奥飛騨慕情と秘境の出湯(白骨・高山)
2001年9月14日 搭乗車種:コロナエクシブ

はじめに
白骨の秘密

先行き不安
飛騨路へ
安房峠など

白骨温泉着

下山
高山
帰途




 温泉はいいねえ。温泉は人の心を潤してくれる・・・・・・。

 と思わせぶりかつ唐突に始めてみたものの、実は元ネタを見たことが無い2002年の初秋。社会人一年生の私は、日常に疲れ、ぶらりと温泉につかりたくて、なんとなく温泉に行ってた頃の昔語りをしてみようというような気になりました。今回のお題は、今からちょうど一年程前に行った白骨温泉と高山のお話。なお、今回の犠牲者も毎度おなじみ(?)陰介さん(仮)です。

 この少し前まで私の生活は火の車であった。その辺の事情は小浜編に詳しいが、この旅に出る直前まで、JAで米を袋に詰めるバイトをしていたため、この頃には久しぶりに左団扇となっていた。これは、自給1000円で一日八時間は働けるバイトであった。とは言え、基本的に肉体労働だったのだが諸々の事情によりその半分以上は休憩時間のようなものであった。しかも、残業となると自給が二百円アップし、普段自腹で食っている夕飯よりも豪勢なまかないがつくという夢のようなバイトであった。一ヶ月ほどそういう生活が続いていたので、他の単発バイトもあわせると、月給が三十万に届こうかという時期であった。今の給料より多い稼ぎという部分になんだか釈然としないものを感じるが、金銭的に余裕があれば豪勢に遊びたくなるのが私という人間である。いつか身の破滅を招きそうな性分である。

 ちょうどこの少し前ぐらいの時期から、陰介さん(仮)が温泉に行きたいといっていた。私は以前から白骨温泉という、やや物騒な名前が気になっていたので、白骨温泉ではどうかというような話を持ちかけ、検討をしてみた。とは言え、検討を重ねているようでいて、実際にはさほど話が詰まっていないというのが陰介さん(仮)との会談の恒でもある。最終的には私のごり押しに近い形で白骨行きが決定してしまったようでもある。なんだか陰介さん(仮)をつき合わせるときはいつもこのようなパターンのような気がする。私自身このコンテンツを改めて読み返してみる必要があるかもしれない。

 しかし、結果として白骨温泉という選択肢は当たりだったのではないかと思う。聞けば陰介さん(仮)は色つきの温泉に行きたかったのだという。白骨温泉は白いです。なんとなく不気味な表現ではあるが、その名の通り骨粉を溶かし込んだかのような乳白色の湯である。石灰か何かで白いのかと思いきや、泉質は単純硫化水素泉・・・・・・。いかにも分かってそうにかいているが、具体的にどういうお湯なのかは皆目見当もついていない。硫化水素は確か化学式で書くと硫酸と同じだったはずである。高校化学で習ったような気がする。そう言うと一層恐ろしげだ。浸かっているとズクズクと肉が融けて、真っ白な骨になるということか(←もちろん嘘です)。効能は、『三日入れば三年風邪ひかない』・・・・・・。とにかく、石灰質で白いのではないらしい。なんでも湧き出した時には透明なのだが、空気に触れて白く濁るのだそうだ。摩訶不思議。なお、「白骨」という名前だが、中里介山の著書『大菩薩峠』の作中で使われていた名称が、そのまま定着したものだそうである。

 最近では百均でも温泉の素が売られるようになっているが、これらを湯に溶かすとほぼ例外なく濁っている。しかも多くの場合白濁している。まるで、本物の温泉、特に名湯と呼ばれるような温泉は濁っていて当たり前のような錯覚に陥りそうだが、実際に色つき不透明温泉というのはあまり多くない。この夏、また陰介さん(仮)らと色つき温泉に行こうかみたいな話が持ち上がりかけたことがあり、そういう温泉を探したことがあったのだが、近場にはそういう温泉が全く無かった。実に、このとき何の気なしに挙げた白骨温泉こそが、我々中部人にとって最寄の色つき温泉といっても過言ではなかったわけである。

