業を記念して(?)彼の地には、浦島堂が建立されている。

 浦島堂そのものはたいして大きくはない。祠と言うのがちょうど良いくらいのサイズだ。中州と言う表現は正しくないと思うが、木曽川の流れに大きくせり出した巨大な岩の上、さほど背の高くない木立の中に建てられている。浦島堂までの経路はもちろん、寝覚の床付近の岩場には、きちんとした通路なり何なりは設置されておらず、足場が悪い。スーパーマリオよろしくピョンピョンはねながら目的の場所にたどり着いた。今回の旅、案外脚に来る。少し脚を滑らせれば木曽川の澱みに落ち込みそうだ。打ち所が悪ければ、そのまま不帰の客である。月ミス、火サス、金エン、土ワイなどにありがちな、岩場に横たわる水死体の一丁上がりだ。ここは2時間ドラマの聖地である。名探偵の片鱗を見せる人と一緒にここを訪ねるのは、少し危ないかもしれない。この付近の人たちは、船越英一郎氏やかたせ梨乃氏らとも顔なじみなのだろうか。参考までに、寝覚の床は木曽警察署の管轄のようである。

 木曽路最後の寄り道は奈良井宿だった。妻籠馬籠とはまた趣が違うが、ここも宿場時代の雰囲気がよく残った場所である。時間はすでに午後一時。何かを腹におさめておきたい時間帯だ。信州と言えば蕎麦である。木曽路はすでに信州だ。となれば蕎麦を食わねばなるまい。長野県に入れば、蕎麦には事欠かない。実際、奈良井宿にも木曽蕎麦を売りにした店は何軒かあった。しかし、どこも小ぢんまりした店ばかりだったため、何処も満員御礼。ここでは蕎麦にありつけなかった。仕方なく、奈良井宿の次にある道の駅・木曽ならかわで蕎麦定食を食べた。確かに旨かった。この種の施設にしてはかなりの水準だったと思う。しかし、高かった。前日夜、山本家本店(山本屋総本家?)で食べた黒豚入り味噌煮込み定食\2000と言い、高い麺食ばかりで士気の阻喪が甚だしい。

 木曽路を抜けたら、松本城に行った。通り一遍の情報はお城スコープにある通り。西日に照らされた松本城は威風堂々としていて美しかった。しかし、正面から撮影した写真が逆光になってしまい、ただでさえ黒い城が、輪郭だけの真っ黒な城になってしまった。ちなみに、池(堀ではない)と土塁などに囲まれた部分に入るには入場料が必要だが、外から見るのはタダである。小一時間ほどこの城を堪能した後、最終目的地に向けて走り出した。

 ・・・・・・・・・・・・そんな激動の一日だったのである。それより、つい先ほど時間を確認するために取り出したケータイに、わが旧友・マスター(佐久編参照)からメールが届いているのを発見した。マスターには今宵の宿を賜る約束をしている。「一宿一飯の恩」と言う。本来恩返しをする時の口上に用いられる言葉だろうが、いきなり押しかけて厄介になる者が、こちらの都合で家主様を振り回すような失礼は、恩が云々と言う以前の問題、言語道断の論外である。早々に、マスターがお腹をすかす前に、彼の待つ佐久市へ向かわねばなるまい。しかし、この夜の惨劇は、正にこの時に幕を開けようとしていたのだった。どこかで開幕ベルが鳴る・・・・・・。

 長野市から佐久市までは下道で2時間前後の距離である。もちろん、道路状況に大きく左右される。時間はすでに7時近い。純然たる一人旅ならば、今さらどうということもない距離だが、ホスト様を待たせるわけには行かないので、高速利用を決意する。マスターからのメールでは、高速利用なら1時間はかからないとのことであったが、ナビの到着予想時刻から察するに、高速を使った場合も1時間強はかかるようだ。前回の佐久行きでは信州中野で上信越自動車道を降り、群馬周りで佐久入りしたため、長野−佐久間の高速道路利用時所要時間はよくわからない。

 川中島近くの長野ICから上信越道に乗り、勇躍佐久ICを目指す。BGMは今回の旅のために製作した旅・ドライブ名曲集。売りは、大河ドラマ『武田信玄』のテーマ曲。唯一のインストだが、この曲でもりもりテンションを上げる。侵掠すること火の如く走る。この付近の上信越道は、山際の道ということもあり、非常に暗い道だ。これまで走った経験のある道で言うと、北陸自動車道の敦賀界隈の暗さに通じるものがある。しかも、後発の高速道路であるため、各所で片側一車線の対面通行になる。このタイプの道を夜に走るのは相当きつい。前方から迫り来る対向車のヘッドライトからプレッシャーを感じる。私にプレッシャーを与えるパイロットとは(以下略)。

 予想通り、佐久ICを降りたのは8時少し前。ICのすぐ近くに、おぎのやの『峠の釜飯販売所(仮称)』があった。そう言えば長野IC近くにも同じようなものがあった。長野新幹線の開通により、峠の釜飯が名物となっていた横川駅があおりを受ける形になったが、おぎのやは今も健在で、長野県と共にあるようだ。「愛されてるなぁ」と、ちょっとした感慨を抱きつつ、約束の地・北中込駅へ。久しぶりに走った佐久市内は、若干の変化が見られた。単なる記憶違いということも考えられるが、トイザらスなんて、以前に来た時はあっただろうか。坂が多いのは相変わらずか。

 さて、北中込駅だが、あまりに地味だったために一度は通り過ぎ、ミスコースに気付いた後、取って返して駅近くにあった長野県内でチェーン展開しているらしい某スーパーの駐車場でマスターの降臨を待った。しかし、まだ8時過ぎだと言うのに、あたりの雰囲気は日付が変わってしまったかのような勢いがある。心細くなったところへ、マスター御出座。彼に案内されるがままに、良き所へ車を駐車し、マスターズ家に上がりこんだ。と思ったのもつかの間、飯を喰うため、エネルギーゲインが通常の5倍あると専らの噂のマスターの愛車ですぐに外出。佐久平駅近くにあるガストへ。思えば2年前の佐久の夜もこのガストで夕食をとった。私の深層心理には、「佐久といえばガスト」という情報が刷り込まれていた。あな、おそろし。

 ガストで大量のポテトを食んだあと、マスターズ家に戻った。前回はカラオケ屋に行ったが、今回は拳で語る手はずとなっていた。今は亡きDCで格闘近代三種(餓狼、カプエス2、ストV)と相成った。一種目目、餓狼。すでにゲームシステムを良く憶えていない。必殺技のコマンドさえ、ニュアンスで出し、「何か出た」ってな感じ。どうにも盛り上がらない。続いてカプエス2。これは結構いい勝負になるのではないかと思っていたのだが、結果はボロボロ、マスターに惨敗した。やはり、パットで格ゲーは厳しい。思うようにキャラが動いてくれない。ユリにボコられる。早々と悲鳴をあげ始めた左手親指を眺めながら、随分柔になったものだ、と少し気落ちした。そして、ストV。ぶっちゃけ、餓狼よりもカプエスよりもストVが一番パット向きではなかった。もう駄目だ。私の親指は、赤く熱を帯び、関節は軋み、精妙な操作は望むべくも無いところまで傷ついていた。しかし、マスターはそんな逃げを許さない。私は、血涙を流しながら打太刀を続けた。

 かくて信濃路の夜は更け行く。