天狗伝説の郷(津具)
何度も 搭乗車 ミラなど
前置き
武田家について語ろうか
湯谷温泉

すばらしき津具

茶臼山高原




 高校に進学することで交友範囲が一気に広がる、ということは良くあることなのではないかと思う。小学校・中学校ならば各学校区が決まっていて、越境入学はかなりの手間が必要だが、高校ともなればそんな垣根は一切無くなる。自分自身、高校に進学した時に他の市町村出身の友人が一気に増えたものだった。

 市町村、と何気なく書いては見たものの、その内訳はほとんどが市民であった。町民となるとグッと数が減るし、村民となるとただ1人しかいない。ぶっちゃけた話、町民枠も当サイトの陰のフィクサーK.K氏ただ1人だったけれど。

 そのただ1人の村民系友人こそが、今回取り上げる津具村出身の友人だったのである。

 津具村。より詳細に書くのなら、愛知県北設楽郡津具村。その北設楽郡の名のとおり、愛知県のもっとも北部の山奥に位置する村である。北隣はもう長野県。当時の私の住まいからでは、車で片道2時間かかる距離だった。残念ながら、今のところダーツの旅がやってきたという話は聞かない。第一村人発見はまだまだ先のようである。そんな村(どんな村だ?)だったから、私の周りに津具と言う村を知っている人は少なかった。曲がりなりにも知っていると言えるレベルに達していたのが私だけだった、というところに彼の不幸があるのかもしれないが、今回はそういう話ではない。

 今、2002年7月14日現在、我が生活圏である名古屋は非常に暑い。土地の人はまだまだこんなものではないと言うが、すでに30度は軽く超えている。もうたまったもんじゃないよね、夏は涼しいところが一番さ、ということで今回は、平野部よりも過ごしやすい愛知県民の心のオアシス・北設楽郡の話題を津具中心に取り上げてみよう、とそういう話である。

 津具村へのアクセスは、名古屋方面からだと猿投グリーンロードを足助に向い、さらに国道153で稲武町を経由して茶臼山高原道路に入る感じになるだろう。ただし、これだと気を抜いた時に津具を突き抜けて茶臼山まで行ってしまうのでご用心である。なお、私は東三河人なので、北設楽方面に向う場合はほぼ例外なく国道151号を北上するルートを取る。

 手元の地図(マップル中部2001年版)では、宝飯郡一宮町あたりでR151のわきに「伊那街道」と併記してある。伊那とは長野県の伊那地方である。途中までR151と併走するJR飯田線も結局伊那地方にたどり着くわけだから、愛知県東三河地方から長野県方面に抜ける道の基本であろう。古くは戦国時代に武田軍もこの道を通っている。ごく卑近では、高校時代の私もこの道を通ってフィクサーK・K氏の家に通ったものだった。ちなみに、尾張方面から長野直通の道と言えば飯田街道(現国道153号線)である。この道は伊那地方を抜け、松本平の南の端に位置する塩尻市まで続いている。 と、ここで武田軍の話題が出たので、せっかくだし戦国話を。この道沿いにはわりに武田家がらみの史跡が多い。

 R151を飯田方面に向い、新城市に入って少し行ったあたりに野田城址がある。

 1572年、甲斐(現在の山梨県)の大名・武田信玄はついに上洛の途についた。この一連の軍事行動が果たして本当に上洛を目指したものだったかどうかについては諸説あり、戦国マニアとしては熱っぽく語りたい部分ではあるが、ここでは一般論として上洛戦だったとする。そうしとかないと話が進まないのである。甲斐から自国領駿河(静岡県東部)に入った武田軍は、その後東海道を西上し、京都を目指した。信玄率いる武田軍の行く手に待つ遠江(静岡県西部)は当時、徳川家康の領地だったが、これを三方ヶ原で撃破し、徳川軍に当分の間軍事行動を起こせないほどの痛手を与えた信玄だったが、その後の行軍速度は鈍く、三河国(愛知県東部)に入ってついに足取りを止めてしまった。信玄の病のためである。その時、信玄の静養のために滞在したのが野田城だった。徳川家康は、もともと三河の大名だと言うことになっているが、家康が現実に三河全土を掌握できたのは武田家滅亡の頃である。山岳地帯の小土豪は、日和見の挙句武田方に加担するような連中ばかりで、そればかりか信玄存命の頃には現在の愛知県豊橋市のあたりにまで武田家の侵攻を許してしまっていた。要するに、信玄の上洛戦の頃、三方ヶ原の敗北のこともあって東三河地方はほぼ武田家の勢力範囲だったと言って良い。徳川家にしてみれば領国を真ん中で二分されてしまう形になっており、非常に危機的状況であった。