 この白骨温泉、地図で見ても分かるほどかなり山深いところにある。実際に各種旅行ガイドブックや、その手のウェブサイトを見ても、白骨温泉の紹介文に踊るのは、秘湯、秘湯、秘湯の文字。写真までもが秘湯っぽい。ひょうたんから駒、的な成り行きではあったが、私は「言ってみるものだなあ」と思ったものである。個人的にはかなり期待できる雰囲気であった。

 簡単に山深いところにあると言ってしまったが、具体的にはこの白骨温泉、「安曇野」の名で知られる長野県南安曇郡安曇村の西部の山中にある。金沢からだと近そうでいて遠い。佐久編では陰介さん(仮)と共に佐久の友人・マスターのもとを訪ねたが、その時感じたのは、長野ががっつり東日本だということである。この辺の感覚は人それぞれであろうが、私には甲信越地区が完全に東日本で(首都圏とは別の意味で)東京圏であるように感じられた。方や金沢は完全に西日本関西圏のイメージを持っている。地理的なもの以外にもずいぶん距離を感じたものだった。実際に決して近くは無いし。下道を走れば何だかんだで片道五時間ぐらいはかかるであろう。というわけで、白骨行きは割合早い段階から高速使用の方針で固まっていた。とは言うものの、高速道路でいけるのはせいぜい北陸自動車道の金沢西富山間である。東海北陸自動車道が全通していれば、西から来る場合は北陸道側から入っても名神側からでも飛騨清見辺りで降りるのが普通になるであろう。しかし、五箇山飛騨清見間というある意味最大の難所に道が通っていなかった関係で富山まで高速を走りその後は国道41号線を南下というコース取りになった。参考までに東から来るのであれば長野自動車道の松本で下りるのがもっとも早いはずである。

 ただ、高速で移動といってもその移動距離が移動距離なので短縮できる時間は1時間程度である。四時間と五時間では気持ち的にだいぶ違うような気がするが、それなりに早出する必要があった。金沢(野々市)出発は午前八時くらいにだったはずである。空は鈍色。天候の悪化が心配された。特に陰介さん(仮)は土砂崩れなどを気にかけておられたようである。確かに山道ばかりを走ることになるので、雨で地盤が緩んでくるとまことに都合が悪い。実を言うとこの数日前からはっきりしていない天気が続いており、陰介さん(仮)の心配ももっともなものだったのだが、またしても私が『きっと大丈夫』とばかりに、強引に押し切って出発するような形になってしまった。今にして思えばあの自信の根拠は一体なんだったのか。

 ちなみに、愛車エクシブが始めてエンストしたのはこの旅の始めのことである。忘れもしない、金沢市八日市付近の国道八号交差点で、右折待ちをしている最中のことであった。まるでこの旅の不安な先行きを暗示するかのような出来事であった。

 例の如くアニソンやらジュディマリやらを聞きながら、金沢西ICで高速に乗り東へ走る。北陸道は車が少ない。大きな声では言えないが、周りの車は皆恐ろしいスピードを出している。米原JCTから名神高速道路に入り、なんか遅くなったなと思ったらスピードがそれまでの半分ほどになっていた、という空恐ろしい実話も残っている。交通量の少なさのなせる業だが、この道を見ているとプール制の問題点が如実に分かるような気がする。とにかくそんな道を一時間ほど走って、富山ICで一般道に下りる。そこから先はしばらくR41号を南下だ。

 このR41、実はかなり交通量が多い。大型のダンプカーなどザラである。長野方面から富山へ抜ける場合の王道ともいうべきルートだからだ。従って、結構山深いところを走るにしては道はかなり良い。富山から岐阜(市)方面に抜けるルートとしてR156もあるが、こちらに比べればはるかにまともである。ちなみに、バイトでR41沿いのイベント会場まで行ったこともある。ずっと下道での移動だったために2時間ほどの道のりであった。金沢富山間の場合、さほど渋滞は無いのでストレスはたまらないが、腐っても高速道路か、やはり時間の短縮にはなっている。R41号は大沢野町付近まで行くとさすがに片側一車線ずつになるが、前述の通り普通に走る分には全く問題ない。しばらくは、神通川沿いの渓谷地帯を走っていく。イタイイタイ病で有名な神通川である。陰介さん(仮)は以前にこの辺りを走った記憶があるそうだ。彼との道行きではよくこういう場面に遭遇したことがある。マスターズ家行きの妙高、156を走った時の高鷲村、そしてこのときなどである。ただ、多くの場合あまり記憶が定かではないようだ。多分大学のご学友とスキーなどに行ったときの記憶などが主なのであろうが、もしかしたら前世の記憶とかなのかも知れない。好き勝手書いてるなあ。

