千年の古都(京都・奈良)
2001年11月2・3日 搭乗車種:コロナエクシブ
旅立ち
道中
京都着
東山
晴明神社
奈良には行ったが・・・
京都の夜
珍皇寺
帰途



 京都は歴史の古い街だ。なにしろ鳴くよウグイスの頃から1200年以上もの間多くの人が暮らしている都会である。その歴史の古さに惹かれて、JR東海のCMではないが「そうだ京都へ行こう」と言う気分になったのは2001年の晩夏であった。学生生活も先が見えて、多少センチメンタルな気分になっていたのかもしれない。とはいうものの、大学時代に4回ほど京都へ遊びに行った事がある。今回は、「車で行く」という部分にかなりの重きがおかれていた。

 金沢から京都まではかなり近いような印象をもっていたのだが、実際にはさほどではない。

 またしてもJR東海の話になるが、かつて「45分で京の人」というコピーがあったと思う。名古屋から京都までは新幹線で45分の距離なのである。実家起点で京都までの所要時間を考えた場合、それにプラス30分弱、いろいろなロスタイムを考慮しても、1時間30分はかからない。それに対し金沢からは新幹線がないこともあり、特急サンダーバードを利用しても2時間ほどかかる。似たような名前で特急雷鳥もあるが、これだとさらに時間がかかる。結局のところ実家から京都に行ったほうがはるかに早いのだが、東京方面に向う場合にはさらに膨大な時間がかかるため、やはり金沢は関西圏なのであろう。ただし、今は長野新幹線の開通でだいぶ東京も近くなったようだ。余談だが、実家から新幹線を利用した場合、東京と大阪までの所要時間は乗り換えナシなら5分しか違わない。どっちつかずである。

 愛知県の公立学校の場合ほぼ全県的にそうらしいが、小学校の修学旅行は京都奈良、中学の修学旅行は東京と首都圏となっている。長野あたりの学校だとこれが逆転するようだ。我が母校もこの流れを踏襲し、小学校の修学旅行は奈良京都だった。高校の修学旅行でも広島からの帰りに京都へ立ち寄っている。しかし、未だに思うのだが京都は修学旅行で行ってもそれほど面白くはないのではないかと思う。京都そのものは魅力的な街だが、義務教育も終えていないような年頃の子供が行って面白いものだろうか。しかも、この街は集団旅行でワサワサ行っても味わい尽くせないなかなかディープな一面を持っている。少なくとも私はそう思っている。そんな奴が一人旅で京都へ行ったものだから、観光の仕方もなかなか穿った感じのものになった。魔都京都の闇の部分、要するにオカルトっぽい部分を中心に見てまわることにした。そんなわけで今回は厳粛かつ重厚で格調高く行きたいな。

 金沢から京都に行く場合、電車なら前述のサンダーバードあるいは雷鳥である。鈍行で行くのはかなり厳しい。東海道本線に慣れ親しんで育った身としては、北陸線の本数の少なさ、それに伴う乗り換えの不便さは相当こたえるのである。車の場合なら北陸自動車道を米原JCT方面に走りそれから名神高速道路を西に向う。下道なら国道8号をひた走っていけばやがて1号に合流する。1号は基本的に旧東海道に沿って走っているだけあり、上り下りさえ間違わなければきっちり京都市内にたどり着ける。

 出発は朝7時。8号に関しては過去に幾度も走っている。その経験からして難関は二つ。金沢市街脱出と、福井市通過である。この2ヶ所はとにかく渋滞に巻き込まれやすい。それを避けて通るにはちょうど朝7時くらいの出発がちょうど良い。もちろん早ければ早いほど渋滞には巻き込まれにくいが、あまり早いのも正直きつい。順調に行けば1時前には京都に着くだろう。そんな予定を立てながら走り出した。

 この頃には我が愛車は相当深刻なダメージを受けていた。エアコンの使用によってエンストを起こすという不思議症状に悩まされていた時期である。従ってうかつにはエアコンを使わないようにしていたのだが、幸い11月の頭ということもあり、エアコンなしでも比較的快適に走れた。快適といえば渋滞らしい渋滞に捕まることもなく車はサクサクと走っていった。敦賀まで4時間かからないのだから今回の行程はかなり順調と行って良い。