 そんなこんなで武田軍はずいぶん長いあいだ野田城に滞在していたのだが、結局信玄の病状は快方に向わず、全軍は甲斐へ引き上げることになる。信玄はその途中信濃(長野県)の駒場で卒したとされているのだが、野田城には信玄の死にまつわる一つの伝説がある。病気療養のために野田城に滞在していた信玄が、ある晩美しい笛の音に誘われて城外の様子を見たとき、火縄銃を構えた狙撃兵に暗殺されたと言う話である。これはわりと有名な話なので、ネットで調べれば意外と簡単に見つかるかもしれない。大河ドラマ「利家とまつ」でも、信玄の最期は鉄砲による暗殺説を取っていた。

 また、武田家と鉄砲の組み合わせ言うと、一般には信玄の暗殺よりも何よりも長篠の合戦であろう。長篠城、および設楽ヶ原古戦場は野田城址からさらに10kmほど先に進んだあたりにある。特に長篠城址はR151沿いにあるので、道沿いに走っていればすぐに見つかる。ふんどしのおじさんが磔にされているなかなかショッキングな看板があるのでよくわかる。みもふたもない書き方をしてしまったが、このふんどしのおじさんは鳥居強衛門といって、看板の図案にもある逸話にちなんでいるのだが、そこまで話すとあまりにドマイナーな話になっていくのでここでは自粛。長篠上の資料館には確か血染めの陣太鼓などが収蔵されていたような記憶がある。この他にも、R151沿いには注意してみなければわからないが、馬場信春忠死の墓なんてのもある。こちらは私も現物を見たことはないが、マンションと言うかコーポの脇にあるようだ。設楽ヶ原古戦場は151からは少しはずれたところにある。

 1575年、信玄の後を継いだ武田勝頼は、たびたび徳川家の領地に侵攻を繰り返していたが、ついに三河国長篠で織田・徳川の連合軍と対決することになった。結果は知ってのとおり、有名な鉄砲の三段射ちで連合軍側が勝利、武田家は歴戦の名将の多くを失い、これ以降は没落の一途を辿ることになる。前出の馬場信春(信房)も、長篠で戦死した古参の武将で、山県昌景や真田の一族など名だたる武将が次々討ち死にしていくのを受け、勝頼に撤退を進言し、自身は死をもって退却する勝頼の後方の安全を確保した。だから「忠死」なのである。

 この話が出ると、ほぼ必ず勝頼の無謀さ、短慮さが糾弾されるが、実際に古戦場を見てみるとその評価はなかなか難しい。
 設楽ヶ原と言うくらいだから、かなり広い平地を想像しそうだが、実際にはさほど広い場所ではない。山と丘にかこまれたほんのちょっとした空間である。伝え聞くところによると、山側に連合軍が、丘側に武田軍が陣取っていたと言うが、二地点の間は思いの外狭く感じる。

 当時の火縄銃の性能は決して高いものではなかった。まず、雨天下では実用的ではないということがあった。火縄や火薬が湿って使い物にならなくなるからだ。その構造も片方に栓をした鉄の筒の底に、銃口から火薬と弾を詰め込み、一方向に集中した爆発力で弾を飛ばすと言う単純なものだったので、銃口を下に向けすぎると発射前に弾が転がり落ちてしまうと言う構造上の弱点があったし、射程距離もいいとこ100mほどだったという。訓練された投石兵は200mほどは石つぶてを飛ばしたというから、決して射程が長いわけでもない。何より、弾こめに時間がかかりすぎる。三段射ちはその欠点を解消するための戦法であった。ちなみに、長篠の合戦が大きな意味を持つのは、三段うちという戦術そのものによるのではない。早くから鉄砲に目をつけていた九州薩摩(現在の鹿児島県西部)の島津氏は三段射ちをはじめ、鉄砲を効果的に運用するための戦法をすでに多く考案していた。長篠の合戦で重要なのは戦術的なものもさることながら、三千丁といわれる大量の鉄砲が先頭の趨勢を決定するほど大きな役割を果たした、ということである。それまでの合戦の常識を打ち破る新時代の幕開けになったということが肝心なのである。それはさておき、性能がそんなだったから、当時の鉄砲の兵器としての位置付けは、それなりに有効だが、限定条件付で扱いづらいものと言う認識が一般的だったらしい。

 まして武田軍は、精強を以って知られた騎馬隊を擁していた。ポッと出の新兵器に頼る必然性は無かったし、そればかりか鉄砲の銃声と騎馬隊は相性が非常に悪かった。馬は本来臆病な動物で、訓練された軍馬でもなければ銃声を聞いたとき、棒立ちになってしまって使い物にならない。そのような状態を避けるためには良く訓練しなければならないが、それが武田軍にとってネックになった。海のものとも山のものともわからない新兵器を採用するために、無敵の騎馬軍団があおりを受ける形になってしまうのである。そんなわけで、武田軍の鉄砲に対する意識は低かったのではないかと言われている。

