鞭声粛粛(佐久平〜善光寺平)
2003年9月14日 搭乗車 ヴィッツ
敗者が語る敗者の歴史
小諸なる古城
北國街道
上田政府プチ糾弾
坂城町界隈
川中島

戸隠
牛に引かれて善光寺
帰佐久、そして・・・・・・





 あれは一体誰だったか。人間の自然状態を「万人の万人に対する闘争」であると断じたのは。一体誰だったか。思えばこの世界は、ありとあらゆる闘争で満たされている。そして人の世の歴史は、ただ勝者によってのみ紡がれて来たと言えよう。だとすればさしずめ今の私は、自身を語る言葉すら持ち合わせぬ一匹の負け犬か。傲岸不遜にも、私がマスターに楯突いたことに端を発し、挙句昨夜半まで続いた血みどろの戦いは、私の敗北を以って終焉を迎えた。後に残ったのは、栄冠でも栄光でも地位でも名誉でもなく、傷つき疲れた左手だけであった。最前の誰かとは、また別の誰かが言った。「二人の囚人が、鉄格子の窓から外を見た。一人は泥を見た。一人は星を見た」。どうやら私は泥の方を見たらしい。いつの間にやら室内に入り込んできていた、高原の朝の冷気によって目を覚ました私は、心臓の拍動に合わせてズキズキと痛む左手親指を眺めながら、ろくすっぽ働きもしない頭で考えていた。

 て言うか、人の家に泊まりこんで家主様より早く目が覚めてしまった場合、手持ち無沙汰の時間には一体何をしていればいいのだろう。そのときの私には、リヴァイアサンよりも、不滅の詩よりもそちらの方が問題であった。時間は7時を少し回ったくらいである。普段の私なら、すでに元気に活動を開始している時間だが、宵っ張りのマスターにとってはいまだ草木も眠る丑三つ時のような夜の深い時間なのだろう。マスターの目覚めまであと2時間ほどは必要だろうか。それまで私は悶々とした時間を過ごさなければならないのか。ふと枕もとを見やると、異教の偶像を思わせるララァ・スンの不気味なボトルキャップが横たわっていた。なんて薄気味の悪い小娘なのだろう。その時、いかなる天魔に魅入られたか、はたまたララァの呪いか、私は尿意を催した。家主様の許可も得ずに勝手にトイレを使うのは気が咎めたが、事態は緊急を要したので、ベットの上でまどろむマスターには黙ってトイレに駆け込んだ。そして、再び外に出たとき、マスターが目を覚ましていた。私がゴソゴソと落ち着き無く動き回った時に発生した音によって健やかなる眠りを妨げられたマスターは、心なしか不快の念を露にしているようだった。招かれざる客により、至福のひと時を破られた彼は恐るべき方法で報復に出た。その方法とは「ナージャの強制鑑賞」であった。「ナージャって一体なんなのか」、そんな疑問を持つ事さえも許されず・・・・・・というのは大袈裟だが、日曜朝にトウのたったお兄さんからは概ね好評を博しながら放映されていると言うこの番組を見る悪夢のような時間を過ごす羽目に。

 どうにかナージャが終わった。気がつくと今日は、今一つ不安定な天気だった昨日とはうって変わった、秋晴れの空が広がっていた。マスターズ家の北にそびえる活火山・浅間山もはっきり見える。思えば、初めて佐久の地を踏んでから、この山の勇姿を拝むまで2年以上の歳月が経っていた。出だしはナージャでケチがついたとは言え、今日は良い一日になりそうだ。この日訪ねる予定だったのは、小諸城址懐古園、上田城址、海津城址、川中島古戦場、戸隠、善光寺だった。ただ、マスターによると戸隠が遠いので、時間が足りなくなるかもしれないとのこと。日程の練り直しの必要があるかもしれない。リストラ候補は上田城址になるだろうか。マスターが行った経験からして、何も無い城跡らしい。まあどこを割愛するかは走り出してから考えれば良い。この莫逆の友(の割には随分なことを書きもしたが)から、小諸市攻略の秘策を授けられたのを潮に、この日の行程を開始した。そう言えば、いつかの円盤皇女とやらの腹いせに置いてこようとしたララァ像は、なぜか鞄の中に紛れ込んでいた。捨てても戻ってくる人形か?