 敦賀の市街地を抜け峠越えにさしかかる直前の疋田で進路を右にとって161号に入る。8号をまっすぐ走れば琵琶湖の南を抜けて走ることになるが、このコースだと湖北を走っていくことになる。途中、北陸本線の車窓からよく見た風景を愛車の窓から見る機会があった。併走に近い位置関係で走っているのだからある意味当然なのだが、それでも自分の意思とは関係なく走っている電車の窓から見るのと、自分の運転する車から見るのでは同じ風景でも違って見えるものだ。

 間もなく北陸本線の線路とも別れて特になにもない山道をしばらく走る。サンダーバードなども琵琶湖の北側(といっても湖西線)を走って京都に到るのだが、161号の風景は電車の中から見るものとはかなり違って見える。琵琶湖を見たりしながらぼんやり走り続ける。琵琶湖は日本一大きな湖で、地図などのイメージだと滋賀県の大部分が琵琶湖のような感じがするが、実際には全面積の3割程度なのだそうだ。とは言っても海の無い県で盆地の真ん中に湖があるような感じだから実際よりも広く感じるのだろう。特に北西岸は山が湖に迫っていて湖南に比べてやはり狭く感じる。そのおかげで、161号は迷う心配のない一本道である。

 しかし、そのことがマイナスに作用するような出来事が起きた。渋滞である。

 そもそも8号経由1号を避けたのは渋滞しそうな市街地を避けてのことである。琵琶湖の南側にはいかにも大きそうな街がいくつかある。それが結果として裏目に出てしまった。流れに呑まれ、なすすべもなく渋滞の最後尾へ。そのまま進めない戻れないの状態へ。地図で確認しても抜け道らしい抜け道もない。脇道はいかにも一見さんお断りっぽい雰囲気なので、おとなしく渋滞に付き合うことにした。時計を見ると1時少し前。順調に行けば1時過ぎくらいには京都には着けていたのだろうか。そんなことを考えながら前方を見る。渋滞の頭が見えない。しかもほとんど進まない。これはかなり気合の入った渋滞のようだ。

 あまりに進まずやることもないので、仕方なく地図を見ると、どうやら近くに小野神社というのがあるようだ。その近くに小野道風神社がある。小野篁神社がある。小野妹子の墓まである。ここはいったい小野一族の何なのであろう。そんなことを考えていたがなかなか進まない。結局渋滞を抜けたのは2時を回ってからだった。さすがに161号に対し不信感を感じ坂本あたりを抜けて京都に入ることにした。明智光秀の居城があった坂本だが、今回は素通りする。だいぶ時間が押してきている。比叡山も今回はナシ。

 そんなこんなで京都市内に入ったのはもう3時近くになったときであった。滋賀と京都を隔てる山を越え、坂道を下り降りる時には大声で「口笛」を歌ったものだ。子供の頃に夢中で探してたものがほら今目の前で手を広げている感じだ。やっと着いた、京都。左手に見える「銀閣寺」の看板が旅情を誘う。さし当たって清水寺に行ってみたいので進路は南へ。

 途中、平安神宮の少し手前、岡崎あたりに殺生石の一部で造られたという鎌倉地蔵があるらしい。殺生石とは鳥羽天皇の時代に玉藻前を名乗って現れた九尾の狐が変化したものだと伝えられている。九尾の狐はインド摩羯陀国の華陽婦人や中国殷の紂王妃・姐妃などになって国王を悪政に走らせて国を滅ぼしてきたという妖怪である。それが日本にやってきて退治され、怨念が石となったのが殺生石とされる。殺生石は那須のものが有名だが福島、栃木、長野、新潟、愛知、岡山、山口、大分にもあるらしい。京都にあるのもそのうちのひとつというわけだ。興味はあるのだが、やはり時間の都合で今回はパス。

 車を川原町あたりに停めて八坂神社などに行こうと思ったのだが、意外に車の置き場所がない。小さな駐車場はいくつもあるのだが、非常に入りにくそうだし、気づいた時には通り過ぎてしまうような状態。その上交通量も多く車線取りを誤ったりして、思いのほか苦戦を強いられながら走っていくうちに清水寺についてしまった。仕方ないので清水方向に左折し、坂を登っていくと駐車場があった。料金は多少高いが、一日いくらで停められて時間制限は無いようなのでそこに車を置いた。小学校の修学旅行できたとき、バスが止まったのも同じ駐車場だったような気がする。早い時間帯からここに停めておけば結果的にお得なのかもしれない。とは言うものの、駐車場に車を置きっぱなし出は来るまで来る意味もあまりないのだが。

