御旗楯無もご照覧あれ(甲斐路)
2003年9月15日 搭乗車 ヴィッツ
眠れないままに
上田原の別離
海野宿黎明
はるかなる旅路、さらば佐久よ

海の口

野辺山・鉄道最高点

武田神社
富士西麓越え
朝霧高原
おざなり駿府城

帰還





 眠れないままに朝の光を仰いだ。時間は午前5時半。同室のおぢ様がたのいびきが気になって、眠りが浅くなるたびに目がさめた。時間的に、もう一度眠りにつくことは難しいだろうと思い、前夜同様にジェットバスでくるくる回りながら目を覚ました。建物の外に出ると、空気がひんやりと冷たい。空は白々と明けかかってはいるものの、山にさえぎられて日の光は射していない。今日の日程は少々苦しいかもしれない。早出してもそれがマイナスになるようなことはあるまい。夜露でぬれた車に乗り込み、エンジンをかけ、カーナビに今日最初の目的地を入力する。武田神社。山梨県甲府市にある、武田氏の居館跡だ。その関係で今回は信玄公礼賛が甚だしいので、そういうのが苦手な人はこの先は読まないことをお勧めします。

 一応昨夜のうちに目的地までのルーティングと所要時間の計算はしておいた。7時出発で10時に現地着の予定。八ヶ岳東麓を通るコース。高速は利用しない。しばらく待っていると、ナビが推奨ルートを表示した。私の想定したルートと同じだ。高速道路利用を勧めないのは、所要時間的に大してうまみが無いせいか、それとも前回の一般道路優先設定が生きているためか。まあ、それはどうでも良い。到着予想時刻は8:30少し過ぎ。所要時間もおおむね事前の計算どおりだったようだ。

 このたび3度目の国道18号を、今度は佐久方面に向かう。さすがに3回目ともなるとネタにすることが無い。とにかく走った。夜が明けきらぬ時間と言うこともあり、車が少ないため、サクサク進む。がしかし、坂城町に入るかどうかのあたりで前方に某コンビニのトランクが立ちふさがった。営業車だけあって律儀に制限速度を遵守している。と言うより、若干法定速度を下回っている。もっとも、馬なり(?)で走っていると、武田神社到着が予定よりもずいぶん早まってしまいそうだ。神社だからよっぽど早くても大丈夫だろうが、そんなに急いでも仕方が無いので、コンビニトラックのもっさり走行に漫然とお付き合いした。

 上田市に入って少ししたあたり。例のもっさりトラックはわき道に入っていずこかへ消えていった。もっさり走行が功を奏し、武田神社着が程よい時間になりそうだった。ナビが指し示す到着予定時刻は、出発時に表示されていた8:30に戻っていた。と、その時。ナビの表示に大変なものを発見してしまった。「板垣信方の墓」。脇に名勝・旧跡を表す点三つの地図記号。これは間違いない、板垣殿の墓だ。板垣殿は信玄公の傅役だ。瞼の裏に菅原文太似の老将の姿がちらつく。不覚!このあたりが上田原だったかッ!あわてて地図の縮尺を小さくし、板垣殿の墓の位置を調べるために周囲の詳細図を表示させた。しかし、詳細図のはずなのに、再び表示された画面に「板垣信方の墓」の表示は無かった。なぜだ!?声にならない叫びとともに、とにかく次の交差点で右折し、「板垣信方の墓」と表示されていたらしきあたりへ向かう。うろうろしている間に表示が復帰するかもしれない。しかし、運命は非情だった。板垣殿の墓の位置を示す文字は何も表示されない。道行く人に尋ねようにも、あまりに早朝なので誰も歩いていない。それでもしばらくは周辺をうろうろしていたが、結局墓を見つけることはできなかった。すっかり意気消沈して国道に戻る。

 上田市街のはずれ、国分寺から程近いところで吉野家を見つけ、殺伐と朝食を摂る。思えば姫路の朝も、健康ランドでひとっ風呂浴びてから吉牛というコースだった。いっそ旅の朝の定番儀式にしようかなどと考えながら、並盛を食む。時計を見ると、なんだかんだですでに6:30。車に戻ってナビを見ると、板垣殿の墓を探すのにうろうろしたのと、思いがけずまともな朝食をとった関係で武田神社の到着予想時刻が9:00頃にまでスライドしていた。程好い頃合である。良き哉、良き哉。