 このあたりはJRの高山本線もすぐ横を走っている。ある朝、大学に行くのが面倒くさくて電車に乗って高山まで行ったことがあった。一泊して翌日に帰ろうとしたとき、石川県地方で結構大きな地震があり、富山駅で足止めを食ったことがあったことをふと思い出した。あるいは、一度このルートで実家に帰ろうとしたこともあった。このときは、どうやら電脳村ということになっているらしい山田村の辺りで道に迷い大幅にタイムロスをした。こちらのルートとはあまり相性が良くないようだ。何かしらトラブルがある。とは言え、白骨行きの時には特に問題は発生しなかった。陰介さん(仮)がラッキーボーイだったのだろうか。それはともかく、多少エンジンに不安を感じ道の駅細入で車を止め、ボンネットを開けてみたりした。開けてもどうせ何も分からないのだが。とりあえず、走行距離の割りに異様に加熱しているような気はしたが、陰介さん(仮)が気にするほどではないといったので、とりあえずほっとくことにした。念のためJAFのパンフをもらいつつ。

 駅名やトンネル名に猪谷という地名が見られるようになってから間もなく、道は二手に分かれる。進行方向向って右のコースが越前西街道、左が越前東街道である。どちらを進んでも古川町で合流するのだが、今回は古川町方面とは正反対の上宝村方向に向わなければならないので、問答無用で越前東街道へ。国道の番号で言うなら、まだそのまま41号を走るのである。間もなく神岡町に入る。神岡町はかつて鉱山の町として賑わったところである。神岡町には往時の様子を偲ばせる鉱山資料館などがある。ある知人が、神岡の町並みを見たがっていたのを思い出す。彼は同じ鉱山の町で、今はすっかり寂れてしまった足尾を見て、非常に強く印象に残ったらしい。そこで、同じような歴史を持っているであろう神岡を見たいといっていたのだが、私が見る限り神岡はそこまで寂れてはいないと思う。何だかんだ言って交通の要衝にあるためであろう。

 神岡の市街地に入る前段階で再び道は二股に分かれる。今回もまた左の道へ。ここからはR471である。こちらは見るからに山道の雰囲気だ。雨の続いていた時期だったために、山側の斜面から大量の泥水が流れ出していた。地滑りの前兆といえばそう見えなくも無い状況で、陰介さん(仮)はたいそう肝を冷やしたことであろう。実は私も少しヤバイな、と思っておりました。しかし、幸いにして土砂崩れに飲み込まれることなく、車はいかにもの山道を抜け、多少開けたところに出た。ただし、道に斜面が迫っていないだけで、高度はぐんぐん上がっていく。何しろ目的地は標高1500mの温泉だし、この辺りは穂高や乗鞍といった高山が前方に構える日本の屋根の懐である。道の駅奥飛騨温泉郷上宝(長い名前だ・・・)を通り過ぎた辺りの信号をまっすぐ進むと、穂高である。白骨に向う場合、ここは右折。奥飛騨温泉郷の名に偽りはなく、この辺りには有名どころだけでも新穂高温泉、新平湯温泉、平湯温泉などがある。熊牧場の前を通り、気圧の変化で耳がおかしくなりそうになりながらぐいぐい上っていくと、平湯温泉の温泉街の真ん中へ。さすがに平日の午前なので客はあまり多くない。すでに高度は軽く1000mを越えているが、ここから白骨温泉までは、さらに山一つ越えなければならないような位置関係である。神岡・新穂高方面からここにいたった場合、左に安房峠、右に乗鞍スカイラインがある。乗鞍スカイラインは、日本で最も高いところを走る道路である(厳密には長野側からスカイラインにつながる乗鞍岳線の途中)。2715mあるらしい。ここは道のすぐ脇に高山植物が生え、夏でも雪渓が残っており、スキーをしている人がいたりするようなところである。場合によると、深い霧も出たりするようだ。我々が白骨に向ったこの時点ですでに、自然保護の観点からマイカーの乗り入れが規制されることが決まっていたので、走っておこうかと思ったが、結局実現はしなかった。なお、ついこの間乗鞍スカイラインを走った人の話によると渋滞していたそうだ。この状況を鑑みるにマイカー規制もやむなし、といったところか。