 それはさておき、駐車場を確保してから清水寺に向う。門前町と表現していいのだろうか、とにかく清水寺へは坂の一本道を登っていくだけである。あまり詳しいところはわからないが、清水寺一帯は鳥辺野などと呼ばれていたらしい。実はこの地名の由来を知る機会があったのはこの旅の直前だった。そのため、一見普通の観光地っぽい清水に行ってみようという気になったのである。

 冒頭でも書いたように京都は歴史の古い街だが、庶民の墓が集まった集団墓地のようなものはかなり時代が下るまでないのだという。では庶民は遺体をどのように処理していたか。一つには鴨川(南の五六条あたりから下流)に流した。庶民の死体処理にガンジス川のように宗教的に深い意味があるのかどうかまでは知らないが、為政者レベルでは鴨川を禊などに利用していたようである。それ以外では特定の場所に野ざらしにした。死体の風化を待ついわゆる風葬というやつだが、当然鳥やら野犬などが死肉をあさりに来て、それすらも死体の処理に利用しているような面もあるから鳥葬とも言える。平安時代頃、庶民は間違いなくそのようにして死体を処理していた。その鳥葬の場所になっていたのが、鳥辺野こと清水周辺,、舞台の下あたりらしい。今ではこの一帯はすっかり観光地化しているが、かつてはカラスなどが打ち捨てられた死体の屍肉をついばみに来る陰隠滅滅とした光景が広がっていたのだろう。そう考えると何も知らない修学旅行の中高生が嬌声を上げながら行き交う光景というのもなかなか因果なものである。このいかにも修学旅行生向けの観光地をにそういう過去があることを知っててこの一帯をうろついている子供達はどのくらいいるのだろう、などと少しシニカルっぽいことも考えた。

 しかし、観光のほうもきっちりとしていた。弁慶の足跡(小学校の修学旅行時の記憶が確かならそうだったと思う。もしかして、単なる仏足石かも)も見たし清水の舞台にも行った。この舞台の下のへんに死骸が累々と積み重なるような鳥辺野が・・・・・・。そして、頭が良くなるご利益があるという水も飲んでみた。前に来た時はとにかく腹の調子が悪く、生水などもっての他という感じだったので、寄り付きもしなかったのだ。舞妓さんの置物も買ってみた。京都土産としてはあまりにベタ過ぎると見る向きもあるだろうが、愛嬌があり、なかなかどうしていいもんなのではないかと思う。

 ひと通り清水を見た後は産寧坂を通って八坂神社や円山公園に向った。八坂神社の祭神はあまり詳しくはないが確か牛頭天王ではなかったか。なかなかの祟り神だったような気がする。確かスサノオも祭っているはずだ。明治の神仏分離以前は一緒に祭られていたとかそう言う話ではなかったか。八坂神社の昔の呼び名が祇園社で。本当にこの辺は良くわからないが、地元の人の話によると普段はわりに地味な神社らしい。初詣シーズンと、なんと言っても祇園祭の時に八坂神社はフィーバーするらしい。

 円山公園は何の変哲もない公園だが、なぜか怪談話が有名である。一つはトイレの首吊り幽霊の話。もう一つは動く少年の像の話である。後者は都市伝説の部屋で簡単ながら紹介している。

 この界隈や祇園は夕方から夜にかけてのほうが風情がありそうだが、あまり時間がないので、一澤帆布でトートバッグを買って終りにした。が、結局このバッグこの旅のうちになくしている。かなり痛いミスである。

 時間は5時少し前。実は今回、京都と同時に奈良まで足を伸ばすつもりでだった。まさしく修学旅行コースなのだが、時間的には非常に微妙である。奈良市の位置は奈良県の最北部。京都市からは地理不案内ということを考慮に入れても1時間強あれば十分にたどり着くだろう。このまままっすぐ向った場合、観光するには少し遅いし、宿泊を考えるには早い。このときの泊まりはきちんとした宿などではなく、サウナにでもするつもりだった。食事のことなど考えても、7時過ぎにはすることがなくなる。その時間からサウナに入るというのは少し早すぎる気がする。