 さらに前進。相変わらず道はガラガラで、順調な道行だったし、せっかくだから海野宿に行ってみた。もちろん、沿道の店などはどこも開いていない。あくまで様子見である。海野宿は東部町本海野あたりのの国道交差点を折れて、ものの2分も経たずにたどり着けるようなところにある。過去に通算三回、この近くを走ったことになるが、四度目にしてはじめての訪問であった。宿場町観光に特化した木曽路の宿場とはまた趣が違う。もしかすると、この宿場は観光産業と一面と住民の日常生活とが良い按配で融和しているのかもしれない。なんとなくそういう印象をもった。日中来ればまた雰囲気も違うだろう。何にせよ、時間が時間なので人っ子一人歩いておらず、何だか寂しい。時間は7:00少し前。先へ進もう。

 あっという間に小諸市を抜け、佐久市内へ。しかしもう、馴染み深い佐久平駅周辺は通らなかった。しないに入ると間もなく国道141号に入り、佐久市の南へ抜けるルートを急ぐ。この2日で妙に見慣れてしまった壱萬里温泉の前を通る。今日は祝日(敬老の日)だが、マスターは仕事だそうだ。今ごろは忙しく出勤準備をしているのだろうか。マスターよ、ありがとう。私は旅立ちます。今から、山越えの道に挑みます。

 ナビの妙なルーティングに辟易しながら、佐久市の南、南佐久郡臼田町に入る。ここには日本では二つしかない五稜郭・竜岡城跡がある。もう一つはもちろん函館のものである。五稜郭という形態は特徴的なのだが、どういういわれのある城なのかは分からなかった。私の戦国レーダーに引っかからないのだから、江戸時代の城だろうと思うことにして、先に進む。上田原のことを失念していたのだから私の戦国レーダーも焼きが回っているのかもしれないが、むしろ今日の道沿いで気になる城はいま少し先にあるのだ。五稜郭という縄張り自体が洋物なのである。南蛮渡りとはまた違う、洋物という言葉の微妙なニュアンスが伝わるだろうか。後に調べたところによると、文久3(1863)年の建設だそうな。確実に山は近づきつつあるが、まだ急な登りは無い。

 臼田町の隣は、同じく南佐久郡の佐久町。佐久市と紛らわしいが、別個のものである。カーネーションが名産らしい。このあたりから、緩やかながら登りが始まるといってよいのだろうか。さらに同郡八千穂村へ。このあたりは東西に細長く伸びている町村を、国道141号が縦貫するように走っている関係で、境界看板が目まぐるしく流れていく。しかし、一旦小海町に入るとこの町の町域が長く続く。さすがにこのあたりまで来ると、道はぐんぐん高度を上げていく。山を登っている実感はあるが、結構大型車が多い。この道は特別狭いわけではないが、かと言ってそれほど高規格の道路ではない。片側車線いっぱいを使って走っているような車もいる。そのような車に前後をはさまれたりしたらたまったものではない。センターラインがオレンジ色から追い越し可能を意味する白い破線に変わったタイミングをついて、先行していた大型トラックを追い抜いた。重そうな巨体を引きずるように坂を登っている車が、バックミラーの中でどんどん遠ざかっていく。しかも都合よく、脇道からのんびり走行の軽トラックが合流してきて、大型トラックの進路に立ちふさがった。前方に立ちはだかる車も無く、軽トラ氏のおかげで背後の安全も確保された。気ままな一人旅である。久しぶりの信号待ち(小海町馬流交差点)で周囲の風景をカメラに収めておいた。どうだろう、この抜けるような青空は。これから向かうのは八ヶ岳山麓の野辺山高原。まったく、胸躍るような天気であった。

 小海町の南、南佐久郡南牧村に入る。今回携行したMAXマップル関東2003年7月1日版では、南牧村の特産品はポッポ牛乳になっている。そんなに有名な特産品だったのか、ポッポ牛乳。実は結構飲んでいる。そういえば最近、ホモちゃんの元気牛乳が行きつけのスーパーからなくなって寂しい限りである。