 本日最初の目的地である小諸城址懐古園は、佐久市のお隣の小諸市にある。とりあえず、マスターズ家近くから国道141号線に向かい、さらに国道18号線との合流を目指す。昨日夕刻にたどりついた19号線の終点は18号線との交点だった。小諸軽井沢方面と長野市方面を結ぶ東信の基幹道路であると言えよう。2年前にマスターを訪ねた時(佐久編参照)、陰介さん(仮)共々マスターを伴って故郷に帰ることになっていたのだが、積雪の和田峠を迂回して松本平経由で中央道に乗る必要に迫られ、小諸上田を走ったことがある。今回も、そのときの記憶は若干残っていた。アップダウンの激しいこの道は、確かに2年前に走った道に違いない。前回は単なる通過点に過ぎなかったため、さしたる意識も無いまま通り過ぎた小諸市だったが、小諸駅から近い懐古園までは、佐久の市街地から30分ほどで付く事が出来た。時間は午前九時半少し前。懐古園に併設された駐車場も、まだまだ空いている。

 懐古園は、小諸城址につくられた庭園である。小諸城の詳細についてはお城スコープ参照のこと。正直言ってここへは、音に聞く小諸の穴城を見に来たのであって、上物(うわもの)である庭にはさほど興味がない。簡単ながら説明しておくと、島崎藤村が「千曲川旅情のうた」の中で「小諸なる古城のほとり」と詠んだ古城が小諸城であり、園内にはその歌碑もある。三の門が有名で、ここに懸けられている扁額は徳川家達の筆によるもの。桜の名所としても有名。しかし、姫路城に続いて行った彦根城の時がそうであったように、昨日松本城を見ているので有名な観光地のわりにもう一つ感激が薄い。馬場信房と山本勘助の絡んだ城なのに。

 30分ほどかけて小諸城の縄張りを観察したあと、次なる目的地である上田城址に向かう。小諸から上田に向かう場合もやはり、国道18号線を使う。実はこの国道18号は、いわゆる北国街道である。タイトルもズバリ【北國街道編】では、滋賀県木之本町から福井県南条町へと抜ける国道365号が北国街道であると書き、長野県のここから続く道だと思っていたのだが、実は18号と365号の2本の国道には連続性が無い。全くの別個に走っている道が何故「北国街道」の名で呼びならわされるのか。どうやら北国街道とは、中山道と北陸道を結ぶ脇往還の事を指すらしい。なるほど、18号も365号も南北に走り中山道と北陸道を繋いでいる。

 長野県内を縦貫する旧北国街道を走っているうちに、小諸市の隣・小県(ちいさがた)郡東部町に入った。このあたりには街道時代の宿場町である海野(うんの)宿がある。ここも、前日に馬籠・奈良井を見てきた関係で積極的に立ち寄ることはしなかった。それにしても18号を走っているとき、なぜか空が近いように錯覚した。思い込みのせいもあったのかも知れない。長野県内の幹線道路沿いでは、市町村境界の看板に海抜高度が併記されていることが多いのだが、それによるとこのあたりの高度は400m〜500mである。だが、どうやら海抜高度の数字ばかりのせいではないようだった。佐久から上田にかけてのルートは、千曲川沿いの河岸段丘の上を走る。そして東部町あたりで長い下り坂を下ったのだが、その時ふと、自分の目線の高さが前方の山の稜線とほぼ同じ高さであることに気付いた。錯覚は錯覚でも目の錯覚だったようだ。あらためて、このあたりが山裾の傾斜地上に開かれた町であることを知った。