 そういう状態だから、わずか数百mほど先の柵の裏に隠れて撃ちかけてくる鉄砲隊など、いくらもしないうちに蹴散らせると言う読みが働いたのだろう。繰り返しになるが、現場を見ればそう思っても不思議ではなく感じる。当時の馬は現在のサラブレットより小柄でスピードも無い蒙古馬だが、多少の犠牲に目をつぶり、突撃を繰り返せば本当に何とかなりそうに思ってしまうかもしれない。柵さえ破れば後は無敵の騎馬隊で敵を蹴散らせばよいのだから。

 とは言え、やはり長篠で指揮をとっていたのが信玄であれば、勝つのは難しいにしても、緒戦の様子を見て自軍の不利を悟り撤兵していたであろう。そもそも鉄砲は追撃戦にはそれほど向かないカウンター型の武器である。その理由は前述の弾こめのための動作時間であるが、早々に撤退を開始すればさほどの損害は出るまい。国力を温存し、かつ信玄が健在であればその後の滅亡もまた無かったであろうと考えるのである。実際の国力では織田家と武田家ではかなりの隔たりが生じていて、武田家の屋台骨を支えていた金山の枯渇など、信玄の才覚だけではどうしようもない問題も現実にはあったのだが。「烈風伝」では全武将中最強、しかも二位以下を大きく突き放している信玄だが、それは誇張ではなくかなり史実を忠実に踏まえた設定なのではないかと思えるほどの名将であり、そのような期待もかけてみたくなるのである。

 (伝説とは言え)信玄暗殺と言い、長篠の合戦と言い、武田家にとって三河と鉄砲の組み合わせは凶事が付きまとうものなのだろうか。なんにせよ武田軍は、二度、伊那街道を通り甲斐へ退却している。それは厳然たる事実である。その伊那街道は、ちょうど本長篠の駅のあたりでR151から離れ北へ向っていく。津具へ向う場合にも伊那街道沿いに走ったほうが近道なのだが、あえてR151を行く。こちらは一応国道なので道はさほど悪くはない。

 長篠からさらに山奥に進んだところに湯谷温泉がある。いかにも温泉街という派手さは無いが、自然がなかなか豊かで、くつろぐのにはちょうど良い。温泉スタンドなんかもある。湯谷温泉にある旅館「はづ別館」は、確か宿泊費を自分で設定できる旅館だったと思う。かなり思い切ったシステムなのではないかと思う。実際に一泊して、1000円程度しか払わなかった人もいるとかいないとか。以前聞いたところによると相場は一万円強ぐらいらしい。宿自体はなかなか良いらしく、コストパフォーマンスに関する心配はないので一度泊まってみるのも面白いかもしれない、と思いつつ実家から行くには中途半端な距離がネックになっていてその機会がない。また、このあたりではシーズンになるとヤナでの鮎つかみ取りやら鮎釣りなども出来る。といっても、これもやはり未だに体験したことがない。せいぜい五平餅を食うくらいか。後は湯谷温泉近くの鳳来寺山近辺(というか奥三河地方か)はブッポウソウことコノハズクをフィーチャー(?)している。確か愛知の県鳥だったような気がする。記憶が定かではない。鳳来寺山と言えば、昔新聞配達をする犬がいたそうだが、こちらは現在はすでにお亡くなりのようだ。

 湯谷温泉あたりから、車は峡谷という雰囲気の中ひた走っていく。このあたりは、併走している飯田線からの眺めもなかなか良い。やがて、飯田線の東栄駅あたりまで走ると、道はギリギリのところで静岡をかすめるようにして北へ向っていく。東栄町の市街地を抜け、なおもR151を走っていくと津具村のお隣豊根村にる。このルートは茶臼山高原には近いのだが、肝心の津具村には行けなくなってしまう。厳密には道が無いわけではないのだが、どうもあまり良い道ではなさそうだ。東栄町貝津あたりでR473に入るのが無難であろう。それをいったらみもふたもないが、やはり一直線に津具村を目指すなら伊那街道が早い。

 さてR473をまっすぐ行くと設楽町に入るのだが、ここから津具村に向うルートは2パターン考えられる。津具への案内標識を頼りに走っていくと、主要地方道設楽根羽線を走ることになるだろう。かつて津具の友人宅に泊り込みでお邪魔したときはこのルートを通った。実用本位のルートであろう。他の人にはどうというものでもないだろうが、天狗をあしらったスピード注意の看板を見かけたときは感動したものだ。先発していた友人からその看板のうわさを聞いていたからである。これがきっかけである壮大な趣味が発動したほどである。それがいったい何なのか、今はまだ言いますまい。まぁ、客観的には本当にどうということも無い看板なのだが。