 話が恐ろしく脱線した。今走っている道が佐久甲州街道である。その名のとおり、佐久と甲斐をつなぐ道であり、信玄公率いる武田軍も、この道を通って佐久平方面に進軍している。そして、信玄公の初陣の時に使われたのもまた、この道であった。天文6(1537)年、前年に元服を済ませた信玄公(当時は晴信)は、父・信虎に従って佐久海の口城に平賀源心入道を攻めていた。しかし信虎は、この城が容易には落ちないと見て軍をまとめて甲斐に引き返すことにした。その時、信玄公は自ら殿軍を望んだ。信虎は最終的には要望を受け入れた。そして、信虎率いる主力部隊が退却をはじめた時、信玄公は手勢を引き連れ、海の口城にとって返した。武田の主力が退却したと思って臨戦態勢を解いていた海の口城は、再び戻ってきた信玄公の軍によって、あっという間に落とされ、城主平賀源心は首を討たれた。しかし、信虎は奇策によって敵を倒した信玄公を評価することがなかったという。「甲陽軍鑑」に見られる話である。史料としての信憑性をしばしば疑問視される「軍鑑」の記述なので、半ば伝説視されることも多い逸話だが、その海の口城があったのが、南牧村。小海線佐久海の口駅近くには、海の口城跡を示す看板もある。できることならば寄って行きたい城であったが、ルートガイドがほとんど無い山城のようで、朝の早い時間に一人で山に分け入る気にはなれなかった。海の口を過ぎたあたりから、ヘアピンカーブの連続で高度を稼ぐ。

 いわゆる横Gというやつに翻弄されながら坂道を登っていくと、間もなくなだらかな道になり、ついには見渡す限りの広い平原に出る。ここが野辺山高原だ。遠くに見える八ヶ岳の山裾まで広がる何百枚もの畑が印象的だ。これが小学校時代に習った高原野菜というやつだろう。妙なところに感心してしまった。今朝早くに出発した長野市からここまで、比高にして800mは登っているのだろうか。それほど登ってもまだまだ八ヶ岳の頂は高く遠い。八ヶ岳最高峰の赤岳は2899mの高さを誇る山だそうだ。これだけの高原に立っても、まだあと1500mほども上に山頂がある計算になる。しかも標高が3000m近い高山であっても、長野でも山梨でも県内最高峰にはなり得ないようである。










 野辺山には日本鉄道最高地点がある。この日本鉄道最高地点は、JRの最高地点でもあった。標高は1375m。ちなみに、ここを走っているのは前出のJR小海線である。日本鉄道最高地点とJR鉄道最高地点、それぞれに標柱が建っているが、日本鉄道最高地点(左写真)の方には、幸せの鐘のおまけつき。何ぞ願い事を心に思いながら鳴らすと良い事があるらしいのだが、ここを訪ねたのはまだ朝早い時間。近くに民家などは無さそうだったが、さすがに朝っぱらからカランカランと鐘を響かせるのも気が引ける。鐘と標柱を遠巻きに見るようにするにとどめておいた。

 鉄道最高地点を通り過ぎたあたりで道は山梨県に入る。山梨県最初の町は、北巨摩郡高根町。むしろ、この界隈は清里と呼んだほうが直感的だろう。道沿いには高原リゾート地らしいなにやらおしゃれな店も建ち並んでいるが、時間が早いのでまだ開店すらしていない。お土産を買うとしたらこのあたりだろうかと当たりはつけていたのだが、認識が甘かった。まあ、進んでいくうちに良き所もあるだろうと思っていたが、141号はむしろ清里をかすめるようにして流れる道路らしい。お土産屋がそれ以降の道沿いからまったく姿を消したわけではなかったが、数は多くなかった。しかも、ほとんどが開店前。これはまずいな、と思っているうちに道はぐんぐん下っていく。行く手をふさぐかの如く前方に在った山の稜線が、どんどん上の方に上がっていくように見える。名前も知らないような山だが、低地で育った人間には驚異的な高さである。開け放していた窓から流れ込んでくる空気も、日が高くなってきたこととあいまって熱気を帯びてきた。道の駅南清里の近くも通ったが、時間が時間なのであまりにぎわっていない。仕方が無い、腹をくくって武田神社へ向かおう。BGMは、この旅何度目か分からない「武田信玄」のテーマ。見える、八ヶ岳山麓の棒道を疾駆する騎馬武者の姿が、母衣を背負って走る騎馬武者の姿が、武田の軍旗をたなびかせて走る騎馬武者の姿が。騎馬武者ばかりだが、とにかく気分は武田武士。御館様、今参りますぞ。韮崎市、北巨摩郡双葉町と抜けて甲府市に入る。道は若干混んでいた。