 坂をほぼ下りきったあたりが上田市である。もっとも、上田市内に入ったあたりから18号線が平坦な所を通るようになるだけのことで、国道を外れると上田市街でも坂道は多い。ちょうど上田駅前にあるという真田幸村像を見に行こうした時にそのことを実感した。なお、幸村像だが、駅前のロータリーが工事中だった関係か影も形も見当たらなかった。日本一の兵はどこへ?駅の観光案内で尋ねても歯切れの悪い回答。この件に関して、上田政府を問い詰めたい。今まで上田駅お城口に真田幸村像があったのは伊達や酔狂ではあるまい。幸村像とは言うなれば、市外からやってきた人が最初に目にする街のシンボルであり、顔だったはずだ。信奉者の間ではかなり認知されてもいる。にも関わらず、その顔がいつの間にやらいなくなっている。まさか顔にほっかむりをして逃げ出した訳でもあるまい。そのことについてHPその他で対外的に何の説明もPRもない。上田にとって真田幸村とはそれほど軽いものなのか。駅前で空振りした後訪ねた上田城址だが、こちらは何かのイベントで駐車場が満車。1時間近く待った挙句の入城となったが、幸村像で煮え湯を飲まされたあとだっただけに、イマイチ堪能できなかった。

 上田市の隣は埴科郡坂城町である。北側の市町村(旧更埴市、上山田町、戸倉町)が合併して千曲市となった関係で、「埴科郡」と言いながらも、この郡に属する町村は坂城町のみになってしまった。町域に入るといきなり巨大な岩壁が目に入る。18号線はこの大岩と千曲川にはさまれた狭い土地を縫うようにして、坂城町の中心へ。上田の幸村よりはずいぶんローカルなので趣が違うが、坂城町内には戦国の武将・村上義清の居城だった葛尾城がある。典型的な山城で、本丸は山の頂にあった。現在は特に目立った遺構は残されていない。山の麓の坂城神社が登山口になっているようだ。しかし、この城のある山は見るからに切り立っている。気楽に登れそうな山なら寄ってみるつもりだったが、あっさり挫折。村上義清は、若き日の武田信玄公(当時は晴信)に二度までも苦杯を舐めさせた人物として知られている。力攻めによる戦いで義清に敗れた信玄公は、同時期に旗下に参じた真田幸隆(幸村祖父)の調略によって義清を越後へ追うことに成功した。信玄公の戦いは、異常なまでの調略作戦によって必勝態勢を作り上げ、その総仕上げとして合戦を行ったことで知られている。義清との戦いは、後の信玄公の戦術の方向性を決定付けたものと言えよう。車は、「戦国の名将 村上義清公生誕の地」の看板を見ながら、坂城町を後にする。

 そして、前述の千曲市へ。合併がなったのは2003年9月1日で、道路案内標識などには、旧行政区分名の上にシールを張って暫定的に対応しているものも多く、いかにも生まれたばかりの市という感じがする。旧更埴市は杏子の里、戸倉町と上山田町は温泉がそれぞれ特徴的だったが、私がここに来るのはこれが初めてである。以前の3つの市町の個性を感じることはできなかった。むしろ、ずっと前から一つの市であったようにさえ思える。最近では日本各地で合併議論がなされているが、合併によって、町の歴史や文化が忘れ去られていくことを危惧する声は多い。つまりはこのような思いを抱かれるようになることを惜しんでいるのかもしれない。私個人は、名前がなくなっても魂は残るように思うのだが。

 千曲市の北のはずれあたりで18号を右方向へ折れ、海津城を目指す。事前に調べた範囲では、地元では松代城と呼ばれているらしい。こちらは藩政時代の呼び名である。海津城と松代城にどの程度の連続性があるのかはわからない。地元では、どこにも海津城とは書かれていないので注意。松代はあくまで長野市松代町である。しかし、観光ともなると、松代単体で主張するようだ。歴史の町・松代の看板が目に入った。なるほど、松代付近には海津城址のほか、真田宝物館、松代大本営跡などがある。結局計画が実行に移されることはなかった松代大本営計画だったが、国の中枢機能がこのようなのどかな場所に移されようとしていたのは現代的感覚からでは奇異に思える。もちろん、当時は疎開の意味合いも強かったためのどかなのも必然ではあるのだが。なお、どうも生活道路らしい松代駅近くの細道を通ってたどり着いた海津城址は、工事中で中には入れなかった。