 そこで一度車に戻った後、四条通を西に走り堀川通で右折、少し北に向った。京都の町はまさしく碁盤目状になっていて土地の人は住所を説明する場合、町名+地番ではなく○○通上ル下ルで言うらしい。表現の仕方によっては座標っぽいといえなくもないような気がする。しかし、慣れた人なら良いが、素人がこの説明でわかった気がするのは多少危険な気もする。私は最近、ようやく北から順に一条、二条となっているのは学習したがいまだにx軸成分を表すとおりの名前は良くわからない。上ル下ルも実はどういうことなのかわからない。そうは言っても、地図で細かい地名を探してきて住所を見つけるよりははるかに楽なことが多いのだけれど。

 途中二条城の前を通過する。ただ、車の中から見たのでは別にどうということもない。京都市内の観光地の中心はやはり平安時代のものが多く、江戸時代に出来上がった二条城は少し異色の存在という感じがする。小学校時代の修学旅行時代の印象を引きずっている影響もあるのだろう。もともとこの城は幕府が朝廷の監視用に建てたような城だということだ。今の京都御所の位置は少し遠いが、以前は二条城のすぐ近くにあったそうだ。二条城が御所の近くに建てられたというべきか。

 二条城からさらに北のほうに向って走っていくと、一条戻橋と晴明神社がある。今ではすっかり有名になったが、陰陽師・安倍晴明ゆかりの場所である。晴明の屋敷があった場所に造られた神社ということだ。晴明の屋敷は御所から見て鬼門(大体北東)の方角にあったとされる。晴明神社の位置は、実際の晴明邸の場所から少しはなれたところにあるらしい。また御所、というか内裏の位置も今と昔では違っている。

 実はこの場所は以前にも歩きで来たことがある。その時は大雨が降り、靴の中で金魚が飼えそうなほどの全身びしょぬれになりながらたどり着いたものだった。少し距離はあるが、晴明の生家跡もここから近い京都ブライトンホテルの駐車場にあるようだ。ただ、晴明の出自には謎の部分が多いので、本当にそこが生家なのかどうかは分からない。晴明の像が見たい場合は、この一帯ではなく川原町通を四条川原町付近から少し北側、御池通に向ったところに坐像があるようだ。

 少しうらぶれた感じの雑居ビル風の建物を通り過ぎたあたりで、その名もズバリ「晴明町」の町名表示がある。そこから少し裏に入ったところに晴明神社がある。さほど大きな神社ではなく、昔は知る人ぞ知るという感じの場所だったのが、最近ではずいぶん参拝者、特に若い人が多くなったらしい。やはり夢枕獏氏の「陰陽師」の影響が大きいようだ。話は脇道にそれるが、以前なら陰陽道やそっち方面の本を探そうにもかなり大変だったのだが、今ではちょっと大きな本屋ならどこに行っても関連書籍があり、ずいぶん便利になった。そもそも友人の勧めで小説「陰陽師」を探した時にもずいぶん苦労したものだった。

 晴明町の町名から察するに、最近の陰陽師ブーム以前から土地の人たちにとって陰陽師・安倍晴明という存在は決して小さなものではなかったのだろう。神社に入ると安倍晴明判紋、晴明桔梗紋、個人的には「帝都物語」の影響でドーマンセーマン、要するに五芒星が特徴的でいたるところで目に付く。ご利益は良くわからないが、どうやら万能と考えて差し支えないようだ。

 小説のヒットなどの事情もあり最近ではずいぶん有名になった話だが、京都は風水やら陰陽道やらの影響を受けて出来上がった都市だ。そもそも平安遷都を行った桓武天皇は、怨霊の祟りを恐れて遷都を行ったのである。

 風水で四神相応と呼ばれる土地がある。、東に川、西に大路、南に湖沼(水場)、北に山の土地である。四方にはそれぞれ青龍、白虎、朱雀、玄武という守護神が宿る。こういう書き方をすると非常にオカルトチックだが、実は風水は住処を選ぶ場合の理想条件を寓意的に表しているのだそうだ。その理論は非常に合理的である。すなわち、大路が近いことで交通至便、川や湖沼のおかげで水の手には困らず、北に山があることで北風の過酷な影響を軽減する、というわけである。京都はまさにその四神相応の地で、風水的には繁栄を約束された土地であった。北の山は船岡山、東の川は言わずと知れた鴨川、南の池は(今は埋め立てられてしまったが)巨椋池、西の大道は山陰道(違う解釈もあり)というわけである。