 武田神社は、甲府市街の北にある微高地の上に建っていた。背後に山を背負っているので、微高地と言うよりは山裾と言った方が正確だろうか。坂の上に神社の鳥居が見えてくると、もはや感無量であった。もう少し古びた神社をイメージしていたのだが、ずいぶんとこぎれいな神社であった。神社入り口の脇にある駐車場に車を停め、道の反対側に立って写真を撮る。今から450年ほども前、信玄公が確かに暮らしていたその場所に、ついにたどり着いてしまった。感涙である。て言うか目頭に厚いものを感じ、本当に泣いてしまった。慟哭したわけではないが、客観的には相当イタイ光景だろう。人通りが少なかったことに助けられた。戦国の世から400年余り、かつて稀代の英雄を輩出した土地に立ち、落涙する怪しげな男一人。

 武田神社境内には、かつてここが躑躅ヶ崎館と呼ばれ、甲斐国の中心であったことを思わせる物もぽつぽつ存在していた。しかし、それ以外はいたって普通の神社である。そもそもここは、甲府城建設とともに躑躅ヶ先や方が破却されて以降はほとんど手付かずのままであった。明治になり、ようやく武田の名を誰はばかることなく口にできるようになり、大正天皇の即位に際して、信玄公が従三位を追贈されたことを機に武田神社が造営されたのである。神社としての歴史は浅く、そういう意味で神(かむ)さびたムードが無いのは当然なのかもしれない。徳川幕府の初代将軍・家康は政治にしろ軍事にしろ、何かにつけて信玄公の甲府流を発展させた方式を採用し、それが幕府の屋台骨を支えていたのだが、反面で武田家に対する扱いは腫れ物に触るようなものだったらしい。武田神社の境内には宝物館がある。残念ながらここには武田家重代の家宝である御旗と楯無は無いが、信玄公に思いを寄せるものならば是非とも立ち寄るべき場所である。ここでは記念に武田二十四将図と武田神社発行の書籍『武田のふるさと甲斐・武田信玄』を購入。信虎から勝頼に至るまでの戦国武田氏の歴史も収録された、武田シンパ必携の書だ。この本を見て、おぼろげながら初めて信虎の生涯を見たように思う。ちょうどこのサイトには戦国コンテンツもあるし、近いうちに武田氏三代について語りたいものだ。

 神社の境内を出て、道をはさんで反対側に位置するお土産屋かぶと屋に立ち寄る。ここにしかない信玄公グッズなどもあるらしい。風林火山の湯飲みとか猪口とか、信玄公ボトルの酒とかいろいろあった。私はここで、武田の軍旗が欲しかった。いつの日か、私が京都に行く時、「瀬田の橋に武田の旗を立てよ」という信玄公の遺命を果たすためだ。しかし、かぶと屋をもってしても、ごくオーソドックスな武田軍旗は売っていなかったように思う。諏訪法性の旗や孫子の旗はあったと思うのだが。あと、みょうに印象に残ったのがご当地キティシリーズ・『信玄キティ』である。甲冑で武装し、風林火山の旗指物を指したサンリオの人気猫のキーホルダーか何かである。いかに信玄公にちなんだものとはいえ、自分用にはあまり欲しくない。お土産に買って帰ったとしても、「何?この勇壮なキティは?」という感じのリアクションをされると信玄公が軽んじられたように思えていやなので、あえてスルーした。後日、この信玄キティがむしろ欲しかったと言うことを言い出した者がいて、買っときゃ良かったかな、と思った次第。そしてかぶと屋を後にし、近くにある信玄公の火葬塚と三条夫人の墓を見に行く。左にある写真が三条夫人の墓である。大河ドラマ原作の新田次郎氏の小説「武田信玄」では、少々性格悪めな描かれ方をしたし(ついでに容姿も・・・・・)、ドラマの方では紺野美佐子さんがいかにも公家の娘と言う感じの、気位の高い三条夫人を演じていたが、「心頭滅却すれば火もまた涼し」の快川和尚によると、温かい人柄の持ち主だったそうである。写真は三条夫人の墓。信玄公の火葬塚はお城スコープ参照のこと。