 海津城から少し北へ。上信越道をくぐって長野IC付近から伸びているオリンピック道路と思しき妙に立派な道を通って、鞭声粛粛昼河を亘り川中島古戦場へ向かう。川中島古戦場は、いわずと知れた信玄公と謙信公の決戦の地である。現在、古戦場付近は公園として整備されている。世に川中島合戦と呼ばれるものは、計5回行われている。なぜ5回も同じ場所で合戦があったのかといえば、この付近が武田領の最北部であると同時に、大軍が展開しやすい広い土地があったためだ。5回のうち、最大の激戦と呼ばれたのが永禄4(1561)年の第4次合戦である。濃霧の中の戦いだったため、両軍とも予想し得なかった主力同士の正面衝突となった。実力伯仲の両将、戦況の展開は息もつかせぬもの、信玄公の「啄木鳥戦法」に対する謙信公の「車懸りの陣(多分に絵に描いた餅的だが)」という互いの嚢中の秘を繰り出しあった戦いだったため、物語性は高い。しかし、日本史上さほどの重要性がないのも事実だ。川中島には、謙信公の太刀を信玄公が軍配で受けたという言い伝えにちなんだ三太刀七太刀の碑と銅像が建っている。それにあやかって(?)お土産に軍配を買おうとしたが、意外にもここでは売っていなかった。残念。上杉軍の「龍」の突撃旗とかがあったのは良かった。なお、第4次川中島合戦では、信玄公の弟で武田軍の副将格であった典廐信繁公が、奮戦の末に討ち死にしている。その最期に胸を打たれた真田昌幸は、息子に信繁を名乗らせた。巷間、「幸村」の名で知られる漢である。

 川中島を後にして、いよいよ戸隠に向かう。BGMはもちろん(何がもちろんなのか)大河ドラマ「武田信玄」のテーマだ。「この疾きこと風の如き走り、御旗楯無もとくとご照覧あれ」ってなもんである。まぁ勢い込んで走り出したはいいものの、例のオリンピック道路(仮)は、18号線との交点から先で見るからに頼りない細めの道に変わってしまった。なおも直進し、犀川を渡るあたりで再び広い道になりはしたが、何しろそこは長野市街である。交通量が多い。しかも善光寺に向かう車列に飲まれたのか、渋滞に飲み込まれてしまった。さっきの威勢はたちまちしぼみ、竜頭蛇尾もいいところである。

 上水内郡戸隠(とがくし)村は、長野市北西部と境界を接している。アマテラスの岩戸隠れゆかりの戸隠神社、北信各地に伝説を残す鬼女紅葉などで知られる。信濃国らしく、戸隠蕎麦でも有名。私が目指すのはもちろん戸隠神社と、戸隠(とがくれ)流忍法資料館だ。マスターは、長野-戸隠間を遠いといっていたが、むべなるかな、恐るべき急登である。長野市北部の山の斜面の住宅地を抜けると、見るからに深山幽谷に通じる、急勾配の道に出くわした。地図上で見る水平距離はたいしたものではないのだが、七曲、九十九折の連続で、実移動距離は結構なものである。ヴィッツのスペックでは、正直言って若干心もとない道のりだった。しばらく走って、尾根道らしき平坦な道に出た。ものの20分ほど前まで自分がうろついていた長野の街が、はるか下界に見える。窓から車内に流れ込む空気がひんやり冷たい。高原リゾート地を思わせる土地を抜けなおも進むと、蕎麦屋や旅館が道沿いに建ち並ぶようになり、やがて威厳ありげな石段と鳥居が見えてきた。ここが戸隠神社宝光社だ。しかし、今目指しているのは奥社。そこから10分ほど走り、途中、中社の前も通り過ぎて目的地にたどり着いた。車から降りると、明らかに気温が低いのがわかる。て言うか、半そでTシャツとハーフパンツでは肌寒い。恐るべし、戸隠。

 戸隠流忍法資料館は、戸隠神社奥社近くにある。敷地内には、忍具を展示した資料館、忍者屋敷の機巧を施したからくり屋敷、戸隠地方の民俗にまつわる展示を行う民俗資料館がある。私は、この戸隠流忍法資料館をあきれるほど堪能してしまった。人によって評価が激しく分かれそうな危うさはあるが、上田のケチを忘れ去らせ、今日一日はいい日であったと印象付けるには十分なほどツボにはまってしまった。現在も戸隠流忍術の宗家を名乗る人物はいるらしく、ニンジャアクションさながらの修行を積んでいるらしい。証拠として、資料館にはそういった修行の様子を収めた写真もある。また、からくり屋敷も面白い。「こんな片田舎のひなびた施設内にあるようなものだし、どうせ子供だましだろう」などと甘く見ていると、大火傷すること請け合いである。私は、この複雑怪奇なからくりが施された忍者屋敷の中で道に迷い、ついには一生を終える覚悟を決めかけたほどである。これを読んでいる人は、一度騙されたと思って行ってみるのもよいのでは?実際に騙されている可能性も多分にあるが、ここをたずねて何を思うかは結局あなた次第。どのような不利益を被ろうとも、当方は一切関知しません。