 物見遊山なら名古屋側からのルートで紹介した茶臼山高原道路が良いだろう。特に紅葉の季節はいいらしい。途中の面ノ木ビジターセンターにある天狗の像は、最近地元の先生の力で新しく生まれ変わったそうである。スピード注意の質素な看板とは比べるまでも無いが、堂々たるものである。

そもそも、今回の表題どおり、津具村はじめ、奥三河の北設楽郡内には天狗伝説が残っている。面ノ木近辺には天狗棚や碁盤石山といった山がある。天狗棚はそのものズバリ天狗の山だが、碁盤石山も天狗伝説にまつわる山だ。近隣の村にすんでいた碁の名人が山に住む天狗と碁の勝負をしたのだが、その勝負に負けた天狗が悔しくて碁石をしっちゃかめっちゃかにしたという話が残っている。

 さて、茶臼山高原道路だが、その名の通り終点までずっと走っていくと茶臼山についてしまう。津具村には行けない。これは最初の名古屋周りルートでも書いたのだが、今回そんなのばっか。面ノ木ICか折元ICでいったん下りなければならない。なお折元で高原道路からでた場合、北に向うと道の駅・津具高原グリーンパークがある。冒頭で書いてあったとおり、一度津具方面までミラ(軽)で走ったことがあったが、やはりパワー不足は感じた。それだけ山道が多いということである。特にきつかったのが、高原道路と津具村の間だったので、ここに記しておく。

 というわけでいよいよ津具村本編である。

 津具村の見どころとして、まず季節モノとして桜の季節の金龍寺がある。奥三河地方の桜はソメイヨシノではなく枝垂桜が多いようだが、ここ金龍時の大秀桜もご多分に漏れず枝垂桜である。花が咲いている時期には見たことがないが、15mほどのかなり大きな木で、愛知県の天然記念物にも指定されている。花の頃には夜遅くまでライトアップされるようだ。満開の時にはかなり見事なものなのではないかと思う。

 夏には高原リゾート、秋には紅葉などが楽しめるだろう。この辺は通り一遍という感じがするので特に突っ込んだことは書かない。

 冬場は正月二日の花祭りが目玉だろうか。途中で名前が出てきた豊根村や東栄町など奥三河の町村で広く行われる神事で、津具村の場合、村内にある白鳥神社の境内で夜通し神事が行われるということである。これは是非とも一度見ておきたいのだが、残念ながら今だそういう機会に恵まれていない。したがって文章に力がありませんが、お許しください。ただ、それなりに山奥なので、訪問の際には雪への備えなども必要かもしれない。ご用心。

 季節モノではないが、津具村内には水晶を産出する白鳥山や武田信玄が発見したという津具金山(現在は立ち入り禁止)などもある。かつては宝の山のような浪漫あふれる土地だったのである。なお、かつては津具温泉なる温泉もあったようだが、現在では見る影も無いようだ。

 件の友人の話では天狗伝説だけでなく、河童にまつわる話などもあるそうだ。これはあまりはっきりしない。河童渕と呼ばれるような場所があったという話を聞いたことがあるような気はするが、その場所が確認できない。直接的に関連があるのかどうかは知らないが、溜渕ならある。

 また、津具村出身の有名人として、天下御免の向こう傷でおなじみの旗本退屈男・早乙女主水之介の生みの親、佐々木味津三先生が挙げられる。津具村栄誉村民で、津具村文化資料センターには直筆原稿の一部が保管されているそうだ。
 さて、せっかく津具村まで北のだからもう少し足を伸ばして茶臼山まで行ってみるのもありである。今回順番が滅茶苦茶で本当にすみません。

 茶臼山は愛知県の最高峰で、茶臼山高原にある牧場では牛が飼われているし、いかにも高原のリゾート地っぽい。冬期には県内唯一のスキー場も開業する。愛知県の中にあってはかなり新鮮である。しかし、県内最高峰といっても標高はわずかに1415mで、これは他県の最高峰に比べてかなり低い。確かに47都道府県の中で下から5番以内には入っていたはずである。夏場はそれなりに涼しいが、冬場のスキーは若干苦しいかもしれない。なだらかで初心者向きの茶臼山高原スキー場だが、実際の場所は茶臼山に隣接する萩太郎山の南斜面という秘密もある。スキー場としては子供の遊び場的なイメージをもたれがちであるが、夏場にふらっと出かけるには手ごろなのではなかろうか。お土産には椎茸茶や、トマト羊羹などがお勧め。現在でも在るのかどうかが若干疑問だが。

 以上、若干駆け足ではありましたがご紹介を終えさせていただきます。 この夏、あなたも天狗伝説の郷・津具村で命の洗濯をしませんか????・・・・・・一体何書いてるんだろう・・・。