 このとき我々は安房峠方向に向った。実は1994年の夏に松本側から平湯へ来たことがあったが、このときは本当に峠越えをした。観光シーズン真っ盛りということもあり、細い九十九折の峠道にぎっしり車が詰まる大渋滞が発生していた。山肌をおおう木を全部取っ払ったら、遠くからは山に車が鈴なりになっているかの如く見えるような状態だっただろう。今考えると異常としか言いようが無いのだが。しかし、2001年の9月段階では中部縦貫自動車道(安房峠道路)が開通していた。実質安房トンネルの開通といって差し支えは無いだろう。このトンネル工事は難工事だったようである。何しろ焼岳(活火山)の土手っ腹に穴を空けてトンネルを通す工事である。危険が伴わないはずがない。実際に工事中には水蒸気爆発という痛ましい事故があり、犠牲者も出ている。そういったいわくのあるトンネルだが、開通したさまは立派なものだった。

 しかし、トンネルを抜けたはいいものの、前もっての準備を怠ったためにそこで道を見失ってしまった。今改めてみるになかなか迷いそうにも無い道なのだが、つい錯乱して上高地側に入ろうとして守衛さんに制止されたりした。上高地は乗鞍スカイラインよりも昔からマイカー規制が行われており、普通の車では入れないのである。その後しばらく迷走を続けたが、結局今は通る車もすっかりなくなってしまった安房峠の道を山の中腹まで上り、そこから上高地乗鞍林道に入った。乗用車560円也。しかし、この道がすごかった。ほとんど通る車もなく、舗装は結構荒れている。地肌が剥き出しの斜面は軽く崩れているし、谷側のガードレールはおそらく冬場の雪の重みでひんまがっている。野生動物もバンバン出る天然のサファリパーク状態。幸いといおうか、熊などは出なかったが、リスや猿は出た。まさしく秘湯白骨への道にふさわしい秘境の道。完全にこちらが野生の領域に踏み込んでいたようで、少し申し訳ないくらいの勢いであった。この時のBGMはもののけ姫。米良氏の歌声が周囲の雰囲気に異様にマッチしている。そのうちそれ系の神とかが出てもおかしくない雰囲気だった。

 自然に対する軽い畏敬の念を抱きつつ走っていくうちに、本当にこの道はどこかに通じているのだろうかと不安になったりしたが、ちゃんと料金所がありほっと胸をなでおろした。この林道の料金所は白骨温泉側にある。白骨温泉のすぐ裏手の山道でお金を払って通行するのである。ただ林道は白骨温泉から見れば完全に搦め手だったようで、9割9部の車は我々とは反対側から温泉にやってきているようだった。敵の側背を衝くのは戦いの常道だが、今回は戦いでもなんでもない。ただ狐につままれたような気分になるばかりだった。まさかそんな道があったとは、てなもんである。一般的に、白骨温泉へのアクセスはR158の上高地・安房トンネルよりも松本側の地点で白骨温泉線に入るものらしい。白骨温泉はさすがに秘湯だけあって、域内の道は狭い。下手に反対方向から入り込んだせいで対向車とのすれ違いに苦労し、挙句短時間に二回も車の後部をこするという大失態を演じてしまった。