 戸隠流忍法資料館から目と鼻の先の距離に、戸隠神社奥社がある。いや、奥社の入り口があると言った方がより正確だろう。奥社の鳥居そのものは、表の道から入ってすぐのところにあるのだが、社殿はここから2kmほども奥に入り込んだ所にある。片道の所要時間は30分ほど。しかも恐るべきことに、参道脇には熊が出る旨を記した立て札が立てられている。まさに聖地。人が立ち入ることを拒むかのような神社である。もっとも、人の往来は多い。たとえここが熊の生活圏だったとしても、日中は熊のほうが驚いて避けていってくれると思う。夜ともなれば野生の領域かもしれない。私は時間的余裕の無さから、失礼ながら奥社はパスした。変わりに、参道入り口脇にある店で戸隠蕎麦を味わう。時間はすでに15時過ぎ。昼飯ではない。さりとて夕飯でもない。・・・・・・おやつ?ここの蕎麦は非常にコシのある麺だった。戸隠蕎麦一般の特徴なのだろうか。香りは結構よかった。それにしても、昨日の木曽蕎麦といい、2日続けて蕎麦を食っても別段苦にはならなかった。私は、自分が思っている以上に蕎麦好きなのだろうか。この店では、数日後に開催される戸隠蕎麦祭り(仮称?)の招待状ともなる蕎麦猪口を売っていた。これがあれば、祭りの日にタダで蕎麦が食い放題という、夢のようなアイテムだ。祭り本体には参加できないまでも、記念に買っておけば良かったと、今になって後悔している。

 続いて、往路では素通りしてきた中社へ。ここの祭神はオモイカネのようだ。実は、当日ここを訪ねるまで戸隠の三社はすべてタヂカラオを祭る神社だと思っていた。タヂカラオはアマテラスが岩戸の隙間から外の様子をうかがっていた時、力任せに岩戸を放り投げた大力の神で、そのとき地上に落下した岩戸が戸隠の山になったという伝説がある。それだけに、勘違いしていたのである。当然、宝光社にも、奥、中の二柱とは異なる神(アメノウワハル)が祭られている。境内の広さに差はあるのかもしれないが、祭神の格付けは行われていないのではないか(各社の位置関係が格付けに直結しているといわれれば反論に窮するが)。そう思えるほど、中社の建物は立派だった。最終的に宝光社はパスすることになったが、おそらくは宝光社も重厚厳粛な建物だったと思う。

 時間は16時少し過ぎ。マスターの話だと日程的に苦しくなりそうな気配だったが、あちこち巻きできたため善光寺参りをするだけの余裕もありそうだ。ガソリンの底が見えてきて不安なのだが、既述のように戸隠にいたるまでの道は坂の連続。帰りはアクセルを踏まなくても惰性だけで転がっていく区間がほとんどである。結局今日のとまりも佐久の予定なので、遅かれ早かれガスの補給は必要になるだろうが、善光寺まではたどり着けそうだ。それにしてもヴィッツの燃料メーターは、残量が少なくなっても警告用のランプが点灯しないらしい。早め早めに補給を行わないとちょっぴり不安である。

 善光寺にたどり着いたのは17時少し前。お戒壇めぐりはもうタイムアップだったが、境内には問題なく入ることができた。ただし、このとき山門が工事中だったために門前町との往来が不便ではあった。さて、寺の縁起について。日本に仏教が渡来してきて間もない頃に建立された寺院で、ご本尊である一光三尊阿弥陀如来は、日本に仏教を伝えた百済から渡ってきたもの。時期的には奈良の法隆寺とさほど変わらない頃のお寺ということになる。ただし、建物は何度か焼失の憂き目に会い、その都度再建されている。日本の仏教は平安時代以降さまざまに分派したが、それよりも古いお寺なので無宗派のお寺だ。善光寺では7年に1度、本尊のご開帳が行われる。ただし、本物のご本尊は秘中の秘であるため、誰も見ることは許されない。ご開帳されるのは、本尊と瓜二つに作られた前立て本尊である。ちょうど今年の4月から5月にかけてご開帳されていたとのこと。ネタ本を見ながら書いてみたが、脚注に「御開帳名称使用許諾番号○○号」とある。「ご開帳」という言葉自体、おいそれとは使ってはいけないものなのだろうか。