 塩山市の菅田天神社には前述の武田家家宝・楯無があるそうだが、時間的にそちらを回っていくのは苦しそうである。甲府駅前の信玄公の像を拝んで、山梨県を去ることにした。山梨県内で立ち寄ったのは実質武田神社だけと言うことになるが、致し方ない。甲府駅近くの路地に車を停め、小走りで南口(?)付近にある信玄公の像を見に行く。像の前まで行くと、旅行者らしい外国人が信玄公の像を何枚も写真に収めていた。信玄公の威名は南蛮にまで轟いているらしい。南蛮人(紅毛人?)の次に、これも旅行者らしいカップルが信玄公の前で写真を取り、その次になってようやくデジカメと携帯で像の写真を撮影することができた。これで、山梨県内においてなすべきことはすべて終わらせたことになる。若干財布の残りが心もとなくなっていたので、近くにあったATMで金を下ろしてから、南へ向かう。進むコースは、甲府市から富士西麓を射して伸びる国道358号線である。

 358号は富士山に真っ向から挑む道ではない。しかし、甲府市の南隣にある東八代郡中道町、その先の西八代郡上九一色村と進むにつれ、道がグングン高度を増していくのが分かるなかなかの山岳コースである。この、実際に358号を走った時まで、上九一色は「かみくいっしき」だと思っていたのだが、正しくは「かみくいしき」らしい。新聞報道などでよく目にした文字だが、まったく気づかなかった。不幸にして、この村を語る上で避けて通れないのがあの教団にまつわる話題だろうが、教団施設の跡地と言うのがどこにあるのかは分からなかった。その後、第三セクターが跡地をテーマパーク化し、それもこけたと言う。358号はこの村を縦貫するように走っているが、村内でも比較的開けた集落の多くはこの道沿いにあるのだと思う。それを踏まえたうえでこの村のイメージを語るなら、過疎化の進む山村の感は否めない。斯様な小さな村にのしかかる過去の負債の大きさ思うと、何だかやりきれない気持ちになってくる。

 富士五湖のうちの精進湖、本栖湖の湖畔を駆け抜け、静岡県に入る。道は国道139号線。一気に200番以上番号が若くなるわけだが、そのせいかこのあたりの道は、片側一車線ずつとはいえ、かなり走りやすい。静岡県最初の町は富士宮市だ。このあたりが朝霧高原である。富士宮市の名が示すとおり、富士山が至近距離にあるはずなのだが、雲が多くてまったくその姿が見えなかった。朝霧高原だからというわけではないのだろうが、空気全体に靄がかかったようになっていた。それでも、とりあえず道路沿いにあった道の駅朝霧高原に入った。ここはかなり大きな道の駅である。しかし、駐車場が満車だったらしく、いかにも臨時駐車場と言った趣の芝生広場に車を停めることになった。

 実は私は朝霧高原という名前にそれほど特別な意識を持っていなかった。実際に現地を走り、「ああ、このあたりが朝霧高原なのか」と思った程度である。首都圏に暮らす人にはもう少しなじみのある名前なのだろうか。特別な意識を持っていなかったせいか、この場所に特別な感慨はわかなかった。確かに道の駅周辺には草地が広がっていて高原らしい雰囲気と言えるが、この3日間走り続けてきたのは日本の高原銀座、長野山梨なのである。両県にある有名高原に比べるとやはり劣る気がする。などと、朝霧高原に対して多少辛い点をつけながら、ちゃっかりお土産にベイクドチーズケーキを買った。前評判も何も聞いていないのでうまいかどうかは分からないが、○○高原といったところで売っているチーズケーキや乳製品はおおむねはずれが無い看板商品と言って良いだろう。打算的な買い方ではあったが、とりあえずこれで義理は立つ。