 そんな傷心気味の心をかかえたまま、白骨温泉における共同浴場である野天風呂に向う。入湯料は時間無制限で一回五百円也。渓流沿いにあり、確か滝なども見えたはずである(男湯ビジョン)。まだ時期的に早かったが、風呂の近くに生えていた樹はまごう事なき楓のはずで、紅葉の季節はさぞいい眺めであろうと思われえる。記憶違いだったかもしれないので、もしこのページを身内以外でじっくり読んでおられる方がいて、何かの機会に白骨温泉に行くことがあっても、このへんの記述はあまり信用しないで下さい。ただ、共同浴場とは言え侮ることなかれ、相当に風流な湯であったことは間違いない。結局温泉に着いたのが11時過ぎくらいで、それから小一時間ほど乳白色の湯に浸かっていた。

 さて、白骨温泉であるが、土産物屋や宿屋はあるが食事をするにはいささか不便であった。悪いことに時間はちょうどお昼時。またしても私が強引に押し切ったような感じにはなったが、とりあえず高山まで行けばうまいもんが食えるだろうということで、高山に向うことになった。高山の味といえば、飛騨牛やら高山ラーメンなどが有名であろう。赤かぶ漬けを始め、漬物も各種あるがそれで昼というのは少し寂しい。だが、旅行ガイドに乗っている本は、ラーメンを除けばみな結構値の張るものばかりである。陰介さん(仮)はラーメンにあまり乗り気ではなったらしく、その場合は金に糸目さえつけなければいろいろ食べるものがあるだろうが、それほど豪勢には振舞えない学生の物見遊山旅行となると、かなり苦しく問題の多いセレクションだったような気がする。とにかく移動がてら良さげな店を見かけたら入る、という方向で動き出した。来た時とは反対方向、要するに白骨温泉『正面玄関』側から出て、R158と合流し、再び上高地入り口→安房トンネルと抜け、平湯トンネルに入る。なお、峠越えの道を走れば、乗鞍スカイラインに合流できる。でも、この記述は間もなく無用の長物になるんだろうなぁ。

 トンネルを抜ければそこは岐阜県大野郡丹生川村である。山道だが、かなりまっすぐな道でぐんぐんと高山市近郊の盆地へと下っていく。途中には飛騨大鍾乳洞がある。秋芳洞だとかの有名鍾乳洞とは比べるべくも無いが、興味のある人はどうぞといったところか。結構高かったような記憶がある。なお私は、静岡県引佐町にある竜ケ岩洞を念頭に置いてこんなことを書いている。飛騨大鍾乳洞のほうが規模は大きいのかもしれないが、人手があまり入っていない。それがいいのか悪いのかはよくわからないが、演出面がくだんの竜ケ岩洞よりも簡素になっているのは間違いない。どちらも各所の鍾乳石、石筍などの傍らに命名を書いたプレートを置いてるのは同じなのだけれど。飛騨大鍾乳洞は強いて言うなら、単純に壮観・美観を眺めたい人よりも、手付かず(風)の自然の力(のようなもの)を感じたい人向きであろう。 そのあとも延々R158に沿って走っていくと、ラーメン板蔵の工場兼店舗がある。名店と言うのかどうかは分からないが、高山ラーメンと言えば板蔵の名を外すことは出来ないぐらい有名な店である。ここでは工場見学や、食事、お土産用のラーメンを買ったりすることが出来る。なお、高山ラーメンは、当然それぞれの店で差はあるだろうが、魚でだしをとったラーメンのようだ。あまりラーメン通ではなく、細かく書くとぼろが出そうなので簡単に説明だけしておくと、しょうゆ味であっさり目の素朴なラーメン、ということになるのだろうか。ネット上にはラーメンサイトもかなりの数があるので、どうしても気になる方はそちらを読んでみてください。私にはこれが限界です。