 善光寺といえば、「牛にひかれて善光寺参り」の昔話も有名。ごくかいつまんで説明すると、ちょっと性格に問題のあるおばあさんが、図らずも暴走した(?)牛に引かれて善光寺までやってきて、寺にお参りしたことで改心したという話である。おばあさんは牛に引かれてやって来たわけだが、私は牛に惹かれて善光寺に来た。そのぐらい、善光寺と牛の縁は深く、境内のあちこちに牛が祭られている。私は、仲見世で「牛にひかれて善光寺参り」の手ぬぐい(金伍百円也)を買った。また、ここで信濃名物・おやきを食べた。このたびではこれが初である。購入したのは山野菜とあんこ。おやきは長野県内のSAや道の駅であれば販売していると思うが、ここのおやきは今まで何回か食べてきたおやきの中でももっともうまい部類に入ると思う。遅昼の蕎麦とおやつのおやき二つで今日の夜はしのぎきろうと思う。時間はすでに18時近い。そろそろ佐久に向かおうか。

 午前中いっぱいをかけて走ってきた国道18号線を再び群馬方向へ走り出す。途中、沿道のセルフスタンドでガソリンを補給。運転手の腹具合は微妙だが、車のほうはお腹いっぱいになったので、一生懸命働いてもらうことにする。そこそこ快調な滑り出しで長野市を脱出。しかし、この道は千曲市に入ったあたりから片側一斜線の対面通行になる。必然的に交通集中で流れが悪くなる。時間が時間だし、案の定渋滞につかまってしまった。流れが悪くなりはしたものの、千曲市を抜けたあたりで車がずいぶん少なくなった。坂城町に用のある車は少ないということか。この町が千曲市になれなかった理由と何か関係があるのだろうか。坂城以降、道は順調に流れた。上田市、東部町、小諸市と移動距離そのものが純粋に長かったために所要時間は2時間ほど。道中が真っ暗だったのでかなり疲れた。結局、佐久入りしたのは20時頃。今宵の宿は佐久平駅近くの佐久プラザに求めようと考えていた。がしかし、いざ当地に向かってみると満室で空きが無いとのこと。事前にマスターに聞いていた情報によると、佐久市内には、健康ランドやオールナイトのサウナの類がここ以外に無さそうだ。佐久平駅は新幹線の駅のはずだが、この付近に安いビジネスホテルの類も無さそうだ。さて、どうしよう。一萬里温泉という手もあるが、どうもあそこは値が張りそうだ。マスターはどこかに外出している様子。仕方なく、上信越道で長野市に引き返す。確か千曲市に入る手前あたりに24時間営業の健康ランドがあった。猿久保近くのローソンでアップルパイを買い、長期戦に備える。

 どうにも暗い高速道路を前日とは逆に走り、長野市入りしたのは21時30分ごろ。事前に当たりをつけておいた18号線沿いの信州健康村が今日の宿になった。「宿泊料」は総額3000円。健康増進効果のあるさまざまな風呂を楽しみ、ジェットバスで水流に飲み込まれてくるくる回ったりした後、リラックスルームで就寝。いわゆる仮眠室という扱いではないらしく、ベッドは置かれていない。代わりにリクライニングチェアーがある。なんにせよ、疲れているのですぐ眠りに入るだろう・・・・・・そのはずだった。しかし、同室内ですでに夢の中の方の鼾が非常に気になる。照明が微妙に明るいのも気になる。眠るための部屋ではないのでそれは仕方が無い。次回の旅では、同じような状況に置かれても安らかに眠れるよう、耳栓とアイマスクは携行せねばなるまい。

 そして、まんじりともせぬまま夜が明けた。