 その土地にさらに、陰陽道などの思想に沿っていろいろな聖地・霊域が設置された。陰陽師は京の都に巣食う怨霊との戦いを宿命付けられた人たちだったわけである。そして安倍晴明(921?−1005?)は彼らの中でも最も偉大な陰陽師の1人とされている。晴明の霊感はずば抜けており、あまりに人間離れしていたらしく母は信田の森の狐(葛葉姫)だったという伝説も残るほどだった。そんな晴明は賀茂忠行・保憲親子に師事している。忠行は晴明の才能を早くから見抜き、その奥義を全て伝えたという。子の保憲も天文道(星の運行から未来を予測するいわゆる占星術)と暦道(星の運行から暦を作成する)という陰陽道の二分野のうち天文道を晴明に託し、実子の光栄には暦道を継がせた。これがいわゆる土御門家の興りであり、それまで賀茂家が独占していた陰陽道は以後、賀茂家と土御門家の二頭体制となった。というよりも、実際には土御門家の権勢が賀茂家を超えるほどになっている。

 陰陽師と言えば式神という図式もすっかり有名になってしまったが、一条戻橋は晴明が、妻から気味悪がられた式神(十二神将)を隠したと言う伝説の伝わる場所である。もっとも、戻橋は晴明以前から現世と異界の接点と考えられていて、式神云々の話以外にもいろいろな怪異談が伝わっている。晴明が殺害された父親の蘇生に成功したのも、渡辺綱の鬼退治の話も舞台は戻橋だ。戻橋という名前にちなんで地元の人は、出征兵士などにはこの橋を渡らせ、花嫁には渡らせないようにしたのだという。あとはこれから刑死する罪人もこの橋を渡り、真人間になって再びこの世に戻ってくるようにと願ったという話も聞いたことがあるような気がする。この話は記憶が不確かなので間違っているかもしれない。現在では川も橋もコンクリート作りになっており、言われなければそういう因縁のある場所という感じではない。

 晴明神社、戻橋を通り過ぎ、今出川通に差し掛かったところで右折。しばらく走ると京都御所の裏手に差し掛かる。余談だが、かつては御所の正面、南側に御所を背にして立ちながら京の街を見て右京・左京と呼んでいたとのことである。今では北側が上ということで統一されている関係で、地図上では普通右京左京が逆転しているとのである。そのまま鴨川を渡る前、川原町通まで来たところで一気に南下をはじめる。ちなみにBGMはJAMの『KYOTO』だ。

 ここからまっすぐ行けば国道24号にたどり着く。脇に奈良街道と書いてある。眠ってても奈良までたどり着けそうな名前だ。京都市内ドライブでどうやら小一時間ほどかかったらしく、なかなかいい感じの時間になっているのでそろそろ奈良に向うことにする。だが、いきなり渋滞に捕まった。時間帯的に確かにやばかった。日本全国多少人のいる場所ならどこでも、この時間帯は渋滞が起こるようだ。

 渋滞に巻き込まれ、まったく土地鑑のない夜道を走ること一時間半あまりでどうにか奈良市に入った。奈良は空港がなく、新幹線もなく、名神高速道路のルートからも外れていて、かつて小学校の修学旅行できて以来一度も来た事がない。近隣県以外の人にとって見れば奈良は遠いイメージがあるという話を以前に聞いたことがあるが、確かにそうかもしれない。奈良市は奈良の北のはずれ、京都からは近いと踏んでいたのだが、実際走って見ると思いの外時間がかかった。車で一時間強、平城京を捨て、さりとてあまりに遠くはなれ過ぎない場所という観点での遷都はそれなりに成功したのではないか、などと思ったりした。実際には京都に移る前に少し寄り道はしたのだけれど。

 それにしてもどうにも腹が減った。うろうろ走っていると道沿いにロイホがあったのでそこで夕食にした。1000円くらいするスパゲティ。もちろんならとは縁もゆかりもない。まぁ、ロイホは値段が高い分そこそこうまいので良しとした。それにしても奈良のうまいものとはいったい何なのだろう。鹿せんべいくらいしか思い浮かばなかったがアレは鹿用のものだし。柿の葉寿司なんかは吉野のほうのものだったような気がする。不勉強であった。