 さて、丹生川村を越えるとそこはもう高山市である。高山の町は、豊臣秀吉のもと金森長近が治めるようになって以降発展したらしい。市内には飛騨民俗村なんてのもあるが、やはりここは人文系観光地であろう。この旅のここまでの流れは圧倒的に自然科学系が中心だったので、ある意味で180度の方向転換ともいえるかもしれない。祭り屋台を展示した屋台会館や獅子会館、桜山八幡、高山城、飛騨民俗館、飛騨の里、匠の森、クアアルプなどの施設がある。知ってる範囲で説明すると、高山城は金森長近の居城のはず。どんな遺構が残っているかはわからない。飛騨民俗館と飛騨の里は飛騨地方の古い家屋などが再現されている。厳密には微妙に違う別個の施設だがとりあえずの理解はその程度で大丈夫・・・・・・なはず・・・。匠の森は飛騨の匠にまつわる観光地。日光東照宮の眠り猫などで知られる左甚五郎は飛騨の匠である。クアアルプは温泉保養施設みたいである。そして、桜山八幡であるが・・・・・・これはこの中では特によく知らない。高山でよく見られるものとして、木版絵馬があるが、それとは関係あるのだろうか・・・・・・。全く雲を掴むような記述ですみません。このへんもやはり正統派旅行ガイドサイトにお任せと言うことでご勘弁を。なお、この木版絵馬、非常に霊験あらたかなもので、一枚買えば九万日は加護が続くらしい。耐用年数は250年ほど。十代先までは確実に保障付きの超効果持続型縁起物である。永続トラップみたいな。

 このとき我々は、市内の適当な駐車場に車を止め、古い町並みの名で知られる上三之町近辺をそぞろ歩いた。ローカルネタで恐縮だが、ズームインの東海地区ローカル天気予報の背景に景色が映し出されるあのへんである。私ばかりみたらし団子や五平餅、飛騨牛の串焼きを食ったりしながらぶらぶら歩き。適当に雰囲気だけを味わいながら、そのあと手近な店でほうば味噌定食を食べる。飛騨牛なんかを焼いてくれるとまことに都合が良かったのだが、この店は山菜主体のほうば味噌であった。時期が時期なだけにザ・ワイドで同時多発テロの話題ばかり伝えていたのが印象に残っている。結構遅い昼食だったわけだ。このときは駆け足だったので、当然行くことは出来なかったが、高山の見どころの一つは朝市であろう。石川に四年間暮らしながら輪島の朝市には一度も行かなかった私も、高山の朝市には行ったことがある。野菜など色々売っているが、観光客向きにはやはり赤かぶ付けはじめ漬物関係だろうか。さるぼぼのような簡単な民芸品も売っているので、あえてお土産をここでそろえるのもありかもしれない。特別安いとかそういうものではないかもしれない。むしろ雰囲気のものだろう。ちなみに私はここで赤かぶ漬けを買いました。

 昼飯を済ませた後、白骨の長湯がじわじわと効き始め、湯中り気味のだるい気分になってきたので、帰りの道のりの長さも思って早めに帰途に着くことにした。車のに乗って間もなくいて、雨が土砂降りになった。間一髪といったところだろうか。高山の市内観光は雨が振ると結構苦しいかもしれない。なまじ観光地が近くに集中しているため、歩き以外の移動手段を使いにくいためだ。なお、帰りは越中西街道ことR360を利用した。途中恐ろしい睡魔に見舞われながらも、さらに疲労している様子の陰介さん(仮)に運転を任せるわけには行かず、なっち推薦のムースポッキーをかじりつつ、半分眠りながら家路を急いだ。途中ハク(『千と千尋の神隠し』より)というか琥珀川風の龍の塑像が置かれた川があったり、入団当初のゴマキは謙虚だったみたいな話をしたことは憶えているが、細部の記憶はほとんどない。かなりやばい状態であったと言えよう。一応意識は起きているつもりでも脳は全く働いていなかったと言うことか。皆さんはこういう無謀な運転はしないよう。

 ようやく目が覚めたのは神通川第一ダム辺りまで出たときだっただろうか。この辺でようやく持ち前の元気を取り戻した我々は(?)、富山名産のます寿司を買って帰ろうかと言うような話に花を咲かせつつ、結局実行に移さずじまいと言ういつものパターンを踏襲して家に帰った。いつものパターンと言えば、いずれまた温泉に行こうというような話もした。

 あの時の約束は2002年9月現在、いまだ果たされぬままである。