 道の駅を出てから、やはり名前は聞いたことがあるまかいの牧場のそばを通り抜け、白糸の滝の脇をかすめ、富士宮道路に入る。あきれるほど長い下り坂である。今走っているのは富士宮市だが、こんな牧歌的な高原が果たして「市」なのだろうか、などと疑問をもったものだったが、この下り坂によってあっという間に富士宮の市街に出てしまった。思いのほか順調な道のりであった。139号は直進すれば西富士道路に入り、さらに西富士道路は東名高速道路富士ICと接続している。そこからまっすぐ名古屋に帰った場合、到着時刻は・・・・・・およそ14時?今回、車は今日の18時までの約束で借りている。4時間早く返したところで別に料金が安くなるわけではない。もうちょっとどこかに寄って行こう。静岡県内でよるべきところは・・・・・・。遠州地方はまあ、比較的容易に遊びにいけるから、やはりこの近辺がいいな。と言うことで、静岡市にある駿府城にいってみることにした。それでもさしあたっては東名に乗り、最初のSA・富士川SAで食事にした。夜に来れば夜景がきれいらしいが、真昼間なので臨海部の工場群の無骨な姿が見えるばかりである。SAでも、ちゃんとしたレストランとショッピングセンターのフードコートを思わせるスナックコーナーではだいぶ料理の内容が違うので、できればレストランの方に入りたかったのだが、黒山の人だかりだったために断念。ここで、高速スナックコーナーの新機軸?を体験し、富士川ラーメンと言う名のしょうゆラーメンを食べた。何がどう富士川だったのかは不明。

 富士川SAを出て、由比町に入ったあたりからの景色は東名高速でも屈指の景観だろう。駿河湾沿いの長い下り坂をすべるようにして走っていく。このあたりでは、東名の隣を国道1号線が走っている。国道1号前線走破もいつかは達成したいものだ。思えば、国道19号線の全線走破を目標に始まった今回の旅も当初の目的はすでに果たし、そろそろ終盤を迎えようとしている。

 高速は、清水ICで降りた。富士ICからはわずか一区間である。高速利用の意味はもう一つ薄かったかもしれない。さて、清水ICの名からも分かるようにここはかつて清水市だったところである。現在は静岡市との合併が成り、清水市と言う行政区分は消滅している。厳密にいえば違うのだろうが、どうしても静岡市に吸収合併されたイメージが強い。新市名は、なんとなく遺恨が残りそうな決まり方をしたような記憶もあり、そのことが気にかかる。旧清水市付近の名所と言えば三保の松原だろう。8kmにわたって続く松原は、新日本三景の一つに数えられている。ただし、私は三保には行かなかった。あくまで駿府城を目指す。

 途中何度かナビを見誤り、恐ろしく細い道路に迷い込んだりしながら、どうにか目的地にたどり着いた。駿府城は、静岡市の中心部にあった。が、当日は国体か何かのイベントで駿府所近くの駐車場は軒並み満車であった。駿府城付近は、城下町の名残を思わせる道が細く入り組んだ箇所も多く、ふらっと立ち寄っただけのストレンジャーが簡単に都合の良い駐車場を見つけられるような場所ではなかった。結局、駿府公園に最も近いとある地下駐車場前で空車待ちをした。待つことおよそ40分。ようやく車を停めることができ、いそいそと駿府城あとへ。昼の段階ではずいぶん時間に余裕があったはずだが、気がつくとあまりのんびりもしていられない状況になっている。かなり苦労して入城した駿府城跡ではあったが、至って普通の公園であった。よく整備されているので、ピクニック気分でいくのであれば良いところかもしれない。

 駿府城を出てからは、きわめて速やかに東名高速に乗り、名古屋を目指した。久しぶりに走る日本坂トンネルは、何だかえらく立派に整備されている。片側三斜線になっているのだ。昔この長いトンネルでは玉突き事故があり、多数の死傷者を出す日本交通史上未曾有のトンネル事故となったことがある。その時の教訓が生きているのだろうか。なにやら生々しく、軽い恐怖感を催す。それにしても、高速利用だと静岡-名古屋間は思いのほか近そうである。わずか1時間弱で豊橋の検札所(なぜこんなところに検札所があるのかはいまだに不思議なのだが)につき、そこから40分ほどで名古屋ICに着いた。レンタカー屋に車を返却したのがおよそ17時50分。今回は極私的旅行初の2泊3日という長丁場だったが、概ね満足の行く旅だった。初日の木曽路、松本城、二日目の川中島、戸隠、善光寺。そして最終日の野辺山、武田神社。どこが一番思い出深かったかと尋ねられれば、「いずこの地も」と答えるより他にあるまい。

 なお、この旅を終えた時にレンタカー屋でスタンダードクラスの10%割引券をもらえた。また、ポイントカードのポイントがたまり、1000円分の割引も受けられるようになったとのこと。期間限定なので、この初冬にはカローラクラスに搭乗して日帰り旅行に出かけたいものである。