 飯を食った後、東大寺のほうに向ってみた。8時半。当然この時間では入ることなど出来ない。そろそろいいだろう、と思いサウナを探すことにしたが・・・・・・見当たらない。くまなく探せばきっとどこかにはあるはずなのだが、適当に探したくらいでは見つけられない。後に知ったことだが、奈良の人口は30万人台なのだそうだ。もう少し多いような気がしていたのが誤算であった。その規模の街は身近に割とたくさんあるが、サウナとなるとホイホイあるものではない。せめて歓楽街に行けばあるだろう、と思いうろうろしてみるが、どこがそうなのか良くわからない。終いにはとんでもない山道に迷い込む始末。一時間以上もうろうろしながら結局京都へのUターンを考える。京都に行けばそういう場所は確かにあった。川原町近辺だ。それにしてもこの3時間あまりのなんと無駄だったことか。なんともいえないむなしい気分で京都に引き返す。久しぶりで一日の大半を車の中ですごした気がする。

 そして川原町に着いた。ものすごく人が出ている。そういえば今日は金曜日だった。確かにサウナはあったが、よくよく見ると車の置き場所に困りそうだ。いっそ安いホテルでも探そうかと思ったが、どこもそれなりに値が張りそうなところばかりだ。これがこの旅最大の失敗であった。これまで移動が歩きだったため、のそのそ歩きながらよさげな場所を見つけることが出来たのだが、車となると移動の速さがあだになり、落ち着いていい場所を見つけることも出来ない。しかも車の置き場所にも困る。いっそ強引に日帰りに切り替えようかなどと考えながら目的もなく走っているといつのまにか大津まで行ってしまった。大津まで来るとなるとますます事態が悪化しそうな気がする。仕方がないので川原町のサウナに泊まることで腹を決めた。駐車料金がバカ高くなりそうだがいたし方あるまい。1号を再び京都方面に走り出した。何だかんだ言ってもう11時を回っている。雰囲気的に魔都京都がその本領を発揮しだしそうな時間帯だ。繁華街はまだ良いのだが、山科区あたりは山に囲まれているのかなんなのか、独特のムードがある。特に京都市の出入り時に越えるトンネルがあるのだが、この近辺が嫌だった。精神的にかなりの圧迫感を憶える。後になって知ったところによると、この東山トンネル、脇にある旧トンネルのほうに出るのだそうだ。さもありなんという感じだった。

 それはさておき、川原町に戻るまでもなく途中の山科にいい感じのサウナがあった。すでに日付が変わろうかというタイミングでそこに入った。ようやく今日の寝場所を確保できた。ジェットバスやサウナなどを使った後、さっさと寝た。
 翌日、前日の疲労がかなり残っている。朝一で風呂のはしごをした後、ぼんやりとした頭で再び京都市街のほうへ向かう。しかし、時間が微妙に早い。

 とりあえず六道珍皇寺のほうに向ってみたが、実は場所が良くわからなかった。境内の閻魔堂には閻魔大王と前出の小野篁の像があるのだそうだ。珍皇寺の井戸は小野篁が地獄へ行くのに使った通路だという伝説が残っている。篁は百人一首で参議篁となっているあの人である。昼は人間界の宮中で働き、夜は閻魔大王の下で働いていたそうである。なお、珍皇寺の六道とか、あるいは六波羅というのはかつての地名髑髏原から来ているらしい。何でもこの一帯ではかつておびただしい数の人骨が出土したのだそうな。

 帰りの道のりを思うとそろそろ疲労を感じてきたので、かなり早い時間帯だが引き上げることにした。次回はもっと計画を練りじっくりと来たいものだ。

 復路は琵琶湖の南岸1号から8号に入るルートを進むことにする。途中に瀬田の唐橋の標識。信玄公がいまわの際に「明日は瀬田の橋に武田の旗を立てよ」と言ったのがここなのだろうか。戦国マニア一生の不覚である。実はそこをよく知らない。ほんのわずかばかりの遠回りになるだけなのだが、今回は遠慮しておいた。とにかく疲れていた。坂路で有名なトレセンがある栗東も通り過ぎた。気がつけば町から市になっている。彦根城も素通り。昔からの建物が残っている数少ない城なのだが・・・。
 と、ここに来てついに一澤帆布のトートバッグを無くしていることに気づいた。いい加減気づくのが遅すぎた気もするが、次に京都に来る時のための宿題がもう一つ増えた気分であった。